「ラインゴルト (列車)」の版間の差分
m →機関車: lk |
|||
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
2行目: | 2行目: | ||
[[File:TEE Rheingold 1965.svg|thumb|250px|1965年の運行経路。青はライン川。]] |
[[File:TEE Rheingold 1965.svg|thumb|250px|1965年の運行経路。青はライン川。]] |
||
'''ラインゴルト''' (Rheingold) は[[オランダ]]と[[スイス]]を |
'''ラインゴルト''' (Rheingold) は[[オランダ]]と[[ドイツ]]<ref group="注釈">[[第二次世界大戦]]後は[[西ドイツ]]</ref>南部、[[スイス]]などを、ドイツの[[ライン川]]沿いを経由して結んでいた昼行の[[国際列車]]である。[[1928年]]から[[第二次世界大戦]]による中断を挟んで[[1987年]]まで運行されており、[[1965年]]からは[[TEE]]の一列車でもあった。[[1951年]]から[[1954年]]までは'''ラインゴルト急行''' (Rheingold Express) という名称だった。 |
||
オランダ側の起点は[[アムステルダム]]および[[フーク・ファン・ホラント]] |
オランダ側の起点は[[アムステルダム]]および[[フーク・ファン・ホラント]]<ref group="注釈">[[:nl:Hoek van Holland|Hoek van Holland]], [[ロッテルダム]]市内の港。</ref>であり、[[スイス]]側の終点は時期により[[バーゼル]]または[[ジュネーヴ]]などである。また[[1983年]]以降は[[ミュンヘン]]方面への分岐も存在した。 |
||
列車名は[[ドイツ語]]で「ラインの黄金」を意味し、[[リヒャルト・ワーグナー]]の楽劇「[[ラインの黄金]]」の元にもなった中世ドイツの叙事詩[[ニーベルンゲンの歌]]に登場する、ライン川の底に沈められたニーベルンゲン族の財宝に由来する<ref name="MM_table"> |
列車名は[[ドイツ語]]で「ラインの黄金」を意味し、[[リヒャルト・ワーグナー]]の楽劇「[[ラインの黄金]]」の元にもなった中世ドイツの叙事詩[[ニーベルンゲンの歌]]に登場する、ライン川の底に沈められたニーベルンゲン族の財宝に由来する<ref name="MM_table">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|p=250}}</ref><ref name="Yamanouchi">{{Harvnb|山之内|1981|pp=20-24|Ref=Cite_Yamanouchi81}}</ref>。 |
||
== |
== 歴史 == |
||
=== 前史 === |
|||
[[第一次世界大戦]]以前は、[[ドイツ帝国]]と[[スイス]]、[[イタリア]]を結ぶ列車は、のちのラインゴルトの経路であるライン右岸の[[バーデン大公国]]経由ではなく、当時はドイツ帝国領であった左岸のエルザス(現フランス領[[アルザス]])経由を主としていた<ref>{{Harvnb|平井|2007|p=35|Ref=Hirai_OE}}</ref><ref>{{Harvnb|Collaardey|2003|p=35}}</ref>。[[1901年]]に運行を開始したフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の昼行急行D164/163列車はラインゴルトの前身ともいえる列車であるが、上部ライン地域においてはビンガーブリュック<ref group="注釈">[[:de:Bingerbrück|Bingerbrück]]. 現在は[[ビンゲン・アム・ライン]]の一部。</ref>から南下し[[ノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ|ノイシュタット]]<ref group="注釈">[[:de:Neustadt an der Weinstraße|Neustadt an der Haardt]]. [[バイエルン王国]]の[[プファルツ地方]]。</ref>、シュトラスブルク([[ストラスブール]])を経由していた。この列車にはフリッシンゲン<ref group="注釈">[[:nl:Vlissingen|Vlissingen]]. オランダ、[[ゼーラント州]]。</ref>-バーゼル間、[[アムステルダム]] - [[ミラノ]]間などを直通する客車も連結されていた<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=21}}</ref>。 |
|||
第一次世界大戦の終戦後、ドイツでは経済の混乱や[[フランス]]、[[ベルギー]]による[[ルール占領]]などのため、列車の運行には困難な状況が続いた<ref>{{Harvnb|松永|2010|pp=81-82|Ref=Matsunaga_DA}}</ref>。[[1924年]]の[[ドーズ案]]受諾と[[ドイツ国営鉄道]]会社(Deutsche Reichsbahn-Gesellschaft, DRG)の発足により鉄道は安定を取り戻した<ref>{{Harvnb|松永|2010|pp=82-84|Ref=Matsunaga_DA}}</ref>。[[国際列車]]の運行に関しては、大戦前に列車を運行していた[[国際寝台車会社]](ワゴン・リ)と、大戦中にワゴン・リの路線網を奪う形で設立された中央ヨーロッパ寝台車食堂車会社([[ミトローパ]])の間で対立があったが、[[1925年]]に両社とドイツ国営鉄道の間で協定が成立し、ドイツと[[オランダ]]などの間の列車はミトローパの担当とされた<ref>{{Harvnb|Jacobson|2009|pp=26-28}}</ref>。 |
|||
1925年夏からは、オランダの[[ナイメーヘン]]とスイスの[[バーゼル]]を、[[クレーフェ]]、[[ケルン]]、[[ヴィースバーデン]]、[[マインツ]]、[[ルートヴィヒスハーフェン]]、[[マンハイム]]、[[カールスルーエ]]を経由して結ぶ長距離急行列車<ref group="注釈">[[:de:Schnellzug#Fernschnellzug (FD) |Fernschnellzug]]. 急行列車(Schnellzug)の上位に当たる種別で、[[1923年]]に新設された{{Harv|Scharf|Ernst|1983|p=24}}。「特急列車」と訳されることもある。</ref> FD164/163列車が運行されている<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=50}}</ref>。 |
|||
ドイツ国営鉄道は、[[ドイツ国鉄01形蒸気機関車|01形機関車]]に始まる標準化された[[蒸気機関車]]の製造を進める一方で、豪華[[客車]]を利用した旅客列車を計画した。このような列車を運行する路線として最初に選ばれたのが、[[ケルン]]と[[マンハイム]]の間の[[ライン川]]に沿う景勝区間である。これを南北に延長し、北はオランダ、南は[[スイス]]に至る列車としてラインゴルトは構想された<ref>{{Harvnb|Jacobson|2009|pp=28-31}}</ref>。 |
|||
=== 第二次大戦前 === |
|||
[[File:Rheingold-Wagen.jpg|thumb|ミトローパのラインゴルト用客車]] |
[[File:Rheingold-Wagen.jpg|thumb|ミトローパのラインゴルト用客車]] |
||
[[File:Bundesarchiv Bild 102-10450, Rheingold-Express, Salon-Wagen I. Klasse.jpg|thumb|一等サロン車車内]] |
[[File:Bundesarchiv Bild 102-10450, Rheingold-Express, Salon-Wagen I. Klasse.jpg|thumb|一等サロン車車内]] |
||
ラインゴルトは[[1928年]][[5月15日]]、 |
ラインゴルトは[[1928年]][[5月15日]]、長距離急行102/101列車としてフーク・ファン・ホラント - バーゼル間で運行を開始した。ラインゴルトは長距離急行列車の中でも別格の扱いを受けており、当時の長距離急行列車の略号が "FD" だったのに対し、ラインゴルトに対しては特別にFを2つ重ねた "FFD" という略号が用いられた<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|pp=24-25}}</ref><ref name="Kos_FD">{{Harvnb|Koschinski|2007|p=54}}</ref>。 |
||
フーク・ファン・ホラント発の列車は[[ユトレヒト]]でアムステルダムからの客車を併結し、[[アーネム]]を経て[[エメリッヒ]] ([[:de:Emmerich am Rhein|Emmerich]]) で |
フーク・ファン・ホラント発の列車は[[ユトレヒト]]でアムステルダムからの客車を併結し、[[アーネム]]を経てライン川右(東)岸の[[ゼーフェナール]]([[:nl:Zevenaar|Zevenaar]])と[[エメリッヒ・アム・ライン|エメリッヒ]] ([[:de:Emmerich am Rhein|Emmerich]]) の間で国境を越えた。ここから[[デュイスブルク]]、[[デュッセルドルフ]]などを経由し、[[ケルン]]で鉄橋を渡って左(西)岸に移る。[[コブレンツ]]から[[マインツ]]にかけての景勝地を通過したのち、マインツで再び川を渡って右岸に転じさらに南下する。[[マンハイム]]では当時の駅の構造上[[スイッチバック|方向転換]]が必要であった。[[カールスルーエ]]、[[フライブルク]]などを経て[[スイス]]との国境を越え[[バーゼル]]市内で三度ライン川を渡り、[[バーゼルSBB駅]]が終点となった<ref name="SE_1928">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=54}}</ref>。バーゼルでは[[ジュネーヴ]]、[[チューリッヒ]]、[[ルツェルン]]の各方面への列車と乗り継ぐことができ<ref name="SE_1928"/>、ルツェルンへは夏期のみ一部の客車が直通した<ref name="Kos_FD"/>。またフーク・ファン・ホラントでは[[イギリス]]からの夜行[[鉄道連絡船|連絡船]]と接続しており、これと乗り継ぐことでイギリスからスイスまで約24時間で旅行することが可能となった<ref name="Kos_FD" />。 |
||
客車は[[ミトローパ]]の所有する[[一等車|一等]]および[[二等車|二等]](当時の |
客車は[[ミトローパ]]の所有する[[一等車|一等]]および[[二等車|二等]](当時のドイツは四等級制で、一般の急行列車は一等から三等までを連結<ref name="SE_was_heisst_FD-Zug">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=24}}</ref>)のサロン車(一部コンパートメント席)からなり、一部の客車には[[厨房]]が備え付けられており客席で食事をとることができた。客車は[[クリーム色]]地に青帯の塗装が施されていた<ref name="Kos_FD" />。このような豪華列車が運行されたことは、ドイツの第一次世界大戦での敗戦からの復興を象徴するものと受け取られた<ref>{{Harvnb|松永|2010|p=85|Ref=Matsunaga_DA}}</ref><ref name="Yamanouchi" />。 |
||
ラインゴルトの1ヶ月後の1928年6月15日には[[国際寝台車会社]](ワゴン・リ)によるアムステルダム - [[チューリッヒ]]間の昼行列車「[[エーデルヴァイス (列車)|エーデルヴァイス]]」が[[ブリュッセル]]、[[ルクセンブルク (都市)|ルクセンブルク]]、[[ストラスブール]]、バーゼル経由で運転を開始した。両列車はその後TEEの時代に至るまでライバル関係にあった。エーデルヴァイスは途中の[[アントウェルペン]]でイギリスからの船と接続しており、イギリス - スイス間の需要をめぐっても両者は競合関係にあった<ref name="Kos_FD" />。 |
ラインゴルトの1ヶ月後の1928年6月15日には[[国際寝台車会社]](ワゴン・リ)によるアムステルダム - [[チューリッヒ]]間の昼行列車「[[エーデルヴァイス (列車)|エーデルヴァイス]]」が[[ブリュッセル]]、[[ルクセンブルク (都市)|ルクセンブルク]]、[[ストラスブール]]、バーゼル経由で運転を開始した。両列車はその後TEEの時代に至るまでライバル関係にあった。エーデルヴァイスは途中の[[アントウェルペン]]でイギリスからの船と接続しており、イギリス - スイス間の需要をめぐっても両者は競合関係にあった<ref name="Kos_FD" />。 |
||
ただし、[[1929年]]からラインゴルトの一部客車がチューリッヒまで直通した際には、バーゼル - チューリッヒ間の運行を委託された[[スイス連邦鉄道]]はラインゴルトの客車をエーデルヴァイスの客車と一緒に連結して運転し |
ただし、[[1929年]]からラインゴルトの一部客車がチューリッヒまで直通した際には、バーゼル - チューリッヒ間の運行を委託された[[スイス連邦鉄道]]はラインゴルトの客車をエーデルヴァイスの客車と一緒に連結して運転した<ref name="Kos_FD" />。 |
||
[[1933年]]にはアムステルダム、ルツェルン、チューリッヒへの客車の直通が中止され、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間のみの運行となった<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=59}}</ref>。[[1938年]]にフーク・ファン・ホラント - チューリッヒ間およびアムステルダム - チューリッヒ、ルツェルン間の直通が復活している<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=62}}</ref>。 |
|||
[[1939年]]5月15日のダイヤ改正で、ラインゴルトの一部客車はフーク・ファン・ホラント - [[ミラノ]]間を直通するようになった。しかし[[第二次世界大戦]]直前の国際関係の悪化により、ラインゴルトは1939年[[8月22日]]をもって運休となった<ref name="Kos_FD" />。 |
|||
[[1935年]][[12月8日]]に[[ニュルンベルク]]で行われたドイツの鉄道100周年を祝うパレードには、ラインゴルト専用の客車3両と荷物車1両が01型機関車(156号機)の牽引で参加した<ref name="Jac_Neue_ideen">{{Harvnb|Jacobson|2009|pp=35-37}}</ref>。 |
|||
== 第二次大戦後 == |
|||
[[1939年]]5月15日のダイヤ改正で、ラインゴルトの一部客車は[[ゴッタルド鉄道トンネル|ゴッタルドトンネル]]を経由しフーク・ファン・ホラント - [[ミラノ]]間を直通するようになった。しかし[[第二次世界大戦]]直前の国際関係の悪化により、1939年[[8月22日]]をもってドイツの長距離急行列車はラインゴルトを含めすべて運休となった<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=65}}</ref><ref name="Kos_FD" />。 |
|||
大戦後の[[1946年]][[12月17日]]、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間に無名の列車(列車番号164/163)が運行を開始した<ref name="Kos_FZug">Koschinski pp.54 - 59</ref>。 |
|||
=== 第二次大戦後 === |
|||
大戦後の[[1946年]][[12月17日]]、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間に無名の急行列車(列車番号D164/163)が運行を開始した。この列車は一等車から[[三等車]]まですべての等級を含んでいた。またフーク・ファン・ホラントからケルンまでは戦前のラインゴルトより南よりの別経路を辿っており、[[フェンロー]]と[[カルデンキルヒェン]] ([[:de:Kaldenkirchen|Kaldenkirchen]]) の間で国境を越えていた<ref name="Kos_FZug">{{Harvnb|Koschinski|2007|pp=54-59}}</ref><ref>{{harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=95}}</ref>。速度は戦前の列車よりも遅く、途中からは[[夜行列車]]となっていた<ref name="SE_1949">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|pp=97-98}}</ref>。164/163列車は[[1948年]]には西ドイツ国内においては長距離急行(FD)に格上げされた<ref>{{harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=96}}</ref>。また[[1949年]]のダイヤ改正で時刻が変更され純粋な昼行列車となった<ref name="SE_1949"/>。 |
|||
[[File:F-Zug Rheingold ancient routes.svg|thumb|250px|ラインゴルトの旧経路<br/>(赤)マインツ - マンハイム(右岸経由):1928年 - 1959年<br />(青)フーク・ファン・ホラント - ケルン(フェンロー経由):1951年 - 1962年]] |
[[File:F-Zug Rheingold ancient routes.svg|thumb|250px|ラインゴルトの旧経路<br/>(赤)マインツ - マンハイム(右岸経由):1928年 - 1959年<br />(青)フーク・ファン・ホラント - ケルン(フェンロー経由):1951年 - 1962年]] |
||
[[1951年]][[5月20日]]からはこの列車は新たに発足した[[ |
[[1951年]]夏の[[ヨーロッパの鉄道ダイヤ改正|ダイヤ改正]]([[5月20日]])からはこの列車は新たに発足した[[ドイツ連邦鉄道]]([[西ドイツ]]国鉄)の特急列車 <ref group="注釈">[[:de:Schnellzug#Fernzug (F) |Fernzug]], 略称 F-Zug。直訳すれば「長距離列車」であるが、急行列車([[:de:Schnellzug|Schnellzug]], D-Zug)の上位の種別であることから特急列車とも訳される。</ref> となり、「'''ラインゴルト急行''' (Rheingold Express) 」と名付けられた。一部客車はケルンで分割・併合を行ない、アムステルダム - ケルン間を別の特急列車(列車番号F264/263)として運行ていた<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=104}}</ref><ref name="Kos_FZug" />。 |
||
[[1952年]] |
[[1952年]]夏ダイヤ改正(5月18日)で、同じフーク・ファン・ホラント - バーゼル間にもう一往復の特急列車(列車番号F10/9)が新設され、「ライン・プファイル」と命名された。ラインゴルト急行(F164/163)が[[一等車]]から[[三等車]]まで全ての等級の客車を含んでいたのに対し、ライン・プファイルは一等車と二等車のみの編成であった。また所要時間もラインゴルト急行より短かった<ref name="SE_1952">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=180}}</ref>。 |
||
このとき同時に[[ドルトムント]]と[[ミュンヘン]]を[[エッセン]]、ケルン、マインツ、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[ヴュルツブルク]]経由で結ぶ一二等特急列車(列車番号F22/21)も新設された。ライン・プファイル(F10/9)とF22/21列車はケルン - マインツ間では互いに併結されて運転された。F22/21列車は時期により[[オーストリア]]の[[インスブルック]]まで直通した<ref name="SE_1952"/>。 |
|||
しかし翌[[1953年]]夏のダイヤ改正では、F10/9列車がラインゴルト急行の名を名乗ることになり、元ラインゴルト急行であったF164/163列車は「[[ローレライ]]急行 (Loreley-Express) 」と改名された。アムステルダムからの編成はローレライ急行に併結され、ラインゴルト急行はフーク・ファン・ホラント発着の客車のみで構成された<ref name="Kos_FZug" />。このころラインゴルト急行(F10/9)のフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の所要時間は10時間42分であった<ref name="SE_RG">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=237}}</ref>。南側ではラインゴルト急行の一部の客車は[[ローマ]]まで直通した。[[ミラノ]] - ローマ間では[[夜行列車]]となった<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=120}}</ref>。F22/21列車も同時にラインゴルト急行を名乗った<ref name="SE_name">{{harvnb|Scharf|Ernst|1983|pp=801-802}}</ref>。ローレライ急行はその後[[1970年]]までフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の特急列車として存続した<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=796}}</ref>。 |
|||
[[1956年]]6月3日に行なわれたヨーロッパの鉄道の二等級制への移行(旧一等車と旧二等車を統合して新一等車に)により、ラインゴルトはすべて一等車からなる編成となった<ref name="Kos_FZug" />。 |
|||
[[1954年]]夏ダイヤ改正では、F10/9列車およびF22/21列車は「ラインゴルト」と改名された。またケルン - マインツ間での併結も取りやめられ、[[ケルン中央駅]]で客車の入れ替えのみを行なった<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=188}}</ref>。ラインゴルト(F10/9)の運行区間はフーク・ファン・ホラント - ローマ間とされたが、翌1955年にはフーク・ファン・ホラント - バーゼル間に戻った<ref name="SE_name"/>。その後[[1958年]]夏ダイヤ改正(6月1日)で、F22/21列車は「ラインプファイル」という独立した列車名を与えられた<ref name="SE_1958-59">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=230}}</ref><ref group="注釈">1954年から「ラインプファイル」の名を用いていたとする資料もある({{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|p=262}}, {{Harvnb|Koschinski|2007|p=55}})。</ref>。 |
|||
[[1959年]]にはマインツ - マンハイム間の経路が変更され、この区間はライン川左岸の[[ヴォルムス]]経由となりマンハイムの手前で鉄橋を渡るようになった。この結果マンハイムでの方向転換は不要となった<ref name="MM_pre">Maurice, Malaspina pp.250 - 251</ref>。 |
|||
[[1956年]]6月3日に行なわれたヨーロッパの鉄道の二等級制への移行(旧一等車と旧二等車を統合して新一等車に)により、ラインゴルトはすべて一等車からなる編成となった<ref name="Kos_FZug" /><ref>{{harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=198}}</ref>。 |
|||
[[1962年]][[5月27日]]から、西ドイツ国鉄は新型客車(通称ラインゴルト型)をラインゴルトに投入した。この客車は全車[[空気調和|空調]]設備を備えており、ドーム型の[[展望車]]も存在した(詳細は[[#客車|後述]])<ref name="Kos_FZug" />。またこのときのダイヤ改正から、ラインゴルトにアムステルダム発着の客車が再び連結されるようになった。同時にケルン以北の経路が第二次世界大戦前のFFDラインゴルトと同様なものに戻り、ユトレヒトでフーク・ファン・ホラント発の客車とアムステルダム発の客車が併結された。ラインプファイルとの車両の入れ替えは[[デュイスブルク]]で行なわれるようになった<ref name="MM_pre" /><ref name="Kos_FZug" />。 |
|||
[[1959年]]にはマインツ - マンハイム間の経路が変更され、ライン川左岸の[[ヴォルムス]]経由となりマンハイムの手前で鉄橋を渡るようになった。これはマンハイムの対岸の[[ルートヴィヒスハーフェン]]中央駅の改良により、マインツ、ヴォルムス方面から折り返すことなくマンハイムへ直通できるようになったためである。この結果マンハイムでの方向転換は不要となった<ref name="SE_1958-59"/><ref name="MM_pre">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=250-251}}</ref>。フーク・ファン・ホラント - バーゼル間の所要時間は9時間にまで短縮された<ref name="SE_RG"/>。またこの時から一部客車がフーク・ファン・ホラント - [[クール (グラウビュンデン州)|クール]]間を直通するようになった<ref name="SE_1958-59"/>。 |
|||
=== 新型車両投入 === |
|||
[[1960年]]に西ドイツ国鉄はラインゴルト用に新型の客車を製造することを決定した。これは戦前のミトローパの客車や1957年に運行を始めた[[TEE]]用[[気動車]]に匹敵するものとされた。ただしラインゴルトは各地へ車両を直通させる必要から、TEEのような固定編成の気動車ではなく[[機関車]]の牽引する客車とされた<ref name="SE_RG"/>。この客車は全車[[空気調和|空調]]設備を備えており、ドーム型の[[展望車]]も存在した(詳細は[[#客車|後述]])<ref name="Kos_FZug" />。 |
|||
この新型車両は[[1962年]][[5月27日]]のダイヤ改正から投入された。また西ドイツ国内ではE10.12型電気機関車が牽引するようになり、最高速度はそれまでの140km/hから160km/hに向上した。ドイツでは第二次大戦前には[[フリーゲンダー・ハンブルガー]]のような160km/h運転をする列車があったが、戦後の西ドイツではこれが初である<ref name="SE_RG"/>。このダイヤ改正から、ラインゴルトにアムステルダム発着の客車が再び連結されるようになった。同時にケルン以北の経路が第二次世界大戦前のFFDラインゴルトと同様なものに戻り、ユトレヒトでフーク・ファン・ホラント発の客車とアムステルダム発の客車が併結された。ラインプファイルとの車両の入れ替えは[[デュイスブルク]]で行なわれるようになった<ref name="MM_pre" /><ref name="Kos_FZug" />。 |
|||
== TEE == |
|||
=== TEE昇格 === |
=== TEE昇格 === |
||
1962年の新型車両導入により、ラインゴルトは[[TEE]]にふさわしい設備を備えたものとなった。このため西ドイツ国鉄、オランダ国鉄、スイス国鉄の三者は[[1964年]]のTEE |
1962年の新型車両導入により、ラインゴルトは[[TEE]]にふさわしい設備を備えたものとなった。このため西ドイツ国鉄、オランダ国鉄、スイス国鉄の三者は[[1964年]]のTEE委員会でラインゴルトをTEEに加えることを提案した。しかしラインゴルトは途中で複雑な分割・併合を行なっているため、運行時間に占める停車時間の割合が高く、停車時間を極力短くするというTEEの原則からは外れていた。またラインゴルトは途中でラインプファイルと客車のほぼ半数を入れ替えていたことから、西ドイツ国鉄は国内列車であるラインプファイルもTEEに昇格させることを主張した。交渉の結果、1965年夏のダイヤ改正からラインゴルト、ラインプファイルのほか、同型の客車を用いる[[ブラウエル・エンツィアン]]([[ハンブルク]] - [[ミュンヘン]])と、これらとほぼ同程度の設備の客車を用いるフランス国鉄の[[ル・ミストラル (列車)|ル・ミストラル]]([[パリ]] - [[ニース]])もTEEに加えられることになった。これはのちにフランスや西ドイツ、[[イタリア]]に国内列車のTEEが次々と誕生するきっかけとなった<ref name="MM_60">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=18-21}}</ref>。 |
||
こうして、[[1965年]][[5月30日]]からラインゴルトはTEEの一列車となり、同時に運行区間はアムステルダム、フーク・ファン・ホラント - [[ジュネーヴ]]間に延長された<ref name="MM_table"/>。 |
こうして、[[1965年]][[5月30日]]からラインゴルトはTEEの一列車となり、同時に運行区間はアムステルダム、フーク・ファン・ホラント - [[ジュネーヴ]]間に延長された<ref name="MM_table"/>。 |
||
[[1971年]]夏ダイヤ改正ではTEEの[[列車番号]]に関する規則が改定され、西ドイツを走行するTEEのほとんどで列車番号が[[奇数]]の向きと[[偶数]]の向きが反転した。ラインゴルトもそれまで南行が偶数(TEE 10)、北行が偶数(TEE 9)だったのが逆(南行 : TEE 7, 北行 : TEE 6)になっている<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=346}}</ref>。 |
|||
TEEラインゴルトの[[食堂車]]などの車内サービスはドイツ寝台車食堂車会社(DSG, 旧[[ミトローパ]]の西ドイツ側)によって行なわれた<ref name="MM_table"/>。 |
|||
1970年代のラインゴルトでは列車[[秘書]]のサービスがあり、平日のドイツ国内の一定区間を運行中に限り、文書の[[タイプライター|タイプ]]や車外への[[電話]]などを請け負っていた<ref name="Ueda">{{Harvnb|植田|1978|pp=59-64|Ref=Cite_Ueda}}</ref>。 |
|||
=== 分割・併合 === |
=== 分割・併合 === |
||
50行目: | 75行目: | ||
TEE昇格当時、ラインゴルトは途中のユトレヒト、デュースブルク、バーゼルの3個所で客車の分割・併合を行なう[[多層建て列車]]であった。 |
TEE昇格当時、ラインゴルトは途中のユトレヒト、デュースブルク、バーゼルの3個所で客車の分割・併合を行なう[[多層建て列車]]であった。 |
||
1965年の夏ダイヤにおけるジュネーヴ行ラインゴルト (TEE 10) では、分割・併合は次のように行なわれた([[#編成 |
1965年の夏ダイヤにおけるジュネーヴ行ラインゴルト (TEE 10) では、分割・併合は次のように行なわれた([[#編成図]]も参照)<ref name="MM_direct">{{harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=255-256}}</ref>。まずラインゴルトはアムステルダムとフーク・ファン・ホラントを各々客車3両で発車する。ユトレヒトでこれらを連結して6両編成となる。デュースブルクでこのうち前2両、後ろ1両を切り放し[[ミュンヘン]]行き[[ラインプファイル]] (TEE 22) に連結、同時にラインプファイルで[[ドルトムント]]から到着した客車のうち4両をラインゴルトに連結(前部に1両、後部に3両)する。バーゼルSBB駅では編成は3分割され、ラインゴルトは4両編成となってジュネーヴへ、また[[ミラノ]]行き客車2両はスイス国鉄、[[イタリア国鉄]]の458-313列車に、[[クール (グラウビュンデン州)|クール]]行きの1両はスイス国鉄の203列車に連結されてそれぞれの目的地へ向かう。アムステルダム - ジュネーヴ間の全行程を走破する客車は1両のみであり、フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間を直通する客車は存在しなかった。また展望車はドルトムント発着の編成にのみ含まれており、オランダには乗り入れていなかった。 |
||
オランダ方面行き (TEE 9) はほぼこれの逆の手順で分割・併合を行なうが、客車の連結順が異なり、またデュースブルクからドルトムントへの車両はラインプファイルではなく、その数分後を続行する別の列車 (F 321) として運行された。このような複雑な手順のため、ラインゴルトの途中駅での停車時間の合計は双方向とも60分を越えており、運行時間の約1割を停車時間が占めていた<ref name="MM_performance"> |
オランダ方面行き (TEE 9) はほぼこれの逆の手順で分割・併合を行なうが、客車の連結順が異なり、またデュースブルクからドルトムントへの車両はラインプファイルではなく、その数分後を続行する別の列車 (F 321) として運行された。このような複雑な手順のため、ラインゴルトの途中駅での停車時間の合計は双方向とも60分を越えており、運行時間の約1割を停車時間が占めていた<ref name="MM_performance">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=258-259}}</ref>。 |
||
[[1969年]]にTEE[[ローラント (列車)|ローラント]]([[ブレーメン]] - バーゼル - ミラノ)が創設されると、ミラノ発着の客車はバーゼル - ミラノ間でローラントに連結されるようになった<ref name="MM_material"> |
[[1969年]]にTEE[[ローラント (列車)|ローラント]]([[ブレーメン]] - バーゼル - ミラノ)が創設されると、ミラノ発着の客車はバーゼル - ミラノ間でローラントに連結されるようになった<ref name="MM_material">{{harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=254-257}}</ref><ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=331}}</ref>。 |
||
[[1970年]]夏のダイヤ改正ではドルトムント - クール間の直通客車が新設された代わりに、アムステルダム - クール間の直通客車はなくなった。これは西ドイツ国鉄が[[ルール地方]]とスイスの間の需要を重視したためであり、アムステルダムとドルトムントの双方からの客車をクールへ直通させようとすると、デュ |
[[1970年]]夏のダイヤ改正ではドルトムント - クール間の直通客車が新設された代わりに、アムステルダム - クール間の直通客車はなくなった。これは西ドイツ国鉄が[[ルール地方]]とスイスの間の需要を重視したためであり、アムステルダムとドルトムントの双方からの客車をクールへ直通させようとすると、デュイスブルクもしくはバーゼルでの客車の入れ替えが複雑になり過ぎるためでもある<ref name="MM_material"/>。この結果デュイスブルクでは、ラインゴルトとしてオランダとスイス方面を直通する客車よりもラインプファイルと入れ替えられる客車の方が多くなった。 |
||
[[1971年]]9月26日からラインプファイルは[[ハノーファー]] - ミュンヘン間の[[インターシティ]]となったが、デュ |
[[1971年]]9月26日からラインプファイルは[[ハノーファー]] - ミュンヘン間の[[インターシティ]]となったが、デュイスブルクでの客車の入れ替えは以前と同様に行なわれていた<ref name="MM_material"/>。 |
||
[[1973年]][[6月3日]]のダイヤ改正でラインプファイルとの客車入れ替えは終了し、デュースブルクで乗り換える形に改められた。またこのとき初めてフーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間の客車の直通が実現した。オランダ国内では客車6両(アムステルダム発着2両、フーク・ファン・ホラント発着4両)で運転され、エメリッヒで客車を増結して西ドイツ国内では12両編成となっていた<ref name="MM_material"/>。 |
|||
バーゼルでの編成の分割とクール、ミラノなどスイス、北イタリア各地への直通は1980年代まで続いた。 |
|||
=== インターシティー網の一部へ === |
=== インターシティー網の一部へ === |
||
[[1971年]]、西ドイツ国鉄は4系統の[[インターシティー]] (IC) 網を構築し、ラインゴルトを含むTEEもその一部と位置づけられるようになった。デュ |
[[1971年]]冬ダイヤ改正(9月26日)において、西ドイツ国鉄は4系統で各2時間間隔のの[[インターシティー]] (IC) 網を構築し、ラインゴルトを含むTEEもその一部と位置づけられるようになった。ラインゴルトは[[デュイスブルク]] - [[マンハイム]]間においてIC1号線([[ハンブルク]] - [[ドルトムント]] - デュイスブルク - [[ケルン]] - マンハイム - [[ミュンヘン]])の一部を担う列車とされ、[[ケルン]]とマンハイムで区間運転のインターシティと入れ代わるようなダイヤが組まれた。なおマンハイム - バーゼル間はIC3号線(ハンブルク - [[ハノーファー]] - フランクフルト・アム・マイン - マンハイム - バーゼル)の一部であるが、同区間においてはIC3号線のTEEローラントの後を数分間隔で続行運転した<ref name="SE_1971table">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=385}}</ref>。 |
||
1971年-72年冬ダイヤにおいては、ジュネーヴ行きラインゴルト (TEE 7) は他のTEE, ICと以下の各駅で接続した<ref name="SE_1971table"/>。 |
|||
{| class="wikitable" |
{| class="wikitable" |
||
! 駅 !! 接続列車 !! 運行区間 |
! 駅 !! 接続列車 !! 運行区間 !! 系統 !! 備考 |
||
|- |
|- |
||
| デュ |
| デュイスブルク中央駅 || IC107「ラインプファイル」 || ハノーファー → デュイスブルク → ミュンヘン || IC2号線(ただしドルトムント - ケルン間は1号線の経路) || 客車の入れ替えを伴う |
||
|- |
|- |
||
| ケルン中央駅 || IC130「トーラー・ボンムベルク」 || ハンブルク → ケルン |
| ケルン中央駅 || IC130「トーラー・ボンムベルク」 || ハンブルク → ケルン || IC1号線(ドルトムント - ケルン間は2号線の経路) || |
||
|- |
|- |
||
| マンハイム中央駅 || IC165「プレジデント」 || [[フランクフルト・アム・マイン]] → マンハイム → ミュンヘン |
| マンハイム中央駅 || IC165「プレジデント」 || [[フランクフルト・アム・マイン]] → マンハイム → ミュンヘン || IC1号線 || ラインゴルトからプレジデントへのみ接続。 |
||
|- |
|- |
||
| バーゼルSBB駅 || TEE75「ローラント」 || ブレーメン → バーゼル → ミラノ |
| バーゼルSBB駅 || TEE75「ローラント」 || ブレーメン → バーゼル → ミラノ || IC3号線 || 客車直通あり) |
||
|} |
|} |
||
[[1973年]][[6月3日]]のダイヤ改正で、デュイスブルクでのラインプファイルとの客車入れ替えは1両を除いて打ち切られた。例外として、ハノーファー - ミラノ間をラインプファイル、ラインゴルトおよびTEE[[ローラント (列車)|ローラント]]<ref group="注釈"><!-- 赤リンクのため仮の説明 -->ブレーメン - バーゼル - ミラノ間</ref>に連結されて直通する客車1両のみが残った<ref name="MM_RG73">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|p=257}}</ref>。オランダとミュンヘンをラインゴルト、ラインプファイルとして直通する客車はなくなったが、代わって[[デン・ハーグ]] - ミュンヘン間にTEE[[エラスムス (列車)|エラスムス]]が新設されている<ref name="MM_Era">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=334-337}}<!-- Eranmus --></ref>。なお[[1975年]]からはもう1両の客車が、週末のみハノーファー - [[キアッソ]]<ref group="注釈"><!-- 赤リンクのため仮の説明 -->[[:it:Chiasso|Chiasso]]. スイスとイタリアの国境の町。</ref>間をラインプファイル、ラインゴルト、ローラントに連結され直通するようになった。これは[[旅行会社]]の貸し切り車両であった<ref name="MM_RG73"/>。 |
|||
[[1976年]]からラインゴルトの客車はすべて200km/h運転対応のものとなったが、ドーム屋根の展望車や厨房部分が2階建ての食堂車などの特徴的な客車はなくなり、他のインターシティーと同様な編成となった<ref name="MM_car62">Maurice,Malaspina pp.103 - 111</ref>。 |
|||
ラインゴルトはオランダ国内では客車6両(アムステルダム発着2両、フーク・ファン・ホラント発着4両)で運転され、エメリッヒで客車を増結して西ドイツ国内では12両編成となっていた。フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間の客車の直通やオランダへの展望車の乗り入れはこの時初めて実現した<ref name="MM_material"/>。1973年のダイヤ改正ではラインゴルトをジュネーヴから[[フランス]]の[[リヨン]]まで延長することも検討された。しかし[[フランス国鉄]]は、ジュネーヴ - リヨン間の線路はラインゴルトの展望車や食堂車のような重い客車を走らせるには適していないためこれに反対し、実現しなかった<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=349}}</ref>。 |
|||
[[1976年]]からラインゴルトの客車はすべて200km/h運転対応のものとなったが、ドーム屋根の展望車や厨房部分が2階建ての食堂車などの特徴的な客車はなくなり、他のインターシティーと同様な編成となった<ref name="MM_car62">{{harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=103-111}}</ref>。 |
|||
[[1979年]]夏ダイヤ改正(5月27日)からは、西ドイツのインターシティはすべて[[二等車]]を連結するようになり、ラインゴルトなど一等車専用のTEEはインターシティ網からは独立した存在となった。このときラインゴルトはフーク・ファン・ホラント発着の系統が廃止され、バーゼルでの編成分割を除けばアムステルダム - ジュネーヴ間の分岐のない単純な経路となった<ref name="SE_1983">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|pp=449-451}}</ref>。 |
|||
[[1980年]]には夏期のみ運行区間がアムステルダム - [[ベルン]]間に短縮された。これはこの年から西ドイツなどで[[夏時間]]が導入されたが、スイスでは導入されず、ラインゴルトは西ドイツの時刻にしたがって運行されたため、[[ローザンヌ]] - [[ジュネーヴ]]間で他の列車と干渉してしまうためである。翌[[1981年]]にはスイスでも夏時間が実施されたため区間の短縮はなかった<ref name="MM_performance"/>。 |
|||
[[1982年]]夏ダイヤ改正(5月23日)でスイス国鉄は「スイス・タクト」と呼ばれる[[パターンダイヤ]]を導入したが、ラインゴルトはこれには組み込まれず、運行区間をアムステルダム - バーゼル間に短縮した。さらに北行(TEE 6)は従来より2時間早い時間帯に繰り上げられた。バーゼルからは一部客車がベルン、クールおよびキアッソへ直通したが、[[ミラノ]]への直通はこの時廃止された<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=491}}</ref>。 |
|||
[[1979年]]5月27日にはフーク・ファン・ホラント発着の系統が廃止され、ラインゴルトの運行経路はバーゼルでの編成分割を除けばアムステルダム - ジュネーヴ間の分岐のない単純なものとなった。さらに[[1982年]]5月23日にはアムステルダム - バーゼル間に短縮された。 |
|||
=== ミュンヘンへの分岐 === |
=== ミュンヘンへの分岐 === |
||
[[File:Rheingold Munchen.svg|thumb|250px|(赤)アムステルダム - バーゼル<br/>(緑)マンハイム - ミュンヘン(1983年 - 1985年)<br/>(青)マインツ - ミュンヘン - (ザルツブルク)(1985年 - 1987年)<br />(黒)ラインプファイルへの直通客車(1962年 - 1973年)]] |
[[File:Rheingold Munchen.svg|thumb|250px|(赤)アムステルダム - バーゼル<br/>(緑)マンハイム - ミュンヘン(1983年 - 1985年)<br/>(青)マインツ - ミュンヘン - (ザルツブルク)(1985年 - 1987年)<br />(黒)ラインプファイルへの直通客車(1962年 - 1973年)]] |
||
[[1983年]]5月29日から、ラインゴルトはマンハイムで編成の一部を分割して[[ミュンヘン]]へ分岐するようになった。1973年まで客車をラインプファイルに併結する形でのミュンヘンへの乗り入れは行なわれていたが、ラインゴルトの列車名のままでのミュンヘン乗り入れはこれが初である<ref name="MM_table"/>。 |
[[1983年]]5月29日から、ラインゴルトはマンハイムで編成の一部を分割して[[ミュンヘン]]へ分岐するようになった。1973年まで客車をラインプファイルに併結する形でのミュンヘンへの乗り入れは行なわれていたが、ラインゴルトの列車名のままでのミュンヘン乗り入れは(ラインプファイルとの分離以降では)これが初である<ref name="MM_table"/>。 |
||
マンハイムからミュンヘンまでの経路は都市間の連絡よりも[[観光]]を重視したものであった。列車は[[ハイデルベルク]]から[[ネッカー川]]の谷に入り、[[古城街道]]の一部をたどった後[[シュトゥットガルト]]に至る。シュトゥットガルトとミュンヘンの間でも幹線ルートからは北に外れ、[[ロマンティック街道]]沿いの観光地を経由した。途中には[[単線]]の[[ローカル線]]もあり、優等列車が乗り入れることは稀な区間であった。またミュンヘンへの編成にはクラブ車 (Clubwagen) が連結されており、車内でのイベントに用いられた<ref name="MM_fin"> |
マンハイムからミュンヘンまでの経路は都市間の連絡よりも[[観光]]を重視したものであった。列車は[[ハイデルベルク]]から[[ネッカー川]]の谷に入り、[[古城街道]]の一部をたどった後[[シュトゥットガルト]]に至る。シュトゥットガルトとミュンヘンの間でも幹線ルートからは北に外れ、[[ロマンティック街道]]沿いの観光地を経由した。途中には[[単線]]の[[ローカル線]]もあり、優等列車が乗り入れることは稀な区間であった。またミュンヘンへの編成にはクラブ車 (Clubwagen) が連結されており、車内でのイベントに用いられた<ref name="MM_fin">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|p=260-261}}</ref>。 |
||
しかしこの経路は想定されたほどの旅客を集めることはできず、[[1985年]]6月2日のダイヤ改正でハイデルベルク - シュ |
しかしこの経路は想定されたほどの旅客を集めることはできず、[[1985年]]6月2日のダイヤ改正でハイデルベルク - シュトゥットガルト - ミュンヘン間の経路はライン谷とミュンヘンを結ぶ幹線ルートに変更された。同時にバーゼル発着編成との分割場所は[[マインツ]]に変更され、マインツ - ハイデルベルク間ではライン川右岸の[[ダルムシュタット]]を経由するようになった。また1985年と1986年の夏にはミュンヘンから[[オーストリア]]の[[ザルツブルク]]まで延長された<ref name="MM_fin"/>。 |
||
=== 廃止 === |
=== 廃止 === |
||
ラインゴルトは[[1987年]][[5月30日]]の運行を最後に廃止された。 |
ラインゴルトは[[1987年]][[5月30日]]の運行を最後に廃止された<ref name="MM_table"/>。 |
||
TEEに用いられていた列車名の多くは、TEEとしての廃止後もほぼ同じ区間を走る[[インターシティー]]や[[ユーロシティー]]に引き継がれているが、「ラインゴルト」の名は引き継がれることなく消滅した。これは西ドイツ国鉄が格式あるラインゴルトに[[二等車]]を連結したくなかったためであるとも評されている<ref name="MM_fin"/>。 |
TEEに用いられていた列車名の多くは、TEEとしての廃止後もほぼ同じ区間を走る[[インターシティー]]や[[ユーロシティー]]に引き継がれているが、「ラインゴルト」の名は引き継がれることなく消滅した。これは西ドイツ国鉄が格式あるラインゴルトに[[二等車]]を連結したくなかったためであるとも評されている<ref name="MM_fin"/>。 |
||
1987年5月31日から、国際列車の新たな種別として[[ユーロシティ]]が発足した。ユーロシティのうちオランダとスイスを結んでいたのは、アムステルダム - [[クール (グラウビュンデン州)|クール]]間の「[[レンブラント (列車)|レンブラント]]」である<ref>{{Harvnb|Malaspina|2006|pp=34-35}}</ref><ref group="注釈">レンブラントは元アムステルダム - ミュンヘン間のTEEであったが、その後区間や種別を変更し{{Harv|Mertens|Malaspina|2007|pp=266-269}}、このダイヤ改正の直前ではアムステルダム - クール間の国際インターシティだった{{Harv|Malaspina|2006|p=29}}。</ref>。その後[[1991年]]にベルナー・オーバーラント(Berner Oberland, アムステルダム - [[インターラーケン]])が加わった<ref>{{Harvnb|Thomas Cook European Timetable June 1991|p=507|Ref=Thomas_Cook_E}}</ref>。[[2000年]]以降オランダとドイツの間のユーロシティは[[ICE]]への置き換えが進められ、[[2002年]]12月15日のダイヤ改正でレンブラントは廃止された<ref>{{Harvnb|Thomas Cook European Timetable December 2002|p=507|Ref=Thomas_Cook_E}}</ref>。さらに[[2003年]]12月14日にはベルナー・オーバーラントも[[ハンブルク]] - インターラーケン間に区間を変更し、オランダとスイスを結ぶユーロシティは姿を消した<ref>{{Harvnb|Thomas Cook European Timetable December 2003|p=28|Ref=Thomas_Cook_E}}</ref>。 |
|||
1987年5月31日からはラインゴルトに代わって、アムステルダム - [[クール (グラウビュンデン州)|クール]]間をバーゼル経由で結ぶユーロシティ「[[レンブラント (列車)|レンブラント]]」が運転を開始した<ref name="MM_Rembrandt">Maurice,Malaspina pp.266 - 269</ref>。 |
|||
ユーロシティに代わり、2003年12月ダイヤ改正ではアムステルダムと[[バーゼル]]を[[ケルン-ライン=マイン高速線]]経由で結ぶICE(ICE 105/104)が運行を開始した。これがかつてのラインゴルトに最も近い経路をたどる列車となっている<ref>{{Harvnb|Malaspina|2005|p=88}}</ref>。 |
|||
=== |
=== 年表 === |
||
* [[1928年]]5月15日:FFD「ラインゴルト」、フーク・ファン・ホラント、[[アムステルダム]] - [[バーゼル]]間で運転開始。 |
|||
ラインゴルトの[[食堂車]]などの車内サービスはドイツ寝台車食堂車会社(DSG, 旧[[ミトローパ]]の西ドイツ側)によって行なわれた<ref name="MM_table"/>。 |
|||
* [[1939年]]8月22日:運転休止。 |
|||
* [[1951年]]5月20日:F-Zug「ラインゴルト急行」、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間で運転開始。 |
|||
* [[1954年]]5月23日:「ラインゴルト」と改称。 |
|||
* [[1962年]]5月27日:ラインゴルト型客車投入。 |
|||
* [[1965年]]5月30日:[[TEE]]に種別変更。アムステルダム、フーク・ファン・ホラント - [[ジュネーヴ]]間に延長。 |
|||
* [[1979年]]5月27日:フーク・ファン・ホラント発着列車廃止。 |
|||
* [[1982年]]5月23日:アムステルダム - バーゼル間に短縮。 |
|||
* [[1983年]]5月29日:[[ミュンヘン]]方面への編成の運転を開始。 |
|||
* [[1987年]]5月30日:廃止。 |
|||
== 停車駅一覧 == |
|||
1970年代のラインゴルトでは列車[[秘書]]のサービスがあり、平日のドイツ国内の一定区間を運行中に限り、文書の[[タイプライター|タイプ]]や車外への[[電話]]などを請け負っていた<ref name="Ueda">植田 pp.59 - 64</ref>。 |
|||
おもなダイヤ改正時点におけるラインゴルトの停車駅は以下の通り。 |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center;line-height:1.4em; vertical-align:top; white-space:nowrap;" |
|||
=== 車両 === |
|||
==== 客車 ==== |
|||
[[File:TEE Rheingold Dresden pic01 2007 04 23.JPG|thumb|ラインゴルト用客車(保存車両)]] |
|||
{{seealso|:de:TEE/IC-Wagen (DB) }} |
|||
TEE時代のラインゴルトの客車はすべて[[ドイツ連邦鉄道]](西ドイツ国鉄)の保有である。[[1962年]]から63年にかけてラインゴルト、ラインプファイル用に製造された客車がTEE化後も用いられていた。この形式は「ラインゴルト型」とも呼ばれ、ドイツにおけるTEE、[[インターシティ]]用客車の標準となった。のちに車体の仕様はほぼ共通ながら[[鉄道車両の台車|台車]]を200km/h運転可能なものにした車両に置き換えられている。1976年までラインゴルトにはドーム屋根の[[展望車]]や厨房部分が2階建てになった[[食堂車]]など特徴的な客車が連結されていたが、これらは200km/h運転に対応できずラインゴルトでの運用から外れた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
1962年当時の車両は戦前のミトローパ時代の客車と同様のクリーム地に青の帯の塗装であった。TEE化後もしばらくはそのままの塗装だったが、のちにTEEの標準であるクリーム地に赤帯に改められた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
[[1970年代]]には客車は[[ミュンヘン]]の車両基地に所属していた。起終点のオランダやスイスではなく中間の西ドイツの、しかも運行経路の沿線にないミュンヘン所属の車両を用いるという異例の列車であったが、TEE[[エラスムス (列車)|エラスムス]]などオランダとミュンヘンの間の列車と共通の運用を組むことで、車両は定期的にミュンヘンに戻っていた<ref name="Ueda" />。 |
|||
なお西ドイツ国鉄は[[1967年]]に車両の形式名を改めている([[:de:UIC-Bauart-Bezeichnungssystem für Reisezugwagen]]参照)。以下では特に断らない限り改定後の形式名を用いる。 |
|||
; [[コンパートメント車]](Avm111型) |
|||
: 6人用個室9室を備え定員は54名である。車両の両端にデッキと[[列車便所|トイレ]]がある。個室の長さ(レール方向)は2322mmあり、同時期の[[フランス国鉄]]のミストラル56型、ミストラル69型(ともに2140mm)などと比べて広くなっている。全長は26.1m, 重量は43.3トン<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
: ラインゴルトに当初用いられたのは1962年製のAvümh111型(名称改定前はSAv4üm型)で、のちに200km/h対応のAvümz111型に置き換えられた<ref name="MM_car62"/><ref group="注釈" name="200km/h">正確には -h と -z の区別は[[車軸発電機]]の有無によるものであり、Avümh111型などでも200km/h対応の車両は存在する。</ref><ref group="注釈" name="uuml">ü は扉の配置を表す記号であるが、1980年以降は省略されている。</ref>。 |
|||
; [[開放座席車]](Apm121型) |
|||
: 中央の通路を挟んで1人掛けと2人掛けの座席が並んでおり、定員は48名である。座席の幅は675mm、間隔(シートピッチ)は1170mm。車体はAvm111型とほぼ同じ構造であるが、両端にトイレに加え荷物置き場を設けてあるため、客席部分の長さはAvm111型と比べやや短い。車両の全長は26.1m、重量は45トンである<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
: ラインゴルトに当初用いられたのは1962年製のApümh121型(名称改定前はSAp4üm型)で、のちに200km/h対応のApümz121型に置き換えられた<ref name="MM_car62"/><ref group="注釈" name="200km/h"/><ref group="注釈" name="uuml"/>。 |
|||
; [[展望車]](ADm101型) |
|||
: 車両の中央部分が[[2階建車両|2階建て]]となっており、階上部分は[[強化ガラス]]製のドーム状の屋根を備えた展望席となっている。展望席の定員は22名。階下部分は[[荷物車|荷物室]]および[[郵便車|郵便室]]となっている。また両側の平屋部分のうち、片方には6人用コンパートメント2室、もう片方には開放座席12席と飲み物を提供する[[バー (酒場)|バー]]がある。車両の全長は26.4m、重量は50トンあり、このため台車はバネを特別に強化したものが用いられた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
: ラインゴルトに用いられたのは1962年製のADümh101型(名称改定前はSAD4üm型)である。この型はラインゴルトとラインプファイルのみで用いられたが、200km/h運転に対応できなかったため、[[1976年]]5月29日を最後に運用から外された<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
; [[食堂車]](WRm131型) |
|||
: 厨房部分の約5mが2階建てとなっている。食事席は通路を挟んで2人テーブルと4人テーブルが並ぶ形で、席数は48席である。また厨房を挟んで食事席と反対側には軽食を提供する[[ビュッフェ]]がある。車両の全長は26.4mで、重量は54トンに達した<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
: ラインゴルトでは1962年製のWRümh131型(名称改定前はSDWR4üm型)が用いられた。この型はラインゴルトとラインプファイル専用だったが、200km/h運転に対応できなかったため、1976年5月29日を最後に運用から外れた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
; 食堂車(WRm132型) |
|||
: 厨房部分も平屋構造となっており、食事室はWRm131型から6席減った42席である。ビュッフェの位置は厨房と食事席の間に変更されている。全長は27.5m, 重量は47.5トンである<ref name="MM_car65">Maurice, Malaspina pp.116 - 119</ref>。 |
|||
: ラインゴルトで用いられたのは1965年から68年にかけて製造された200km/h運転対応のWRümh132型<ref group="注釈" name="uuml"/>で、他のTEEで用いられていたものが1976年からラインゴルトに転用された<ref name="MM_car65"/>。 |
|||
; コンパートメント/バー合造車(ARDm105型) |
|||
: 客車の半分には6人用個室4室があり、もう半分は18席の食事席とビュッフェからなっていた。この他、列車秘書用の部屋があった<ref name="MM_car65"/>。 |
|||
: 1965年に他のTEE向けに製造されたもので<ref name="MM_car65"/>、ラインゴルトでは1976年から数年間エメリッヒ以南での増結車両の一つとして組み込まれた<ref name="Ueda"/><ref name="MM_composition">Maurice,Malaspina p. 261</ref>。 |
|||
; クラブ車(WGmh804型) |
|||
: クラブ車 (Clubwagen) は車内に[[ビール]]などを提供するバーと、テーブルを囲む形の座席34席を備えた車両である。これはかつての[[ミトローパ]]のサロン車を現代(1980年代)風にアレンジしたものとされる。この空間を「ラインゴルト・[[クラブ]] (Rheingold Club) 」と称し、車内での様々なイベントに用いた<ref name="MM_72">Maurice,Malaspina pp.140 - 143</ref>。 |
|||
: 車体はApm121型を改造したものであり、1982年に3両が製造され、1983年からラインゴルトのミュンヘン方面への編成で用いられた。 |
|||
==== 機関車 ==== |
|||
[[File:TEE Rheingold BR103 235-8 Dresden 2007 04 23.JPG|thumb|103型機関車(TEE色)]] |
|||
牽引機関車は原則としてエメリッヒ駅とバーゼルSBB駅を境にそれぞれの国のものが用いられた。なお1966年までオランダと西ドイツの国境に非電化の部分が残っていたため、アーネム - デュースブルク間を西ドイツ国鉄の[[ディーゼル機関車]]が牽引した<ref name="MM_performance"/>。 |
|||
使用された機関車は以下のとおり<ref name="MM_locomotive">Maurice,Malaspina pp.84 - 85, p.91</ref>。 |
|||
* オランダ国鉄 |
|||
** 1100型電気機関車 ([[:nl:1100 (locomotieftype)|1100]]) :1965年 - 1981年 |
|||
** 1300型電気機関車 ([[:nl:1300 (locomotieftype)|1300]]) :1965年 - 1981年 |
|||
** 1600型電気機関車 ([[:nl:1600/1800 (locomotieftype)|1600]]) :1981年 - 1987年 |
|||
* 西ドイツ国鉄 |
|||
** [[西ドイツ国鉄 V200形ディーゼル機関車|V200.1型ディーゼル機関車]]:1965年 - 1966年 |
|||
** 112型電気機関車(旧称E10.12型、[[:de:DB-Baureihe E 10.12|DB-Baureihe E 10.12]]):1965年 - 1974年 |
|||
** [[西ドイツ国鉄103型電気機関車|103型電気機関車]]:1973年 - 1980年 |
|||
** 111型電気機関車 ([[:de:DB-Baureihe 111|DB-Baureihe 111]]) :1980年 - 1987年 |
|||
* スイス国鉄 |
|||
** [[スイス国鉄Re410形電気機関車|Re4/4<sup>I</sup>形電気機関車]]:1965年 - 1987年 |
|||
=== 停車駅一覧 === |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
|||
! 国 !! 停車駅 |
! 国 !! 停車駅 |
||
! 1928年 |
|||
! colspan="2" | 1965年<br/>5月30日 - |
|||
! colspan="2" | 1953年<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=189}}</ref> |
|||
! 1979年<br/>5月27日 - |
|||
! colspan="2" | 1962年<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|pp=246-247}}</ref> |
|||
! 1982年<br/>5月23日 - |
|||
! colspan="2" | |
! colspan="2" | 1965年<br/>5月30日 |
||
! |
! 1979年<br/>5月27日 |
||
! 1982年<br/>5月23日 |
|||
! colspan="2" | 1983年<br/>5月29日 |
|||
! colspan="2" | 1985年<br/>6月2日 |
|||
|- |
|- |
||
! rowspan=" |
! rowspan="6" | [[オランダ]] |
||
! フーク・ファン・ホラント港駅<br/>[[:nl:Station Hoek van Holland Haven|Hoek van Holland Haven]] |
! フーク・ファン・ホラント港駅<br/>[[:nl:Station Hoek van Holland Haven|Hoek van Holland Haven]] |
||
| ● |
|||
| |
| ● || rowspan="6" | |
||
| rowspan="2" | || ● |
|||
| rowspan="2" | || ● |
|||
| rowspan="2" | |
|||
| rowspan="2" | |
|||
| rowspan="2" colspan="2" | |
|||
| rowspan="2" colspan="2" | |
|||
|- |
|- |
||
! [[ロッテルダム]]北駅<br/>[[:nl:Station Rotterdam Noord|Rotterdam Noord]] |
! [[ロッテルダム]]北駅<br/>[[:nl:Station Rotterdam Noord|Rotterdam Noord]] |
||
| ※<ref group="注" name="stop_nl">オランダ国内の停車駅については一部を除き出典元に記載なし。</ref> |
|||
| || ●<ref group="注">1967年9月24日以降はスキーダム・ロッテルダム西駅 ([[:nl:Station Schiedam Centrum|Schiedam Rotterdam West]]) に停車駅を変更</ref> |
|||
| rowspan="8" | ∥<ref group="注">この間[[ロッテルダム中央駅]]、[[アイントホーフェン]]駅、[[フェンロー]]駅、[[カルデンキルヒェン]]駅に停車。</ref> |
|||
| || || colspan="2" | || colspan="2" | |
|||
| ※<ref group="注" name="stop_nl" /> |
|||
| ●<ref group="注">1967年9月24日以降はスキーダム・ロッテルダム西駅 ([[:nl:Station Schiedam Centrum|Schiedam Rotterdam West]]) に停車駅を変更</ref> |
|||
|- |
|- |
||
! [[アムステルダム中央駅]] |
! [[アムステルダム中央駅]] |
||
| ∥ |
|||
| ● || ∥ |
|||
| ● || ∥ |
| ● || ∥ |
||
| ● |
| ● |
||
192行目: | 182行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[ユトレヒト]]中央駅<br/>[[:nl:Station Utrecht Centraal|Utrecht Centraal]] |
! [[ユトレヒト]]中央駅<br/>[[:nl:Station Utrecht Centraal|Utrecht Centraal]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | └●┘ |
|||
| colspan="2" | └●┘ |
| colspan="2" | └●┘ |
||
| ● |
| ● |
||
199行目: | 191行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[アーネム]]駅<br/>[[:nl:Station Arnhem|Arnhem]] |
! [[アーネム]]駅<br/>[[:nl:Station Arnhem|Arnhem]] |
||
| ※<ref group="注" name="stop_nl" /> |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
205行目: | 199行目: | ||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
|- |
|- |
||
! [[ゼーフェナール]]駅<br />[[:nl:Station Zevenaar|Zevenaar]] |
|||
! rowspan="11" | [[西ドイツ]] |
|||
| ●<ref group="注" name="Zevenaar-Emmerich">1935年から南行はゼーフェナールに代わりエメリッヒに停車"</ref> |
|||
| colspan="2" | | |
|||
| colspan="2" | | |
|||
| | |
|||
| | |
|||
| colspan="2" | | |
|||
| colspan="2" | | |
|||
|- |
|||
! rowspan="12" | [[ドイツ]]<br />([[西ドイツ]] ) |
|||
! [[エメリッヒ]]駅<br/>[[:de:Emmerich am Rhein|Emmerich]] |
! [[エメリッヒ]]駅<br/>[[:de:Emmerich am Rhein|Emmerich]] |
||
| |<ref group="注" name="Zevenaar-Emmerich" /> |
|||
| ※<ref group="注">(F22/21)[[ドルトムント中央駅]] - [[ボーフム]]中央駅 - [[エッセン]]中央駅</ref> |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ●<ref group="注">1966年5月21日まではオランダ方面行きのみ停車</ref> |
| colspan="2" | ●<ref group="注">1966年5月21日まではオランダ方面行きのみ停車</ref> |
||
| ● |
| ● |
||
214行目: | 220行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[デュイスブルク]]中央駅<br/>[[:de:Duisburg Hauptbahnhof|Duisburg Hbf]] |
! [[デュイスブルク]]中央駅<br/>[[:de:Duisburg Hauptbahnhof|Duisburg Hbf]] |
||
| ● |
|||
| ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
221行目: | 230行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[デュッセルドルフ中央駅]] |
! [[デュッセルドルフ中央駅]] |
||
| ● |
|||
| ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
228行目: | 240行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[ケルン中央駅]] |
! [[ケルン中央駅]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | └●┘ |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
235行目: | 250行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[ボン]]中央駅<br/>[[:de:Bonn Hauptbahnhof|Bonn Hbf]] |
! [[ボン]]中央駅<br/>[[:de:Bonn Hauptbahnhof|Bonn Hbf]] |
||
| | |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
242行目: | 260行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[コブレンツ]]中央駅<br/>[[:de:Koblenz Hauptbahnhof|Koblenz Hbf]] |
! [[コブレンツ]]中央駅<br/>[[:de:Koblenz Hauptbahnhof|Koblenz Hbf]] |
||
| |<ref group="注">1937年から南行のみ停車</ref> |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
249行目: | 270行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[マインツ]]中央駅<br/>[[:de:Mainz Hauptbahnhof|Mainz Hbf]] |
! [[マインツ]]中央駅<br/>[[:de:Mainz Hauptbahnhof|Mainz Hbf]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | ┌●┐ |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
256行目: | 280行目: | ||
|- |
|- |
||
! [[マンハイム中央駅]] |
! [[マンハイム中央駅]] |
||
| ● |
|||
| ● || rowspan="10" | ∥ |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| colspan="2" | ┌●┐ |
| colspan="2" | ┌●┐ |
||
| ● || ∥ |
| ● || rowspan="10" | ∥ |
||
|- |
|- |
||
! [[カールスルーエ中央駅]] |
! [[カールスルーエ中央駅]] |
||
| colspan="2" | ● |
|||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
| ● || rowspan="9" | ∥ |
||
| ● |
|||
|- |
|- |
||
! [[バーデン・バーデン]]駅<br/>[[:de:Bahnhof Baden-Baden|Baden-Baden]] |
! [[バーデン・バーデン]]駅<ref group="注">1977年まではバーデン・オース駅</ref><br/>[[:de:Bahnhof Baden-Baden|Baden-Baden]] |
||
| ● |
|||
| ● |
|||
| colspan="2" | | |
|||
| colspan="2" | | |
| colspan="2" | | |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
| ● |
| ● |
||
|- |
|||
| ∥ |
|||
! [[オッフェンブルク]]駅 |
|||
| | |
|||
| ● |
|||
| colspan="2" | | |
|||
| colspan="2" | | |
|||
| | |
|||
| | |
|||
| | |
|||
| | |
|||
|- |
|- |
||
! [[フライブルク]](ブライスガウ)中央駅<br/>[[:de:Freiburg (Breisgau) Hauptbahnhof|Freiburg (Breisgau) Hbf]] |
! [[フライブルク]](ブライスガウ)中央駅<br/>[[:de:Freiburg (Breisgau) Hauptbahnhof|Freiburg (Breisgau) Hbf]] |
||
| ● |
|||
| ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! rowspan="5" | [[スイス]] |
! rowspan="5" | [[スイス]] |
||
! [[バーゼル・バディッシャー駅]] |
! [[バーゼル・バディッシャー駅]] |
||
| ● |
|||
| ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! [[バーゼルSBB駅]] |
! [[バーゼルSBB駅]] |
||
| ● |
|||
| ● |
|||
| colspan="2" | ● |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
| ● |
| ● |
||
| ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! [[ベルン中央駅]] |
! [[ベルン中央駅]] |
||
| rowspan="3" | |
|||
| rowspan="3" | |
|||
| rowspan="3" colspan="2" | |
|||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ● |
| ● |
||
| rowspan="3" | |
|||
| |
|||
| rowspan="3" | |
|||
| |
|||
| rowspan="3" | |
|||
| ∥ |
|||
| |
|||
| ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! [[ローザンヌ]]駅<br/>[[:fr:Gare de Lausanne|Lausanne]] |
! [[ローザンヌ]]駅<br/>[[:fr:Gare de Lausanne|Lausanne]] |
||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ●<ref group="注" name="1980_summer">1980年夏ダイヤではベルン終点</ref> |
| ●<ref group="注" name="1980_summer">1980年夏ダイヤではベルン終点</ref> |
||
| |
|||
| |
|||
| ∥ |
|||
| |
|||
| ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! [[コルナヴァン駅|ジュネーヴ・コルナヴァン駅]] |
! [[コルナヴァン駅|ジュネーヴ・コルナヴァン駅]] |
||
| colspan="2" | ● |
| colspan="2" | ● |
||
| ●<ref group="注" name="1980_summer"/> |
| ●<ref group="注" name="1980_summer"/> |
||
| |
|||
| |
|||
| ∥ |
|||
| |
|||
| ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! rowspan="11" | 西ドイツ |
! rowspan="11" | 西ドイツ |
||
! [[ダルムシュタット]]中央駅<br/>[[:de:Darmstadt Hauptbahnhof|Darmstadt Hbf]] |
! [[ダルムシュタット]]中央駅<br/>[[:de:Darmstadt Hauptbahnhof|Darmstadt Hbf]] |
||
| |
| rowspan="12" | |
||
| rowspan="12" | |
|||
| || ∥ |
|||
| rowspan="8" | ∥<ref group="注">(F22/21)この間[[フランクフルト中央駅]]、[[ヴュルツブルク中央駅]]、[[トロイヒトリンゲン]]駅に停車。</ref> |
|||
| || ● |
|||
| rowspan="12" colspan="2" | |
|||
| rowspan="12" colspan="2" | |
|||
| rowspan="12" | |
|||
| rowspan="12" | |
|||
| rowspan="12" | || ∥ |
|||
| rowspan="12" | || ● |
|||
|- |
|- |
||
! [[ハイデルベルク]]中央駅<br/>[[:de:Heidelberg Hauptbahnhof|Heidelberg Hbf]] |
! [[ハイデルベルク]]中央駅<br/>[[:de:Heidelberg Hauptbahnhof|Heidelberg Hbf]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| ● |
|||
| || ● |
|||
|- |
|- |
||
! [[エーバーバッハ]]駅<br/>[[:de:Eberbach#Verkehr|Eberbach]] |
! [[エーバーバッハ]]駅<br/>[[:de:Eberbach#Verkehr|Eberbach]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| rowspan="2" | ∥ |
|||
| || ● |
|||
| || ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! [[ハイルブロン]]駅<br/>[[:de:Heilbronn#Eisenbahn|Heilbronn]] |
! [[ハイルブロン]]駅<br/>[[:de:Heilbronn#Eisenbahn|Heilbronn]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| || ● |
|||
| || ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! [[シュトゥットガルト]]中央駅</br/>[[:de:Stuttgart Hauptbahnhof|Stuttgart Hbf]] |
! [[シュトゥットガルト]]中央駅</br/>[[:de:Stuttgart Hauptbahnhof|Stuttgart Hbf]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| ● |
|||
| || ● |
|||
|- |
|- |
||
! (略) |
! (略) |
||
| ※<ref group="注">この間[[シュヴェービッシュ・グミュント]]駅 ([[:de:Bahnhof Schwäbisch Gmünd|Schwäbisch Gmünd]]) 、[[アーレン (バーデン=ヴュルテンベルク)|アーレン]]駅 ([[:de:Bahnhof Aalen|Aalen]]) 、[[ネルトリンゲン]]駅 ([[:de:Nördlingen#Schiene|Nördlingen]]) 、[[ドナウヴェルト]]駅 ([[:de:Bahnhof Donauwörth|Donauwörth]]) に停車</ref> |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| ∥ |
|||
| || ※<ref group="注">この間[[シュヴェービッシュ・グミュント]]駅 ([[:de:Bahnhof Schwäbisch Gmünd|Schwäbisch Gmünd]]) 、[[アーレン (バーデン=ヴュルテンベルク)|アーレン]]駅 ([[:de:Bahnhof Aalen|Aalen]]) 、[[ネルトリンゲン]]駅 ([[:de:Nördlingen#Schiene|Nördlingen]]) 、[[ドナウヴェルト]]駅 ([[:de:Bahnhof Donauwörth|Donauwörth]]) に停車</ref> |
|||
| || ∥ |
|||
|- |
|- |
||
! [[ウルム]]中央駅<br/>[[:de:Ulm Hauptbahnhof|Ulm Hbf]] |
! [[ウルム]]中央駅<br/>[[:de:Ulm Hauptbahnhof|Ulm Hbf]] |
||
| ∥ |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| |
| ● |
||
| || ● |
|||
|- |
|- |
||
! [[アウクスブルク中央駅]] |
! [[アウクスブルク中央駅]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| ● |
|||
| || ● |
|||
|- |
|- |
||
! [[ミュンヘン中央駅]] |
! [[ミュンヘン中央駅]] |
||
| ● |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| ● |
|||
| ● |
|||
|- |
|- |
||
! [[トラウンシュタイン]]駅<br/>[[:de:Bahnhof Traunstein|Traunstein]] |
! [[トラウンシュタイン]]駅<br/>[[:de:Bahnhof Traunstein|Traunstein]] |
||
| rowspan="3" | ※<ref group="注">(F22/21)[[ローゼンハイム]]中央駅 - [[クーフシュタイン]]駅 - [[インスブルック]]駅</ref> |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| rowspan="3" | |
|||
| || |
|||
| ●<ref group="注" name="table_Salzburg">夏ダイヤ期間のみ延長</ref> |
|||
|- |
|- |
||
! [[フライラッシング]]駅<br/>[[:de:Bahnhof Freilassing|Freilassing]] |
! [[フライラッシング]]駅<br/>[[:de:Bahnhof Freilassing|Freilassing]] |
||
| ●<ref group="注" name="table_Salzburg"/> |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| || |
|||
| || ●<ref group="注" name="table_Salzburg"/> |
|||
|- |
|- |
||
! [[オーストリア]] |
! [[オーストリア]] |
||
! [[ザルツブルク]]中央駅<br/>[[:de:Salzburg Hauptbahnhof|Salzburg Hbf]] |
! [[ザルツブルク]]中央駅<br/>[[:de:Salzburg Hauptbahnhof|Salzburg Hbf]] |
||
| ●<ref group="注" name="table_Salzburg"/> |
|||
| colspan="2" | || || |
|||
| || |
|||
| || ●<ref group="注" name="table_Salzburg"/> |
|||
|} |
|} |
||
406行目: | 433行目: | ||
{{Reflist|group=注}} |
{{Reflist|group=注}} |
||
== 車両・編成 == |
|||
ラインゴルトは全期間を通じて[[機関車]]が牽引する[[客車]]列車であった。 |
|||
=== 客車 === |
|||
==== 1965年夏・TEE 10(スイス方面行き) ==== |
|||
==== ミトローパ ==== |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
|||
1928年の運転開始当時、ラインゴルトには[[ミトローパ]]社の保有する専用客車が使用された。当時の長距離急行列車では客車は(三等車を含まないことを除けば)一般の急行列車と変わらないものであり、ラインゴルトは使用車両の上でも別格とされていた<ref name="SE_was_heisst_FD-Zug"/>。ラインゴルト専用客車は全長が23.5mあり、当時のドイツでは最長であった<ref group="注釈">当時のドイツの急行用客車は20m前後である{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=653}}</ref>。客車の内訳は以下の通り<ref name="SE_wagen28">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|pp=662-666}}</ref>。 |
|||
|+ ユトレヒト → デュースブルク間<ref name="MM_direct"/> |
|||
{| class="wikitable" |
|||
! 号車番号 !! 種類 !! 運行区間 !! デュースブルク以南 |
|||
! 種類 !! 形式名 !! 定員 !! 製造数 !! 備考 |
|||
|- |
|- |
||
| |
| rowspan="2" | 一等車 || SA4ü-28 || 28名 || 5 || |
||
|- |
|- |
||
| SA4üK-28 || 20名 + 厨房 || 5 || |
|||
| 5 || 一等コンパートメント車 || rowspan="2" | フーク・ファン・ホラント → ミュンヘン |
|||
| rowspan="2" | TEE 22 |
|||
|- |
|- |
||
| rowspan="2" | 二等車 || SB4ü-28 || 43名 || 10 || |
|||
| - || 食堂車 |
|||
|- |
|- |
||
| SB4üK-28 || 29名 + 厨房 || 6 || |
|||
| 7 || 一等コンパートメント車 || フーク・ファン・ホラント → ミラノ |
|||
| rowspan="3" | TEE 10 |
|||
|- |
|- |
||
| 荷物車 || SPw4ü-28 || - || 3 || 全長19.68m |
|||
| 8 || 一等コンパートメント車 || アムステルダム → クール |
|||
|- |
|||
| 17 || 一等開放座席車 || アムステルダム → ジュネーヴ |
|||
|- |
|||
| 18 || 一等コンパートメント車 || アムステルダム → ミュンヘン || TEE 22 |
|||
|} |
|} |
||
一等車の開放客室は中央の通路を挟んで1人掛けの椅子が並ぶ1+1の配列(車室端を除く)である。このほか四人用と二人用の個室が各一室(厨房つき客車では四人用のみ)ある。二等車では通路を挟んで2+1の配列となる。一等車、二等車とも座席は一人分ごとに独立した[[ソファー]]状のものであり、二列ごとに向かい合わせに配置されている。座席の間には固定式の[[テーブル]]がある。[[窓]]の幅は一等車では1.40m、二等車でも1.20mあり、これは当時としては大きなものであった<ref name="SE_wagen28" /><ref name="Jac_Neuer_standard">{{Harvnb|Jacobson|2009|pp=31-35}}</ref>。 |
|||
[[1934年]]には、二等客車のうち3両が一二等[[合造車]]に改造されている<ref name="Jac_Neue_ideen"/>。 |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
|||
|+ デュースブルク → バーゼル間<ref name="MM_direct"/> |
|||
! 号車番号 !! 種類 !! 運行区間 !! デュースブルク以北 !! バーゼル以南 |
|||
|- |
|||
| || (機関車) || || |
|||
|- |
|||
| 6 || 一等コンパートメント車 || ドルトムント → ミラノ || TEE22 || rowspan="2" | 458-313列車 |
|||
|- |
|||
| 7 || 一等コンパートメント車 || フーク・ファン・ホラント → ミラノ |
|||
| rowspan="3" | TEE 10 |
|||
|- |
|||
| 8 || 一等コンパートメント車 || アムステルダム → クール || 263列車 |
|||
|- |
|||
| 17 || 一等開放座席車 || アムステルダム → ジュネーヴ || rowspan="4" | TEE 10 |
|||
|- |
|||
| 14 || 一等展望車 || rowspan="3" | ドルトムント → ジュネーヴ || rowspan="3" | TEE 22 |
|||
|- |
|||
| - || 食堂車 |
|||
|- |
|||
| 15 || 一等開放座席車 |
|||
|} |
|||
* TEE22「ラインプファイル」:ドルトムント → デュースブルク → ミュンヘン |
|||
* 458-313列車:バーゼル → ミラノ |
|||
* 263列車:バーゼル → クール |
|||
1928年と1935年時点でのラインゴルト(南行、FFD 102)の編成は以下の通りであった<ref name="Jac_table">{{Harvnb|Jacobson|2009|p=43}}</ref>。 |
|||
==== 1965年夏・TEE 9(オランダ方面行き) ==== |
|||
{| class="wikitable |
{| class="wikitable" |
||
|+ FFD 102 ラインゴルト(1928年) |
|||
|+ バーゼル → デュースブルク間<ref name="MM_direct"/> |
|||
! 号車番号 !! 種類 !! 運行区間 !! バーゼル以南 !! デュースブルク以北 |
|||
|- |
|||
| || (機関車) || || |
|||
|- |
|- |
||
! 種類 !! 形式 !! 運行区間、備考 |
|||
| 15 || 一等開放座席車 || rowspan="3" | ジュネーヴ → ドルトムント |
|||
| rowspan="3" | TEE 9 || rowspan="4" | F 321 |
|||
|- |
|- |
||
| |
| 荷物車 || SPw4ü-28 |
||
| rowspan="3" | フーク・ファン・ホラント - バーゼル |
|||
|- |
|- |
||
| 二等車 || SB4ü-28 |
|||
| 14 || 一等展望車 |
|||
|- |
|- |
||
| 一等車 || SA4üK-28 |
|||
| 6 || 一等コンパートメント車 || ミラノ → ドルトムント || rowspan="2" | 302-423列車 |
|||
|- |
|- |
||
| 一等車 || SA4ü-28 |
|||
| 7 || 一等コンパートメント車 || ミラノ → フーク・ファン・ホラント || rowspan="3" | TEE 9 |
|||
| rowspan="2" | アムステルダム - バーゼル |
|||
|- |
|- |
||
| 二等車 || SB4üK-28 |
|||
| 8 || 一等コンパートメント車 || クール → アムステルダム || 266列車 |
|||
|- |
|- |
||
| 荷物車 || - |
|||
| 17 || 一等開放座席車 || ジュネーヴ → アムステルダム || TEE 9 |
|||
| マンハイム - バーゼル : この間進行方向が反転するため[[隔離車]]<ref group="注釈">[[:de:Schutzwagen|Schutzwagen]]. 当時のドイツの[[優等列車]]では[[機関車]]の直後に[[客車]]を連結することは禁止されており、客の乗らない[[荷物車]]や[[郵便車]]を挟む必要があった。</ref>として連結。ラインゴルト専用車ではない。 |
|||
|} |
|} |
||
{{Reflist|group=注}} |
|||
{| class="wikitable |
{| class="wikitable" |
||
|+ FFD 102 ラインゴルト(1935年) |
|||
|+ デュースブルク → ユトレヒト間<ref name="MM_direct"/> |
|||
! 号車番号 !! 種類 !! 運行区間 !! デュースブルク以南 |
|||
|- |
|- |
||
! 種類 !! 形式 !! 運行区間 |
|||
| || (機関車) || || |
|||
|- |
|- |
||
| 荷物車 || SPw4ü-28 |
|||
| - || 食堂車 || rowspan="2" | ミュンヘン → フーク・ファン・ホラント || rowspan="2" | TEE 21 |
|||
| rowspan="3" | フーク・ファン・ホラント - バーゼル |
|||
|- |
|- |
||
| 一等車 || SA4ü-28 |
|||
| 5 || 一等コンパートメント車 |
|||
|- |
|- |
||
| 二等車 || SB4üK-28 |
|||
| 7 || 一等コンパートメント車 || ミラノ → フーク・ファン・ホラント || rowspan="3" | TEE 9 |
|||
|- |
|- |
||
| 一二等車 || SAB4ü-28/34 |
|||
| 8 || 一等コンパートメント車 || クール → アムステルダム |
|||
| アムステルダム - バーゼル |
|||
|- |
|||
| 17 || 一等開放座席車 || ジュネーヴ → アムステルダム |
|||
|- |
|||
| 18 || 一等コンパートメント車 || ミュンヘン → アムステルダム || TEE 21 |
|||
|} |
|} |
||
* TEE 21「ラインプファイル」 : ミュンヘン → デュースブルク → ドルトムント |
|||
* F 321 : デュースブルク → ドルトムント |
|||
* 302-423列車 : ミラノ → バーゼル |
|||
* 266列車 : クール → バーゼル |
|||
==== F-Zug客車 ==== |
|||
==== 1972年夏・TEE 7(スイス方面行き) ==== |
|||
[[ドイツ連邦鉄道]]([[西ドイツ]]国鉄)は[[1951年]]から、1937年から39年にかけて製造された優等列車用客車の再生プログラムを始めた。同年夏ダイヤ改正からラインゴルト急行(F 164/163)にはこうして再生された一二三等合造車と荷物車が用いられた。客車の全長はこのころのドイツの優等列車の標準である21.25mであり、[[青]]色に塗装されていた<ref name="SE_Blauen_F-zuge">{{Harvnb|Schrf|Ernst|1983|pp=687-688}}</ref>。 |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
|||
|+ エメリッヒ → デュースブルク間<ref name="MM_direct"/> |
|||
! 号車番号 !! 種類 !! 運行区間 !! デュースブルク以南 |
|||
|- |
|||
| || (機関車) || || |
|||
|- |
|||
| 32 || 一等コンパートメント車 || rowspan="2" | エメリッヒ → ミュンヘン || rowspan="3" | IC 107 |
|||
|- |
|||
| 22 || 一等コンパートメント車 |
|||
|- |
|||
| 21 || 一等コンパートメント車 || アムステルダム → ミュンヘン |
|||
|- |
|||
| 20 || 一等開放座席車 || アムステルダム → ジュネーヴ || rowspan="2" | TEE 7 |
|||
|- |
|||
| 19 || 一等コンパートメント車 || フーク・ファン・ホラント → ミラノ |
|||
|- |
|||
| - || 食堂車 || rowspan="2" | フーク・ファン・ホラント → ミュンヘン || rowspan="2" | IC 107 |
|||
|- |
|||
| 12 || 一等コンパートメント車 |
|||
|} |
|||
1952年に運行を開始したライン・プファイル(F 10/9, 後のラインゴルト急行、ラインゴルト)にも同様に再生された一二等客車が用いられた。ただし[[食堂車]]のみは[[国際寝台車会社]]所属のものであった<ref name="SE_Blauen_F-zuge"/>。[[ドイツ寝台車・食堂車会社]](DSG, 旧[[ミトローパ]]の西ドイツ側)の食堂車は、[[ミュンヘン]]方面への編成(F22/21, 後の[[ラインプファイル]])に[[マインツ]] - [[ミュンヘン]]間でのみ連結された<ref name="SE_1952"/>。ラインゴルトの食堂車がDSGのものになったのは[[1955年]]以降である<ref name="SE_Blauen_F-zuge" />。 |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
|||
|+ デュースブルク → バーゼル間<ref name="MM_direct"/> |
|||
! 号車番号 !! 種類 !! 運行区間 !! デュースブルク以北 !! バーゼル以南 |
|||
|- |
|||
| || (機関車) || || |
|||
|- |
|||
| 40 || 一等コンパートメント車 || rowspan="2" | ハノーファー → バーゼル |
|||
| rowspan="7" | IC 107 || rowspan="2" | - |
|||
|- |
|||
| 41 || 一等コンパートメント車 |
|||
|- |
|||
| 38 || 一等コンパートメント車 || rowspan="2" | ハノーファー → クール || rowspan="2" | (クール行列車) |
|||
|- |
|||
| 37 || 一等コンパートメント車 |
|||
|- |
|||
| 36 || 一等展望車 || rowspan="3" | ハノーファー → ジュネーヴ || rowspan="4" | TEE 7 |
|||
|- |
|||
| - || 食堂車 |
|||
|- |
|||
| 34 || 一等開放座席車 |
|||
|- |
|||
| 20 || 一等開放座席車 || アムステルダム → ジュネーヴ || rowspan="2" | TEE 7 |
|||
|- |
|||
| 19 || 一等コンパートメント車 || フーク・ファン・ホラント → ミラノ || rowspan="3" | TEE 75 |
|||
|- |
|||
| 4 || 一等コンパートメント車 || rowspan="2" | ドルトムント → ミラノ || rowspan="2" | IC 107 |
|||
|- |
|||
| 3 || 一等コンパートメント車 |
|||
|} |
|||
* IC 107 「ラインプファイル」:ハノーファー → デュースブルク → ミュンヘン |
|||
* TEE 75 「ローラント」:ブレーメン → バーゼル → ミラノ |
|||
[[1956年]]の二等級制移行後は、ラインゴルトの客車は戦後製の一等車(全長26.4m)となった<ref>{{Harvnb|Jacobson|2009|p=39}}</ref>。 |
|||
==== 1980年夏・TEE 6/7 ==== |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
|||
|+ エメリッヒ - バーゼル間<ref name="MM_composition"/> |
|||
! 種類 !! 形式 !! 運行区間 |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 || rowspan="4" | エメリッヒ - バーゼル |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 |
|||
|- |
|||
| 一等開放座席車 || Apmz121 |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント/バー車 || ARDmh105 |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 || アムステルダム - クール |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 || アムステルダム - ミラノ |
|||
|- |
|||
| 食堂車 || WRmh132 || rowspan="4" | アムステルダム - ベルン |
|||
|- |
|||
| 一等開放座席車 || Apmz121 |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 |
|||
|} |
|||
==== |
==== 「ラインゴルト型」 ==== |
||
[[File:TEE Rheingold Dresden pic01 2007 04 23.JPG|thumb|ラインゴルト用客車(保存車両)]] |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center" |
|||
{{seealso|:de:TEE/IC-Wagen (DB) }} |
|||
|+ エメリッヒ - マインツ間<ref name="MM_composition"/> |
|||
! 種類 !! 形式 !! 運行区間 |
|||
|- |
|||
| 一等開放座席車 || Apmz121 || エメリッヒ - バーゼル |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 || rowspan="3" | アムステルダム - バーゼル |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 |
|||
|- |
|||
| 食堂車 || WRmh132 |
|||
|- |
|||
| 一等開放座席車 || Apmz121 || rowspan="3" | アムステルダム - ミュンヘン |
|||
|- |
|||
| クラブ車 || WGmh804 |
|||
|- |
|||
| 一等コンパートメント車 || Avmz111 |
|||
|} |
|||
西ドイツ国鉄は[[1962年]]から63年にかけてラインゴルト、ラインプファイル用に新型の客車を製造した。この形式は「ラインゴルト型」とも呼ばれ、ドイツにおけるTEE、[[インターシティ]]用客車の標準となった。のちに車体の仕様はほぼ共通ながら[[鉄道車両の台車|台車]]を200km/h運転可能なものにした車両に置き換えられている。1976年までラインゴルトにはドーム屋根の[[展望車]]や厨房部分が2階建てになった[[食堂車]]など特徴的な客車が連結されていたが、これらは200km/h運転に対応できずラインゴルトでの運用から外れた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
== 年表 == |
|||
* [[1928年]]([[昭和]]3年)5月15日:FFD「ラインゴルト」、フーク・ファン・ホラント/アムステルダム - バーゼル間で運転開始。 |
|||
ラインゴルト型以前には二人用や四人用のコンパートメント席や、開放座席車の一部に二人用個室を設けた客車も存在したが、ラインゴルト型では6人用コンパートメント車と純粋な開放座席車の2種類に整理された<ref name="SE_RG"/>。 |
|||
* [[1939年]](昭和14年)8月22日:運転休止。 |
|||
* [[1951年]](昭和26年)5月20日:F-Zug「ラインゴルト急行」、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間で運転開始。 |
|||
1962年当時の車両は戦前のミトローパ時代の客車と同様のクリーム地に青の帯の塗装であった。TEE化後もしばらくはそのままの塗装だったが、のちにTEEの標準であるクリーム地に赤帯に改められた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
* [[1954年]](昭和29年)5月23日:「ラインゴルト」と改称 |
|||
* [[1962年]](昭和37年)5月27日:ラインゴルト型客車投入。アムステルダム/フーク・ファン・ホラント - バーゼル間に。 |
|||
なお西ドイツ国鉄は[[1967年]]に車両の形式名を改めている([[:de:UIC-Bauart-Bezeichnungssystem für Reisezugwagen]]参照)。以下では特に断らない限り改定後の形式名を用いる。 |
|||
* [[1965年]](昭和40年)5月30日:[[TEE]]に種別変更。アムステルダム/フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間に延長。 |
|||
* [[1979年]](昭和54年)5月27日:フーク・ファン・ホラント発着列車廃止。 |
|||
; [[コンパートメント車]](Avm111型) |
|||
* [[1982年]](昭和57年)5月23日:アムステルダム - バーゼル間に短縮。 |
|||
: 6人用個室9室を備え定員は54名である。車両の両端にデッキと[[列車便所|トイレ]]がある。個室の長さ(レール方向)は2322mmあり、同時期の[[フランス国鉄]]のミストラル56型、ミストラル69型(ともに2140mm)などと比べて広くなっている。全長は26.1m, 重量は43.3トン<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
* [[1983年]](昭和58年)5月29日:ミュンヘン方面への編成の運転を開始。 |
|||
: ラインゴルトに当初用いられたのは1962年製のAvümh111型(名称改定前はSAv4üm型)で、のちに200km/h対応のAvümz111型に置き換えられた<ref name="MM_car62"/><ref group="注釈" name="200km/h">正確には -h と -z の区別は[[車軸発電機]]の有無によるものであり、Avümh111型などでも200km/h対応の車両は存在する。</ref><ref group="注釈" name="uuml">ü は扉の配置を表す記号であるが、1980年以降は省略されている。</ref>。 |
|||
* [[1987年]](昭和62年)5月30日:廃止。 |
|||
; [[開放座席車]](Apm121型) |
|||
: 中央の通路を挟んで1人掛けと2人掛けの座席が並んでおり、定員は48名である。座席の幅は675mm、間隔(シートピッチ)は1170mm。車体はAvm111型とほぼ同じ構造であるが、両端にトイレに加え荷物置き場を設けてあるため、客席部分の長さはAvm111型と比べやや短い。車両の全長は26.1m、重量は45トンである<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
: ラインゴルトに当初用いられたのは1962年製のApümh121型(名称改定前はSAp4üm型)で、のちに200km/h対応のApümz121型に置き換えられた<ref name="MM_car62"/><ref group="注釈" name="200km/h"/><ref group="注釈" name="uuml"/>。 |
|||
; [[展望車]](ADm101型) |
|||
: 車両の中央部分が[[2階建車両|2階建て]]となっており、階上部分は[[強化ガラス]]製のドーム状の屋根を備えた展望席となっている。展望席の定員は22名。階下部分は[[荷物車|荷物室]]および[[郵便車|郵便室]]となっている。また両側の平屋部分のうち、片方には6人用コンパートメント2室、もう片方には開放座席12席と飲み物を提供する[[バー (酒場)|バー]]がある。車両の全長は26.4m、重量は50トンあり、このため台車はバネを特別に強化したものが用いられた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
: ラインゴルトに用いられたのは1962年製のADümh101型(名称改定前はSAD4üm型)である。この型はラインゴルトとラインプファイルのみで用いられたが、200km/h運転に対応できなかったため、[[1976年]]5月29日を最後に運用から外された<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
; [[食堂車]](WRm131型) |
|||
: 厨房部分の約5mが2階建てとなっている。食事席は通路を挟んで2人テーブルと4人テーブルが並ぶ形で、席数は48席である。また厨房を挟んで食事席と反対側には軽食を提供する[[ビュッフェ]]がある。車両の全長は26.4mで、重量は54トンに達した<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
: ラインゴルトでは1962年製のWRümh131型(名称改定前はSDWR4üm型)が用いられた。この型はラインゴルトとラインプファイル専用だったが、200km/h運転に対応できなかったため、1976年5月29日を最後に運用から外れた<ref name="MM_car62"/>。 |
|||
; 食堂車(WRm132型) |
|||
: 厨房部分も平屋構造となっており、食事室はWRm131型から6席減った42席である。ビュッフェの位置は厨房と食事席の間に変更されている。全長は27.5m, 重量は47.5トンである<ref name="MM_car65">Maurice, Malaspina pp.116 - 119</ref>。 |
|||
: ラインゴルトで用いられたのは1965年から68年にかけて製造された200km/h運転対応のWRümh132型<ref group="注釈" name="uuml"/>で、他のTEEで用いられていたものが1976年からラインゴルトに転用された<ref name="MM_car65"/>。 |
|||
; コンパートメント/バー合造車(ARDm105型) |
|||
: 客車の半分には6人用個室4室があり、もう半分は18席の食事席とビュッフェからなっていた。この他、列車秘書用の部屋があった<ref name="MM_car65"/>。 |
|||
: 1965年に他のTEE向けに製造されたもので<ref name="MM_car65"/>、ラインゴルトでは1976年から数年間エメリッヒ以南での増結車両の一つとして組み込まれた<ref name="Ueda"/><ref name="MM_composition">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|p=261}}</ref>。 |
|||
; クラブ車(WGmh804型) |
|||
: クラブ車 (Clubwagen) は車内に[[ビール]]などを提供するバーと、テーブルを囲む形の座席34席を備えた車両である。これはかつての[[ミトローパ]]のサロン車を現代(1980年代)風にアレンジしたものとされる。この空間を「ラインゴルト・[[クラブ]] (Rheingold Club) 」と称し、車内での様々なイベントに用いた<ref name="MM_72">{{Harvnb|Mertens|Malaspina|2007|pp=140-143}}</ref>。 |
|||
: 車体はApm121型を改造したものであり、1982年に3両が製造され、1983年からラインゴルトのミュンヘン方面への編成で用いられた<ref name="MM_72"/>。 |
|||
===== 編成図 ===== |
|||
<gallery caption="ラインゴルト・ラインプファイルの編成と客車の入れ替え" widths="200px" perrow="3"> |
|||
File:Composition of TEE 10 Rheingold in 1965 ja.svg | 1965年夏、南行<ref name="MM_direct" /> |
|||
File:Composition of TEE 9 Rheingold in 1965 ja.svg | 1965年夏、北行<ref name="MM_direct" /> |
|||
File:Composition of TEE 7 Rheingold in 1971 ja.svg | 1971年夏、南行<ref name="MM_direct" /> |
|||
File:Composition of TEE 7 Rheingold in 1980 ja.svg | 1980年夏、南行<ref name="MM_composition" /> |
|||
File:Composition of TEE 14 Rheingold in 1986 ja.svg | 1986-87年夏、北行<ref name="MM_composition" /> |
|||
</gallery> |
|||
===== 運用 ===== |
|||
[[1972年]]時点において、ラインゴルト、ラインプファイルの客車は[[ハノーファー]]、[[ドルトムント]]、[[ミュンヘン]]の車両基地に分散して配属されていた。オランダからスイスやイタリアへ直通する客車は運行区間のどちらの端も車両基地と離れているが、ミュンヘンやハノーファー発着の客車と順に入れ替えることで、定期的に基地に戻っていた<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|pp=387-388}}</ref>。 |
|||
[[1973年]]にラインプファイルとの客車入れ替えが中止された後は、ラインゴルトの客車は新設されたTEE[[エラスムス (列車)|エラスムス]](デン・ハーグ - ミュンヘン)と共通の運用となった。ラインゴルトの客車はフーク・ファン・ホラント - デン・ハーグ間を[[回送]]され、エラスムスとしてミュンヘンの車両基地に戻っていた<ref name="MM_Era"/><ref name="Ueda" />。 |
|||
=== 機関車 === |
|||
牽引機関車は原則として国境駅を境にそれぞれの国のものが用いられた。 |
|||
[[1928年]]の運転開始時点で使用されていた機関車は以下の通り<ref name="SE_loc28">{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=547}}</ref><ref name="Jac_table"/> |
|||
* オランダ国鉄 |
|||
** 3700形蒸気機関車 |
|||
* ドイツ国営鉄道 |
|||
** 18<sup>4-5</sup>形蒸気機関車(旧[[王立バイエルン邦有鉄道S3/6型蒸気機関車|バイエルン邦有鉄道S3/6形]]) : ゼーフェナール - マンハイム |
|||
** 18<sup>3</sup>形蒸気機関車(旧[[バーデン邦有鉄道]]IVh形) : マンハイム - バーゼル(バディッシャー駅) |
|||
ゼーフェナール - マンハイム間は38<sup>10-40</sup>形(旧[[プロイセン邦有鉄道]]P6形)機関車が用いられることもあった。[[スイス]]へ直通する客車はスイス国内では[[電気機関車]]牽引となった<ref name="Jac_Neue_ideen" />。 |
|||
[[1934年]]にはマンハイム以南の牽引機関車が[[ドイツ国鉄01形蒸気機関車|01形]]となり、1935年にはゼーフェナール(またはエメリッヒ) - マンハイム間も01形が牽引するようになった<ref name="SE_loc28"/>。このころまでにオランダ国内の牽引機は3900形に替わっている<ref name="Jac_table"/>。 |
|||
第二次大戦後の西ドイツでは特急列車の牽引機としては01形や[[ドイツ国鉄03形蒸気機関車|03形]]の蒸気機関車が用いられた<ref>{{harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=551}}</ref>。1955年時点における西ドイツ国内の牽引機は以下の通りであった<ref>{{Harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=855}}</ref>。<!-- オランダ国内は資料なし --> |
|||
* フェンロー - ケルン : 23形蒸気機関車 |
|||
* ケルン - マンハイム : 01形または03.10形蒸気機関車 |
|||
* マンハイム - バーゼル(バディッシャー駅) : 01形蒸気機関車 |
|||
[[1958年]]にマンハイム - バーゼル間は[[電気機関車]]牽引となった。1959年には電気機関車牽引区間はケルン - バーゼル間に延長され、1962年の経路変更後にはデュイスブルク - バーゼル間が電気機関車牽引であった<ref>{{harvnb|Scharf|Ernst|1983|p=874}}</ref>。またこのときE10.12形(後に112形と改称)機関車が投入され、160km/h運転が始められた<ref name="SE_RG"/><ref>{{Harvnb|Jacobson|2009|p=39}}</ref>。[[1966年]]に最後まで残った[[アーネム]] - デュイスブルク間の非電化区間が[[鉄道の電化|電化]]されたことで、ラインゴルトは全線電気機関車牽引となった<ref name="MM_performance"/>。 |
|||
[[File:TEE Rheingold BR103 235-8 Dresden 2007 04 23.JPG|thumb|103形機関車(TEE色)]] |
|||
1965年以降のTEE時代に使用された機関車は以下のとおり<ref name="MM_locomotive">{{harvnb|Mertens|Malaspina|2007|loc=pp.84 - 85, p.91}}</ref>。 |
|||
* オランダ国鉄 |
|||
** 1100形電気機関車 ([[:nl:1100 (locomotieftype)|1100]]) :1965年 - 1981年 |
|||
** 1300形電気機関車 ([[:nl:1300 (locomotieftype)|1300]]) :1965年 - 1981年 |
|||
** 1600形電気機関車 ([[:nl:1600/1800 (locomotieftype)|1600]]) :1981年 - 1987年 |
|||
* 西ドイツ国鉄 |
|||
** [[西ドイツ国鉄 V200形ディーゼル機関車|V200.1形ディーゼル機関車]]:1965年 - 1966年 |
|||
** 112形電気機関車(旧称E10.12形、[[:de:DB-Baureihe E 10.12|DB-Baureihe E 10.12]]):1965年 - 1974年 |
|||
** [[西ドイツ国鉄103形電気機関車|103形電気機関車]]:1973年 - 1980年 |
|||
** 111形電気機関車 ([[:de:DB-Baureihe 111|DB-Baureihe 111]]) :1980年 - 1987年 |
|||
* スイス国鉄 |
|||
** [[スイス国鉄Re410形電気機関車|Re4/4<sup>I</sup>形電気機関車]]:1965年 - 1987年 |
|||
<!-- === 保存車両 === --> |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
618行目: | 598行目: | ||
{{Reflist|group=注釈}} |
{{Reflist|group=注釈}} |
||
=== 出典 === |
=== 出典 === |
||
{{Reflist}} |
{{Reflist|2}} |
||
== 関連項目 == |
|||
* [[TEE]] |
|||
* [[ライン川]] |
|||
* [[ラインの黄金]] |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* {{ |
* {{Citation| |
||
|author=[[平井正]] |
|||
|last= Mertens |
|||
|title=オリエント急行の時代 |
|||
|first= Maurice |
|||
|year=2007 |
|||
|coauthors= Malaspina, Jean-Pierre |
|||
|publisher=[[中央公論新社]] |
|||
|year= 2007 |
|||
|series=[[中公新書]] |
|||
|title= La légende des Trans-Europ-Express |
|||
|isbn=978-4-12-101881-6 |
|||
|publisher= LR Press |
|||
|ref=Hirai_OE |
|||
|language= フランス語 |
|||
|id= ISBN 978-2-903651-45-9 |
|||
}} |
}} |
||
* {{ |
* {{Citation |
||
|last= |
|last= Jacobson |
||
|first= |
|first= Claus-Jürgen |
||
|year= 2009 |
|||
|title= Deutsche Schnellzug Legenden |
|||
|publisher= transpress |
|||
|location= [[シュトットガルト|Stuttgart]], Germany |
|||
|language= ドイツ語 |
|||
|id= ISBN 978-3-613-71332-1 |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|last= Koschinski |
|||
|first= Konrad |
|||
|year= 2007 |
|year= 2007 |
||
|title= Die TEE-Story (Eisenbahn Journal Sonder-Ausgabe 1/2007) |
|title= Die TEE-Story (Eisenbahn Journal Sonder-Ausgabe 1/2007) |
||
|publisher= Eisenbahn JOURNAL |
|publisher= Eisenbahn JOURNAL |
||
|location= {{lang|de|Fürstenfeldbruck}}, Germany |
|location= {{lang|de|Fürstenfeldbruck}}, Germany |
||
646行目: | 630行目: | ||
|id= ISBN 978-3-89610-170-9 |
|id= ISBN 978-3-89610-170-9 |
||
}} |
}} |
||
* {{ |
* {{Citation |
||
|last= Koschinski |
|||
|first= Konrad |
|||
|year= 2008 |
|||
|title= ICE (Eisenbahn Journal Special-Ausgabe 2/2008) |
|||
|publisher= Eisenbahn JOURNAL |
|||
|location= {{lang|de|Fürstenfeldbruck}}, Germany |
|||
|language= ドイツ語 |
|||
|id= ISBN 978-3-89610-195-2 |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|last= Malaspina |
|last= Malaspina |
||
|first= Jean-Pierre |
|first= Jean-Pierre |
||
|year= 2005 |
|year= 2005 |
||
|title= Train d'Europe Tome 1 |
|title= Train d'Europe Tome 1 |
||
|publisher= La Vie du Rail |
|publisher= La Vie du Rail |
||
|language= フランス語 |
|language= フランス語 |
||
|id= ISBN 2-915034-48-6 |
|id= ISBN 2-915034-48-6 |
||
}} |
}} |
||
* {{Citation |
|||
* {{Cite book|和書 |
|||
|last= Malaspina |
|||
|author=[[山之内秀一郎]] |
|||
|first= Jean-Pierre |
|||
|year=1981 |
|||
|year= 2006 |
|||
|title=世界鉄道の旅 |
|||
|title= Train d'Europe Tome 2 |
|||
|publisher=[[大陸書房]] |
|||
|publisher= La Vie du Rail |
|||
|id=ISBN 4-8033-0512-9 |
|||
|language= フランス語 |
|||
|id= ISBN 2-915034-49-4 |
|||
}} |
}} |
||
* {{Citation |
|||
* {{Cite book|和書 |
|||
|last= Mertens |
|||
|first= Maurice |
|||
|last2= Malaspina |
|||
|first2= Jean-Pierre |
|||
|year= 2007 |
|||
|title= La légende des Trans-Europ-Express |
|||
|publisher= LR Press |
|||
|language= フランス語 |
|||
|id= ISBN 978-2-903651-45-9 |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|last= Scharf |
|||
|first= Hans-Wolfgang |
|||
|last2= Ernst |
|||
|first2= Friedhelm |
|||
|year= 1983 |
|||
|title= Vom Fernschnellzug nach Intercity |
|||
|publisher= Eisenbahn-Kurier |
|||
|language= ドイツ語 |
|||
|id= ISBN 3-88255-751-6 |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|others=植田信行 監修 |
|others=植田信行 監修 |
||
|year=1978 |
|year=1978 |
||
668行目: | 686行目: | ||
|publisher=[[徳間書店]] |
|publisher=[[徳間書店]] |
||
|series=カラーバックス |
|series=カラーバックス |
||
|ref=Cite_Ueda |
|||
}} |
}} |
||
* {{Citation |
|||
|author=[[山之内秀一郎]] |
|||
|year=1981 |
|||
|title=世界鉄道の旅 |
|||
|publisher=[[大陸書房]] |
|||
|id=ISBN 4-8033-0512-9 |
|||
|ref=Cite_Yamanouchi81 |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|year= 2008 |
|||
|title= {{lang|de|Intercity -(BAHN EXTRA 4/2008)}} |
|||
|publisher= GeraMond |
|||
|location= {{lang|de|München}}, Germany |
|||
|language= ドイツ語 |
|||
|id= ISBN 978-3-89724-202-9 |
|||
}} |
|||
** {{Citation |
|||
|last1=Pillmann |
|||
|first1=Zeno |
|||
|last2=THD |
|||
|chapter=Der Intercity erobert den Binnenverker (1971-1979) |
|||
|pages=26-38 |
|||
|ref=BE_IC_71 |
|||
}} |
|||
** {{Citation |
|||
|last1=Pillmann |
|||
|first1=Zeno |
|||
|last2=THD |
|||
|chapter=Die Glanzzeit des Intercity-Verkehrs (1979-1991) |
|||
|pages=26-38 |
|||
|ref=BE_IC_79 |
|||
}} |
|||
** {{Citation |
|||
|last1=Pillmann |
|||
|first1=Zeno |
|||
|last2=THD |
|||
|chapter=Der Intercity im ICE-Zeitalter (1991-2008) |
|||
|pages=58-69 |
|||
|ref=BE_IC_91 |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|editor=[[小池滋]] |
|||
|editor2=[[青木栄一]] |
|||
|editor3=和久田康雄 |
|||
|year=2010 |
|||
|title=鉄道の世界史 |
|||
|publisher=悠書館 |
|||
|isbn=978-4-903487-32-8 |
|||
}} |
|||
** {{Citation |
|||
|author=松永和生 |
|||
|chapter=ドイツ オーストリア |
|||
|pages=49-94 |
|||
|ref=Matsunaga_DA |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|last=Collaardey |
|||
|first=Bernard |
|||
|year=2003 |
|||
|month=1 |
|||
|title=Strasbourg : une étoile en devenir |
|||
|journal=Rail Passion |
|||
|volume=66 |
|||
|pages=30-57 |
|||
|publisher= La Vie du Rail |
|||
|language= フランス語 |
|||
}} |
|||
* {{Citation |
|||
|title=Thomas Cook European Rail Timetable |
|||
|publisher=Thomas Cook |
|||
|issn= 0952-620X |
|||
|ref=Thomas_Cook_ER |
|||
}} 各号 |
|||
* {{Citation |
|||
|title=Thomas Cook European Timetable |
|||
|publisher=Thomas Cook |
|||
|issn= 0952-620X |
|||
|ref=Thomas_Cook_E |
|||
}} 各号 |
|||
* {{Citation |
|||
|title=Thomas Cook Continental Timetable |
|||
|publisher=Thomas Cook |
|||
|ref=Thomas_Cook_C |
|||
}} 各号 |
|||
== 関連項目 == |
|||
* [[TEE]] |
|||
* [[ラインプファイル]] - [[エラスムス (列車)]] |
|||
* [[ラインの黄金]] |
|||
{{commonscat|Rheingold-Express}} |
{{commonscat|Rheingold-Express}} |
2011年5月16日 (月) 09:56時点における版
ラインゴルト (Rheingold) はオランダとドイツ[注釈 1]南部、スイスなどを、ドイツのライン川沿いを経由して結んでいた昼行の国際列車である。1928年から第二次世界大戦による中断を挟んで1987年まで運行されており、1965年からはTEEの一列車でもあった。1951年から1954年まではラインゴルト急行 (Rheingold Express) という名称だった。
オランダ側の起点はアムステルダムおよびフーク・ファン・ホラント[注釈 2]であり、スイス側の終点は時期によりバーゼルまたはジュネーヴなどである。また1983年以降はミュンヘン方面への分岐も存在した。
列車名はドイツ語で「ラインの黄金」を意味し、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ラインの黄金」の元にもなった中世ドイツの叙事詩ニーベルンゲンの歌に登場する、ライン川の底に沈められたニーベルンゲン族の財宝に由来する[1][2]。
歴史
前史
第一次世界大戦以前は、ドイツ帝国とスイス、イタリアを結ぶ列車は、のちのラインゴルトの経路であるライン右岸のバーデン大公国経由ではなく、当時はドイツ帝国領であった左岸のエルザス(現フランス領アルザス)経由を主としていた[3][4]。1901年に運行を開始したフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の昼行急行D164/163列車はラインゴルトの前身ともいえる列車であるが、上部ライン地域においてはビンガーブリュック[注釈 3]から南下しノイシュタット[注釈 4]、シュトラスブルク(ストラスブール)を経由していた。この列車にはフリッシンゲン[注釈 5]-バーゼル間、アムステルダム - ミラノ間などを直通する客車も連結されていた[5]。
第一次世界大戦の終戦後、ドイツでは経済の混乱やフランス、ベルギーによるルール占領などのため、列車の運行には困難な状況が続いた[6]。1924年のドーズ案受諾とドイツ国営鉄道会社(Deutsche Reichsbahn-Gesellschaft, DRG)の発足により鉄道は安定を取り戻した[7]。国際列車の運行に関しては、大戦前に列車を運行していた国際寝台車会社(ワゴン・リ)と、大戦中にワゴン・リの路線網を奪う形で設立された中央ヨーロッパ寝台車食堂車会社(ミトローパ)の間で対立があったが、1925年に両社とドイツ国営鉄道の間で協定が成立し、ドイツとオランダなどの間の列車はミトローパの担当とされた[8]。
1925年夏からは、オランダのナイメーヘンとスイスのバーゼルを、クレーフェ、ケルン、ヴィースバーデン、マインツ、ルートヴィヒスハーフェン、マンハイム、カールスルーエを経由して結ぶ長距離急行列車[注釈 6] FD164/163列車が運行されている[9]。
ドイツ国営鉄道は、01形機関車に始まる標準化された蒸気機関車の製造を進める一方で、豪華客車を利用した旅客列車を計画した。このような列車を運行する路線として最初に選ばれたのが、ケルンとマンハイムの間のライン川に沿う景勝区間である。これを南北に延長し、北はオランダ、南はスイスに至る列車としてラインゴルトは構想された[10]。
第二次大戦前
ラインゴルトは1928年5月15日、長距離急行102/101列車としてフーク・ファン・ホラント - バーゼル間で運行を開始した。ラインゴルトは長距離急行列車の中でも別格の扱いを受けており、当時の長距離急行列車の略号が "FD" だったのに対し、ラインゴルトに対しては特別にFを2つ重ねた "FFD" という略号が用いられた[11][12]。
フーク・ファン・ホラント発の列車はユトレヒトでアムステルダムからの客車を併結し、アーネムを経てライン川右(東)岸のゼーフェナール(Zevenaar)とエメリッヒ (Emmerich) の間で国境を越えた。ここからデュイスブルク、デュッセルドルフなどを経由し、ケルンで鉄橋を渡って左(西)岸に移る。コブレンツからマインツにかけての景勝地を通過したのち、マインツで再び川を渡って右岸に転じさらに南下する。マンハイムでは当時の駅の構造上方向転換が必要であった。カールスルーエ、フライブルクなどを経てスイスとの国境を越えバーゼル市内で三度ライン川を渡り、バーゼルSBB駅が終点となった[13]。バーゼルではジュネーヴ、チューリッヒ、ルツェルンの各方面への列車と乗り継ぐことができ[13]、ルツェルンへは夏期のみ一部の客車が直通した[12]。またフーク・ファン・ホラントではイギリスからの夜行連絡船と接続しており、これと乗り継ぐことでイギリスからスイスまで約24時間で旅行することが可能となった[12]。
客車はミトローパの所有する一等および二等(当時のドイツは四等級制で、一般の急行列車は一等から三等までを連結[14])のサロン車(一部コンパートメント席)からなり、一部の客車には厨房が備え付けられており客席で食事をとることができた。客車はクリーム色地に青帯の塗装が施されていた[12]。このような豪華列車が運行されたことは、ドイツの第一次世界大戦での敗戦からの復興を象徴するものと受け取られた[15][2]。
ラインゴルトの1ヶ月後の1928年6月15日には国際寝台車会社(ワゴン・リ)によるアムステルダム - チューリッヒ間の昼行列車「エーデルヴァイス」がブリュッセル、ルクセンブルク、ストラスブール、バーゼル経由で運転を開始した。両列車はその後TEEの時代に至るまでライバル関係にあった。エーデルヴァイスは途中のアントウェルペンでイギリスからの船と接続しており、イギリス - スイス間の需要をめぐっても両者は競合関係にあった[12]。
ただし、1929年からラインゴルトの一部客車がチューリッヒまで直通した際には、バーゼル - チューリッヒ間の運行を委託されたスイス連邦鉄道はラインゴルトの客車をエーデルヴァイスの客車と一緒に連結して運転した[12]。
1933年にはアムステルダム、ルツェルン、チューリッヒへの客車の直通が中止され、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間のみの運行となった[16]。1938年にフーク・ファン・ホラント - チューリッヒ間およびアムステルダム - チューリッヒ、ルツェルン間の直通が復活している[17]。
1935年12月8日にニュルンベルクで行われたドイツの鉄道100周年を祝うパレードには、ラインゴルト専用の客車3両と荷物車1両が01型機関車(156号機)の牽引で参加した[18]。
1939年5月15日のダイヤ改正で、ラインゴルトの一部客車はゴッタルドトンネルを経由しフーク・ファン・ホラント - ミラノ間を直通するようになった。しかし第二次世界大戦直前の国際関係の悪化により、1939年8月22日をもってドイツの長距離急行列車はラインゴルトを含めすべて運休となった[19][12]。
第二次大戦後
大戦後の1946年12月17日、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間に無名の急行列車(列車番号D164/163)が運行を開始した。この列車は一等車から三等車まですべての等級を含んでいた。またフーク・ファン・ホラントからケルンまでは戦前のラインゴルトより南よりの別経路を辿っており、フェンローとカルデンキルヒェン (Kaldenkirchen) の間で国境を越えていた[20][21]。速度は戦前の列車よりも遅く、途中からは夜行列車となっていた[22]。164/163列車は1948年には西ドイツ国内においては長距離急行(FD)に格上げされた[23]。また1949年のダイヤ改正で時刻が変更され純粋な昼行列車となった[22]。
1951年夏のダイヤ改正(5月20日)からはこの列車は新たに発足したドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)の特急列車 [注釈 7] となり、「ラインゴルト急行 (Rheingold Express) 」と名付けられた。一部客車はケルンで分割・併合を行ない、アムステルダム - ケルン間を別の特急列車(列車番号F264/263)として運行ていた[24][20]。
1952年夏ダイヤ改正(5月18日)で、同じフーク・ファン・ホラント - バーゼル間にもう一往復の特急列車(列車番号F10/9)が新設され、「ライン・プファイル」と命名された。ラインゴルト急行(F164/163)が一等車から三等車まで全ての等級の客車を含んでいたのに対し、ライン・プファイルは一等車と二等車のみの編成であった。また所要時間もラインゴルト急行より短かった[25]。
このとき同時にドルトムントとミュンヘンをエッセン、ケルン、マインツ、フランクフルト・アム・マイン、ヴュルツブルク経由で結ぶ一二等特急列車(列車番号F22/21)も新設された。ライン・プファイル(F10/9)とF22/21列車はケルン - マインツ間では互いに併結されて運転された。F22/21列車は時期によりオーストリアのインスブルックまで直通した[25]。
しかし翌1953年夏のダイヤ改正では、F10/9列車がラインゴルト急行の名を名乗ることになり、元ラインゴルト急行であったF164/163列車は「ローレライ急行 (Loreley-Express) 」と改名された。アムステルダムからの編成はローレライ急行に併結され、ラインゴルト急行はフーク・ファン・ホラント発着の客車のみで構成された[20]。このころラインゴルト急行(F10/9)のフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の所要時間は10時間42分であった[26]。南側ではラインゴルト急行の一部の客車はローマまで直通した。ミラノ - ローマ間では夜行列車となった[27]。F22/21列車も同時にラインゴルト急行を名乗った[28]。ローレライ急行はその後1970年までフーク・ファン・ホラント - バーゼル間の特急列車として存続した[29]。
1954年夏ダイヤ改正では、F10/9列車およびF22/21列車は「ラインゴルト」と改名された。またケルン - マインツ間での併結も取りやめられ、ケルン中央駅で客車の入れ替えのみを行なった[30]。ラインゴルト(F10/9)の運行区間はフーク・ファン・ホラント - ローマ間とされたが、翌1955年にはフーク・ファン・ホラント - バーゼル間に戻った[28]。その後1958年夏ダイヤ改正(6月1日)で、F22/21列車は「ラインプファイル」という独立した列車名を与えられた[31][注釈 8]。
1956年6月3日に行なわれたヨーロッパの鉄道の二等級制への移行(旧一等車と旧二等車を統合して新一等車に)により、ラインゴルトはすべて一等車からなる編成となった[20][32]。
1959年にはマインツ - マンハイム間の経路が変更され、ライン川左岸のヴォルムス経由となりマンハイムの手前で鉄橋を渡るようになった。これはマンハイムの対岸のルートヴィヒスハーフェン中央駅の改良により、マインツ、ヴォルムス方面から折り返すことなくマンハイムへ直通できるようになったためである。この結果マンハイムでの方向転換は不要となった[31][33]。フーク・ファン・ホラント - バーゼル間の所要時間は9時間にまで短縮された[26]。またこの時から一部客車がフーク・ファン・ホラント - クール間を直通するようになった[31]。
新型車両投入
1960年に西ドイツ国鉄はラインゴルト用に新型の客車を製造することを決定した。これは戦前のミトローパの客車や1957年に運行を始めたTEE用気動車に匹敵するものとされた。ただしラインゴルトは各地へ車両を直通させる必要から、TEEのような固定編成の気動車ではなく機関車の牽引する客車とされた[26]。この客車は全車空調設備を備えており、ドーム型の展望車も存在した(詳細は後述)[20]。
この新型車両は1962年5月27日のダイヤ改正から投入された。また西ドイツ国内ではE10.12型電気機関車が牽引するようになり、最高速度はそれまでの140km/hから160km/hに向上した。ドイツでは第二次大戦前にはフリーゲンダー・ハンブルガーのような160km/h運転をする列車があったが、戦後の西ドイツではこれが初である[26]。このダイヤ改正から、ラインゴルトにアムステルダム発着の客車が再び連結されるようになった。同時にケルン以北の経路が第二次世界大戦前のFFDラインゴルトと同様なものに戻り、ユトレヒトでフーク・ファン・ホラント発の客車とアムステルダム発の客車が併結された。ラインプファイルとの車両の入れ替えはデュイスブルクで行なわれるようになった[33][20]。
TEE昇格
1962年の新型車両導入により、ラインゴルトはTEEにふさわしい設備を備えたものとなった。このため西ドイツ国鉄、オランダ国鉄、スイス国鉄の三者は1964年のTEE委員会でラインゴルトをTEEに加えることを提案した。しかしラインゴルトは途中で複雑な分割・併合を行なっているため、運行時間に占める停車時間の割合が高く、停車時間を極力短くするというTEEの原則からは外れていた。またラインゴルトは途中でラインプファイルと客車のほぼ半数を入れ替えていたことから、西ドイツ国鉄は国内列車であるラインプファイルもTEEに昇格させることを主張した。交渉の結果、1965年夏のダイヤ改正からラインゴルト、ラインプファイルのほか、同型の客車を用いるブラウエル・エンツィアン(ハンブルク - ミュンヘン)と、これらとほぼ同程度の設備の客車を用いるフランス国鉄のル・ミストラル(パリ - ニース)もTEEに加えられることになった。これはのちにフランスや西ドイツ、イタリアに国内列車のTEEが次々と誕生するきっかけとなった[34]。
こうして、1965年5月30日からラインゴルトはTEEの一列車となり、同時に運行区間はアムステルダム、フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間に延長された[1]。
1971年夏ダイヤ改正ではTEEの列車番号に関する規則が改定され、西ドイツを走行するTEEのほとんどで列車番号が奇数の向きと偶数の向きが反転した。ラインゴルトもそれまで南行が偶数(TEE 10)、北行が偶数(TEE 9)だったのが逆(南行 : TEE 7, 北行 : TEE 6)になっている[35]。
TEEラインゴルトの食堂車などの車内サービスはドイツ寝台車食堂車会社(DSG, 旧ミトローパの西ドイツ側)によって行なわれた[1]。
1970年代のラインゴルトでは列車秘書のサービスがあり、平日のドイツ国内の一定区間を運行中に限り、文書のタイプや車外への電話などを請け負っていた[36]。
分割・併合
TEE昇格当時、ラインゴルトは途中のユトレヒト、デュースブルク、バーゼルの3個所で客車の分割・併合を行なう多層建て列車であった。
1965年の夏ダイヤにおけるジュネーヴ行ラインゴルト (TEE 10) では、分割・併合は次のように行なわれた(#編成図も参照)[37]。まずラインゴルトはアムステルダムとフーク・ファン・ホラントを各々客車3両で発車する。ユトレヒトでこれらを連結して6両編成となる。デュースブルクでこのうち前2両、後ろ1両を切り放しミュンヘン行きラインプファイル (TEE 22) に連結、同時にラインプファイルでドルトムントから到着した客車のうち4両をラインゴルトに連結(前部に1両、後部に3両)する。バーゼルSBB駅では編成は3分割され、ラインゴルトは4両編成となってジュネーヴへ、またミラノ行き客車2両はスイス国鉄、イタリア国鉄の458-313列車に、クール行きの1両はスイス国鉄の203列車に連結されてそれぞれの目的地へ向かう。アムステルダム - ジュネーヴ間の全行程を走破する客車は1両のみであり、フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間を直通する客車は存在しなかった。また展望車はドルトムント発着の編成にのみ含まれており、オランダには乗り入れていなかった。
オランダ方面行き (TEE 9) はほぼこれの逆の手順で分割・併合を行なうが、客車の連結順が異なり、またデュースブルクからドルトムントへの車両はラインプファイルではなく、その数分後を続行する別の列車 (F 321) として運行された。このような複雑な手順のため、ラインゴルトの途中駅での停車時間の合計は双方向とも60分を越えており、運行時間の約1割を停車時間が占めていた[38]。
1969年にTEEローラント(ブレーメン - バーゼル - ミラノ)が創設されると、ミラノ発着の客車はバーゼル - ミラノ間でローラントに連結されるようになった[39][40]。
1970年夏のダイヤ改正ではドルトムント - クール間の直通客車が新設された代わりに、アムステルダム - クール間の直通客車はなくなった。これは西ドイツ国鉄がルール地方とスイスの間の需要を重視したためであり、アムステルダムとドルトムントの双方からの客車をクールへ直通させようとすると、デュイスブルクもしくはバーゼルでの客車の入れ替えが複雑になり過ぎるためでもある[39]。この結果デュイスブルクでは、ラインゴルトとしてオランダとスイス方面を直通する客車よりもラインプファイルと入れ替えられる客車の方が多くなった。
1971年9月26日からラインプファイルはハノーファー - ミュンヘン間のインターシティとなったが、デュイスブルクでの客車の入れ替えは以前と同様に行なわれていた[39]。
インターシティー網の一部へ
1971年冬ダイヤ改正(9月26日)において、西ドイツ国鉄は4系統で各2時間間隔ののインターシティー (IC) 網を構築し、ラインゴルトを含むTEEもその一部と位置づけられるようになった。ラインゴルトはデュイスブルク - マンハイム間においてIC1号線(ハンブルク - ドルトムント - デュイスブルク - ケルン - マンハイム - ミュンヘン)の一部を担う列車とされ、ケルンとマンハイムで区間運転のインターシティと入れ代わるようなダイヤが組まれた。なおマンハイム - バーゼル間はIC3号線(ハンブルク - ハノーファー - フランクフルト・アム・マイン - マンハイム - バーゼル)の一部であるが、同区間においてはIC3号線のTEEローラントの後を数分間隔で続行運転した[41]。
1971年-72年冬ダイヤにおいては、ジュネーヴ行きラインゴルト (TEE 7) は他のTEE, ICと以下の各駅で接続した[41]。
駅 | 接続列車 | 運行区間 | 系統 | 備考 |
---|---|---|---|---|
デュイスブルク中央駅 | IC107「ラインプファイル」 | ハノーファー → デュイスブルク → ミュンヘン | IC2号線(ただしドルトムント - ケルン間は1号線の経路) | 客車の入れ替えを伴う |
ケルン中央駅 | IC130「トーラー・ボンムベルク」 | ハンブルク → ケルン | IC1号線(ドルトムント - ケルン間は2号線の経路) | |
マンハイム中央駅 | IC165「プレジデント」 | フランクフルト・アム・マイン → マンハイム → ミュンヘン | IC1号線 | ラインゴルトからプレジデントへのみ接続。 |
バーゼルSBB駅 | TEE75「ローラント」 | ブレーメン → バーゼル → ミラノ | IC3号線 | 客車直通あり) |
1973年6月3日のダイヤ改正で、デュイスブルクでのラインプファイルとの客車入れ替えは1両を除いて打ち切られた。例外として、ハノーファー - ミラノ間をラインプファイル、ラインゴルトおよびTEEローラント[注釈 9]に連結されて直通する客車1両のみが残った[42]。オランダとミュンヘンをラインゴルト、ラインプファイルとして直通する客車はなくなったが、代わってデン・ハーグ - ミュンヘン間にTEEエラスムスが新設されている[43]。なお1975年からはもう1両の客車が、週末のみハノーファー - キアッソ[注釈 10]間をラインプファイル、ラインゴルト、ローラントに連結され直通するようになった。これは旅行会社の貸し切り車両であった[42]。
ラインゴルトはオランダ国内では客車6両(アムステルダム発着2両、フーク・ファン・ホラント発着4両)で運転され、エメリッヒで客車を増結して西ドイツ国内では12両編成となっていた。フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間の客車の直通やオランダへの展望車の乗り入れはこの時初めて実現した[39]。1973年のダイヤ改正ではラインゴルトをジュネーヴからフランスのリヨンまで延長することも検討された。しかしフランス国鉄は、ジュネーヴ - リヨン間の線路はラインゴルトの展望車や食堂車のような重い客車を走らせるには適していないためこれに反対し、実現しなかった[44]。
1976年からラインゴルトの客車はすべて200km/h運転対応のものとなったが、ドーム屋根の展望車や厨房部分が2階建ての食堂車などの特徴的な客車はなくなり、他のインターシティーと同様な編成となった[45]。
1979年夏ダイヤ改正(5月27日)からは、西ドイツのインターシティはすべて二等車を連結するようになり、ラインゴルトなど一等車専用のTEEはインターシティ網からは独立した存在となった。このときラインゴルトはフーク・ファン・ホラント発着の系統が廃止され、バーゼルでの編成分割を除けばアムステルダム - ジュネーヴ間の分岐のない単純な経路となった[46]。
1980年には夏期のみ運行区間がアムステルダム - ベルン間に短縮された。これはこの年から西ドイツなどで夏時間が導入されたが、スイスでは導入されず、ラインゴルトは西ドイツの時刻にしたがって運行されたため、ローザンヌ - ジュネーヴ間で他の列車と干渉してしまうためである。翌1981年にはスイスでも夏時間が実施されたため区間の短縮はなかった[38]。
1982年夏ダイヤ改正(5月23日)でスイス国鉄は「スイス・タクト」と呼ばれるパターンダイヤを導入したが、ラインゴルトはこれには組み込まれず、運行区間をアムステルダム - バーゼル間に短縮した。さらに北行(TEE 6)は従来より2時間早い時間帯に繰り上げられた。バーゼルからは一部客車がベルン、クールおよびキアッソへ直通したが、ミラノへの直通はこの時廃止された[47]。
ミュンヘンへの分岐
1983年5月29日から、ラインゴルトはマンハイムで編成の一部を分割してミュンヘンへ分岐するようになった。1973年まで客車をラインプファイルに併結する形でのミュンヘンへの乗り入れは行なわれていたが、ラインゴルトの列車名のままでのミュンヘン乗り入れは(ラインプファイルとの分離以降では)これが初である[1]。
マンハイムからミュンヘンまでの経路は都市間の連絡よりも観光を重視したものであった。列車はハイデルベルクからネッカー川の谷に入り、古城街道の一部をたどった後シュトゥットガルトに至る。シュトゥットガルトとミュンヘンの間でも幹線ルートからは北に外れ、ロマンティック街道沿いの観光地を経由した。途中には単線のローカル線もあり、優等列車が乗り入れることは稀な区間であった。またミュンヘンへの編成にはクラブ車 (Clubwagen) が連結されており、車内でのイベントに用いられた[48]。
しかしこの経路は想定されたほどの旅客を集めることはできず、1985年6月2日のダイヤ改正でハイデルベルク - シュトゥットガルト - ミュンヘン間の経路はライン谷とミュンヘンを結ぶ幹線ルートに変更された。同時にバーゼル発着編成との分割場所はマインツに変更され、マインツ - ハイデルベルク間ではライン川右岸のダルムシュタットを経由するようになった。また1985年と1986年の夏にはミュンヘンからオーストリアのザルツブルクまで延長された[48]。
廃止
ラインゴルトは1987年5月30日の運行を最後に廃止された[1]。
TEEに用いられていた列車名の多くは、TEEとしての廃止後もほぼ同じ区間を走るインターシティーやユーロシティーに引き継がれているが、「ラインゴルト」の名は引き継がれることなく消滅した。これは西ドイツ国鉄が格式あるラインゴルトに二等車を連結したくなかったためであるとも評されている[48]。
1987年5月31日から、国際列車の新たな種別としてユーロシティが発足した。ユーロシティのうちオランダとスイスを結んでいたのは、アムステルダム - クール間の「レンブラント」である[49][注釈 11]。その後1991年にベルナー・オーバーラント(Berner Oberland, アムステルダム - インターラーケン)が加わった[50]。2000年以降オランダとドイツの間のユーロシティはICEへの置き換えが進められ、2002年12月15日のダイヤ改正でレンブラントは廃止された[51]。さらに2003年12月14日にはベルナー・オーバーラントもハンブルク - インターラーケン間に区間を変更し、オランダとスイスを結ぶユーロシティは姿を消した[52]。
ユーロシティに代わり、2003年12月ダイヤ改正ではアムステルダムとバーゼルをケルン-ライン=マイン高速線経由で結ぶICE(ICE 105/104)が運行を開始した。これがかつてのラインゴルトに最も近い経路をたどる列車となっている[53]。
年表
- 1928年5月15日:FFD「ラインゴルト」、フーク・ファン・ホラント、アムステルダム - バーゼル間で運転開始。
- 1939年8月22日:運転休止。
- 1951年5月20日:F-Zug「ラインゴルト急行」、フーク・ファン・ホラント - バーゼル間で運転開始。
- 1954年5月23日:「ラインゴルト」と改称。
- 1962年5月27日:ラインゴルト型客車投入。
- 1965年5月30日:TEEに種別変更。アムステルダム、フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間に延長。
- 1979年5月27日:フーク・ファン・ホラント発着列車廃止。
- 1982年5月23日:アムステルダム - バーゼル間に短縮。
- 1983年5月29日:ミュンヘン方面への編成の運転を開始。
- 1987年5月30日:廃止。
停車駅一覧
おもなダイヤ改正時点におけるラインゴルトの停車駅は以下の通り。
● | | | ∥ | ┌●┐, └●┘ | ※ |
---|---|---|---|---|
停車 | 通過 | 経由せず | 分割、併合 | 注釈参照 |
- ^ a b c オランダ国内の停車駅については一部を除き出典元に記載なし。
- ^ この間ロッテルダム中央駅、アイントホーフェン駅、フェンロー駅、カルデンキルヒェン駅に停車。
- ^ 1967年9月24日以降はスキーダム・ロッテルダム西駅 (Schiedam Rotterdam West) に停車駅を変更
- ^ a b 1935年から南行はゼーフェナールに代わりエメリッヒに停車"
- ^ (F22/21)ドルトムント中央駅 - ボーフム中央駅 - エッセン中央駅
- ^ 1966年5月21日まではオランダ方面行きのみ停車
- ^ 1937年から南行のみ停車
- ^ 1977年まではバーデン・オース駅
- ^ a b 1980年夏ダイヤではベルン終点
- ^ (F22/21)この間フランクフルト中央駅、ヴュルツブルク中央駅、トロイヒトリンゲン駅に停車。
- ^ この間シュヴェービッシュ・グミュント駅 (Schwäbisch Gmünd) 、アーレン駅 (Aalen) 、ネルトリンゲン駅 (Nördlingen) 、ドナウヴェルト駅 (Donauwörth) に停車
- ^ (F22/21)ローゼンハイム中央駅 - クーフシュタイン駅 - インスブルック駅
- ^ a b c 夏ダイヤ期間のみ延長
車両・編成
ラインゴルトは全期間を通じて機関車が牽引する客車列車であった。
客車
ミトローパ
1928年の運転開始当時、ラインゴルトにはミトローパ社の保有する専用客車が使用された。当時の長距離急行列車では客車は(三等車を含まないことを除けば)一般の急行列車と変わらないものであり、ラインゴルトは使用車両の上でも別格とされていた[14]。ラインゴルト専用客車は全長が23.5mあり、当時のドイツでは最長であった[注釈 12]。客車の内訳は以下の通り[56]。
種類 | 形式名 | 定員 | 製造数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
一等車 | SA4ü-28 | 28名 | 5 | |
SA4üK-28 | 20名 + 厨房 | 5 | ||
二等車 | SB4ü-28 | 43名 | 10 | |
SB4üK-28 | 29名 + 厨房 | 6 | ||
荷物車 | SPw4ü-28 | - | 3 | 全長19.68m |
一等車の開放客室は中央の通路を挟んで1人掛けの椅子が並ぶ1+1の配列(車室端を除く)である。このほか四人用と二人用の個室が各一室(厨房つき客車では四人用のみ)ある。二等車では通路を挟んで2+1の配列となる。一等車、二等車とも座席は一人分ごとに独立したソファー状のものであり、二列ごとに向かい合わせに配置されている。座席の間には固定式のテーブルがある。窓の幅は一等車では1.40m、二等車でも1.20mあり、これは当時としては大きなものであった[56][57]。
1934年には、二等客車のうち3両が一二等合造車に改造されている[18]。
1928年と1935年時点でのラインゴルト(南行、FFD 102)の編成は以下の通りであった[58]。
種類 | 形式 | 運行区間、備考 |
---|---|---|
荷物車 | SPw4ü-28 | フーク・ファン・ホラント - バーゼル |
二等車 | SB4ü-28 | |
一等車 | SA4üK-28 | |
一等車 | SA4ü-28 | アムステルダム - バーゼル |
二等車 | SB4üK-28 | |
荷物車 | - | マンハイム - バーゼル : この間進行方向が反転するため隔離車[注釈 13]として連結。ラインゴルト専用車ではない。 |
種類 | 形式 | 運行区間 |
---|---|---|
荷物車 | SPw4ü-28 | フーク・ファン・ホラント - バーゼル |
一等車 | SA4ü-28 | |
二等車 | SB4üK-28 | |
一二等車 | SAB4ü-28/34 | アムステルダム - バーゼル |
F-Zug客車
ドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)は1951年から、1937年から39年にかけて製造された優等列車用客車の再生プログラムを始めた。同年夏ダイヤ改正からラインゴルト急行(F 164/163)にはこうして再生された一二三等合造車と荷物車が用いられた。客車の全長はこのころのドイツの優等列車の標準である21.25mであり、青色に塗装されていた[59]。
1952年に運行を開始したライン・プファイル(F 10/9, 後のラインゴルト急行、ラインゴルト)にも同様に再生された一二等客車が用いられた。ただし食堂車のみは国際寝台車会社所属のものであった[59]。ドイツ寝台車・食堂車会社(DSG, 旧ミトローパの西ドイツ側)の食堂車は、ミュンヘン方面への編成(F22/21, 後のラインプファイル)にマインツ - ミュンヘン間でのみ連結された[25]。ラインゴルトの食堂車がDSGのものになったのは1955年以降である[59]。
1956年の二等級制移行後は、ラインゴルトの客車は戦後製の一等車(全長26.4m)となった[60]。
「ラインゴルト型」
西ドイツ国鉄は1962年から63年にかけてラインゴルト、ラインプファイル用に新型の客車を製造した。この形式は「ラインゴルト型」とも呼ばれ、ドイツにおけるTEE、インターシティ用客車の標準となった。のちに車体の仕様はほぼ共通ながら台車を200km/h運転可能なものにした車両に置き換えられている。1976年までラインゴルトにはドーム屋根の展望車や厨房部分が2階建てになった食堂車など特徴的な客車が連結されていたが、これらは200km/h運転に対応できずラインゴルトでの運用から外れた[45]。
ラインゴルト型以前には二人用や四人用のコンパートメント席や、開放座席車の一部に二人用個室を設けた客車も存在したが、ラインゴルト型では6人用コンパートメント車と純粋な開放座席車の2種類に整理された[26]。
1962年当時の車両は戦前のミトローパ時代の客車と同様のクリーム地に青の帯の塗装であった。TEE化後もしばらくはそのままの塗装だったが、のちにTEEの標準であるクリーム地に赤帯に改められた[45]。
なお西ドイツ国鉄は1967年に車両の形式名を改めている(de:UIC-Bauart-Bezeichnungssystem für Reisezugwagen参照)。以下では特に断らない限り改定後の形式名を用いる。
- コンパートメント車(Avm111型)
- 6人用個室9室を備え定員は54名である。車両の両端にデッキとトイレがある。個室の長さ(レール方向)は2322mmあり、同時期のフランス国鉄のミストラル56型、ミストラル69型(ともに2140mm)などと比べて広くなっている。全長は26.1m, 重量は43.3トン[45]。
- ラインゴルトに当初用いられたのは1962年製のAvümh111型(名称改定前はSAv4üm型)で、のちに200km/h対応のAvümz111型に置き換えられた[45][注釈 14][注釈 15]。
- 開放座席車(Apm121型)
- 中央の通路を挟んで1人掛けと2人掛けの座席が並んでおり、定員は48名である。座席の幅は675mm、間隔(シートピッチ)は1170mm。車体はAvm111型とほぼ同じ構造であるが、両端にトイレに加え荷物置き場を設けてあるため、客席部分の長さはAvm111型と比べやや短い。車両の全長は26.1m、重量は45トンである[45]。
- ラインゴルトに当初用いられたのは1962年製のApümh121型(名称改定前はSAp4üm型)で、のちに200km/h対応のApümz121型に置き換えられた[45][注釈 14][注釈 15]。
- 展望車(ADm101型)
- 車両の中央部分が2階建てとなっており、階上部分は強化ガラス製のドーム状の屋根を備えた展望席となっている。展望席の定員は22名。階下部分は荷物室および郵便室となっている。また両側の平屋部分のうち、片方には6人用コンパートメント2室、もう片方には開放座席12席と飲み物を提供するバーがある。車両の全長は26.4m、重量は50トンあり、このため台車はバネを特別に強化したものが用いられた[45]。
- ラインゴルトに用いられたのは1962年製のADümh101型(名称改定前はSAD4üm型)である。この型はラインゴルトとラインプファイルのみで用いられたが、200km/h運転に対応できなかったため、1976年5月29日を最後に運用から外された[45]。
- 食堂車(WRm131型)
- 厨房部分の約5mが2階建てとなっている。食事席は通路を挟んで2人テーブルと4人テーブルが並ぶ形で、席数は48席である。また厨房を挟んで食事席と反対側には軽食を提供するビュッフェがある。車両の全長は26.4mで、重量は54トンに達した[45]。
- ラインゴルトでは1962年製のWRümh131型(名称改定前はSDWR4üm型)が用いられた。この型はラインゴルトとラインプファイル専用だったが、200km/h運転に対応できなかったため、1976年5月29日を最後に運用から外れた[45]。
- 食堂車(WRm132型)
- 厨房部分も平屋構造となっており、食事室はWRm131型から6席減った42席である。ビュッフェの位置は厨房と食事席の間に変更されている。全長は27.5m, 重量は47.5トンである[61]。
- ラインゴルトで用いられたのは1965年から68年にかけて製造された200km/h運転対応のWRümh132型[注釈 15]で、他のTEEで用いられていたものが1976年からラインゴルトに転用された[61]。
- コンパートメント/バー合造車(ARDm105型)
- 客車の半分には6人用個室4室があり、もう半分は18席の食事席とビュッフェからなっていた。この他、列車秘書用の部屋があった[61]。
- 1965年に他のTEE向けに製造されたもので[61]、ラインゴルトでは1976年から数年間エメリッヒ以南での増結車両の一つとして組み込まれた[36][62]。
- クラブ車(WGmh804型)
- クラブ車 (Clubwagen) は車内にビールなどを提供するバーと、テーブルを囲む形の座席34席を備えた車両である。これはかつてのミトローパのサロン車を現代(1980年代)風にアレンジしたものとされる。この空間を「ラインゴルト・クラブ (Rheingold Club) 」と称し、車内での様々なイベントに用いた[63]。
- 車体はApm121型を改造したものであり、1982年に3両が製造され、1983年からラインゴルトのミュンヘン方面への編成で用いられた[63]。
編成図
運用
1972年時点において、ラインゴルト、ラインプファイルの客車はハノーファー、ドルトムント、ミュンヘンの車両基地に分散して配属されていた。オランダからスイスやイタリアへ直通する客車は運行区間のどちらの端も車両基地と離れているが、ミュンヘンやハノーファー発着の客車と順に入れ替えることで、定期的に基地に戻っていた[64]。
1973年にラインプファイルとの客車入れ替えが中止された後は、ラインゴルトの客車は新設されたTEEエラスムス(デン・ハーグ - ミュンヘン)と共通の運用となった。ラインゴルトの客車はフーク・ファン・ホラント - デン・ハーグ間を回送され、エラスムスとしてミュンヘンの車両基地に戻っていた[43][36]。
機関車
牽引機関車は原則として国境駅を境にそれぞれの国のものが用いられた。
1928年の運転開始時点で使用されていた機関車は以下の通り[65][58]
- オランダ国鉄
- 3700形蒸気機関車
- ドイツ国営鉄道
- 184-5形蒸気機関車(旧バイエルン邦有鉄道S3/6形) : ゼーフェナール - マンハイム
- 183形蒸気機関車(旧バーデン邦有鉄道IVh形) : マンハイム - バーゼル(バディッシャー駅)
ゼーフェナール - マンハイム間は3810-40形(旧プロイセン邦有鉄道P6形)機関車が用いられることもあった。スイスへ直通する客車はスイス国内では電気機関車牽引となった[18]。
1934年にはマンハイム以南の牽引機関車が01形となり、1935年にはゼーフェナール(またはエメリッヒ) - マンハイム間も01形が牽引するようになった[65]。このころまでにオランダ国内の牽引機は3900形に替わっている[58]。
第二次大戦後の西ドイツでは特急列車の牽引機としては01形や03形の蒸気機関車が用いられた[66]。1955年時点における西ドイツ国内の牽引機は以下の通りであった[67]。
- フェンロー - ケルン : 23形蒸気機関車
- ケルン - マンハイム : 01形または03.10形蒸気機関車
- マンハイム - バーゼル(バディッシャー駅) : 01形蒸気機関車
1958年にマンハイム - バーゼル間は電気機関車牽引となった。1959年には電気機関車牽引区間はケルン - バーゼル間に延長され、1962年の経路変更後にはデュイスブルク - バーゼル間が電気機関車牽引であった[68]。またこのときE10.12形(後に112形と改称)機関車が投入され、160km/h運転が始められた[26][69]。1966年に最後まで残ったアーネム - デュイスブルク間の非電化区間が電化されたことで、ラインゴルトは全線電気機関車牽引となった[38]。
1965年以降のTEE時代に使用された機関車は以下のとおり[70]。
- オランダ国鉄
- 西ドイツ国鉄
- V200.1形ディーゼル機関車:1965年 - 1966年
- 112形電気機関車(旧称E10.12形、DB-Baureihe E 10.12):1965年 - 1974年
- 103形電気機関車:1973年 - 1980年
- 111形電気機関車 (DB-Baureihe 111) :1980年 - 1987年
- スイス国鉄
- Re4/4I形電気機関車:1965年 - 1987年
脚注
注釈
- ^ 第二次世界大戦後は西ドイツ
- ^ Hoek van Holland, ロッテルダム市内の港。
- ^ Bingerbrück. 現在はビンゲン・アム・ラインの一部。
- ^ Neustadt an der Haardt. バイエルン王国のプファルツ地方。
- ^ Vlissingen. オランダ、ゼーラント州。
- ^ Fernschnellzug. 急行列車(Schnellzug)の上位に当たる種別で、1923年に新設された(Scharf & Ernst 1983, p. 24)。「特急列車」と訳されることもある。
- ^ Fernzug, 略称 F-Zug。直訳すれば「長距離列車」であるが、急行列車(Schnellzug, D-Zug)の上位の種別であることから特急列車とも訳される。
- ^ 1954年から「ラインプファイル」の名を用いていたとする資料もある(Mertens & Malaspina 2007, p. 262, Koschinski 2007, p. 55)。
- ^ ブレーメン - バーゼル - ミラノ間
- ^ Chiasso. スイスとイタリアの国境の町。
- ^ レンブラントは元アムステルダム - ミュンヘン間のTEEであったが、その後区間や種別を変更し(Mertens & Malaspina 2007, pp. 266–269)、このダイヤ改正の直前ではアムステルダム - クール間の国際インターシティだった(Malaspina 2006, p. 29)。
- ^ 当時のドイツの急行用客車は20m前後であるScharf & Ernst 1983, p. 653
- ^ Schutzwagen. 当時のドイツの優等列車では機関車の直後に客車を連結することは禁止されており、客の乗らない荷物車や郵便車を挟む必要があった。
- ^ a b 正確には -h と -z の区別は車軸発電機の有無によるものであり、Avümh111型などでも200km/h対応の車両は存在する。
- ^ a b c ü は扉の配置を表す記号であるが、1980年以降は省略されている。
出典
- ^ a b c d e Mertens & Malaspina 2007, p. 250
- ^ a b 山之内 1981, pp. 20–24
- ^ 平井 2007, p. 35
- ^ Collaardey 2003, p. 35
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 21
- ^ 松永 2010, pp. 81–82
- ^ 松永 2010, pp. 82–84
- ^ Jacobson 2009, pp. 26–28
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 50
- ^ Jacobson 2009, pp. 28–31
- ^ Scharf & Ernst 1983, pp. 24–25
- ^ a b c d e f g Koschinski 2007, p. 54
- ^ a b Scharf & Ernst 1983, p. 54
- ^ a b Scharf & Ernst 1983, p. 24
- ^ 松永 2010, p. 85
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 59
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 62
- ^ a b c Jacobson 2009, pp. 35–37
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 65
- ^ a b c d e f Koschinski 2007, pp. 54–59
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 95
- ^ a b Scharf & Ernst 1983, pp. 97–98
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 96
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 104
- ^ a b c Scharf & Ernst 1983, p. 180
- ^ a b c d e f Scharf & Ernst 1983, p. 237
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 120
- ^ a b Scharf & Ernst 1983, pp. 801–802
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 796
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 188
- ^ a b c Scharf & Ernst 1983, p. 230
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 198
- ^ a b Mertens & Malaspina 2007, pp. 250–251
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 18–21
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 346
- ^ a b c 植田 1978, pp. 59–64
- ^ a b c d Mertens & Malaspina 2007, pp. 255–256
- ^ a b c Mertens & Malaspina 2007, pp. 258–259
- ^ a b c d Mertens & Malaspina 2007, pp. 254–257
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 331
- ^ a b Scharf & Ernst 1983, p. 385
- ^ a b Mertens & Malaspina 2007, p. 257
- ^ a b Mertens & Malaspina 2007, pp. 334–337
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 349
- ^ a b c d e f g h i j k Mertens & Malaspina 2007, pp. 103–111
- ^ Scharf & Ernst 1983, pp. 449–451
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 491
- ^ a b c Mertens & Malaspina 2007, p. 260-261
- ^ Malaspina 2006, pp. 34–35
- ^ Thomas Cook European Timetable June 1991, p. 507
- ^ Thomas Cook European Timetable December 2002, p. 507
- ^ Thomas Cook European Timetable December 2003, p. 28
- ^ Malaspina 2005, p. 88
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 189
- ^ Scharf & Ernst 1983, pp. 246–247
- ^ a b Scharf & Ernst 1983, pp. 662–666
- ^ Jacobson 2009, pp. 31–35
- ^ a b c Jacobson 2009, p. 43
- ^ a b c Schrf & Ernst 1983, pp. 687–688
- ^ Jacobson 2009, p. 39
- ^ a b c d Maurice, Malaspina pp.116 - 119
- ^ a b c Mertens & Malaspina 2007, p. 261
- ^ a b Mertens & Malaspina 2007, pp. 140–143
- ^ Scharf & Ernst 1983, pp. 387–388
- ^ a b Scharf & Ernst 1983, p. 547
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 551
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 855
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 874
- ^ Jacobson 2009, p. 39
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp.84 - 85, p.91
参考文献
- 平井正 (2007), オリエント急行の時代, 中公新書, 中央公論新社, ISBN 978-4-12-101881-6
- Jacobson, Claus-Jürgen (2009) (ドイツ語), Deutsche Schnellzug Legenden, Stuttgart, Germany: transpress, ISBN 978-3-613-71332-1
- Koschinski, Konrad (2007) (ドイツ語), Die TEE-Story (Eisenbahn Journal Sonder-Ausgabe 1/2007), Fürstenfeldbruck, Germany: Eisenbahn JOURNAL, ISBN 978-3-89610-170-9
- Koschinski, Konrad (2008) (ドイツ語), ICE (Eisenbahn Journal Special-Ausgabe 2/2008), Fürstenfeldbruck, Germany: Eisenbahn JOURNAL, ISBN 978-3-89610-195-2
- Malaspina, Jean-Pierre (2005) (フランス語), Train d'Europe Tome 1, La Vie du Rail, ISBN 2-915034-48-6
- Malaspina, Jean-Pierre (2006) (フランス語), Train d'Europe Tome 2, La Vie du Rail, ISBN 2-915034-49-4
- Mertens, Maurice; Malaspina, Jean-Pierre (2007) (フランス語), La légende des Trans-Europ-Express, LR Press, ISBN 978-2-903651-45-9
- Scharf, Hans-Wolfgang; Ernst, Friedhelm (1983) (ドイツ語), Vom Fernschnellzug nach Intercity, Eisenbahn-Kurier, ISBN 3-88255-751-6
- 世界の鉄道 国際特急, カラーバックス, 植田信行 監修, 徳間書店, (1978)
- 山之内秀一郎 (1981), 世界鉄道の旅, 大陸書房, ISBN 4-8033-0512-9
- (ドイツ語) Intercity -(BAHN EXTRA 4/2008), München, Germany: GeraMond, (2008), ISBN 978-3-89724-202-9
- Pillmann, Zeno; THD, “Der Intercity erobert den Binnenverker (1971-1979)”, pp. 26-38
- Pillmann, Zeno; THD, “Die Glanzzeit des Intercity-Verkehrs (1979-1991)”, pp. 26-38
- Pillmann, Zeno; THD, “Der Intercity im ICE-Zeitalter (1991-2008)”, pp. 58-69
- 小池滋; 青木栄一; 和久田康雄, eds. (2010), 鉄道の世界史, 悠書館, ISBN 978-4-903487-32-8
- 松永和生, “ドイツ オーストリア”, pp. 49-94
- Collaardey, Bernard (2003-1), “Strasbourg : une étoile en devenir” (フランス語), Rail Passion (La Vie du Rail) 66: 30-57
- Thomas Cook European Rail Timetable, Thomas Cook, ISSN 0952-620X 各号
- Thomas Cook European Timetable, Thomas Cook, ISSN 0952-620X 各号
- Thomas Cook Continental Timetable, Thomas Cook 各号