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{{基礎情報 君主 |
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| 人名 = ハインリヒ6世 |
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| 各国語表記 = Heinrich VI |
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| 君主号 = 神聖ローマ皇帝 |
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| 画像説明 = [[マネッセ写本]]に描かれたハインリヒ6世(14世紀初頭) |
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| 在位 = [[1191年]] - [[1197年]][[9月28日]] |
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| 戴冠日 = |
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| 別号 = [[シチリア王国|シチリア王]]、ドイツ王 |
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| 全名 = |
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| 出生日 = [[1165年]]5月 |
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| 生地 = [[ナイメーヘン]] |
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| 死亡日 = [[1197年]][[9月28日]] |
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| 没地 = [[メッシーナ]]<ref name="komoriya160">小森谷『シチリア歴史紀行』、160頁</ref> |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = [[パレルモ]] |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = [[コスタンツァ (シチリア女王)|コンスタンツェ]] |
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| 配偶者2 = |
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| 配偶者3 = |
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| 配偶者4 = |
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| 配偶者5 = |
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| 子女 = [[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ]] |
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| 王家 = [[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]] |
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| 王朝 = [[ホーエンシュタウフェン朝]] |
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| 父親 = [[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]] |
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| 母親 = [[ベアトリス1世 (ブルゴーニュ女伯)|ベアトリクス]] |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
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兄の[[シュヴァーベン大公]][[フリードリヒ5世 (シュヴァーベン公)|フリードリヒ5世]]が夭折したため、[[嫡子]]となった。 |
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== 生涯 == |
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父の[[イタリア]]政策の一環としてシチリア王[[グリエルモ2世]]の叔母[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]](コンスタンツェ)と政略結婚した。その後間もなく父とグリエルモ2世が相次いで没したため、帝位を継いで即位すると共に、妻との縁戚関係を理由にシチリア王位も狙って、新しくシチリア王となった[[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]]と対立する。このため、ハインリヒ6世はシチリア側を支持する[[イングランド]]王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]や[[教皇|ローマ教皇]][[ケレスティヌス3世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス3世]]をも敵に回すことになり、一時、絶体絶命の窮地に追い込まれた。 |
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1165年に[[ナイメーヘン]]で、フリードリヒ1世とベアトリクスの次子として生まれる。[[1169年]]6月、4歳のハインリヒは[[バンベルク]]で[[ローマ王|ドイツ国王]](ローマ王)に戴冠された。[[1184年]]5月20日の聖霊降臨節の日に[[マインツ]]で開かれた帝国集会で、[[シュヴァーベン大公|シュヴァーベン公]][[フリードリヒ4世 (東フランケン大公)|フリードリヒ]]とともに騎士に叙された。この集会の参加者には贈物が与えられ、同時に騎士たちの[[馬上槍試合|トーナメント]]が開かれる華々しいものだった<ref name="nishi243">西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、243頁</ref>。 |
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1184年10月、ハインリヒとシチリア王女[[コスタンツァ (シチリア女王)|コンスタンツェ]]<ref group="注">コンスタンツェは、シチリア王国[[オートヴィル朝|ノルマン朝]]の創始者[[ルッジェーロ2世]]の娘にあたる。1184年当時のシチリア王グリエルモ2世は、コンスタンツェの甥。</ref>の結婚が成立する。過去には、1173年ごろにフリードリヒ1世の娘ベアトリーチェとシチリア王[[グリエルモ2世]]の婚姻が提案され<!-- (しかし、ベアトリーチェの急逝により破談になった) -->、ハインリヒとコンスタンツェの縁談は1180年ごろから進められていた<ref name="nishi243"/>。[[1186年]]1月にハインリヒは自分よりも10歳年上のコンスタンツェと結婚、かつて[[ロンバルディア同盟|反皇帝派都市]]の筆頭格だった[[ミラノ]]の[[サンタンブロージョ聖堂]]で挙式した<ref name="nishi243"/><ref name="komoriya158">小森谷『シチリア歴史紀行』、158頁</ref>。この婚姻によって教皇領を挟む南北の二大国が同盟を結ぶことになり、[[カトリック教会|ローマ教会]]にとって危機的な状況となる<ref name="nishi243"/>。 |
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しかし、ハインリヒ6世は[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]と手を結び、[[第3回十字軍]]遠征から帰国途上にあったリチャード1世を捕らえ、さらには[[1194年]]にタンクレーディも病死したため、この窮地から見事に脱して反攻を開始し、遂にはシチリアを征服してしまったのである。そして、[[東ローマ帝国]]に強権を発して圧力をかけ、その征服の野望を抱いたが、1197年、突如として急死してしまった。 |
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[[1189年]]6月10日にフリードリヒが[[第3回十字軍]]の途上で没するとハインリヒは父の跡を継ぎ、同年11月18日にグリエルモ2世が没する。 |
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神聖ローマ皇帝の皇帝権力は弱体化の一方にあったが、このハインリヒ6世の治世期には権力が強大化し、安定した政権基盤が築かれると共に、代々の皇帝が失敗し続けた[[イタリア政策]]も成功している。ハインリヒ6世は名君と言えるであろうが、それを妬まれてドイツ[[諸侯]]に毒殺されたのかも知れないという説もある。 |
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1184年の婚姻時の取り決めでは、グリエルモ2世没後に王国の統治権はコンスタンツェとハインリヒに継承されることになっていた<ref>西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、247頁</ref>。しかし、コンスタンツェの縁組を推進した[[パレルモ]]大司教グアルティエーロがグリエルモ2世に続いて没し<ref>小森谷『シチリア歴史紀行』、154,158頁</ref>、1189年12月に反ドイツ派の廷臣によって[[レッチェ]]伯[[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]]がシチリア王に擁立された。ハインリヒはシチリアに向かおうとするが、[[ザクセン君主一覧|ザクセン]]・[[バイエルン大公|バイエルン]]の君主[[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ獅子公]]が亡命先の[[イングランド]]から帰国したため、ハインリヒ獅子公への対処に追われてシチリアへの進軍を阻まれる<ref>西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、247-248頁</ref>。[[1191年]]1月になってようやく、ハインリヒはイタリアに向かうことができた<ref name="nishi248">西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、248頁</ref>。 |
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子の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ]]は幼少のために、弟の[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]が[[ローマ王|ドイツ王]]に即位したが、[[ヴェルフ家]]を始めとする反対派が[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]を擁立、帝位を巡って抗争が勃発した。 |
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=== シチリア王即位 === |
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[[File:1191Neapol.jpg|thumb|200px|1191年のナポリ包囲]] |
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1191年4月、ハインリヒとコンスタンツェは[[ローマ]]で[[教皇|ローマ教皇]][[ケレスティヌス3世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス3世]]から神聖ローマ皇帝・皇妃に戴冠される。イタリアを南下したハインリヒは[[ナポリ]]の包囲を開始するが、ハインリヒの軍は疫病に罹り、重大な被害を受ける。一方、ドイツではハインリヒ獅子公が再び反乱を起こしており、ハインリヒは包囲を解いて帰国せざるをえなかった。[[サレルノ]]の宮廷に残されたコンスタンツェは、サレルノ市民の手引きによってタンクレーディに引き渡され、コンスタンツェはケレスティヌスの仲介によって解放される。ケレスティヌスはタンクレーディのシチリア王位を認め、またドイツの反シュタウフェン家陣営も勢いを盛り返していた<ref name="nishi248"/>。 |
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この矢先、ハインリヒは思わぬ幸運にめぐり合う<ref name="nishi248"/>。反シュタウフェン陣営の有力な支持者であるイングランド王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]が、第3回十字軍の帰途で[[オーストリア君主一覧#オーストリア公|オーストリア公]][[レオポルト5世 (オーストリア公)|レオポルト5世]]に捕らえられ、{{仮リンク|トリフェルス城|en|Trifels Castle}}に監禁される事件が起きる。リチャードの身柄はハインリヒの元に引き渡され、ハインリヒは銀150,000マルクと引き換えにリチャードを釈放した<ref name="nishi248"/>。この事件によって反シュタウフェン陣営は有力な後ろ盾を失っただけでなく、ハインリヒは再度の南イタリア遠征に必要な軍費を調達することができた<ref name="nishi248"/>。 |
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[[1194年]]1月にハインリヒは北イタリアのコムーネと協定を結んで通行許可を得、同年4月にはハインリヒ獅子公と講和する。同年2月にシチリアではタンクレーディが没し、彼の幼少の子[[グリエルモ3世]]がシチリア王位を継承していた。[[ピサ]]、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]の協力を得て、ハインリヒは5月12日に南イタリア遠征に向かう<ref name="nishi248"/>。この遠征の途上でコンスタンツェの妊娠が発覚し、彼女は別の進路を通って移動した<ref name="nishi248"/>。 |
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ハインリヒはシチリア王位と引き換えに、グリエルモ3世をレッチェ伯の地位にとどめることを約束し、1194年9月20日にパレルモは無血開城した<ref name="komoriya158"/>。12月25日にハインリヒはシチリア王に即位<ref name="nishi248"/>、即位に際して数百人のシチリア貴族が処刑・投獄され、グリエルモ3世は視力を奪われた上で幽閉され、グリエルモ3世の母親は国外に追放された<ref name="komoriya160"/><ref name="fujisawa84">藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、84頁</ref>またタンクレーディの墓が暴かれ、民衆の前で遺体が纏っていた王衣が脱がされた上<ref name="fujisawa84"/>、遺体の首が切断された<ref name="komoriya160"/>。 |
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=== 息子フリードリヒへの帝位相続 === |
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{{See also|ローマ王|選帝侯}} |
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戴冠式の翌日、コンスタンツェが[[イェージ]]の町で息子[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ]]を出産した<ref name="komoriya160"/>。結婚後9年の間2人の間に子が生まれていなかったこと、コンスタンツェが出産当時40歳と高齢だったために出産に疑惑がもたれ<ref>藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、80-81頁</ref>、後年にフリードリヒはコンスタンツェの子ではないという伝承が生まれる<ref name="nishi248"/>。 |
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ハインリヒは友人であるエスリンゲンの{{仮リンク|コンラート (スポレート公)|en||label=コンラート}}をスポレート公に叙し、[[マルケ州|マルケ]]をMarkward von Annweilerに与えてイタリアの支配を固める。[[1195年]]の[[バーリ]]の宮廷会議では十字軍への参加を約束し、教会との関係の改善を図った。 |
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同年6月にハインリヒはコンスタンツェとフリードリヒをパレルモに残してドイツに帰還し、十字軍の準備を進めるとともに、フリードリヒへの神聖ローマ皇帝位の世襲を計画した。年内に開催された[[ヴォルムス]]の帝国会議でハインリヒはフリードリヒのドイツ王選挙を求めるが、諸侯の反対によって要求は退けられる。[[1196年]]4月に開催された[[ヴュルツブルク]]の帝国議会でハインリヒは、ドイツ王位をフランスやシチリアと同様の世襲制に代えて諸侯に国王選挙権を放棄させるかわりに、諸侯にも相続権を認める「世襲帝国計画」を提案した<ref name="nishi249">西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、249頁</ref>。しかし、ケルン大司教アドルフの猛反対に遭って計画は失敗に終わった<ref name="nishi249"/>。 |
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1196年夏にはフリードリヒのドイツ王位承認を求めて教皇庁と交渉するが、交渉は頓挫する。弟のシュヴァーベン公[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]とマインツ大司教の働きかけによって、1196年12月の[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]帝国議会でようやくフリードリヒがドイツ王に選出された<ref name="nishi249"/>。こうしてフリードリヒへの帝位継承が確実になると、ハインリヒは十字軍の派遣に着手した。 |
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=== 最期 === |
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[[File:DSC00548 - Cattedrale - Tomba di Enrico VI + 1197 - Foto G. Dall'Orto.jpg|thumb|200px|パレルモの{{仮リンク|カテドラル (パレルモ)|en|Palermo Cathedral|label=カテドラル}}に安置されたハインリヒ6世の棺]] |
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フリードリヒがドイツ王に選出されたころ、シチリアでは「ドイツ人」の王の支配に対する反乱が起きていた<ref name="komoriya160"/>。ドイツから戻ったハインリヒは反乱を鎮圧し、首謀者を熱した鉄の玉座に座らせて釘の生えた冠を頭に打ちつける苛烈な刑に処したが、反乱は再度起こる<ref name="komoriya160"/>。[[1197年]]9月28日にハインリヒは反乱の鎮圧の軍備を整えている途中に<ref name="kikuchi103">菊池『神聖ローマ帝国』、103頁</ref>、[[マラリア]](あるいは[[赤痢]])に罹って病没した<ref name="komoriya160"/><ref>山内進「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録(木村靖二編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、69頁</ref>。 |
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<!-- 山内「苦闘する神聖ローマ帝国」-マラリア、小森谷『シチリア歴史紀行』-赤痢 --> |
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没前にハインリヒは、妻のコンスタンツェを幼少のフリードリヒの摂政とするように遺言する<ref name="kikuchi103"/>。しかし、神聖ローマ皇帝位とシチリア王位だけでなく、ドイツ王権とシチリア王権の関係、シチリアの国制と統治、ドイツ・シチリアの両方に残る反対勢力への対処といったハインリヒが生前に解決できなかった問題もフリードリヒに受け継がれた<ref>西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、249-250頁</ref>。 |
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== 家族 == |
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* 妻:[[コスタンツァ (シチリア女王)|コンスタンツェ]] -シチリア王[[ルッジェーロ2世]]の娘 |
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** [[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ]] |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references group="注"/> |
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=== 引用元 === |
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<references/> |
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== 参考文献 == |
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* 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, [[講談社]], 2003年7月) |
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* 小森谷慶子『シチリア歴史紀行』(白水Uブックス, [[白水社]], 2009年11月) |
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* 西川洋一「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, [[山川出版社]], 1997年7月) |
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* 藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』(中公新書, [[中央公論新社|中央公論社]], 1991年10月) |
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== 関連項目 == |
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{{commonscat|Henry VI, Holy Roman Emperor}} |
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* [[神聖ローマ皇帝一覧]] |
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* [[ナポリとシチリアの君主一覧]] |
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{{先代次代|[[ローマ王|ドイツ王]]|1190年 - 1197年|[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]|[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]}} |
{{先代次代|[[ローマ王|ドイツ王]]|1190年 - 1197年|[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]|[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]}} |
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{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]]|1194年 - 1197年<br/>([[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]と共同統治)|[[グリエルモ3世]]|[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フェデリーコ1世]]}} |
{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]]|1194年 - 1197年<br/>([[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]と共同統治)|[[グリエルモ3世]]|[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フェデリーコ1世]]}} |
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{{神聖ローマ皇帝||1191年 - 1197年}} |
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[[Category:神聖ローマ皇帝]] |
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[[hr:Henrik VI., car Svetog Rimskog Carstva]] |
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[[lt:Imperatorius Henrikas VI]] |
[[lt:Imperatorius Henrikas VI]] |
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[[mr:हेन्री सहावा, पवित्र रोमन सम्राट]] |
[[mr:हेन्री सहावा, पवित्र रोमन सम्राट]] |
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[[sr:Хенрик VI, цар Светог римског царства]] |
[[sr:Хенрик VI, цар Светог римског царства]] |
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[[sv:Henrik VI (tysk-romersk kejsare)]] |
[[sv:Henrik VI (tysk-romersk kejsare)]] |
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[[th:จักรพรรดิไฮน์ริชที่ 6 แห่งโรมันอันศักดิ์สิทธิ์]] |
[[th:จักรพรรดิไฮน์ริชที่ 6 แห่งจักรวรรดิโรมันอันศักดิ์สิทธิ์]] |
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[[tr:VI. Heinrich (Kutsal Roma İmparatoru)]] |
[[tr:VI. Heinrich (Kutsal Roma İmparatoru)]] |
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[[uk:Генріх VI (імператор Священної Римської імперії)]] |
[[uk:Генріх VI (імператор Священної Римської імперії)]] |
2012年7月19日 (木) 10:35時点における版
ハインリヒ6世 Heinrich VI | |
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神聖ローマ皇帝 | |
マネッセ写本に描かれたハインリヒ6世(14世紀初頭) | |
在位 | 1191年 - 1197年9月28日 |
別号 | シチリア王、ドイツ王 |
出生 |
1165年5月 ナイメーヘン |
死去 |
1197年9月28日 メッシーナ[1] |
埋葬 | パレルモ |
配偶者 | コンスタンツェ |
子女 | フリードリヒ |
家名 | ホーエンシュタウフェン家 |
王朝 | ホーエンシュタウフェン朝 |
父親 | フリードリヒ1世 |
母親 | ベアトリクス |
ハインリヒ6世(Heinrich VI、1165年11月 - 1197年9月28日)は、、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1191年 - 1197年)、シチリア王(在位:1194年 - 1197年)。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と2番目の妃ベアトリクスの子。
生涯
神聖ローマ皇帝即位前
1165年にナイメーヘンで、フリードリヒ1世とベアトリクスの次子として生まれる。1169年6月、4歳のハインリヒはバンベルクでドイツ国王(ローマ王)に戴冠された。1184年5月20日の聖霊降臨節の日にマインツで開かれた帝国集会で、シュヴァーベン公フリードリヒとともに騎士に叙された。この集会の参加者には贈物が与えられ、同時に騎士たちのトーナメントが開かれる華々しいものだった[2]。
1184年10月、ハインリヒとシチリア王女コンスタンツェ[注 1]の結婚が成立する。過去には、1173年ごろにフリードリヒ1世の娘ベアトリーチェとシチリア王グリエルモ2世の婚姻が提案され、ハインリヒとコンスタンツェの縁談は1180年ごろから進められていた[2]。1186年1月にハインリヒは自分よりも10歳年上のコンスタンツェと結婚、かつて反皇帝派都市の筆頭格だったミラノのサンタンブロージョ聖堂で挙式した[2][3]。この婚姻によって教皇領を挟む南北の二大国が同盟を結ぶことになり、ローマ教会にとって危機的な状況となる[2]。
1189年6月10日にフリードリヒが第3回十字軍の途上で没するとハインリヒは父の跡を継ぎ、同年11月18日にグリエルモ2世が没する。
1184年の婚姻時の取り決めでは、グリエルモ2世没後に王国の統治権はコンスタンツェとハインリヒに継承されることになっていた[4]。しかし、コンスタンツェの縁組を推進したパレルモ大司教グアルティエーロがグリエルモ2世に続いて没し[5]、1189年12月に反ドイツ派の廷臣によってレッチェ伯タンクレーディがシチリア王に擁立された。ハインリヒはシチリアに向かおうとするが、ザクセン・バイエルンの君主ハインリヒ獅子公が亡命先のイングランドから帰国したため、ハインリヒ獅子公への対処に追われてシチリアへの進軍を阻まれる[6]。1191年1月になってようやく、ハインリヒはイタリアに向かうことができた[7]。
シチリア王即位
1191年4月、ハインリヒとコンスタンツェはローマでローマ教皇ケレスティヌス3世から神聖ローマ皇帝・皇妃に戴冠される。イタリアを南下したハインリヒはナポリの包囲を開始するが、ハインリヒの軍は疫病に罹り、重大な被害を受ける。一方、ドイツではハインリヒ獅子公が再び反乱を起こしており、ハインリヒは包囲を解いて帰国せざるをえなかった。サレルノの宮廷に残されたコンスタンツェは、サレルノ市民の手引きによってタンクレーディに引き渡され、コンスタンツェはケレスティヌスの仲介によって解放される。ケレスティヌスはタンクレーディのシチリア王位を認め、またドイツの反シュタウフェン家陣営も勢いを盛り返していた[7]。
この矢先、ハインリヒは思わぬ幸運にめぐり合う[7]。反シュタウフェン陣営の有力な支持者であるイングランド王リチャード1世が、第3回十字軍の帰途でオーストリア公レオポルト5世に捕らえられ、トリフェルス城に監禁される事件が起きる。リチャードの身柄はハインリヒの元に引き渡され、ハインリヒは銀150,000マルクと引き換えにリチャードを釈放した[7]。この事件によって反シュタウフェン陣営は有力な後ろ盾を失っただけでなく、ハインリヒは再度の南イタリア遠征に必要な軍費を調達することができた[7]。
1194年1月にハインリヒは北イタリアのコムーネと協定を結んで通行許可を得、同年4月にはハインリヒ獅子公と講和する。同年2月にシチリアではタンクレーディが没し、彼の幼少の子グリエルモ3世がシチリア王位を継承していた。ピサ、ジェノヴァの協力を得て、ハインリヒは5月12日に南イタリア遠征に向かう[7]。この遠征の途上でコンスタンツェの妊娠が発覚し、彼女は別の進路を通って移動した[7]。
ハインリヒはシチリア王位と引き換えに、グリエルモ3世をレッチェ伯の地位にとどめることを約束し、1194年9月20日にパレルモは無血開城した[3]。12月25日にハインリヒはシチリア王に即位[7]、即位に際して数百人のシチリア貴族が処刑・投獄され、グリエルモ3世は視力を奪われた上で幽閉され、グリエルモ3世の母親は国外に追放された[1][8]またタンクレーディの墓が暴かれ、民衆の前で遺体が纏っていた王衣が脱がされた上[8]、遺体の首が切断された[1]。
息子フリードリヒへの帝位相続
戴冠式の翌日、コンスタンツェがイェージの町で息子フリードリヒを出産した[1]。結婚後9年の間2人の間に子が生まれていなかったこと、コンスタンツェが出産当時40歳と高齢だったために出産に疑惑がもたれ[9]、後年にフリードリヒはコンスタンツェの子ではないという伝承が生まれる[7]。
ハインリヒは友人であるエスリンゲンのコンラートをスポレート公に叙し、マルケをMarkward von Annweilerに与えてイタリアの支配を固める。1195年のバーリの宮廷会議では十字軍への参加を約束し、教会との関係の改善を図った。
同年6月にハインリヒはコンスタンツェとフリードリヒをパレルモに残してドイツに帰還し、十字軍の準備を進めるとともに、フリードリヒへの神聖ローマ皇帝位の世襲を計画した。年内に開催されたヴォルムスの帝国会議でハインリヒはフリードリヒのドイツ王選挙を求めるが、諸侯の反対によって要求は退けられる。1196年4月に開催されたヴュルツブルクの帝国議会でハインリヒは、ドイツ王位をフランスやシチリアと同様の世襲制に代えて諸侯に国王選挙権を放棄させるかわりに、諸侯にも相続権を認める「世襲帝国計画」を提案した[10]。しかし、ケルン大司教アドルフの猛反対に遭って計画は失敗に終わった[10]。
1196年夏にはフリードリヒのドイツ王位承認を求めて教皇庁と交渉するが、交渉は頓挫する。弟のシュヴァーベン公フィリップとマインツ大司教の働きかけによって、1196年12月のフランクフルト帝国議会でようやくフリードリヒがドイツ王に選出された[10]。こうしてフリードリヒへの帝位継承が確実になると、ハインリヒは十字軍の派遣に着手した。
最期
フリードリヒがドイツ王に選出されたころ、シチリアでは「ドイツ人」の王の支配に対する反乱が起きていた[1]。ドイツから戻ったハインリヒは反乱を鎮圧し、首謀者を熱した鉄の玉座に座らせて釘の生えた冠を頭に打ちつける苛烈な刑に処したが、反乱は再度起こる[1]。1197年9月28日にハインリヒは反乱の鎮圧の軍備を整えている途中に[11]、マラリア(あるいは赤痢)に罹って病没した[1][12]。
没前にハインリヒは、妻のコンスタンツェを幼少のフリードリヒの摂政とするように遺言する[11]。しかし、神聖ローマ皇帝位とシチリア王位だけでなく、ドイツ王権とシチリア王権の関係、シチリアの国制と統治、ドイツ・シチリアの両方に残る反対勢力への対処といったハインリヒが生前に解決できなかった問題もフリードリヒに受け継がれた[13]。
家族
脚注
注釈
引用元
- ^ a b c d e f g 小森谷『シチリア歴史紀行』、160頁
- ^ a b c d 西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、243頁
- ^ a b 小森谷『シチリア歴史紀行』、158頁
- ^ 西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、247頁
- ^ 小森谷『シチリア歴史紀行』、154,158頁
- ^ 西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、247-248頁
- ^ a b c d e f g h i 西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、248頁
- ^ a b 藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、84頁
- ^ 藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、80-81頁
- ^ a b c 西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、249頁
- ^ a b 菊池『神聖ローマ帝国』、103頁
- ^ 山内進「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録(木村靖二編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、69頁
- ^ 西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、249-250頁
参考文献
- 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)
- 小森谷慶子『シチリア歴史紀行』(白水Uブックス, 白水社, 2009年11月)
- 西川洋一「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
- 藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』(中公新書, 中央公論社, 1991年10月)
関連項目
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