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'''大本事件'''(おおもとじけん)は、[[大日本帝国]]において[[大本]]の宗教活動に対して、[[日本の警察]]が行った[[宗教弾圧]]。'''大本弾圧事件'''とも。
'''大本事件'''(おおもとじけん)は、[[新宗教]][[大本]]の宗教活動に対して、[[内務省 (日本)|日本の内務省]]が行った[[統制]]<ref name="弘文館神道史265">[[#弘文館、神道史|日本神道史]]265-266頁『神道系新宗教に対する統制』</ref>。'''大本弾圧事件'''とも呼ばれる。[[1921年]]([[大正]]10年)に起こった第一次大本事件と、[[1935年]]([[昭和]]10年)に起こった第二次大本事件の2つがある<ref name="弘文館神道史265"/>。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本は壊滅的打撃を受けた。また、宗教団体に[[治安維持法]]が適用された初の例であった
[[1921年]](大正10年)に起こった第一次大本事件と、[[1935年]](昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある。


== 概要 ==
==第一次大本事件==
[[明治維新]]以降、帝国政府([[大日本帝国]])は宗教に対する統制を強化し、神道系新宗教([[黒住教]]、[[金光教]]、[[天理教]]等)も[[教派神道]]として国家の公認下に入った<ref>[[#弘文館、神道史|日本神道史]]264-265頁『教派神道の展開』</ref>。一方、明治時代後期に誕生した[[大本教]](事件当時は皇道大本)は、教祖[[出口王仁三郎]]の活動により教勢を拡大し、知識人・[[軍人]]の入信、[[新聞社]]の買収、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになった<ref name="弘文館神道史265"/>。大本教(王仁三郎)の活動に政府・警察・司法当局は危機感を抱き、結果、二度の大本事件に発展した<ref name="弘文館神道史265"/>。1921年(大正10年)2月、当局は大本に[[不敬罪]]と[[新聞紙法]]違反を適用し、王仁三郎含め三名を起訴した('''第一次大本事件''')<ref name="弘文館神道史265"/>。1935年(昭和10年)12月、当局は[[治安維持法]]を適用して王仁三郎夫妻以下1000名近くを検挙(起訴61名)<ref name="弘文館神道史265"/>。大本関連の施設は破壊され、関連組織も解体された('''第二次大本事件''')<ref name="弘文館神道史265"/>。
[[ファイル:Oomoto-Kyo 写真通信1921-10月号-60.jpg|thumb|250px|警察によって破壊される大本の神殿<br/>(京都府[[綾部市|綾部]] 1921年10月20日)]]
第一次大本事件による検挙の数年前から大本は教勢を拡大させていた。[[1919年]](大正8年)には[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]を買収し、従前の[[綾部市|綾部]]に並ぶ本拠地とする準備に入った。また[[1920年]](大正9年)には大阪の有力新聞だった[[大正日日新聞]]を買収して言論活動にも進出する。しかし一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・[[浅野和三郎]]を中心とする一派が独走し、社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する向きもあった。
また、右翼団体の資金源となっているとの疑いももたれはじめていた。


一連の大本事件は国家権力による宗教団体への統制と弾圧であり<ref>[[#宗教の昭和史]]19頁</ref>、一種の[[国策捜査]]であった<ref>[[#大本襲撃]]65頁</ref>。同時に[[国家神道]]と[[新宗教]]の神話体系・歴史観の対立という側面も強い<ref>[[#神々の目覚め]]250.260頁、[[#宗教の昭和史]]49頁</ref>。わけても第二次大本事件は第一次大本事件にくらべて遥かに大規模であり、また昭和史に与えた影響も大きいが、その評価は現代でも定まっていない<ref>[[#宗教の昭和史]]21頁、[[#大本襲撃]]242頁</ref>。大本聖師/二代教主輔[[出口王仁三郎]]についての解釈が難しいからである<ref>[[#宗教の昭和史]]33頁、[[#大本襲撃]]311-312頁、[[#社会的他界的宗教]]175頁</ref>。二度とも王仁三郎逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件前後では[[神道天行居]]・[[生長の家]]など。第二次事件前後では[[世界救世教]]・[[三五教]]など)が独立した<ref>[[#神々のラッシュアワー]]98-99頁</ref>。
[[1921年]]([[大正]]10年)2月12日、[[不敬罪]]と[[新聞紙法]]違反の疑いで、[[出口王仁三郎]]と教団幹部を検挙。王仁三郎は126日間の未決生活の後で保釈されたが、綾部の本宮山神殿は破壊された。


== 第一次大本事件 ==
[[1924年]](大正13年)2月、出口王仁三郎は責付出獄中に[[植芝盛平]]をはじめ日本人6人とともに[[モンゴル]]地方へ行き、盧占魁(ろせんかい・[[馬賊]]の頭領)とともに活動する。同年6月パインタラにて[[張作霖]]により危機もあったが、7月に帰国している。
=== 背景 ===
[[ファイル:Oomoto-Kyo 写真通信1921-10月号-60.jpg|thumb|300x300px|「大本教本山宮の取毀ち---十月二十日」(綾部)『寫眞通信』大正十年十月號、大正通信社(1921年10月)]]
明治時代後期、[[出口なお]]の神懸かりによって[[京都府]][[綾部町]]で誕生した大本は、第一次大本事件による検挙の数年前から社会構造の変化や[[都市化]]を背景に、[[出口王仁三郎]]教主輔(なおの婿養子)を中核として教勢を拡大させていた<ref>[[#屹立するカリスマ]]136-137頁、[[#復元思想の社会史]]216頁</ref>。[[1919年]](大正8年)[[11月18日]]には[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]址([[明智光秀]]の居城)を買収し、従前の[[綾部市|綾部]]に並ぶ本拠地とする準備に入る<ref>[[#新宗教創始者伝]]144頁、[[#予言・確言]]224-225頁</ref>。[[1920年]](大正9年)、綾部で大規模な神殿の建造を開始した<ref>[[#新宗教と巨大建築]]139頁</ref>。また[[8月17日]]に大阪の有力新聞だった[[大正日日新聞]]を買収して言論活動にも進出する<ref>[[#新宗教創始者伝]]147-148頁、[[#村上(1973)]]131-132頁</ref>。一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・[[浅野和三郎]]や[[谷口雅春]]を中心とする一派が王仁三郎と対立、[[終末論]]を展開していた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]133頁、[[#新宗教創始者伝]]145頁</ref>。終末論に対し王仁三郎は肯定も否定もせず、明確な裁定を避けている<ref>[[#屹立するカリスマ]]145-146頁、[[#宗教の可能性]]89-90頁</ref>。[[第一次世界大戦]]、[[ロシア革命]]、[[1918年米騒動|米騒動]]といった社会的混乱の中で、大本の世直し運動は大きな反響を巻き起こした<ref>[[#村上(1973)]]129-131頁</ref>。大本の一連の活動に対し、社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する大手メディアも現れた<ref>[[#村上(1973)]]134頁、[[#新宗教創始者伝]]147頁</ref>。


日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた<ref>[[#大本襲撃]]122頁、[[#人間解放の福祉論]]34頁</ref>。そもそも大本は'''[[国常立尊]]'''という[[天照大神]]より上位の神を重要視しており、[[現人神]]たる[[天皇]]の宗教的権威及び統治権の根拠を脅かしかねなかったのである<ref>[[#宗教の昭和史]]37頁</ref>。内務省は[[1920年]]8月に教典『[[大本神諭]]・火の巻』を不敬と過激思想を理由に発禁処分とした<ref>[[#民衆の宗教・大本]]26頁、[[#神の罠]]155頁</ref>。京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]146頁、[[#大本襲撃]]125-126頁</ref>。9月には開祖・[[出口なお]]の[[奥都城]]を「[[天皇陵]]に似ている」と理由づけ墓地取締規則違反として罰金と改修を命じた<ref>[[#復元思想の社会史]]217頁</ref>。[[原敬]]総理大臣は同年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した<ref>[[#大本襲撃]]128-129頁</ref>。大本の急成長と影響力は、天皇制国家にとってもはや無視できない存在だったのである<ref>[[#村上(1973)]]133頁</ref>。
裁判は[[大審院]]まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、[[控訴院]]へ差し戻した。再審理中の[[1926年]](大正15年)12月25日、[[大正天皇]]が崩御し、[[1927年]]([[昭和]]2年)免訴となる。


=== 裁判 ===
なお王仁三郎は保釈の後、秋頃から『[[霊界物語]]』の口述を始めている。また、この事件を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後[[浅野和三郎]]は[[心霊科学研究会]]を、[[谷口雅春]]は[[生長の家]]を興している。
[[1921年]](大正10年)1月、[[平沼騏一郎]]検事総長は大本検挙の判断を下した<ref>[[#社会的他界的宗教]]188頁</ref>。[[2月12日]]、当局は[[不敬罪]]と[[新聞紙法]]違反の疑いで教団関係各所を捜索、[[出口王仁三郎]]と教団幹部を検挙した<ref>[[#新宗教創始者伝]]149頁、[[#大本襲撃]]129頁</ref>。警察官達は大本が武装していると信じて決死の覚悟であった<ref>[[#民衆の宗教・大本]]27頁</ref>。また武器が発見されれば[[内乱予備罪]]を適用できるため必死の捜索を行ったが何も発見できず、[[幸徳秋水]]の[[幸徳事件|大逆事件]]を再現しようとした当局の企図は空振りに終わった<ref>[[#村上(1973)]]136-138頁</ref>。だが[[5月10日]]に記事解禁となると、メディアは事件を「国体を危うくする大本教の大陰謀」「淫祀邪教」「悪魔の如き王仁三郎」と扇情的に報道し、世論を煽った<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]147頁、[[#新宗教創始者伝]]150頁</ref>。一方、大本二代教主・[[出口すみ]](王仁三郎の妻)は「これもみな神様のお仕組でございます。かえって大本教の真相が世間に知れるのであろうと喜んでおりますので」と大阪毎日新聞に語る<ref>[[#予言・確言]]230頁</ref>。教団内部でも王仁三郎夫妻を追放しようとする動きがあったが、すみは動じなかった<ref>[[#村上(1973)]]140頁、[[#宗教の昭和史]]55頁</ref>。王仁三郎は126日間の未決生活の後で保釈されたが、当局はなお(直)の[[奥都城]](神道式の墓)を再び縮小改築させ<ref>[[#三鏡、2010増補]]122-123頁『開祖様の奥津城』</ref>、さらに墓の背後に[[神明造]]の稚姫神社が作られていたことを違法として焼却させる<ref>[[#復元思想の社会史]]217.219頁</ref>。続いて綾部の本宮山神殿を破壊するなどの干渉を行った<ref>[[#新宗教創始者伝]]151頁、[[#人間解放の福祉論]]34頁</ref><ref>{{Cite book|和書|author=|editor=帝国記念協会|year=1922|month=10|title=明治大正連続記念写真帖:皇室軍事天変人事|chapter=|publisher=帝国記念協会刊行|url={{NDLDC|920136/59}}|ref=明治大正連続記念写真帖}}コマ59『大本教本山宮の取毀ち 一時社會の耳目を聳動させた大本教の公判は續いて進行し綾部本宮山神殿は取毀と決定し大正十年二月二十日より取毀に着手した。寫眞は請負師等が土足にて踏み躙られつゝある悲惨なる實況である寫眞。左は出口王仁三郎。』</ref>。
特に本宮山神殿については、神明造のため[[伊勢神宮]]を模したものと批判され、[[1872年]][[大蔵省]]達118号(無願の神殿建築を禁止)及び[[1913年]]内務省令神社創立に関する布達第31条(地方に縁故なき神社創立を禁止)同第32条(一定形式により創立の出願を必要とする)を理由に大本側費用負担による破壊命令が下る<ref>[[#新宗教と巨大建築]]141-142頁、[[#復元思想の社会史]]218頁</ref>。[[9月16日]]に審理開始、[[10月5日]]の第一審判決では、王仁三郎は不敬罪と新聞紙法違反で[[懲役]]5年、浅野は不敬罪で懲役10か月、吉田祐定(機関誌発行兼編集人)に[[禁固]]3か月・罰金150円の有罪判決が下った<ref>[[#新宗教創始者伝]]152頁、[[#大本襲撃]]131頁</ref>。審理は事実上2日間という異例の短さであり大本側は即日控訴、検察側も浅野の量刑を不服として控訴した<ref>[[#予言・確言]]230頁、[[#人間解放の福祉論]]34頁</ref>。


[[10月14日]]、王仁三郎夫妻は教主輔・教主の地位を退き、長女[[出口直日]]が三代教主に就任、「皇道大本」も「大本」の旧称に戻った<ref>[[#村上(1973)]]142頁</ref><ref>[[#三鏡、2010増補]]64頁(出口王仁三郎年譜)大正10年(1921年)10月14日</ref>。本宮山神殿の破壊は京都大丸組が750円で落札する<ref>[[#村上(1973)]]145頁、[[#復元思想の社会史]]219頁</ref>。教団内部で王仁三郎派、浅野派、福島派の対立が深まる中、王仁三郎は国家権力との対立を回避すべく10月18日から新教典『[[霊界物語]]』の口述筆記に着手する<ref>[[#村上(1973)]]146頁、[[#屹立するカリスマ]]149-154頁</ref>。[[10月20日]]、軍に護衛される中で本宮山神殿の取り壊しが始まった<ref>[[#新宗教と巨大建築]]144頁</ref>。
==第二次大本事件==
[[1924年]](大正13年)2月、出口王仁三郎は責付出獄中に[[植芝盛平]]をはじめ日本人6人とともに[[モンゴル]]地方へ行き、盧占魁(ろせんかい・[[馬賊]]の頭領)とともに活動する<ref>[[#民衆の宗教・大本]]33頁、[[#新宗教創始者伝]]161頁</ref>。同年6月[[パインタラ]]にて[[張作霖]]により危機もあったが、[[7月25日]]に帰国、[[11月1日]]に保釈された<ref>[[#新宗教創始者伝]]165-166頁、[[#人間解放の福祉論]]37-38頁</ref>。
第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎は[[エスペラント]]の導入・[[ラマ教]]との提携など様々な活動を展開する。その一方で、[[頭山満]]・[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]ら[[右翼]]人士との交流を行い、[[昭和神聖会]]を結成して軍事教練などを施したり、[[三月事件]]では自ら資金や人員の提供を申し出るなど、「[[昭和維新]]」の実現のために急進的な行動を取るようになっていった。


=== 幕切れ ===
[[1935年]](昭和10年)[[12月8日]]に[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]長[[唐沢俊樹]]の直接の指示のもと、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲。王仁三郎は巡教先の[[松江市]]で検挙された。罪名は[[不敬罪]]並びに[[治安維持法]]違反。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、教団幹部61名が検挙・王仁三郎ら8名が起訴された。この第二次大本事件では徹底した弾圧が行われ、綾部・亀岡の聖地は跡形も無く破壊、関連施設も競売に付された。また激しい[[拷問]]で16人が死亡している。王仁三郎の『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱によって[[発禁|発売頒布禁止処分]]となった。
大阪控訴院第二審は第一審を支持、裁判は[[大審院]]まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、[[控訴院]]へ差し戻した<ref>[[#人間解放の福祉論]]35頁</ref>。再審理中の[[1926年]](大正15年)[[12月25日]]、[[大正天皇]]が[[崩御]]し、[[1927年]](昭和2年)[[5月17日]]に免訴となる<ref>[[#民衆の宗教・大本]]36頁、[[#新宗教創始者伝]]152頁</ref>。だが当局は大本に対する警戒を緩めず、次の機会を伺っていた<ref>[[#新宗教創始者伝]]184頁</ref>。一方、王仁三郎は第一審判決直後の[[10月18日]]から大長編『霊界物語』の口述を始めている<ref>[[#民衆の宗教・大本]]29頁、[[#新宗教創始者伝]]153頁</ref>。なお(直)が残した教典『[[大本神諭]]』や教団内の派閥争いを自らの権威で克服しようとする意図と解釈する研究者もいる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]149頁</ref>。また神諭は社会改革と終末思想の色彩が濃いため、当局の追及をかわすためにも教義と神話の発展と重層化を試みたという指摘もある<ref>[[#村上(1973)]]148頁、[[#新宗教と巨大建築]]149頁</ref>。第一次大本事件と『霊界物語』の教義化を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後[[浅野和三郎]]は[[心霊科学研究会]]を、[[谷口雅春]]は[[生長の家]]を興した<ref>[[#村上(1973)]]147頁、[[#帝国時代のカリスマ]]150頁</ref>。この第一次大本事件は、王仁三郎と対立する浅野達を大本から排除すると同時に、大本の名前を全国に宣伝するための方策だったという解釈もある<ref>[[#人間解放の福祉論]]32-33頁、[[#予言・確言]]310-311頁</ref>。[[宗教学者]]・[[姉崎正治]]は大本に批判的であったが、第一次大本事件について「大本教を『取締』るのは政府の考慮に任せるとしても、政府が眞に根本的治療を望む誠意ならば、先ず自らの責任を感じ、自ら治療してかかるべきである。」「然し其と共に今の日本社会に大本教同様の気風あるを、同時に痛感する。重ねて政府当局者に云ひたい。外面から加へる厭迫迫害は無効である。社会思想の病體を取除く第一歩、又根本要義は、社会人心の窮屈を除くにある。」と論じて、政府の検閲や言論統制といった姿勢が変わらぬ限り、第二・第三の大本教が出現すると指摘した<ref>[[#姉崎正治集9巻]]209-210頁</ref>。


== 第二次大本事件 ==
裁判は[[1938年]](昭和13年)に開廷して以来、[[高山義三]]、[[小山昇]]を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われたが、[[1942年]](昭和17年)7月に下った第二審判決で治安維持法違反について無罪となった。不敬罪については大審院まで持ち込まれたものの、結果として有罪判決が下った。しかし、[[1945年]](昭和20年)10月17日には、敗戦による[[大赦]]令で無効になった。なお、[[1947年]](昭和22年)10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。
=== 背景 ===
第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎は[[エスペラント]]の導入・[[ラマ教]]・[[世界紅卍字会|道院(世界紅卍字会)]]・[[バハイ教]]等世界各国の宗教提携など様々な活動を展開する<ref>[[#人間解放の福祉論]]37頁</ref>。同時に国内における政治活動を活発化させ、[[昭和恐慌]]による不況にあえぐ国民の関心を集めた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]256-257頁、[[#新宗教創始者伝]]181頁</ref>。[[1932年]](昭和7年)11月、大本は再び「皇道大本」と復名し第一次大本事件で頓挫した「大正維新」を「昭和維新」として実行しようとしていた<ref>[[#村上(1973)]]189頁</ref>。王仁三郎は[[頭山満]]・[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]ら[[右翼]]人士との交流を行い、[[1934年]](昭和9年)7月22日に[[昭和神聖会]]を結成する<ref>[[#民衆の宗教・大本]]72頁、[[#村上(1973)]]195頁</ref>。東京[[九段軍人会館|九段会館]]で行われた発会式には陸海軍将校が多数出席し、[[後藤文夫]]内務大臣、[[秋田清]]衆議院議長が祝辞を述べるなど、政治・軍事への影響力を示した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]265頁、[[#新宗教創始者伝]]182頁</ref>。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]267頁</ref>。神聖会は[[ワシントン海軍軍縮条約]]の早期撤廃、皇族内閣の実現、[[天皇機関説]]への激しい批判、東北地方の困窮に対する援助など、数々の愛国的主張を行っている<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]267-269頁、[[#三島由紀夫の二・二六事件]]70-71頁</ref>。[[1935年]](昭和10年)の時点で、大本は支部1990、信者100万 - 300万人(特高警察資料、大本教40万・人類愛善会25万人)、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長している<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]264頁</ref>。


精神科医[[宮本忠雄]]は王仁三郎に「手を広げすぎて失敗する」というパターンがあり、「大本の体質は王仁三郎の体質から来ており、彼の人柄をそのまま肥大させたものが教団の性格」<ref>[[#診断・日本人]]95頁</ref>「現実から身を引き離すのが不得手な王仁三郎であってみれば、現実との接触は必然的に権力への癒着をもたらした」<ref>[[#診断・日本人]]106頁</ref> と指摘する。宗教学者[[村上重良]]は、宗教的指導者たる王仁三郎が自己の主観的価値観を政治に持ち込む危険性と限界を指摘し、大日本帝国の侵略・膨張に社会的政治的役割を担ったと批判する<ref>[[#村上(1973)]]191頁</ref>。このような政治活動に懸念を示す者もいたが、王仁三郎は聞き入れなかった<ref>[[#新宗教創始者伝]]183頁</ref>。[[出口直日]](王仁三郎夫妻長女・三代教主)によれば、[[黒龍会]]の[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]から度々注意されていたが、王仁三郎夫妻は淡々として聞き流していたという<ref name="こころの帖223">[[#こころの帖]]223頁</ref>。その一方、もう一度弾圧が起きる事を示唆する言動も残している<ref>[[#民衆の宗教・大本]]80頁、[[#予言・確言]]254頁</ref>。機関誌『神聖』[[1935年]](昭和10年)9月号では『余は、世間からかかる誤解を受けることが必ずしも余自身のために不利益であるとすら思って居ない。かかる誤解から轟々たる非難の声が起って、余のために騒ぎ立てる世の中をジット眺め、そのために自分がへた張るかどうかと静かにその行末を視守ることもまた面白いではないか』と述べている<ref>[[#予言・確言]]291-292頁</ref>。第一次大本事件のような弾圧が起きることを予期していたが、政府の大本に対する危機意識・警戒感を過小評価していたという指摘もある<ref>[[#村上(1973)]]200頁、[[#帝国時代のカリスマ]]270-271頁</ref>。例えば事件後に保釈された王仁三郎は「かねてより 斯くあらんとは 知りながら 斯くも早しとは 思はざりけり」と詠っている<ref>[[#朝嵐]]6頁</ref>。
第二次大本事件は、当初[[共産主義]]運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を[[宗教団体]]に適用した最初の案件であった。この事件により[[信教の自由]]を国民から奪い、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていったという見方がある。一方、宗教団体に対する弾圧というよりも、急進的な政治的主張をする集団を摘発した事件と見る視点も必要と思われる。


昭和神聖会発足当時、[[大日本帝国]]は[[満州事変]]が勃発して[[国際連盟]]から脱退、国内では[[ゴーストップ事件]]で軍部と内務省が対立、[[十月事件]]や[[五・一五事件]]が発生してクーデターや暗殺騒ぎが起きるなど、不安定な状況下にあった<ref>[[#大本襲撃]]37-38頁、[[#社会的他界的宗教]]175.179頁</ref>。日本政府は、軍部の革新派や右翼団体と協力して[[クーデター]]を起こす危険性を考慮し、昭和神聖会の資金源を断つべく大本の壊滅を意図した<ref>[[#新宗教創始者伝]]185頁、[[#人間解放の福祉論]]46頁</ref>。[[1934年]](昭和9年)10月、[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]長[[唐沢俊樹]]は[[相川勝六]]内務省警保局保安課長と杭迫軍二愛知県警[[特別高等警察]]課長を招き、杭迫を京都府警特高課長に任命して検挙を前提とした大本の調査を命じている<ref>[[#大本襲撃]]17-24頁</ref>。
==事件の影響==
二度の逮捕に共通する要因は、当時の当局が実質上の[[信教の自由]]を許さなかったことに加え、日本が天皇崇拝・国家の統制で生まれる一つのパワーに頼って列強諸国への参入を目指していたこと、さらには戦争へ向かっていた時期にあって、「美しい世界、言葉で和ませる」などの大本の教義や活動内容が当時の人々の意識に反発を呼んだ事にある。二度とも逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件では[[生長の家]]、[[世界救世教]]など・第二次事件では[[三五教]]など)が独立した。


=== 逮捕と取調 ===
取り調べに際して厳しい拷問が行われ、獄死者や発狂者を多く出すこととなった。王仁三郎も度々病院に入院したという記録がある。<!--戦後、その反動から宗教法人に対し、信教の自由を守るという美名のもと、国家権力が宗教法人に介入しないという、全く無責任な態度へと変貌し、この暗黙のルールの為、誰一人責任を負わないまま、[[オウム真理教]]や[[法の華三法行]]事件などの温床を作って行くことになったと言われている。
[[File:Suppression of Omoto in 1935.JPG|300px|thumb|第二次大本事件の跡 『[[アサヒグラフ]]』 1952年12月24日号、朝日新聞社]]
[[1935年]](昭和10年)[[12月8日]]、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]272頁、[[#新宗教創始者伝]]191頁</ref>。前回と同じく当局は大本側が武装していると信じており、警官達は決死の覚悟であった<ref>[[#民衆の宗教・大本]]82頁、[[#村上(1973)]]204-205頁</ref>。急襲前に警官達は、[[赤穂事件]]さながらに「水盃」まで交わしている<ref name="こころの帖223"/>。しかし、大本の施設をいざ急襲してみると、[[竹槍]]一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の[[松江市]]で検挙された<ref>[[#新宗教創始者伝]]192頁、[[#大本襲撃]]139頁</ref>。罪名は[[不敬罪]]並びに[[治安維持法]]違反<ref>[[#宗教の昭和史]]42頁</ref>。6日間の捜索で5万点の証拠品を押収した<ref>[[#民衆の宗教・大本]]85頁</ref>。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、検束や出頭を命令された信徒は3000人に及ぶという<ref>[[#村上(1973)]]213頁、[[#朝嵐]]67頁</ref>。最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴された<ref>[[#予言・確言]]275頁</ref>。[[特別高等警察]]の激しい[[拷問]]で起訴61人中、[[岩田鳴球]]ら16人が死亡している<ref>[[#新宗教創始者伝]]209頁</ref><ref>沈美雪[https://cir.nii.ac.jp/crid/1520853834153882624 『相思樹』小考--台湾最初の俳誌をめぐって]日本台湾学会報 / 日本台湾学会『日本台湾学会報』編集委員会 編 (11), 233-246, 2009-05</ref>。[[松山巖]]の著書『うわさの遠近法』には、20名の信者が獄死あるいは発狂したと伝えられる、とある<ref>[[松山巖]] 『うわさの遠近法』 [[講談社学術文庫]] 1289 ISBN 4061592890、345-346p</ref>。
[[異端審問]]とも比喩される<ref>[[#社会的他界的宗教]]180頁</ref>。王仁三郎の後継者と目された娘婿・[[出口日出麿]]は拷問により精神的異常をていし、王仁三郎は「日出麿は[[竹刀]]で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠った<ref>[[#朝嵐]]54.151頁、[[#大本襲撃]]155-156頁</ref>。こうした厳しい取調べにもかかわらず転向者は少なく、王仁三郎・すみ夫妻の[[カリスマ]]と人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]275頁、[[#大本襲撃]]161頁</ref>。唐沢は京都府会議事堂で全国特高課長を集め「大本教は地上から抹殺する方針である」<ref>[[#新宗教創始者伝]]193頁</ref>「わが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教」と宣言したが、翌日[[二・二六事件]]が勃発して現地視察も祝宴も取りやめとなった<ref>[[#大本襲撃]]156頁、[[#予言・確言]]261頁</ref>。後に同事件で逮捕・処刑された[[北一輝]]は大本と軍部の関係について訊問され、「大本教は邪霊の大活動」と述べて関連性を否定した<ref>[[#三島由紀夫の二・二六事件]]66-67頁</ref>。北は[[相沢事件]]で死亡した[[永田鉄山]]陸軍少将([[統制派]])と大本教の間に関連があると供述したが、歴史家[[松本健一]]は「北の答えは[[皇道派]]と大本教との関係を切るための弁明」と解釈している<ref>[[#三島由紀夫の二・二六事件]]73-74頁</ref>。当局側は革新軍部と右翼勢力が大本事件に関係する可能性はなくなったと判断し、さらなる強硬手段を準備した<ref>[[#民衆の宗教・大本]]86頁</ref>。

第二次大本事件では第一次大本事件を遥かに凌駕する徹底した弾圧が行われた<ref>[[#新宗教の世界IV]]22頁、[[#大本襲撃]]146頁</ref>。『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱との理由づけで[[発禁|発売頒布禁止処分]]となった<ref>[[#民衆の宗教・大本]]89頁</ref>。当局もマスコミを利用、メディアも事件をセンセーショナルに書きたてた<ref>[[#宗教の昭和史]]100頁、[[#大本襲撃]]147頁</ref>。彼らは第一次大本事件と同様に大本と王仁三郎を妖教・怪物として非難<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]273頁、[[#予言・確言]]259.277頁</ref>。検挙されなかった信者達も「反逆者」「[[非国民]]」という[[レッテル]]を貼られて精神的にも経済的にも追い詰められた<ref>[[#民衆の宗教・大本]]102頁、[[#大本襲撃]]149頁</ref>。厳しい境遇の中で信者達は[[隠れキリシタン]]同然の信仰を守り続けたという<ref>[[#民衆の宗教・大本]]103頁、[[#村上(1973)]]214頁</ref>。

当局は裁判前の時点で教団施設の全破壊を急いだ<ref>[[#民衆の宗教・大本]]98頁、[[#村上(1973)]]209頁</ref>。[[1936年]](昭和11年)[[2月25日]]、「大本教ノ教義宣布衆庶参拝ノタメニ使用スル建物徹却ニ関スル件」で邪教撲滅の意思を確認する<ref>[[#復元思想の社会史]]220頁</ref>。3月13日、[[林頼三郎]]司法大臣は不敬罪と治安維持法の嫌疑で起訴決定、[[潮恵之輔]]内務大臣は大本解散命令を決定した<ref>[[#復元思想の社会史]]221頁、[[#朝嵐]]62頁</ref>。唐沢は「大本邪教の徹底的掃蕩を期する為め当局は今後あらゆる手段を尽くす積もりであります」と各府県警察部の特高課長に通達した<ref>[[#新宗教と巨大建築]]166頁</ref>。同日、内務省警保局長から警視総監と各庁府県長官に対し、警保局保発甲第14号「大本教ノ神社ニ紛ラハシキ奉斎施設ノ撤去其他ニ関スル件」が出され、全国の教団施設・建物・碑石類の撤去が決定する<ref>[[#新宗教と巨大建築]]167頁</ref>。当局は事前に綾部・亀岡の町議会に要請し、合計5万坪・時価80万円の土地を6000円(坪12銭。当時の煙草[[朝日 (たばこ)|朝日]]12銭、[[敷島 (たばこ)|敷島]]15銭)で王仁三郎・すみ夫妻から強制的に買収した<ref>[[#新宗教の世界IV]]23頁</ref>。なお、2月の時点ですみ(澄)は逮捕されていなかったが、土地・財産の強制譲渡を巡って拘束され、その後逮捕された<ref>[[#こころの帖]]206-208頁</ref>。作業は[[清水組]]が9万204円で請け負ったとされる<ref>[[#復元思想の社会史]]222頁</ref>。破壊は5月11日から開始され、 [[1872年]](明治5年)の大蔵省通達118号違反<ref>[[#金光と大本]]191頁</ref>(1936年2月8日内務省警保局発甲第7号 無頼寺院仏堂創立禁制ノ件違反とも<ref>[[#新宗教と巨大建築]]165頁</ref>)を理由に亀岡の聖地を[[ダイナマイト]]で跡形も無く破壊<ref>[[#大本襲撃]]178.238-239頁、[[#新宗教創始者伝]]193-194頁</ref>。綾部・亀岡では、1ヶ月間延べ6785人を捜査に従事させ、9934人が破壊作業に従事、64点・240余棟の建造物を破却(個人財産を含む)、費用約3万円を大本側に請求した<ref>[[#民衆の宗教・大本]]94頁、[[#村上(1973)]]212頁</ref>。また王仁三郎一家の個人資産、教団の備品、土地といった財産も安価で競売にかけて処分<ref>[[#こころの帖]]210-211頁</ref>。石碑や信者の墓石に至るまで、大本の称号を削り落としている<ref>[[#大本襲撃]]171頁、[[#新宗教と巨大建築]]168頁</ref>。海外の拠点でも幹部の検挙や施設破却が行われた<ref>[[#民衆の宗教・大本]]100頁</ref>。開祖・[[出口なお]]の墓に至っては柩を共同墓地に移し「衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人、極悪人なり」として、腹部付近に墓標を立てている<ref>[[#大本襲撃]]177頁、[[#予言・確言]]266頁</ref>。日本政府は、もはや人間の礼節すら配慮する余裕を失っていたと指摘される<ref>[[#民衆の宗教・大本]]93頁、[[#村上(1973)]]210-211頁</ref>。作家の[[坂口安吾]]は廃墟となった亀岡本部を訪れ、惨状を紀行文『日本文化私観』として残した<ref>[[#屹立するカリスマ]]215頁、[[#新宗教創始者伝]]196頁</ref>。

=== 裁判と敗戦 ===
裁判は[[1938年]](昭和13年)8月10日に京都地方裁判所で開廷して以来、[[清瀬一郎]]、[[高山義三]]、[[小山昇]]、林逸郎を始め多くの[[弁護士]]による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われた<ref>[[#村上(1973)]]217頁、[[#大本襲撃]]199頁</ref>。検察は、大本は国体を転覆し世界覆滅を計る陰謀結社、王仁三郎は皇統を否定し世界の独裁者とならんとした「[[道鏡|弓削道鏡]]以来の逆族」と主張する<ref>[[#大本襲撃]]199-202頁、[[#社会的他界的宗教]]181頁</ref>。[[1940年]](昭和15年)2月29日の第一審判決において、庄司直治裁判長は検察側の主張を認めて被告55人に有罪(起訴61人中死亡5人、心神喪失公判停止1人)、内訳は王仁三郎に無期懲役、他は2 - 15年の懲役を言い渡した<ref>[[#大本襲撃]]209頁、[[#新宗教創始者伝]]202頁</ref>。控訴審は同年10月16日に始まり、[[1942年]](昭和17年)まで続いた<ref>[[#大本襲撃]]215頁</ref>。高野綱雄裁判長は王仁三郎よりもすみの答弁に感心している<ref>[[#大本襲撃]]227-228頁</ref>。また精神障害に陥った出口日出麿の検事調書・予審判事調書が整然としていたため作為が疑われ、大本側は公文書偽造で判事を告発(不起訴)、裁判所も調査のため警官や検事を証人として召喚するなど、裁判全体に大きな影響を与えた<ref>[[#日本の精神鑑定]]6頁</ref>。

[[1942年]](昭和17年)7月31日、高野綱雄裁判長は判決文の中で「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる教義を持つ宗教である」として、治安維持法関係全員無罪の判決を言い渡した(不敬罪のみ有罪が残る)<ref>[[#「人類愛善新聞」第281号]]昭和63年7月12日[[#大本襲撃]]231頁、[[#新宗教創始者伝]]206頁</ref>。検察の調書の信頼性が低いことも判決文で指摘された<ref>[[#証拠調関係書類]]p.13-17</ref>。本判決を下した高野について、土井一夫(陪席判事)は「高野裁判長はいい裁判長でした。公平だし、名利にとらわれなかった」と回想した。高野の下で長く書記をつとめた豊田真三は「高野さんは立派な方でした。あんな方は一寸ないでしょう。あれだけ世間でやかましかった事件を無罪にしたのには、勇気がいります」とも述懐している。また田村千代一(陪席判事)は「予審調書を読んだとき、どの調書もまったく同じことで、これはおかしいと思った」とまずはじめに疑問をいだいたといい、判決については、「昭和3年3月3日に国体変革を目的とする結社を組織したということが非常に無理で、結局それで大本が無罪になった。無罪の判決としてはくわしすぎるかもしれないが、あれほど力を入れて起訴した事件で、無期懲役まで言渡しているのを無罪にするのであり、昭和17年といえば[[大東亜戦争]]の始まった後だから、あれだけの理由を書いておかないと世間が納得してくれないから……」と回顧した。

第二審で有罪とされた不敬事件については、『霊界物語』や「瑞祥新聞」に掲載せられた神諭の一節と、『霊界物語』や『昭和十年日記』に掲載された王仁三郎の歌六首が、皇室にたいする不敬と判定されたものである。和歌は"日の光昔も今も変らねど東の空にかかる黒雲"“言さやぐ君が御代こそ忌々しけれ山河海の神もなげきて"という内容であった。

=== 判決の反響 ===
そのころ全国の新聞は一県一紙に統合され、掲載記事への[[検閲]]も強化されていた。第二審の判決は、検挙を報道した「[[大阪毎日新聞]]」において三段見出しの31行、「[[大阪朝日新聞]]」は二段見出しの38行、「[[東京日日新聞]]」は一段見出しの19行という記事量であった。記事の見出しは「元大本教祖王仁に懲役五年―不敬事実に対し判決」・「大本教の判決―不敬罪で処断」というもので、治安維持法違反事件の無罪については積極的に報道しなかった。逆に「国民新聞」は『検事局が……被告等の行為は治安維持法に抵触するものであるとなす主張こそは、正しくわれ等日本国民たるものの通念と感情とに合致するものである……国体擁護に不覇の決意を示した検事上告に満腔の敬意を表さずには居られない』(昭和17・8・6「散兵壕」)と論評している。

[[8月7日]]、米軍は[[ガダルカナル島]]と[[フロリダ諸島]]([[ツラギ島]])に上陸、[[ガダルカナル島の戦い]]が始まった。同日、王仁三郎・澄夫妻、[[出口宇知麿]]の3人は保釈され、京都府亀岡の長女・[[出口直日]]宅に戻った<ref>[[#大本襲撃]]234頁、[[#新宗教創始者伝]]208頁</ref>。王仁三郎の拘留期間は2435日だった<ref>[[#人間解放の福祉論]]49頁</ref>。澄の場合、京都五条警察署に1936年(昭和11年)3月14日から拘束され、同年7月2日京都府中央区刑務支所に移送、そこから大阪北区刑務支所をへて1942年(昭和17年)8月7日まで拘束されていた<ref>[[#ぼっかぶりのうた]]12.17頁</ref>。

その後、大本の9人は不敬罪有罪を、検察は治安維持法無罪について[[上告]]したため、裁判は大審院まで持ち込まれた<ref>[[#村上(1973)]]219頁</ref>。ところが[[東京大空襲]]で関係記録の多くが焼失、加えて[[太平洋戦争]]の敗北により日本はアメリカ軍の占領下におかれた<ref>[[#大本襲撃]]249頁、[[#社会的他界的宗教]]181頁</ref>。[[1945年]](昭和20年)9月8日に検察・被告双方の控訴を棄却して原審確定<ref>[[#村上(1973)]]219頁、[[#大本襲撃]]237頁</ref>、大審院検事局の平野利は『十年の星霜を経たる複雑怪奇の難件も一応落着したりと雖も旧大本教の一党の動静は再起を懸念するものもあり』と棄却2日後に回顧している<ref>[[#証拠調関係書類]]p.19</ref>。杭迫軍二(捜査責任者)も回顧録で『事件の発端は、純然たる法治国の要請に基づいたもの』として大本の異質さと、その行動が宗教神話を元にした大規模反体制運動であったことを指摘し、『いずれの国家を問わず、現実にみずからの行く手に立ちふさがるこの種の危険に対しては、何等かの対応の措置は必須』と事件の正当性を主張している<ref>[[#社会的他界的宗教]]178頁</ref>。10月17日、敗戦による[[大赦]]令で不敬罪は解消となった<ref>[[#大本襲撃]]245頁、[[#予言・確言]]300頁</ref>。[[1947年]](昭和22年)10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。綾部・亀岡の両町に接収された土地返還民事訴訟は戦争中から大本有利に進んでいたが、判決が延期されているうちに敗戦となり、10月 - 11月にかけて返還された<ref>[[#大本襲撃]]237頁、[[#予言・確言]]298頁</ref>。

=== 賠償請求はせず ===
無罪確定後、大本の弁護団は「政府に対して賠償請求するべきである」と王仁三郎に進言した。しかし王仁三郎は「国民の血税に負うことは忍びない」とし、賠償を請求しなかった。

== 評価 ==
=== 事件の影響 ===
第二次大本事件は[[共産主義]]運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を[[宗教団体]]に適用した最初の案件であった<ref>[[#大本襲撃]]203頁、[[#証拠調関係書類]]p.21</ref>。この後、他の新宗教やキリスト教系団体・一部の仏教団体も弾圧され<ref name="弘文館神道史265"/>、日本政府は宗教の全面的統制の方針を明確にした<ref>[[#宗教の昭和史]]11-13頁</ref>。こうして当局は[[信教の自由]]を国民から奪い、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていったという見方がある<ref>[[#村上2007新宗教]]149頁</ref>。一方、社会的影響力を強めた宗教団体が政治活動・反権力運動を行うことに対する体制側・権力側の恐怖という視点も必要と思われる<ref>[[#宗教の昭和史]]20-21頁、[[#大本襲撃]]204頁、[[#社会的他界的宗教]]196頁</ref>。大本と王仁三郎は昭和神聖会によって軍部への影響力を格段に強めており、軍部と対立する内務省が弾圧を主導したという側面もある<ref>[[#社会的他界的宗教]]176-177頁</ref>。

二度の弾圧に共通する要因は、当時の当局が実質上の[[信教の自由]]を許さなかったことに加え、[[大本]]の教義そのものにある。大本は[[新宗教]]の中でも社会改革への指向が強く、時に[[大日本帝国]]の滅亡さえ予言し、それが権力者の不安を呼んだ<ref>[[#神々の目覚め]]249頁、[[#大本襲撃]]316頁</ref>。1930年初頭の王仁三郎は陸軍急進派将校や右翼団体と接近しており、当局は異端的な大宗教と極右が結びついたことによる[[クーデター]]を警戒している<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]258-259.270頁、[[#大本襲撃]]314-315頁</ref>。

さらに、神話の問題があった。[[明治維新]]後、政府が天皇崇拝・国家の統制で生まれる一つのパワーに頼って列強諸国への参入を目指す中、大本は[[国常立尊]]という日本神話において[[天照大神]](天皇)より上位に立つ神を重要視、加えて天皇制の基礎をなす[[古事記]]・[[日本書紀]]を大本教典[[大本神諭]]・[[霊界物語]]と同格に置いており、宗教的な意味においても[[国家神道]]との衝突は必然であったと言える<ref>[[#宗教の昭和史]]49頁、[[#神々の目覚め]]243頁、[[#人間解放の福祉論]]150頁</ref>。

なお(直)が唱え王仁三郎が体系化した大本の神話は国家神道にとって[[異端]]そのものであり、天皇と天皇制の権威を覆しかねなかったのである<ref>[[#村上2007新宗教]]48.152頁、[[#新宗教と巨大建築]]149頁</ref>。[[松本健一]]は「天皇制国家が大本を忌諱したのは、じつは大本がこのように天皇制国家の神話とイデオロギーを"読み換え"、結果として革命論を創り出したことにあるのだ。」と論じた<ref>[[#神の罠]]162-163頁</ref>。
<!-- 取り調べに際して厳しい拷問が行われ、獄死者や発狂者を多く出すこととなった。王仁三郎も度々病院に入院したという記録がある。戦後、その反動から宗教法人に対し、信教の自由を守るという美名のもと、国家権力が宗教法人に介入しないという、全く無責任な態度へと変貌し、この暗黙のルールの為、誰一人責任を負わないまま、[[オウム真理教]]や[[法の華三法行]]事件などの温床を作って行くことになったと言われている。
↑“神道は宗教に非ず”と靖国を始めとする神社が国家の保護を受けた歴史が省みられていません NPOV-->
↑“神道は宗教に非ず”と靖国を始めとする神社が国家の保護を受けた歴史が省みられていません NPOV-->


[[秦郁彦]]は大本事件について、皇道派系の軍人と関係の深かった大本を打倒することで、統制派との連携を狙った内務省特高警察の策謀ではなかったか、と推測している<ref>[[秦郁彦]] 『昭和史の謎を追う 下』 [[文春文庫]] [は-7-5] ISBN 4167453053、179p</ref>。
==外部リンク==

*[http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpHist/jiken.html 大本による紹介]
=== 異説 ===
出口王仁三郎には[[有栖川宮熾仁親王]]の落胤という根強い噂があった<ref>[[#三島由紀夫の二・二六事件]]78頁</ref>。1940年12月11日の第二審において、落胤問題で話が鶴殿親子([[醍醐忠順]]次女。[[昭憲皇太后]]の姪)に及ぶと高野裁判長は[[不敬罪]]に関わる重大な問題にもかかわらず話題を変えた<ref>[[#霊界からの警告]]316-317頁</ref>。鶴殿は[[1917年]](大正6年)に大本を訪問すると即日入信して熱心な信者になり、王仁三郎が有栖川親王に似ていることを周囲に語っていた<ref>[[#霊界からの警告]]318頁</ref>。大本事件は[[大正天皇]]の皇位継承権に関わる問題だったという異説もある<ref>[[#新宗教時代(1)]]12頁、[[#霊界からの警告]]322頁</ref>。第二次大本事件で、大本弁護団は落胤事件を提起し警察・検察を不敬罪で告訴することを検討したが、獄中の王仁三郎が暗殺されることを憂慮して取止めている<ref>[[#霊界からの警告]]324頁</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
**Ref.{{Cite book|和書|author=A05020358600|title=出版警察報(91-93)「大本教関係出版物の取締状況」|ref=出版警察報}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=A07040001900|title=大本教事件証拠調関係書類|ref=証拠調関係書類}}

<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
*{{Cite book|和書|author=五十嵐太郎|authorlink=五十嵐太郎|year=2001|month=12|title=新宗教と巨大建築|publisher=[[講談社|講談社現代新書]]|isbn=4-06-149580-1|ref=新宗教と巨大建築}}
*{{Cite book|和書|author=伊藤栄蔵|authorlink=伊藤栄蔵|year=1984|month=4|title=出口なお・出口王仁三郎の生涯 {{small|新宗教創始者伝・大本}}|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-201171-9|ref=新宗教創始者伝}}
*{{Cite book|和書|author1=内村祐之|authorlink1=内村祐之|author2=吉益脩夫監修|authorlink2=吉益脩夫|others=[[福島章]]・[[中田修]]・[[小木貞孝]]編集|year=1973|month=1|title=日本の精神鑑定|publisher=[[みすず書房]]|isbn=4-622-02230-3|ref=日本の精神鑑定}} 三浦百重(第二次大本事件当時、京都帝国大学医学部教授)「大本教事件」(編集・福島章)
*{{Cite book|和書|author1=大本|authorlink1=大本|author2=創価学会|authorlink2=創価学会|author3=真如苑|authorlink3=真如苑|author4=浄土真宗親鸞会|authorlink4=浄土真宗親鸞会|year=1997|month=2|title=新宗教時代1|publisher=[[大蔵出版]]|isbn=4-8043-5206-6|ref=新宗教時代(1)}}<br/> 出口三平「大本-王仁三郎の切り開いた世界」
*<!-- オカダ2010 -->{{Cite book|和書|author=岡田荘司〔編〕|editor=|year=2010|month=7|chapter=五 新たな神道体制の確立|title=日本神道史|publisher=吉川弘文館|series=|isbn=978-4-642-08038-5|ref=弘文館、神道史}}
*<!-- カナイ1980 -->{{Cite book|和書|author=金井南龍|editor=|year=1980|month=4|chapter=第四章 大本教はなぜ神さま革命に失敗したか?|title=神々の黙示録 {{small|謎に包まれた神さま界のベールを剝ぐ}}|publisher=徳間書店|series=|isbn=|ref=金井、黙示録}}
*{{Cite book|和書|author=小滝透|authorlink=小滝透|year=1997|month=7|title=神々の目覚め {{small|近代日本の宗教革命}}|publisher=春秋社|isbn=4-393-29124-7|ref=神々の目覚め}}
*{{Cite book|和書|editor=島薗進|editor-link=島薗進|year=2002|month=12|title={{small|シリーズ日本の宗教学1}} 姉崎正治集 第9巻 論文集・解説|publisher=[[クレス出版]]|isbn=4-87733-169-7|ref=姉崎正治集9巻}}
*{{Cite book|和書|editor=鈴木博之|editor-link=鈴木博之|year=2006|month=6|title={{small|建築ライブラリー18}} 復元思想の社会史|publisher=[[建築資料研究社]]|isbn=4-87460-911-2|ref=復元思想の社会史}}<br/> 第3章その4 [[五十嵐太郎]]「宗教建築の破壊と創造 {{small|大本教の弾圧をめぐって}}」
*{{Cite book|和書|author=ナンシー・K・ストーカー|authorlink=ナンシー・K・ストーカー|others=[[井上順孝]]監修、[[岩坂彰]]翻訳|year=2009|month=6|title=出口王仁三郎 {{small|帝国の時代のカリスマ}}|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4-562-04292-0|ref=帝国時代のカリスマ}}
*{{Cite book|和書|author=武田崇元|authorlink=武田崇元|year=1993|month=2|title={{small|出口王仁三郎の}}霊界からの警告 {{small|発禁「予言書」に示された、破局と再生の大真相}}|publisher=[[光文社|光文社文庫]]|isbn=4-334-71661-X|ref=霊界からの警告}}
*{{Cite book|和書|author=津城寛文|authorlink=津城寛文|year=2011|month=8|title=社会的宗教と他界的宗教のあいだ {{small|見え隠れする死者}}|publisher=[[世界思想社]]|isbn=978-4-7907-1536-8|ref=社会的他界的宗教}}<br/> 第7章 政教関係の一到着地点としての宗教弾圧-大本事件に焦点を絞って
*{{Cite book|和書|author=出口栄二監修|authorlink=出口栄二|year=1970|month=3|title=写真図説 民衆の宗教・大本|publisher=[[学燈社]]|ref=民衆の宗教・大本}}
*{{Cite book|和書|author1=出口栄二|author2=梅原正紀|authorlink2=梅原正紀|author3=清水雅人|authorlink3=清水雅人|year=1978|month=12|title=新宗教の世界IV|publisher=[[大蔵出版]]|isbn=4-8043-5204-X|ref=新宗教の世界IV}}<br/>出口栄二『大本-予言と弾圧の歴史』
*{{Cite book|和書|author=出口和明|authorlink=出口和明|year=1979|month=9|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[光書房]]|isbn=|ref=}}
*{{Cite book|和書|author=出口和明|authorlink=出口和明|year=2005|month=3|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[みいづ舎]]|isbn=4-900441-72-4|ref=予言・確言}} - 光書房版の復刻。
*{{Cite book|和書|author=出口すみ|year=2002|month=9|title=ぼっかぶりのうた|publisher=[[天声社]]|isbn=4-88756-054-0|ref=ぼっかぶりのうた}} - 出口すみ(2代教主)の獄中記
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*{{Citation |和書|author=出口王仁三郎著|editor=霊界物語刊行会|year=2010|month=4|title={{smaller|増補}}三鏡 {{smaller|出口王仁三郎聖言集}}|chapter=|publisher=八幡書店|isbn=978-4-89350-388-6|ref=三鏡、2010増補}}
*{{Cite book|和書|author=出口王仁三郎|year=1997|month=10|title={{small|第二次大本事件回顧歌}} 朝嵐|publisher=[[あいぜん出版]]|isbn=4-900-441-43-0|ref=朝嵐}}
*{{Cite book|和書|author=早瀬圭一|authorlink=早瀬圭一|year=2007|month=5|title=大本襲撃 {{small|出口すみとその時代}}|publisher=毎日新聞社|isbn=978-4-620-31814-1|ref=大本襲撃}}
*{{Cite book|和書|author=広瀬浩二郎|authorlink=広瀬浩二郎|year=2001|month=2|title=人間解放の福祉論 {{small|出口王仁三郎と近代日本}}|publisher=[[解放出版社]]|isbn=4-7592-6051-X|ref=人間解放の福祉論}}
*{{Cite book|和書|author=H.N.マックファーランド|authorlink=H.N.マックファーランド|others=[[内藤豊]]、[[杉本武之]]翻訳|year=1969|month=12|title=神々のラッシュアワー {{small|日本の新宗教運動}}|publisher=[[社会思想社]]|ref=神々のラッシュアワー}}
*{{Cite book|和書|author=松本健一|authorlink=松本健一|year=1986|month=12|title=出口王仁三郎 {{small|屹立するカリスマ}}|publisher=[[リブロポート]]|isbn=4-8457-0244-4|ref=屹立するカリスマ}}
*{{Cite book|和書|author=松本健一|authorlink=松本健一|year=1989|month=10|title=神の罠 {{small|浅野和三郎、近代知性の悲劇}}|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-368402-X|ref=神の罠}}
*{{Cite book|和書|author=松本健一|authorlink=松本健一|year=2005|month=11|title=三島由紀夫の二・二六事件|publisher=[[文春新書]]|isbn=4-16-660475-9|ref=三島由紀夫の二・二六事件}} 第三章「大本教の幻の影」
*{{Cite book|和書|editor=丸山照雄|editor-link=丸山照雄|year=1986|month=7|title=現代人の宗教3 金光と大本 {{small|教典その心と読み方}}|publisher=[[御茶の水書房]]|isbn=4-275-00686-0|ref=金光と大本}}
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*{{Cite book|和書|author=丸山照雄|authorlink=丸山照雄|year=1995|month=6|title=日本人にとって宗教とは何か|publisher=[[藤原書店]]|isbn=4-89434-018-6|ref=日本人にとって宗教とは何か}}
*{{Cite book|和書|author=宮本忠雄|authorlink=宮本忠雄|year=1974|month=7|title=診断・日本人|publisher=[[日本評論社]]|ref=診断・日本人}} 宮本忠雄-出口王仁三郎
*{{Cite book|和書|author=村上重良|authorlink=村上重良|year=1973|month=7|title=出口王仁三郎|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=|ref=村上(1973)}}
*{{Cite book|和書|author=村上重良|authorlink=村上重良|year=1985|month=11|title=宗教の昭和史|publisher=[[三嶺社]]|isbn=4-914906-35-X|ref=宗教の昭和史}}

== 関連項目 ==
* [[国家神道]]
* [[治安維持法]]
* [[不敬罪]]
* [[平沼騏一郎]] - 第一次大本事件時の検事総長。治安維持法立法中心人物。
* [[岡田啓介]] – 第二次大本事件時の総理大臣。

== 外部リンク ==
*[https://tenseisha.co.jp/publics/index/40/ 天声社社史 11,第二次大本事件] - [[天声社]]
*[https://www.youtube.com/watch?v=okVeniXZR9w 亀山城と大本 破壊と復興への歩み] 大本公式チャンネル


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2024年7月14日 (日) 02:21時点における最新版

大本事件(おおもとじけん)は、新宗教大本」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った統制[1]大本弾圧事件とも呼ばれる。1921年大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある[1]。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本は壊滅的打撃を受けた。また、宗教団体に治安維持法が適用された初の例であった。

概要

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明治維新以降、帝国政府(大日本帝国)は宗教に対する統制を強化し、神道系新宗教(黒住教金光教天理教等)も教派神道として国家の公認下に入った[2]。一方、明治時代後期に誕生した大本教(事件当時は皇道大本)は、教祖出口王仁三郎の活動により教勢を拡大し、知識人・軍人の入信、新聞社の買収、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになった[1]。大本教(王仁三郎)の活動に政府・警察・司法当局は危機感を抱き、結果、二度の大本事件に発展した[1]。1921年(大正10年)2月、当局は大本に不敬罪新聞紙法違反を適用し、王仁三郎含め三名を起訴した(第一次大本事件[1]。1935年(昭和10年)12月、当局は治安維持法を適用して王仁三郎夫妻以下1000名近くを検挙(起訴61名)[1]。大本関連の施設は破壊され、関連組織も解体された(第二次大本事件[1]

一連の大本事件は国家権力による宗教団体への統制と弾圧であり[3]、一種の国策捜査であった[4]。同時に国家神道新宗教の神話体系・歴史観の対立という側面も強い[5]。わけても第二次大本事件は第一次大本事件にくらべて遥かに大規模であり、また昭和史に与えた影響も大きいが、その評価は現代でも定まっていない[6]。大本聖師/二代教主輔出口王仁三郎についての解釈が難しいからである[7]。二度とも王仁三郎逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件前後では神道天行居生長の家など。第二次事件前後では世界救世教三五教など)が独立した[8]

第一次大本事件

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背景

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「大本教本山宮の取毀ち---十月二十日」(綾部)『寫眞通信』大正十年十月號、大正通信社(1921年10月)

明治時代後期、出口なおの神懸かりによって京都府綾部町で誕生した大本は、第一次大本事件による検挙の数年前から社会構造の変化や都市化を背景に、出口王仁三郎教主輔(なおの婿養子)を中核として教勢を拡大させていた[9]1919年(大正8年)11月18日には亀山城址(明智光秀の居城)を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入る[10]1920年(大正9年)、綾部で大規模な神殿の建造を開始した[11]。また8月17日に大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出する[12]。一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・浅野和三郎谷口雅春を中心とする一派が王仁三郎と対立、終末論を展開していた[13]。終末論に対し王仁三郎は肯定も否定もせず、明確な裁定を避けている[14]第一次世界大戦ロシア革命米騒動といった社会的混乱の中で、大本の世直し運動は大きな反響を巻き起こした[15]。大本の一連の活動に対し、社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する大手メディアも現れた[16]

日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた[17]。そもそも大本は国常立尊という天照大神より上位の神を重要視しており、現人神たる天皇の宗教的権威及び統治権の根拠を脅かしかねなかったのである[18]。内務省は1920年8月に教典『大本神諭・火の巻』を不敬と過激思想を理由に発禁処分とした[19]。京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告[20]。9月には開祖・出口なお奥都城を「天皇陵に似ている」と理由づけ墓地取締規則違反として罰金と改修を命じた[21]原敬総理大臣は同年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した[22]。大本の急成長と影響力は、天皇制国家にとってもはや無視できない存在だったのである[23]

裁判

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1921年(大正10年)1月、平沼騏一郎検事総長は大本検挙の判断を下した[24]2月12日、当局は不敬罪新聞紙法違反の疑いで教団関係各所を捜索、出口王仁三郎と教団幹部を検挙した[25]。警察官達は大本が武装していると信じて決死の覚悟であった[26]。また武器が発見されれば内乱予備罪を適用できるため必死の捜索を行ったが何も発見できず、幸徳秋水大逆事件を再現しようとした当局の企図は空振りに終わった[27]。だが5月10日に記事解禁となると、メディアは事件を「国体を危うくする大本教の大陰謀」「淫祀邪教」「悪魔の如き王仁三郎」と扇情的に報道し、世論を煽った[28]。一方、大本二代教主・出口すみ(王仁三郎の妻)は「これもみな神様のお仕組でございます。かえって大本教の真相が世間に知れるのであろうと喜んでおりますので」と大阪毎日新聞に語る[29]。教団内部でも王仁三郎夫妻を追放しようとする動きがあったが、すみは動じなかった[30]。王仁三郎は126日間の未決生活の後で保釈されたが、当局はなお(直)の奥都城(神道式の墓)を再び縮小改築させ[31]、さらに墓の背後に神明造の稚姫神社が作られていたことを違法として焼却させる[32]。続いて綾部の本宮山神殿を破壊するなどの干渉を行った[33][34]。 特に本宮山神殿については、神明造のため伊勢神宮を模したものと批判され、1872年大蔵省達118号(無願の神殿建築を禁止)及び1913年内務省令神社創立に関する布達第31条(地方に縁故なき神社創立を禁止)同第32条(一定形式により創立の出願を必要とする)を理由に大本側費用負担による破壊命令が下る[35]9月16日に審理開始、10月5日の第一審判決では、王仁三郎は不敬罪と新聞紙法違反で懲役5年、浅野は不敬罪で懲役10か月、吉田祐定(機関誌発行兼編集人)に禁固3か月・罰金150円の有罪判決が下った[36]。審理は事実上2日間という異例の短さであり大本側は即日控訴、検察側も浅野の量刑を不服として控訴した[37]

10月14日、王仁三郎夫妻は教主輔・教主の地位を退き、長女出口直日が三代教主に就任、「皇道大本」も「大本」の旧称に戻った[38][39]。本宮山神殿の破壊は京都大丸組が750円で落札する[40]。教団内部で王仁三郎派、浅野派、福島派の対立が深まる中、王仁三郎は国家権力との対立を回避すべく10月18日から新教典『霊界物語』の口述筆記に着手する[41]10月20日、軍に護衛される中で本宮山神殿の取り壊しが始まった[42]1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎は責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6人とともにモンゴル地方へ行き、盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する[43]。同年6月パインタラにて張作霖により危機もあったが、7月25日に帰国、11月1日に保釈された[44]

幕切れ

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大阪控訴院第二審は第一審を支持、裁判は大審院まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した[45]。再審理中の1926年(大正15年)12月25日大正天皇崩御し、1927年(昭和2年)5月17日に免訴となる[46]。だが当局は大本に対する警戒を緩めず、次の機会を伺っていた[47]。一方、王仁三郎は第一審判決直後の10月18日から大長編『霊界物語』の口述を始めている[48]。なお(直)が残した教典『大本神諭』や教団内の派閥争いを自らの権威で克服しようとする意図と解釈する研究者もいる[49]。また神諭は社会改革と終末思想の色彩が濃いため、当局の追及をかわすためにも教義と神話の発展と重層化を試みたという指摘もある[50]。第一次大本事件と『霊界物語』の教義化を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後浅野和三郎心霊科学研究会を、谷口雅春生長の家を興した[51]。この第一次大本事件は、王仁三郎と対立する浅野達を大本から排除すると同時に、大本の名前を全国に宣伝するための方策だったという解釈もある[52]宗教学者姉崎正治は大本に批判的であったが、第一次大本事件について「大本教を『取締』るのは政府の考慮に任せるとしても、政府が眞に根本的治療を望む誠意ならば、先ず自らの責任を感じ、自ら治療してかかるべきである。」「然し其と共に今の日本社会に大本教同様の気風あるを、同時に痛感する。重ねて政府当局者に云ひたい。外面から加へる厭迫迫害は無効である。社会思想の病體を取除く第一歩、又根本要義は、社会人心の窮屈を除くにある。」と論じて、政府の検閲や言論統制といった姿勢が変わらぬ限り、第二・第三の大本教が出現すると指摘した[53]

第二次大本事件

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背景

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第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎はエスペラントの導入・ラマ教道院(世界紅卍字会)バハイ教等世界各国の宗教提携など様々な活動を展開する[54]。同時に国内における政治活動を活発化させ、昭和恐慌による不況にあえぐ国民の関心を集めた[55]1932年(昭和7年)11月、大本は再び「皇道大本」と復名し第一次大本事件で頓挫した「大正維新」を「昭和維新」として実行しようとしていた[56]。王仁三郎は頭山満内田良平右翼人士との交流を行い、1934年(昭和9年)7月22日に昭和神聖会を結成する[57]。東京九段会館で行われた発会式には陸海軍将校が多数出席し、後藤文夫内務大臣、秋田清衆議院議長が祝辞を述べるなど、政治・軍事への影響力を示した[58]。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼる[59]。神聖会はワシントン海軍軍縮条約の早期撤廃、皇族内閣の実現、天皇機関説への激しい批判、東北地方の困窮に対する援助など、数々の愛国的主張を行っている[60]1935年(昭和10年)の時点で、大本は支部1990、信者100万 - 300万人(特高警察資料、大本教40万・人類愛善会25万人)、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長している[61]

精神科医宮本忠雄は王仁三郎に「手を広げすぎて失敗する」というパターンがあり、「大本の体質は王仁三郎の体質から来ており、彼の人柄をそのまま肥大させたものが教団の性格」[62]「現実から身を引き離すのが不得手な王仁三郎であってみれば、現実との接触は必然的に権力への癒着をもたらした」[63] と指摘する。宗教学者村上重良は、宗教的指導者たる王仁三郎が自己の主観的価値観を政治に持ち込む危険性と限界を指摘し、大日本帝国の侵略・膨張に社会的政治的役割を担ったと批判する[64]。このような政治活動に懸念を示す者もいたが、王仁三郎は聞き入れなかった[65]出口直日(王仁三郎夫妻長女・三代教主)によれば、黒龍会内田良平から度々注意されていたが、王仁三郎夫妻は淡々として聞き流していたという[66]。その一方、もう一度弾圧が起きる事を示唆する言動も残している[67]。機関誌『神聖』1935年(昭和10年)9月号では『余は、世間からかかる誤解を受けることが必ずしも余自身のために不利益であるとすら思って居ない。かかる誤解から轟々たる非難の声が起って、余のために騒ぎ立てる世の中をジット眺め、そのために自分がへた張るかどうかと静かにその行末を視守ることもまた面白いではないか』と述べている[68]。第一次大本事件のような弾圧が起きることを予期していたが、政府の大本に対する危機意識・警戒感を過小評価していたという指摘もある[69]。例えば事件後に保釈された王仁三郎は「かねてより 斯くあらんとは 知りながら 斯くも早しとは 思はざりけり」と詠っている[70]

昭和神聖会発足当時、大日本帝国満州事変が勃発して国際連盟から脱退、国内ではゴーストップ事件で軍部と内務省が対立、十月事件五・一五事件が発生してクーデターや暗殺騒ぎが起きるなど、不安定な状況下にあった[71]。日本政府は、軍部の革新派や右翼団体と協力してクーデターを起こす危険性を考慮し、昭和神聖会の資金源を断つべく大本の壊滅を意図した[72]1934年(昭和9年)10月、内務省警保局唐沢俊樹相川勝六内務省警保局保安課長と杭迫軍二愛知県警特別高等警察課長を招き、杭迫を京都府警特高課長に任命して検挙を前提とした大本の調査を命じている[73]

逮捕と取調

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第二次大本事件の跡 『アサヒグラフ』 1952年12月24日号、朝日新聞社

1935年(昭和10年)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した[74]。前回と同じく当局は大本側が武装していると信じており、警官達は決死の覚悟であった[75]。急襲前に警官達は、赤穂事件さながらに「水盃」まで交わしている[66]。しかし、大本の施設をいざ急襲してみると、竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙された[76]。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反[77]。6日間の捜索で5万点の証拠品を押収した[78]。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、検束や出頭を命令された信徒は3000人に及ぶという[79]。最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴された[80]特別高等警察の激しい拷問で起訴61人中、岩田鳴球ら16人が死亡している[81][82]松山巖の著書『うわさの遠近法』には、20名の信者が獄死あるいは発狂したと伝えられる、とある[83]異端審問とも比喩される[84]。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により精神的異常をていし、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠った[85]。こうした厳しい取調べにもかかわらず転向者は少なく、王仁三郎・すみ夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる[86]。唐沢は京都府会議事堂で全国特高課長を集め「大本教は地上から抹殺する方針である」[87]「わが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教」と宣言したが、翌日二・二六事件が勃発して現地視察も祝宴も取りやめとなった[88]。後に同事件で逮捕・処刑された北一輝は大本と軍部の関係について訊問され、「大本教は邪霊の大活動」と述べて関連性を否定した[89]。北は相沢事件で死亡した永田鉄山陸軍少将(統制派)と大本教の間に関連があると供述したが、歴史家松本健一は「北の答えは皇道派と大本教との関係を切るための弁明」と解釈している[90]。当局側は革新軍部と右翼勢力が大本事件に関係する可能性はなくなったと判断し、さらなる強硬手段を準備した[91]

第二次大本事件では第一次大本事件を遥かに凌駕する徹底した弾圧が行われた[92]。『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱との理由づけで発売頒布禁止処分となった[93]。当局もマスコミを利用、メディアも事件をセンセーショナルに書きたてた[94]。彼らは第一次大本事件と同様に大本と王仁三郎を妖教・怪物として非難[95]。検挙されなかった信者達も「反逆者」「非国民」というレッテルを貼られて精神的にも経済的にも追い詰められた[96]。厳しい境遇の中で信者達は隠れキリシタン同然の信仰を守り続けたという[97]

当局は裁判前の時点で教団施設の全破壊を急いだ[98]1936年(昭和11年)2月25日、「大本教ノ教義宣布衆庶参拝ノタメニ使用スル建物徹却ニ関スル件」で邪教撲滅の意思を確認する[99]。3月13日、林頼三郎司法大臣は不敬罪と治安維持法の嫌疑で起訴決定、潮恵之輔内務大臣は大本解散命令を決定した[100]。唐沢は「大本邪教の徹底的掃蕩を期する為め当局は今後あらゆる手段を尽くす積もりであります」と各府県警察部の特高課長に通達した[101]。同日、内務省警保局長から警視総監と各庁府県長官に対し、警保局保発甲第14号「大本教ノ神社ニ紛ラハシキ奉斎施設ノ撤去其他ニ関スル件」が出され、全国の教団施設・建物・碑石類の撤去が決定する[102]。当局は事前に綾部・亀岡の町議会に要請し、合計5万坪・時価80万円の土地を6000円(坪12銭。当時の煙草朝日12銭、敷島15銭)で王仁三郎・すみ夫妻から強制的に買収した[103]。なお、2月の時点ですみ(澄)は逮捕されていなかったが、土地・財産の強制譲渡を巡って拘束され、その後逮捕された[104]。作業は清水組が9万204円で請け負ったとされる[105]。破壊は5月11日から開始され、 1872年(明治5年)の大蔵省通達118号違反[106](1936年2月8日内務省警保局発甲第7号 無頼寺院仏堂創立禁制ノ件違反とも[107])を理由に亀岡の聖地をダイナマイトで跡形も無く破壊[108]。綾部・亀岡では、1ヶ月間延べ6785人を捜査に従事させ、9934人が破壊作業に従事、64点・240余棟の建造物を破却(個人財産を含む)、費用約3万円を大本側に請求した[109]。また王仁三郎一家の個人資産、教団の備品、土地といった財産も安価で競売にかけて処分[110]。石碑や信者の墓石に至るまで、大本の称号を削り落としている[111]。海外の拠点でも幹部の検挙や施設破却が行われた[112]。開祖・出口なおの墓に至っては柩を共同墓地に移し「衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人、極悪人なり」として、腹部付近に墓標を立てている[113]。日本政府は、もはや人間の礼節すら配慮する余裕を失っていたと指摘される[114]。作家の坂口安吾は廃墟となった亀岡本部を訪れ、惨状を紀行文『日本文化私観』として残した[115]

裁判と敗戦

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裁判は1938年(昭和13年)8月10日に京都地方裁判所で開廷して以来、清瀬一郎高山義三小山昇、林逸郎を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われた[116]。検察は、大本は国体を転覆し世界覆滅を計る陰謀結社、王仁三郎は皇統を否定し世界の独裁者とならんとした「弓削道鏡以来の逆族」と主張する[117]1940年(昭和15年)2月29日の第一審判決において、庄司直治裁判長は検察側の主張を認めて被告55人に有罪(起訴61人中死亡5人、心神喪失公判停止1人)、内訳は王仁三郎に無期懲役、他は2 - 15年の懲役を言い渡した[118]。控訴審は同年10月16日に始まり、1942年(昭和17年)まで続いた[119]。高野綱雄裁判長は王仁三郎よりもすみの答弁に感心している[120]。また精神障害に陥った出口日出麿の検事調書・予審判事調書が整然としていたため作為が疑われ、大本側は公文書偽造で判事を告発(不起訴)、裁判所も調査のため警官や検事を証人として召喚するなど、裁判全体に大きな影響を与えた[121]

1942年(昭和17年)7月31日、高野綱雄裁判長は判決文の中で「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる教義を持つ宗教である」として、治安維持法関係全員無罪の判決を言い渡した(不敬罪のみ有罪が残る)[122]。検察の調書の信頼性が低いことも判決文で指摘された[123]。本判決を下した高野について、土井一夫(陪席判事)は「高野裁判長はいい裁判長でした。公平だし、名利にとらわれなかった」と回想した。高野の下で長く書記をつとめた豊田真三は「高野さんは立派な方でした。あんな方は一寸ないでしょう。あれだけ世間でやかましかった事件を無罪にしたのには、勇気がいります」とも述懐している。また田村千代一(陪席判事)は「予審調書を読んだとき、どの調書もまったく同じことで、これはおかしいと思った」とまずはじめに疑問をいだいたといい、判決については、「昭和3年3月3日に国体変革を目的とする結社を組織したということが非常に無理で、結局それで大本が無罪になった。無罪の判決としてはくわしすぎるかもしれないが、あれほど力を入れて起訴した事件で、無期懲役まで言渡しているのを無罪にするのであり、昭和17年といえば大東亜戦争の始まった後だから、あれだけの理由を書いておかないと世間が納得してくれないから……」と回顧した。

第二審で有罪とされた不敬事件については、『霊界物語』や「瑞祥新聞」に掲載せられた神諭の一節と、『霊界物語』や『昭和十年日記』に掲載された王仁三郎の歌六首が、皇室にたいする不敬と判定されたものである。和歌は"日の光昔も今も変らねど東の空にかかる黒雲"“言さやぐ君が御代こそ忌々しけれ山河海の神もなげきて"という内容であった。

判決の反響

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そのころ全国の新聞は一県一紙に統合され、掲載記事への検閲も強化されていた。第二審の判決は、検挙を報道した「大阪毎日新聞」において三段見出しの31行、「大阪朝日新聞」は二段見出しの38行、「東京日日新聞」は一段見出しの19行という記事量であった。記事の見出しは「元大本教祖王仁に懲役五年―不敬事実に対し判決」・「大本教の判決―不敬罪で処断」というもので、治安維持法違反事件の無罪については積極的に報道しなかった。逆に「国民新聞」は『検事局が……被告等の行為は治安維持法に抵触するものであるとなす主張こそは、正しくわれ等日本国民たるものの通念と感情とに合致するものである……国体擁護に不覇の決意を示した検事上告に満腔の敬意を表さずには居られない』(昭和17・8・6「散兵壕」)と論評している。

8月7日、米軍はガダルカナル島フロリダ諸島ツラギ島)に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まった。同日、王仁三郎・澄夫妻、出口宇知麿の3人は保釈され、京都府亀岡の長女・出口直日宅に戻った[124]。王仁三郎の拘留期間は2435日だった[125]。澄の場合、京都五条警察署に1936年(昭和11年)3月14日から拘束され、同年7月2日京都府中央区刑務支所に移送、そこから大阪北区刑務支所をへて1942年(昭和17年)8月7日まで拘束されていた[126]

その後、大本の9人は不敬罪有罪を、検察は治安維持法無罪について上告したため、裁判は大審院まで持ち込まれた[127]。ところが東京大空襲で関係記録の多くが焼失、加えて太平洋戦争の敗北により日本はアメリカ軍の占領下におかれた[128]1945年(昭和20年)9月8日に検察・被告双方の控訴を棄却して原審確定[129]、大審院検事局の平野利は『十年の星霜を経たる複雑怪奇の難件も一応落着したりと雖も旧大本教の一党の動静は再起を懸念するものもあり』と棄却2日後に回顧している[130]。杭迫軍二(捜査責任者)も回顧録で『事件の発端は、純然たる法治国の要請に基づいたもの』として大本の異質さと、その行動が宗教神話を元にした大規模反体制運動であったことを指摘し、『いずれの国家を問わず、現実にみずからの行く手に立ちふさがるこの種の危険に対しては、何等かの対応の措置は必須』と事件の正当性を主張している[131]。10月17日、敗戦による大赦令で不敬罪は解消となった[132]1947年(昭和22年)10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。綾部・亀岡の両町に接収された土地返還民事訴訟は戦争中から大本有利に進んでいたが、判決が延期されているうちに敗戦となり、10月 - 11月にかけて返還された[133]

賠償請求はせず

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無罪確定後、大本の弁護団は「政府に対して賠償請求するべきである」と王仁三郎に進言した。しかし王仁三郎は「国民の血税に負うことは忍びない」とし、賠償を請求しなかった。

評価

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事件の影響

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第二次大本事件は共産主義運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を宗教団体に適用した最初の案件であった[134]。この後、他の新宗教やキリスト教系団体・一部の仏教団体も弾圧され[1]、日本政府は宗教の全面的統制の方針を明確にした[135]。こうして当局は信教の自由を国民から奪い、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていったという見方がある[136]。一方、社会的影響力を強めた宗教団体が政治活動・反権力運動を行うことに対する体制側・権力側の恐怖という視点も必要と思われる[137]。大本と王仁三郎は昭和神聖会によって軍部への影響力を格段に強めており、軍部と対立する内務省が弾圧を主導したという側面もある[138]

二度の弾圧に共通する要因は、当時の当局が実質上の信教の自由を許さなかったことに加え、大本の教義そのものにある。大本は新宗教の中でも社会改革への指向が強く、時に大日本帝国の滅亡さえ予言し、それが権力者の不安を呼んだ[139]。1930年初頭の王仁三郎は陸軍急進派将校や右翼団体と接近しており、当局は異端的な大宗教と極右が結びついたことによるクーデターを警戒している[140]

さらに、神話の問題があった。明治維新後、政府が天皇崇拝・国家の統制で生まれる一つのパワーに頼って列強諸国への参入を目指す中、大本は国常立尊という日本神話において天照大神(天皇)より上位に立つ神を重要視、加えて天皇制の基礎をなす古事記日本書紀を大本教典大本神諭霊界物語と同格に置いており、宗教的な意味においても国家神道との衝突は必然であったと言える[141]

なお(直)が唱え王仁三郎が体系化した大本の神話は国家神道にとって異端そのものであり、天皇と天皇制の権威を覆しかねなかったのである[142]松本健一は「天皇制国家が大本を忌諱したのは、じつは大本がこのように天皇制国家の神話とイデオロギーを"読み換え"、結果として革命論を創り出したことにあるのだ。」と論じた[143]

秦郁彦は大本事件について、皇道派系の軍人と関係の深かった大本を打倒することで、統制派との連携を狙った内務省特高警察の策謀ではなかったか、と推測している[144]

異説

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出口王仁三郎には有栖川宮熾仁親王の落胤という根強い噂があった[145]。1940年12月11日の第二審において、落胤問題で話が鶴殿親子(醍醐忠順次女。昭憲皇太后の姪)に及ぶと高野裁判長は不敬罪に関わる重大な問題にもかかわらず話題を変えた[146]。鶴殿は1917年(大正6年)に大本を訪問すると即日入信して熱心な信者になり、王仁三郎が有栖川親王に似ていることを周囲に語っていた[147]。大本事件は大正天皇の皇位継承権に関わる問題だったという異説もある[148]。第二次大本事件で、大本弁護団は落胤事件を提起し警察・検察を不敬罪で告訴することを検討したが、獄中の王仁三郎が暗殺されることを憂慮して取止めている[149]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 日本神道史265-266頁『神道系新宗教に対する統制』
  2. ^ 日本神道史264-265頁『教派神道の展開』
  3. ^ #宗教の昭和史19頁
  4. ^ #大本襲撃65頁
  5. ^ #神々の目覚め250.260頁、#宗教の昭和史49頁
  6. ^ #宗教の昭和史21頁、#大本襲撃242頁
  7. ^ #宗教の昭和史33頁、#大本襲撃311-312頁、#社会的他界的宗教175頁
  8. ^ #神々のラッシュアワー98-99頁
  9. ^ #屹立するカリスマ136-137頁、#復元思想の社会史216頁
  10. ^ #新宗教創始者伝144頁、#予言・確言224-225頁
  11. ^ #新宗教と巨大建築139頁
  12. ^ #新宗教創始者伝147-148頁、#村上(1973)131-132頁
  13. ^ #帝国時代のカリスマ133頁、#新宗教創始者伝145頁
  14. ^ #屹立するカリスマ145-146頁、#宗教の可能性89-90頁
  15. ^ #村上(1973)129-131頁
  16. ^ #村上(1973)134頁、#新宗教創始者伝147頁
  17. ^ #大本襲撃122頁、#人間解放の福祉論34頁
  18. ^ #宗教の昭和史37頁
  19. ^ #民衆の宗教・大本26頁、#神の罠155頁
  20. ^ #帝国時代のカリスマ146頁、#大本襲撃125-126頁
  21. ^ #復元思想の社会史217頁
  22. ^ #大本襲撃128-129頁
  23. ^ #村上(1973)133頁
  24. ^ #社会的他界的宗教188頁
  25. ^ #新宗教創始者伝149頁、#大本襲撃129頁
  26. ^ #民衆の宗教・大本27頁
  27. ^ #村上(1973)136-138頁
  28. ^ #帝国時代のカリスマ147頁、#新宗教創始者伝150頁
  29. ^ #予言・確言230頁
  30. ^ #村上(1973)140頁、#宗教の昭和史55頁
  31. ^ #三鏡、2010増補122-123頁『開祖様の奥津城』
  32. ^ #復元思想の社会史217.219頁
  33. ^ #新宗教創始者伝151頁、#人間解放の福祉論34頁
  34. ^ 帝国記念協会 編『明治大正連続記念写真帖:皇室軍事天変人事』帝国記念協会刊行、1922年10月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920136/59 コマ59『大本教本山宮の取毀ち 一時社會の耳目を聳動させた大本教の公判は續いて進行し綾部本宮山神殿は取毀と決定し大正十年二月二十日より取毀に着手した。寫眞は請負師等が土足にて踏み躙られつゝある悲惨なる實況である寫眞。左は出口王仁三郎。』
  35. ^ #新宗教と巨大建築141-142頁、#復元思想の社会史218頁
  36. ^ #新宗教創始者伝152頁、#大本襲撃131頁
  37. ^ #予言・確言230頁、#人間解放の福祉論34頁
  38. ^ #村上(1973)142頁
  39. ^ #三鏡、2010増補64頁(出口王仁三郎年譜)大正10年(1921年)10月14日
  40. ^ #村上(1973)145頁、#復元思想の社会史219頁
  41. ^ #村上(1973)146頁、#屹立するカリスマ149-154頁
  42. ^ #新宗教と巨大建築144頁
  43. ^ #民衆の宗教・大本33頁、#新宗教創始者伝161頁
  44. ^ #新宗教創始者伝165-166頁、#人間解放の福祉論37-38頁
  45. ^ #人間解放の福祉論35頁
  46. ^ #民衆の宗教・大本36頁、#新宗教創始者伝152頁
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  48. ^ #民衆の宗教・大本29頁、#新宗教創始者伝153頁
  49. ^ #帝国時代のカリスマ149頁
  50. ^ #村上(1973)148頁、#新宗教と巨大建築149頁
  51. ^ #村上(1973)147頁、#帝国時代のカリスマ150頁
  52. ^ #人間解放の福祉論32-33頁、#予言・確言310-311頁
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  123. ^ #証拠調関係書類p.13-17
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  130. ^ #証拠調関係書類p.19
  131. ^ #社会的他界的宗教178頁
  132. ^ #大本襲撃245頁、#予言・確言300頁
  133. ^ #大本襲撃237頁、#予言・確言298頁
  134. ^ #大本襲撃203頁、#証拠調関係書類p.21
  135. ^ #宗教の昭和史11-13頁
  136. ^ #村上2007新宗教149頁
  137. ^ #宗教の昭和史20-21頁、#大本襲撃204頁、#社会的他界的宗教196頁
  138. ^ #社会的他界的宗教176-177頁
  139. ^ #神々の目覚め249頁、#大本襲撃316頁
  140. ^ #帝国時代のカリスマ258-259.270頁、#大本襲撃314-315頁
  141. ^ #宗教の昭和史49頁、#神々の目覚め243頁、#人間解放の福祉論150頁
  142. ^ #村上2007新宗教48.152頁、#新宗教と巨大建築149頁
  143. ^ #神の罠162-163頁
  144. ^ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う 下』 文春文庫 [は-7-5] ISBN 4167453053、179p
  145. ^ #三島由紀夫の二・二六事件78頁
  146. ^ #霊界からの警告316-317頁
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  148. ^ #新宗教時代(1)12頁、#霊界からの警告322頁
  149. ^ #霊界からの警告324頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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