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平貞盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平 貞盛
『本朝百将伝』より
時代 平安時代中期
生誕 延喜17年(917年)3月11日?[1]
または延喜20年(920年)?[注釈 1]
または延喜11年(911年)?[注釈 2]
死没 永祚元年10月15日989年11月16日[4]?
または天元2年(979年11月[2]
または天元2年(979年)5月[3]
別名 常平太、平将軍
官位 従四位下左馬允鎮守府将軍常陸大掾陸奥守丹波守
氏族 桓武平氏国香流(坂東平氏
父母 父:平国香、母:源護の娘?[5]藤原村雄[4]
兄弟 貞盛繁盛兼任、男子
関口貞信[4]
維将維風維敏維衡平群利方
養子:維叙(実子とも)?、維幹維茂維朝[6]維時[注釈 3]
維輔[注釈 4]高衡?、維忠?[7]平貞叙?、平永盛?、平千公干公?[8])?、平正度?、平正済?[9]
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平 貞盛(たいら の さだもり)は、平安時代中期の武将平国香(良望)の嫡男。

生涯

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承平5年(935年)、左馬允在任中、従兄弟の将門と母方の叔父(源護)たちとの抗争が勃発し、父の国香がそれに巻き込まれて亡くなる事件が起こる。それらを伝え聞いた貞盛は、朝廷に休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父国香の屍を探し出し、また山中に避難した母と妻らを探し出した。この際貞盛は、そもそも叔父たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことが発端であって将門側に非はなく、また自らの京での官人としての昇進を望んだこともあって「互いに親睦をはかるのが最も良策である」という態度をみせている。父の死後まもなく、その後継の常陸大掾に任官された。

しかし、将門らの抗争に叔父の良兼良正らが介入しだすと、実際結果的に将門が国香を死に至らしめたのもあり、良兼に説得されて、良兼や良正らが将門を攻める際にはこれに加わって将門と対立することとなった。だが抗争は次第に将門有利に進展していき、良兼らの勢力は徐々に衰退していく。承平8年(938年)貞盛は愁訴のため密かに上洛を企てるも、これを察知した将門に2月29日信濃国小県郡信濃国分寺付近で追いつかれ、旧知の滋野恒成(善淵)、小県郡司の他田真樹(他田氏)らと共闘するも敗れるが、何とか脱出して京の都に辿り着いた。そして将門追捕の官符を持って帰国したものの将門に一蹴され、天慶2年(939年)6月上旬には叔父良兼が病没し、一族の後ろ盾を失ってしまう。同年10月、陸奥守平維扶が赴任途中に下野国に入ると、これに従って陸奥に入らんとしたが、再び将門の追撃を受けた為に逃亡し、維扶は貞盛らを見捨ててしまった。11月には常陸国での紛争を利用して将門を討たんとするが失敗、従兄弟(叔母の子)の藤原為憲と共に再び身を隠した。

天慶2年12月には将門が「新皇」を自称する。天慶3年(940年)、常陸国北部にて5000の兵を率いて貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛と源扶の妻が捕らえられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し、兵を各地に帰した。これを知った貞盛らは、母方の叔父の藤原秀郷の協力を得て4000余の兵を集めると将門を攻め、迎撃に来た将門勢を破り次第に追い詰め、2月14日「北山の決戦」にてついにこれを討ち取った[注釈 5]。将門討伐後の論功行賞では、将門ら謀反人を討つことができたのも、多年の苦難を経て努力した貞盛の為すところも大きいとして、従五位上正五位上とも)に叙せられた。

後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した[10]

平将門の乱の原因として、将門の父・平良将が鎮守府将軍であった時代に築いた奥州への利権を巡ってのものであったとする説がある[11]。良将・将門の奥州に対する勢力基盤は、将門の乱後に貞盛に継承された[11]。そのために鎮守府将軍に任命された。貞盛の狄坂丸に対する軍事活動を境に、奥羽の戦乱記事は消え、東北地方に関する情報が飛躍的に増加することとなった。貞盛と婚姻関係で繋がっていた藤原氏小一条流も、4代にわたって陸奥守を独占することとなった[11]

系譜

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『新編常陸国誌』には以上に加えて、次男に常陸介・平維風がおり、平貞叙平永盛平千公干公[8])、平正度平正済を養子にしたと記されている[9]

長男の維叙は藤原済時の子で養子と伝えられており[10]、当初の嫡流は次男維将の系統だった。次男維将の子の維時も祖父貞盛の養子となっている。維将の孫である平直方の子孫は北条氏熊谷氏と称している。また直方の娘が源頼義と結婚して源義家源義光らを産み、河内源氏には女系を通じて維将の血筋が受け継がれている。

四男維衡伊勢氏、また後に平清盛を生み出すことになる伊勢平氏の祖である。弟繁盛の息子たちも伯父貞盛の養子となっており、戸隠の鬼女紅葉退治の伝承で名高い余五将軍平維茂は繁盛の系統である。伊勢氏の系統からは、戦国時代北条早雲を祖として後北条氏を輩出している。

今昔物語集

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将門記』では将門と親睦をはかろうとする態度を見せたり、たびたび将門に敗れて追われるさまが描かれている。 一方、『今昔物語集』にはそんな貞盛を武勇に優れた豪胆な人物としての一面と、自分の都合で他人を踏み躙る一面を持つ、両面性のある人物として描いている。 巻第二十九・本朝付悪行では、第五話「平貞盛朝臣、法師ノ家ニ於テ盗人ヲ射取リシ語」にて、陸奥から帰京の途中に知人の法師の家に宿った際、盗人相手に武勇を振るった豪胆な人物像が描かれてているが、第二十五話「丹波守平貞盛、児ノ肝ヲ取リシ語」では、矢傷の治療の為に胎児の肝が必要と言われ、息子に命じて自分の孫の肝を食べようとした挙句、何人かの妊婦の腹を裂き胎児の肝を得て自分の矢傷の治療をし、その秘密を守るため治療法を伝授した医師の殺害を企てた、という逸話とが述べられている。

画像集

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関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 野津本『北条系図、大友系図』の享年60からの逆算[2]
  2. ^ 『平姓指宿氏系図』の享年69からの逆算[3]
  3. ^ 維将の子、直方の父。祖父の養子となる。
  4. ^ 維叙の子。祖父の養子となる。
  5. ^ 扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされているが、『扶桑略記』の「平将門」に関するの記述は、『将門記』の翻案とされ、信憑性はない。

出典

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  1. ^ 須藤春峰『東北中世史 : 岩城氏とその一族の研究』白銀書房、1975年。CRID 1130282271207165824https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I057391645-00 
  2. ^ a b 野口実 2022, p. 44.
  3. ^ a b 野口実 2022, p. 46.
  4. ^ a b c 系図纂要
  5. ^ 鈴木哲雄『平将門と東国武士団』吉川弘文館〈動乱の東国史〉、2012年。ISBN 9784642064408NCID BB09998152https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I090040118-00 
  6. ^ 佐々木紀一「出羽清原氏と海道平氏(下)」『米沢国語国文』第47巻、山形県立米沢女子短期大学国語国文学会、2018年12月、4-33頁、ISSN 0287-6833CRID 1050845764197863552 
  7. ^ a b 野口実『中世東国武士団の研究』(増補改訂)戎光祥出版〈戎光祥研究叢書〉、2021年。ISBN 9784864033701全国書誌番号:23474986https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030792068-00 
  8. ^ a b 藤原 1904, 平氏22頁.
  9. ^ a b 中山信名, 栗田寛『新編常陸國誌』加納與右衞門、1899年。doi:10.11501/763974CRID 1130000795177383296https://dl.ndl.go.jp/pid/763974/1/1 
  10. ^ a b c 尊卑分脈
  11. ^ a b c 高橋修『常陸平氏』(戎光祥出版、2015年)

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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