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平維扶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平 維扶
時代 平安時代中期
死没 天暦2年2月29日948年4月11日)?
別名 惟扶/伊扶/惟輔
官位 四位・陸奥守
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 仁明平氏?
父母 父:平?(源?)保望
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平 維扶[1]/惟扶[2]/伊扶[3]/惟輔[4](たいら の これすけ、? - 天暦2年2月29日948年4月11日)?)は平安時代官人。官位は四位・陸奥守本康親王の孫か[4]

経歴

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延喜21年(921年)10月17日、空海が弘法大師とされた際、その勅書金剛峯寺に運んだ[5]

延長6年(928年)と7年(929年)の10月の旬政では、左近衛少将として参朝しており、7年の際には少納言がいなかったため、維扶が召名をした[6]

承平6年(936年)と天慶元年(938年)の1月4日、藤原師輔の大臣家大饗で請客使を務めた[7]

承平6年(936年)12月16日、荷前使を病を称し懈怠した[7][8]

天慶元年(938年)12月10日、五位以上の殿上の侍臣が、誰も宿直しなかった。このため、故障もなく参入しなかった惟扶と小野好古が勘責された[9]

天慶2年(939年)、陸奥守となり、8月17日に白河家で藤原忠平から餞された[10][11]。10月、下向中に下野国府平貞盛と合流し、共に陸奥へ向かった。しかし、貞盛は、平将門に追われたため、途中で雲隠れした(平将門の乱[1]

同9年(946年)12月26日、荷前で田原使を務めた。この際、天皇御前で幣物を舁き立てる場所を間違えてやり直した[7]

天暦2年(948年)2月29日、散位維扶が侍従所で食事中に、脳卒中のような症状を起こし、夕刻、亡くなった[5]

官歴

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系譜

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新田(1988) p. 30と『尊卑分脈』による

脚注

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  1. ^ a b 将門記』。『新編弘前市史 通史編1(古代・中世)』 pp. 144-145
  2. ^ 『貞信公記』。『九暦』。『平安時代史事典』, 五島邦治, p. 1484
  3. ^ 『吏部王記』。新田(1988) p. 29
  4. ^ a b 『尊卑分脈』。新田(1988) p. 30
  5. ^ a b 『日本紀略』
  6. ^ a b 『吏部王記』延長6年10月1日、延長7年10月1日。『貞信公記』延長7年10月1日
  7. ^ a b c d e f 『九暦』
  8. ^ 外池(1986) p. 46
  9. ^ 『貞信公記』天慶元年12月18日
  10. ^ a b 『貞信公記』天慶2年8月17日
  11. ^ 新田(1988) p. 30
  12. ^ 『日本紀略』延喜21年10月17日。『吏部王記』延長4年11月15日
  13. ^ a b 『吏部王記』
  14. ^ a b 『貞信公記』
  15. ^ 『九暦』承平6年1月4日。天慶元年9月7日など

参考文献

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