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'''ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス'''('''Rudolf Walter Richard Heß''', [[1894年]][[4月26日]] - [[1987年]][[8月17日]])は[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]副総統(総統代理、指導者代理とも訳される)、[[ヒトラー内閣]][[無任所大臣]]。党内初の[[親衛隊名誉指導者]]であり、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]における最終階級は[[親衛隊大将]]。'''ルドルフ・ヘス'''と表記されることが多い |
'''ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス'''('''Rudolf Walter Richard Heß''', [[1894年]][[4月26日]] - [[1987年]][[8月17日]])は[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]副総統(総統代理、指導者代理とも訳される)、[[ヒトラー内閣]][[無任所大臣]]。党内初の[[親衛隊名誉指導者]]であり、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]における最終階級は[[親衛隊大将]]。'''ルドルフ・ヘス'''と表記されることが多い{{#tag:ref|[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]所長を務めた[[親衛隊大佐]][[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]とは別人。所長のヘスの姓の綴りはHößであり、総統代理のHeßとは異なる。両者を区別するために、ルドルフ・フェルディナント・ヘスの方を'''ルドルフ・ヘース'''と表記することもある。|group=#}}。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[File:Fritz Hess.jpg|thumb|left|150px|父フリッツ・ヘス]] |
[[File:Fritz Hess.jpg|thumb|left|150px|父フリッツ・ヘス]] |
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ルドルフ・ヘスは1894年4月26日[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]でドイツ人貿易商ヨハン・フリッツ・ヘス(Johann Fritz Heß)の息子として生まれた。母はクララ・ミュンシェ(Klara Münch)。弟にアルフレート、妹にマルガレーテがいる。ヘス家の居間には皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の肖像画が飾られ、皇帝の誕生日には本国と同様に祝う典型的なドイツ人家庭であった。{{要出典範囲|なお、父は後にヘス自身の密告でダッハウに送られている|date=2010年10月}}。また弟アルフレートは精神障害者だった<ref name="パーシコ下123">パーシコ、下巻123頁</ref>。 |
ルドルフ・ヘスは1894年4月26日[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]でドイツ人貿易商ヨハン・フリッツ・ヘス(Johann Fritz Heß)の息子として生まれた。母は[[スイス]]の豪商・領事の娘クララ・ミュンシェ(Klara Münch)<ref>クノップ、上巻219・220頁</ref><ref>シュヴァルツヴェラー、37・39頁</ref>。弟にアルフレート、妹にマルガレーテがいる。ヘス家の居間には皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の肖像画が飾られ、皇帝の誕生日には本国と同様に祝う典型的なドイツ人家庭であった。{{要出典範囲|なお、父は後にヘス自身の密告でダッハウに送られている|date=2010年10月}}。また弟アルフレートは精神障害者だった<ref name="パーシコ下123">パーシコ、下巻123頁</ref>。 |
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アレキサンドリアのドイツ人学校に通うとともに家庭教師に学んだ。[[権威主義]]的で厳格な父の支配する家庭で、ヘスは[[神秘主義]]に魅かれやすい内向的な性格に育ち、[[瞑想]]の呼吸法を自分なりにアレンジするなど東洋的な思考法に染まっていった。1908年には[[ドイツ]]本国・[[ライン地方]]の[[バート・ゴーデスベルク]]にあるの寄宿制[[ギムナジウム]]に送られて青年期をそこで過ごした |
アレキサンドリアのドイツ人学校に通うとともに家庭教師に学んだ。[[権威主義]]的で厳格な父の支配する家庭で、ヘスは[[神秘主義]]に魅かれやすい内向的な性格に育ち、[[瞑想]]の呼吸法を自分なりにアレンジするなど東洋的な思考法に染まっていった。1908年には[[ドイツ]]本国・[[ライン地方]]の[[バート・ゴーデスベルク]]にあるの寄宿制[[ギムナジウム]]に送られて青年期をそこで過ごしたが、学友からは「エジプト人」と呼ばれて馬鹿にされたという<ref name="シュヴァルツヴェラー49">シュヴァルツヴェラー、49頁</ref>。 |
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ギムナジウムで3年過ごした後、父の希望でスイスの商業学校へ入学した。1年でここの学業を終え、ドイツ・[[ハンブルク]]で年期奉公した<ref>シュヴァルツヴェラー、50-51頁</ref>。将来父の貿易商の家業を継ぐための修行であった<ref name="バード22">バード、22頁</ref>。 |
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=== 第一次世界大戦 === |
=== 第一次世界大戦 === |
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1914年8月に[[第一次世界大戦]]がはじまると、父の反対を押しきって従軍を志願した。ヘスが父に逆らったのはこの時が初めてだった。ヘスは[[バイエルン王国]]軍第一歩兵[[連隊]]に入営し、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に |
1914年8月に[[第一次世界大戦]]がはじまると、父の反対を押しきって従軍を志願した。ヘスが父に逆らったのはこの時が初めてだった。ヘスは[[バイエルン王国]]軍第一歩兵[[連隊]]隷下の第一中隊に入営し<ref name="シュヴァルツヴェラー53">シュヴァルツヴェラー、53頁</ref>、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]の[[イーペル]]戦に動員された。ついで[[ソンム]]と[[アルトワ]]の陣地に駐留した<ref name="シュヴァルツヴェラー54">シュヴァルツヴェラー、54頁</ref>。はじめての戦場にヘスはかなり興奮したらしく、「村々が燃えていました。心を奪われるほど美しく。戦争!」と手紙に書きつづっている<ref name="クノップ222">クノップ、上巻222頁</ref>。 |
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1915年4月に[[兵長]]に昇進し、陣地防衛での勇戦が認められ、[[二級鉄十字章]]を授与された<ref name="シュヴァルツヴェラー54">シュヴァルツヴェラー、54頁</ref>。1915年夏に[[伍長]]に昇進した<ref name="クノップ222"/>。1916年2月から始まった[[ヴェルダンの戦い]]に動員され、6月12日に榴弾の破片で両足と背に重傷を負った<ref name="シュヴァルツヴェラー55">シュヴァルツヴェラー、55頁</ref>。退院後の1916年12月に[[副曹長]]に昇進するとともにバイエルン第18予備歩兵連隊第10中隊隷下の小隊の小隊長に任じられ、[[ルーマニア戦線]]に派遣された<ref name="シュヴァルツヴェラー55"/>。しかし1917年、ルーマニア・[[フォクシャニ]]での戦闘で肺に銃弾を受けるという重傷を負った。[[ライヒホルツグリューン]]で長期入院することとなった。1917年8月8日に書留郵便で[[少尉]]昇進の辞令を受けた<ref name="シュヴァルツヴェラー56">シュヴァルツヴェラー、56頁</ref>。 |
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1918年12月13日に退役した<ref name="シュヴァルツヴェラー58"/>。 |
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=== 第一次世界大戦後 === |
=== 第一次世界大戦後 === |
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戦時中にエジプトの父の会社は同地の事実上の宗主国であるイギリスによって敵性外国人財産として没収されていた<ref name="シュヴァルツヴェラー58"/>。ヘスは1919年2月16日に[[ミュンヘン大学]]に入学した{{#tag:ref|ヘスは[[アビトゥーア]]に合格していないが、出征した者はアビトゥーアに合格していなくても入学が認められていた<ref name="クノップ上226">クノップ、上巻226頁</ref>。|group=#}}。 |
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⚫ | ミュンヘン大学入学とほぼ同時期に彼は国粋主義団体[[トゥーレ協会]]に参加した<ref name="シュヴァルツヴェラー61">シュヴァルツヴェラー、61頁</ref>。ミュンヘンのホテル「フィーア・ヤーレスツァイテン」に武器を調達、義勇兵の徴募、サボタージュ部隊の扇動など、ミュンヘンを実効支配した[[バイエルン・レーテ共和国]]を打倒するために重要な任務を果たした。1919年5月に[[フランツ・フォン・エップ]]率いる[[ドイツ義勇軍|義勇軍(フライコール)]]が「フィーア・ヤーレスツァイテン」に司令部を置いたが、この際に同義勇軍に加わっている<ref name="クノップ上226">クノップ、上巻226頁</ref>。五か月ほど同義勇軍に将校として勤務していた<ref name="シュヴァルツヴェラー69">シュヴァルツヴェラー、69頁</ref>。 |
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[[File:KarlHaushofer RudolfHess.jpg|thumb|left|180px|ハウスホーファーとヘス(1920年頃)]] |
[[File:KarlHaushofer RudolfHess.jpg|thumb|left|180px|ハウスホーファーとヘス(1920年頃)]] |
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この後、ヘスはミュンヘン大学に戻り、[[経済学]]、[[歴史]]、[[政治学]]、[[地政学]]を学んだ。このとき地政学の父と呼ばれる[[カール・ハウスホーファー]]教授の薫陶をうけた。ハウスホーファーは大戦中には将官として出征し、また説得力に富んだ教授であったため、広く尊敬された人物であった。ヘスも彼に深く心酔し、強い影響を受けた。ハウスホーファーは「ドイツ民族には『[[生存圏]]』が不足しており、これは東方にしか見出す事が出来ない」という持論を持っており、ヘスはこの生存圏構想に強く惹かれていた<ref name="クノップ上227">クノップ、上巻227頁</ref><ref>シュヴァルツヴェラー、69-70頁</ref>。 |
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ヘスは多くの元軍人たちと同様に共産主義者とユダヤ人が[[ドイツ革命]]の黒幕(11月の犯罪者)と確信していた。大学在学中も[[反共主義]]と[[反ユダヤ主義]]の政治運動に没頭した。元々ヘスはユダヤ人とまったく関わりがなく、反ユダヤ主義者でも親ユダヤ主義者でもなかったのだが、敗戦によるドイツの混乱が酷過ぎたため、当時横行していた敗戦の責任をユダヤ人に被せる言論に惹かれて一気に反ユダヤ主義者になってしまったという<ref name="クノップ上225">クノップ、上巻225頁</ref><ref>シュヴァルツヴェラー、63-64頁</ref>。 |
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[[ルール地方]]で[[スパルタクス団]](ドイツ共産党の前身)の反乱が発生すると、その鎮圧に参加するため1920年3月29日に再びエップ義勇軍に入隊した。ヘスは[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]の飛行場を防衛する任に就いていた。4月末には反乱は鎮圧され、ヘスも4月30日にエップ義勇軍を退役した<ref>シュヴァルツヴェラー、71-72頁</ref>。 |
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[[1923年]]11月8日夜20時30分から始まった[[ミュンヘン一揆]]においてはヒトラーに同道して「[[ビュルガーブロイケラー]]」へ突入した。ヘスはその夜捕まえたバイエルン州政府閣僚の移送にあたった。さらに翌日午前11時には大学生たちを率いてミュンヘン市役所を襲撃してユダヤ人と[[ドイツ社会民主党|社民党員]]の市議会議員を拘束し、彼らを人質としてビュルガーブロイケラーへ移送した。その後も人質の監視の任にあたっていた。ヘスは人質に乱暴な取扱いはしなかったという<ref>シュヴァルツヴェラー、89-90頁</ref>。 |
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一揆の失敗を知り、[[オーストリア]]の[[ザルツブルク]]に逃亡するが<ref name="クノップ上233">クノップ、上巻233頁</ref>、翌1924年4月2日にヒトラーに判決が下った事を知るとミュンヘンへ戻った。自首してバイエルンの国民法廷から18か月の禁固刑を言い渡された<ref name="シュヴァルツヴェラー93">シュヴァルツヴェラー、93頁</ref>。ヒトラーと同じ[[ランツベルク刑務所]]に投獄された<ref name="シュヴァルツヴェラー93"/><ref name="クノップ上234">クノップ、上巻234頁</ref>。 |
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獄中ではヒトラーと非常に親密な関係を築いた。ハウスホーファー教授が頻繁にランツベルク刑務所のヘスを訪ね、ヒトラー、ヘス、ハウスホーファーの三人で長時間にわたり語り合ったりしていた<ref name="シュヴァルツヴェラー95">シュヴァルツヴェラー、95頁</ref>。ヒトラーの著書『[[わが闘争]]』の口述筆記もヘスが務めた。ヘスはただの筆記者ではなく、ヒトラーの著述のアドバイザーでもあった。『我が闘争』の中の「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」などの項目はヘスの影響が大きい<ref name="クノップ上235">クノップ、上巻235頁</ref><ref name="ヴィストリヒ243">ヴィストリヒ、243頁</ref>。 |
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⚫ | 出獄後は一時[[ミュンヘン大学]]でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。ヒトラーの個人秘書となり、ヒトラーとの密接な関係を続けた。彼はヒトラーのスケジュールを管理し、またヒトラーへの苦情の受付を担当するなどして、ヒトラーを面倒事から解放した。またヒトラーに接近する者の管理を行った。アルフレート・ローゼンベルクは当時の事について「ヒトラーに近づくのは容易ではなかった。いつもその近くにヘスがいたからだ」と語っている<ref name="シュヴァルツヴェラー101">シュヴァルツヴェラー、101頁</ref>。ただし1932年までヘスにはナチ党内で公式の肩書は何もなかった。ヘスはヒトラーの個人的な秘書にすぎなかった<ref name="ヴィストリヒ243">ヴィストリヒ、243頁</ref>。 |
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ヒトラーとヘスは公的な場では「貴方(Sie)」で呼び合っていたが、私的な場では親密な間柄の二人称「きみ(Du)」で呼び合う仲だった<ref name="クノップ上237">クノップ、上巻237頁</ref>。しかしヒトラーはすでにこの頃からヘスにいらつく事があり、[[1927年]]夏には[[ハインリヒ・ホフマン]]に対して「ヘスは真面目だが、時々神経に触る」と語っている<ref name="シュヴァルツヴェラー100">シュヴァルツヴェラー、100頁</ref>。 |
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⚫ | [[1920年]]7月1日 |
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1927年[[12月20日]]にはヒトラーとハウスホーファー教授を立会人としてイルゼ・プレールと結婚している。結婚式は[[キリスト教会]]を嫌って市役所において行った<ref name="クノップ上239">クノップ、上巻239頁</ref><ref>シュヴァルツヴェラー、100-101頁</ref>。 |
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ヘスはヒトラーの秘書活動の合間を縫って党のための宣伝飛行も行っていた。「ドイツ一周飛行」や「[[ツークシュピッツ]]飛行」などの航空イベントに参加した<ref name="クノップ上241">クノップ、上巻241頁</ref>。1931年にはナチ党所有の航空機で社民党の集会に低空飛行をかけて社民党員を蹴散らした。この件で社民党から告発を受けて裁判沙汰となった。普段は真面目でおとなしいが、突然飛行機に乗って極端な事をやる傾向は当時からあったようである<ref name="クノップ上241"/>。 |
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⚫ | 出獄後は一時[[ミュンヘン大学]]でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。ヒトラーとの密接な関係 |
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[[グレゴール・シュトラッサー]]の除名後の1932年12月にヒトラーは |
[[グレゴール・シュトラッサー]]の除名後の1932年12月にヒトラーはシュトラッサーの組織全国指導者の職をいくつかに分解し、そのうちの中心的な役割をヘスと[[ロベルト・ライ]]に与えた。ヘスには中央政治局局長なる地位が与えられた。これは全ての党機関を監督する責任者であった<ref name="クノップ上244">クノップ、上巻244頁</ref><ref name="ヴィストリヒ243">ヴィストリヒ、243頁</ref><ref name="シュヴァルツヴェラー109">シュヴァルツヴェラー、109頁</ref>。 |
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=== ナチ党政権獲得後 === |
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===副総統就任=== |
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[[File:Bundesarchiv R 8076 Bild-0019, Olympische Winterspiele.- Eröffnung.jpg|thumb|230px|1936年2月6日、[[ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック|ガルミッシュパルテンキルの冬季五輪]]の開会式。ヒトラー、ヘス]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 121-0047, Nürnberg, Reichsparteitag, Eröffnung.jpg|thumb|230px|1938年9月6日、[[ニュルンベルク党大会]]。[[ナチス式敬礼]]で挨拶を交わすヒトラーとヘス。]] |
[[File:Bundesarchiv Bild 121-0047, Nürnberg, Reichsparteitag, Eröffnung.jpg|thumb|230px|1938年9月6日、[[ニュルンベルク党大会]]。[[ナチス式敬礼]]で挨拶を交わすヒトラーとヘス。]] |
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翌[[1933年]][[1月30日]]に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|大統領]]よりアドルフ・ヒトラーが[[ドイツ国首相]]に[[任命]]された。[[ドイツ国会1933年選挙 (3月)|1933年3月の国会選挙]]でヘスは国会議員に当選した<ref name="シュヴァルツヴェラー111">シュヴァルツヴェラー、111頁</ref>。 |
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翌[[1933年]]1月30日のヒトラーの政権掌握を受けて、4月21日ナチ党の副総統(Stellvertreter des Führers、邦訳では「指導者代理」や「総統代理」とも呼ばれる)に就任。さらに、同年12月には国の[[無任所大臣]]に就任。[[親衛隊名誉指導者]]として[[親衛隊大将]]の制服の着用を許される。 |
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1933年4月21日にナチ党の副総統(Stellvertreter des Führers、邦訳では「指導者代理」や「総統代理」とも呼ばれる)に任命された<ref name="ヴィストリヒ243"/><ref name="クノップ245">クノップ、上巻245頁</ref><ref name="バード27">バード、27頁</ref>。この職位は総統の名で党のあらゆる問題を処理する権限を持ち、また立法が国家社会主義に即しているかどうか監視するためにドイツ国のあらゆる法律制定に参画すると定められていた<ref name="シュヴァルツヴェラー112">シュヴァルツヴェラー、112頁</ref>。ヘスには[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の新聞、[[エルンスト・レーム]]の突撃隊、[[ヘルマン・ゲーリング]]の警察権力といったような実力が何もなかった。ヘスの実権は全てアドルフ・ヒトラーから発せられるものであった。そして恐らくそれが彼が副総統の地位を得た理由であった<ref name="シュヴァルツヴェラー113">シュヴァルツヴェラー、113頁</ref>。 |
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総統代理としては、党員に対してヒトラーへの無条件服従を誓う個人崇拝を推進する。[[1934年]]には全省庁の政策の共同立案責任者となる。「[[長いナイフの夜]]」では[[エルンスト・レーム]]粛清と[[突撃隊]]の不服従是正に尽力した。 |
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[[ハインリヒ・ヒムラー]]の[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に接近を図り、[[親衛隊名誉指導者]]として親衛隊に入隊し、ヒムラーから[[親衛隊大将]]の階級を与えられた。親衛隊大将の階級を最初に得たのはヘスである。1934年6月にはヘスは副総統の権限で親衛隊情報部[[SD (ナチス)|SD]]をナチ党唯一の諜報機関とすると定めた<ref name="ヘーネ212">ヘーネ、212頁</ref>。 |
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[[1935年]]、公務員の任免権を与えられるが、このころから国政における党の重要性は徐々に薄れ始めていた。既に党は全権を握り国家の中枢にあるにもかかわらず、党活動のみに熱中してひたすらヒトラーへの忠誠を強調するだけの凡庸なヘスをヒトラーは次第に疎んじるようになっていった。こうしてヘスの影響力は低下した。 |
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1933年7月からは[[マルティン・ボルマン]]がヘスの秘書・副官として活動するようになった。ボルマンは非常に有能な人物で上官ヘスから徐々に権限を奪っていた<ref name="クノップ上246">クノップ、上巻246頁</ref>。 |
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またこの頃からヘスは[[心気症]]ヒポコンデリーにかかり、様々な症状を訴えたため実務は[[マルティン・ボルマン]]にゆだねられた。ヘスは[[1939年]]、[[第二次世界大戦]]の勃発数日前に国防会議のメンバーになったが、実権はほとんど失っていた。 |
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1933年10月3日にはナチ党外国組織(AO)の長官に就任した。[[エルンスト・ヴィルヘルム・ボーレ]]をそのチーフに任じて海外に住む党員の管理を行った。また外国籍のドイツ人の管理のための機関として「外国でのドイツ主義のための民族団体」(VDA)を立ち上げ、恩師のカール・ハウスホーファーにその総裁に就任してもらっている。更に[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]に「ビューロー・リッベントロップ」を立ち上げさせた。ヘスはこれらの組織を使って外務省やナチ党外務局アルフレート・ローゼンベルクなどと外交権をめぐって争った<ref name="シュヴァルツヴェラー140">シュヴァルツヴェラー、140頁</ref>。 |
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1933年12月1日には[[ヒトラー内閣]]に[[無任所大臣]]として入閣した。党を代表して内閣に参加するという建前であった<ref name="シュヴァルツヴェラー112"/>。 |
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1934年6月30日の[[突撃隊]]粛清(「[[長いナイフの夜]]」)の直前の6月25日にヘスは突撃隊で横行していた第二革命論を批判する声明を出した。しかしヘスがレーム以下突撃隊幹部をまとめて粛清することを知らされたのは当日朝早くのヒトラーの電話によってであった。この事はヘスにとってだいぶショックであったらしい。粛清自体にではなく、自分に事前に何も伝えてくれなかった事にである<ref name="クノップ上251">クノップ、上巻251頁</ref>。ヒトラーはその電話でヘスにミュンヘンの褐色館に参じるよう命じ、自身はレーム以下突撃隊幹部を招集していたバート・ヴィースゼーに逮捕に向かった<ref name="シュヴァルツヴェラー122">シュヴァルツヴェラー、122頁</ref>。一方ヘスは命令通りミュンヘンの褐色館に参じた。褐色館でも数十名の突撃隊員が監禁されており、ヘスは彼らに「諸君も容疑者だ。諸君のうち罪なき者も、他人の罪により苦しむことになるであろう。」と冷たい口調で言い放ったという<ref name="シュヴァルツヴェラー123">シュヴァルツヴェラー、123頁</ref>。しかしその後、ヒトラーがヘスの友人の[[アウグスト・シュナイトフーバー]][[突撃隊大将]]の銃殺を決定した時にはかなり動揺した様子であったといい、ヘスはヒトラーに考え直させようとしたが、却下されて奥の部屋に引っ込み、そこで泣いていたという<ref name="シュヴァルツヴェラー123">シュヴァルツヴェラー、123頁</ref><ref name="クノップ上251"/>。一方でレームの粛清には何のためらいもなかったらしく、ヘスは「最大の豚は消えねばならない」と述べ、「総統!レームの処刑は私にお任せください!」とヒトラーに願い出ている。もっともヒトラーはこれを認めず、別の者に処刑させた<ref name="ヘーネ124">ヘーネ、124頁</ref><ref name="クノップ上251"/>。 |
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この粛清事件の後の頃からヘスは[[ノイローゼ]]気味になり、しまいには[[心気症]]ヒポコンデリーを患った。彼は1933年代から[[胃]]痛や[[胆石]]痛を訴えるようになっていたが、それがますます酷くなった<ref name="クノップ上255">クノップ、上巻255頁</ref>。ボルマンに実務がゆだねられることが多くなり、ヒトラーとも徐々に疎遠となった<ref>シュヴァルツヴェラー、130-132頁</ref>。この頃ヒトラーはゲーリングに「ヘスが私に代わって務める事が無ければいいんだがな。そうなったら気の毒なのはヘスなんだか党なんだか、分からんな」と語ったという<ref name="シュヴァルツヴェラー132">シュヴァルツヴェラー、132頁</ref>。 |
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総統の寵愛を失うにつれてヘスには政府代表としてドイツ各地を巡って国民や党員と交流を深める仕事が多く割り当てられるようになり、実権をますます喪失させていった<ref name="クノップ上256">クノップ、上巻256頁</ref>。日々冷遇されるヘスは神秘的な世界に逃亡するようになった。[[占星術]]師や[[ダウジング]]師、[[夢占い]]師、[[千里眼]]などが続々と副総統の下に集まって来るようになった<ref name="クノップ上255">クノップ、上巻255頁</ref>。 |
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1935年制定の反ユダヤ主義法[[ニュルンベルク法]]にはヘスの署名がある<ref name="クノップ上252">クノップ、上巻252頁</ref><ref name="バード28">バード、28頁</ref>。その後もユダヤ人を社会から追放する多数の法律に署名した<ref name="シュヴァルツヴェラー116">シュヴァルツヴェラー、116頁</ref>。ただ1938年11月8日の反ユダヤ主義暴動「[[水晶の夜]]」事件については、彼が首謀者であるゲッベルスと仲が良くなかった事もあり、「文化的市街を略奪して汚すのはドイツ人らしくない」と批判を口にしている<ref name="シュヴァルツヴェラー115">シュヴァルツヴェラー、115頁</ref>。 |
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1939年8月にはゲーリングを議長とする国防閣僚会議の議員となる<ref name="ヴィストリヒ243">ヴィストリヒ、243頁</ref>。もっともこの国防閣僚会議は一度も開かれたことはなく、単なる名誉職であった<ref name="クノップ257">クノップ、上巻257頁</ref>。1939年9月1日にヒトラーは[[ポーランド侵攻|対ポーランド戦]]の開戦にあたっての国会演説でヘスをゲーリングに次ぐ第二後継者と定めた<ref>ヴィストリヒ、243-244頁</ref><ref name="クノップ257">クノップ、上巻257頁</ref>。もちろんこの頃のヘスはほとんど実権を喪失していた。ヘスの国民的人気に配慮しただけの指名であった<ref name="クノップ257">クノップ、上巻257頁</ref> |
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===イギリスへの飛行=== |
===イギリスへの飛行=== |
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[[Image:Rudolf Hess - Bf 110D Werk Nr 3869 - Wreckage - Bonnyton Moor.jpg|thumb|right|250px|ヘス搭乗機の残骸]] |
[[Image:Rudolf Hess - Bf 110D Werk Nr 3869 - Wreckage - Bonnyton Moor.jpg|thumb|right|250px|ヘス搭乗機の残骸]] |
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ヒトラーはかねてから |
ポーランド侵攻後、ドイツはイギリスとフランスから宣戦布告を受けた。1940年6月にドイツはフランスを下して占領下に置いた。ヒトラーはイギリスに対してはかねてから和平を望んでおり、ヘスも同意見であった。また、同じく対英和平論者であったハウスホーファーと1940年8月31日に会談した際、「ヘスが飛行機に乗って重要な目的地に旅立つ」「ヘスが大きな城に入っていく」という夢を見たと告げられており、ヘスは単独で渡英し、和平を実現することを思いついた。 |
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ヘスはハウスホーファーと、その息子の[[アルブレヒト・ハウスホーファー]]([[:en:Albrecht Haushofer|en]])とたびたび書簡を交わした。アルブレヒトは英国側の接触者として、[[ハミルトン公]][[ダグラス・ダグラス=ハミルトン]]([[:en:Douglas Douglas-Hamilton, 14th Duke of Hamilton|en]])を推薦した。ハミルトン公は国王や首相[[ウィンストン・チャーチル]]と親しく、ヘスとベルリンオリンピックで面会したことがあった。ヘスはハミルトン公の元に手紙を送ったが、イギリス側の検閲のため届かなかった。 |
ヘスはハウスホーファーと、その息子の[[アルブレヒト・ハウスホーファー]]([[:en:Albrecht Haushofer|en]])とたびたび書簡を交わした。アルブレヒトは英国側の接触者として、[[ハミルトン公]][[ダグラス・ダグラス=ハミルトン]]([[:en:Douglas Douglas-Hamilton, 14th Duke of Hamilton|en]])を推薦した。ハミルトン公は国王や首相[[ウィンストン・チャーチル]]と親しく、ヘスとベルリンオリンピックで面会したことがあった。ヘスはハミルトン公の元に手紙を送ったが、イギリス側の検閲のため届かなかった。 |
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しかしヘスは記憶喪失を主張した。アメリカ軍がヘスをゲーリングやハウスホーファー教授と引き合わせても、ヘスは「この人を知らない」と主張した<ref name="パーシコ上115">パーシコ、上巻115頁</ref>。11月7日に彼の弁護士[[ギュンター・フォン・ロールシャイト]]博士はヘスの精神鑑定を求めた<ref name="マーザー119">マーザー、119頁</ref>。法廷の要請によりアメリカ・イギリス・ソ連の精神分析医が10名集められてヘスの精神鑑定を行った。彼らは「ヘスの健忘症は、弁明を行ったり過去の出来事を理解したりする彼の能力を妨げるものである」と結論した。裁判を受ける法的能力があるかどうかは判事団にゆだねられた<ref name="パーシコ上208">パーシコ、上巻208頁</ref>。 |
しかしヘスは記憶喪失を主張した。アメリカ軍がヘスをゲーリングやハウスホーファー教授と引き合わせても、ヘスは「この人を知らない」と主張した<ref name="パーシコ上115">パーシコ、上巻115頁</ref>。11月7日に彼の弁護士[[ギュンター・フォン・ロールシャイト]]博士はヘスの精神鑑定を求めた<ref name="マーザー119">マーザー、119頁</ref>。法廷の要請によりアメリカ・イギリス・ソ連の精神分析医が10名集められてヘスの精神鑑定を行った。彼らは「ヘスの健忘症は、弁明を行ったり過去の出来事を理解したりする彼の能力を妨げるものである」と結論した。裁判を受ける法的能力があるかどうかは判事団にゆだねられた<ref name="パーシコ上208">パーシコ、上巻208頁</ref>。 |
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刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると彼の知能指数は120だった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。 |
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11月20日からニュルンベルク裁判が始まった。ヘスは全ての起訴事項(第一起訴事項「[[共同謀議]]」、第二起訴事項「[[平和に対する罪]]」、第三起訴事項「[[戦争犯罪]]」、第四起訴事項「[[人道に対する罪]]」)で起訴された。11月21日に被告人全員に対して自分の訴因について「有罪」か「無罪」かを答える[[罪状認否]]が行われたが、この際にヘスだけが「ナイン(ノー)」と答えて失笑を買った<ref name="パーシコ上190">パーシコ、上巻190頁</ref><ref name="マーザー124">マーザー、124頁</ref>。ヘスはこれ以外にも奇妙な行動が目立った。終始虚ろな目をしており、床に寝っ転がって食事をしたり、運動場で脚を高く上げて行進したり、法廷で[[ヘッドホン]]の着用を拒否したり、卑猥な言葉をつぶやいたり、公判中に小説を読んだりしていた<ref name="パーシコ上207">パーシコ、上巻207頁</ref>。 |
11月20日からニュルンベルク裁判が始まった。ヘスは全ての起訴事項(第一起訴事項「[[共同謀議]]」、第二起訴事項「[[平和に対する罪]]」、第三起訴事項「[[戦争犯罪]]」、第四起訴事項「[[人道に対する罪]]」)で起訴された。11月21日に被告人全員に対して自分の訴因について「有罪」か「無罪」かを答える[[罪状認否]]が行われたが、この際にヘスだけが「ナイン(ノー)」と答えて失笑を買った<ref name="パーシコ上190">パーシコ、上巻190頁</ref><ref name="マーザー124">マーザー、124頁</ref>。ヘスはこれ以外にも奇妙な行動が目立った。終始虚ろな目をしており、床に寝っ転がって食事をしたり、運動場で脚を高く上げて行進したり、法廷で[[ヘッドホン]]の着用を拒否したり、卑猥な言葉をつぶやいたり、公判中に小説を読んだりしていた<ref name="パーシコ上207">パーシコ、上巻207頁</ref>。 |
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11月29日にヘスに法廷能力があるかどうかの審理が開かれた。一人被告席に座るヘスに |
11月29日にヘスに法廷能力があるかどうかの審理が開かれた。一人被告席に座るヘスに心理分析官ギルバート大尉は「貴方はもうじき来なくて良くなるだろう」と告げた。ヘスはこれに驚いた様子であったという<ref name="パーシコ上208">パーシコ、上巻208頁</ref>。審理がはじまるとヘスは突然「今後、私の記憶は外部世界に対して再び反応します。記憶喪失を装っていたのは、戦術上の理由からであります」と述べ、自ら記憶喪失ではないことを明らかにした。これに法廷や世界中のマスコミは驚いた。これを受けて判事団は1945年12月1日に「ヘスには責任能力あり」と結論し、彼は裁判に残ることとなった<ref name="パーシコ上211">パーシコ、上巻211頁</ref>。 |
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1946年2月5日、ヘスはロートシャイト弁護士を熱心でないとして解雇し、[[ハンス・フランク]]の弁護をしている[[アルフレート・ザイドル]]を指名した<ref name="パーシコ下122">パーシコ、下巻122頁</ref><ref name="マーザー107">マーザー、107頁</ref>。被告側弁論においてヘスが自ら立つことはなかった。ザイドル弁護士は[[独ソ不可侵条約]]の密約問題を持ち出し、ソ連が裁判官の席に座る資格はない事を主張した<ref name="パーシコ下126">パーシコ、下巻126頁</ref>。またかつてヘスの指揮下にあった海外のある組織がスパイ活動をしていなかったことを証明するために二人の証人を召喚してヘスの弁護側反論は終わった。ヘス自身が証言に立たなかったので、反対尋問もなかった<ref name="パーシコ下126">パーシコ、下巻126頁</ref>。 |
1946年2月5日、ヘスはロートシャイト弁護士を熱心でないとして解雇し、[[ハンス・フランク]]の弁護をしている[[アルフレート・ザイドル]]を指名した<ref name="パーシコ下122">パーシコ、下巻122頁</ref><ref name="マーザー107">マーザー、107頁</ref>。被告側弁論においてヘスが自ら立つことはなかった。ザイドル弁護士は[[独ソ不可侵条約]]の密約問題を持ち出し、ソ連が裁判官の席に座る資格はない事を主張した<ref name="パーシコ下126">パーシコ、下巻126頁</ref>。またかつてヘスの指揮下にあった海外のある組織がスパイ活動をしていなかったことを証明するために二人の証人を召喚してヘスの弁護側反論は終わった。ヘス自身が証言に立たなかったので、反対尋問もなかった<ref name="パーシコ下126">パーシコ、下巻126頁</ref>。 |
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その後に個別に言い渡された量刑判決では、ヘスは[[終身刑]]判決を受けた。ヘスは死刑判決を逃れた10人の被告の1人だった。10月16日、死刑判決を受けた10人の死刑囚(自殺したゲーリングのぞく)の刑が執行された。死刑執行後、ヘス以下死刑判決を逃れた被告らは死刑場の清掃をさせられた。ヘスは死刑の際に飛び散った血のついた床を見つけると右手を掲げて[[ナチ式敬礼]]を行った<ref name="パーシコ下315">パーシコ、下巻315頁</ref>。 |
その後に個別に言い渡された量刑判決では、ヘスは[[終身刑]]判決を受けた。ヘスは死刑判決を逃れた10人の被告の1人だった。10月16日、死刑判決を受けた10人の死刑囚(自殺したゲーリングのぞく)の刑が執行された。死刑執行後、ヘス以下死刑判決を逃れた被告らは死刑場の清掃をさせられた。ヘスは死刑の際に飛び散った血のついた床を見つけると右手を掲げて[[ナチ式敬礼]]を行った<ref name="パーシコ下315">パーシコ、下巻315頁</ref>。 |
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=== シュパンダウ刑務所 === |
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1947年7月18日から他の重要戦争犯罪人と共に英米仏ソ四国共同管理下の[[シュパンダウ刑務所]]([[:en:Spandau Prison|en]])で服役することになった<ref name="マーザー396">マーザー、396頁</ref>。受刑中もヘスの内向的な性格は他の受刑者となじまず、1人瞑想したりアメリカの宇宙計画に関する本を耽読したりして自分の殻に閉じこもる生活だった。 |
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=== 最後の囚人 === |
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[[image:Rudolf Hess-Gedenkmarsch.jpg|thumb|250px|ヘスの肖像を掲げての[[ネオナチ]]のデモ([[ヴンジーデル]]、2004年8月21日)]] |
[[image:Rudolf Hess-Gedenkmarsch.jpg|thumb|250px|ヘスの肖像を掲げての[[ネオナチ]]のデモ([[ヴンジーデル]]、2004年8月21日)]] |
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[[1947年]][[7月18日]]から他の禁固判決を受けた戦犯たち(ヘス以外に[[バルトゥール・フォン・シーラッハ]]、[[アルベルト・シュペーア]]、[[カール・デーニッツ]]、[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]男爵、[[ヴァルター・フンク]]、[[エーリッヒ・レーダー]])とともに[[シュパンダウ刑務所]]([[:en:Spandau Prison|en]])で服役することになった<ref name="マーザー396">マーザー、396頁</ref><ref name="バード125">バード、125頁</ref>。 |
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⚫ | [[ |
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同刑務所は米英仏ソ四国の共同管理であって月ごとに看守が交代した。イギリスが1月、5月、9月。フランスが2月、6月、10月。ソ連が3月、7月、11月。アメリカが4月、8月、12月を担当した<ref name="バード125">バード、125頁</ref>。ヘスの囚人番号は一番最後の7番であった<ref name="バード126">バード、126頁</ref>。ヘスは刑務所に入る際に飛行服とヘルメットとブーツの保管に細心の注意を払ってくれと頼んでいる<ref name="バード126"/>。 |
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受刑中もヘスの内向的な性格は他の受刑者となじまず、1人瞑想したりしていた。アメリカ軍の刑務所管理官[[ユージン・バード]]([[:en:Eugene K. Bird|Eugene Bird]])大佐は囚人たちにかなり寛大で、宇宙計画に関心を持っていたヘスのために[[NASA]]の研究成果を調達したり、バード大佐の名前でヘスとNASAの科学者の文通を取り持ってあげるなどしていた。しかしバード大佐は[[ソビエト連邦|ソ連]]の圧力で後に解任された<ref name="シュヴァルツヴェラー34">シュヴァルツヴェラー、34頁</ref>。 |
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⚫ | [[1954年]]にノイラート、[[1955年]]にレーダー、[[1956年]]にデーニッツ、[[1957年]]にフンクが釈放された。そして[[1966年]][[9月30日]]にシュペーアとシーラッハが刑期満了で釈放されると、ヘスはただ1人の受刑者となった。しばしば家族や政治家、学者たちから減刑嘆願書が連合国に提出されたが、[[ソビエト連邦|ソ連]]の反対によって常に却下された<ref name="ヴィストリヒ244">ヴィストリヒ、244頁</ref><ref name="バード274">バード、274頁</ref><ref name="クノップ268">クノップ、上巻268頁</ref>{{#tag:ref|著名な嘆願者としては[[A・J・P・テイラー]]、[[マルティン・ニーメラー]]、[[アドルフ・アルント]]([[:de:Adolf Arndt|de]])、[[アンドレ・フランソワ=ポンセ]]([[:en:André François-Poncet|en]])などがいる。[[村瀬興雄]] 『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』 ([[中公新書]]、1968年) ISBN 978-4121001542、はしがき|group=#}}。拒否権を有するソ連が反対を続ける限り、ヘスが釈放される可能性はなかったが、[[ネオナチ]]によってヘスは「[[ナチズム]]の殉教者」として次第に祭り上げられていった。しかしヘス自身はネオナチを、「正統なナチズムの歪曲や誤解の産物」として嘲り嫌っていたという。 |
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1987年8月17日、93歳のヘスはシュパンダウ刑務所内で電気コードを首に巻き付けて死亡した。鬱病による首吊り自殺とされているが、暗殺説が出回った。ヘスの息子ヴォルフ=リュディガー・ヘスもイギリスによる暗殺説を主張している。彼は「ソ連が釈放に傾きつつあったためイギリス単独飛行の際に話し合われた事を釈放後に暴露されることを恐れたイギリスが父を暗殺した」と推測している<ref name="クノップ271">クノップ、上巻271頁</ref>。 |
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葬儀には支持者などが殺到したため埋葬は延期され、その後秘密裏に行われた。現在でも毎年命日になると多くのネオナチたちがヘスの墓のある[[ヴンジーデル]]で集会を開いている<ref name="クノップ272">クノップ、上巻272頁</ref><ref name="ヴィストリヒ244"/>。 |
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==ルドルフ・ヘス暗殺説== |
==ルドルフ・ヘス暗殺説== |
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ただし、ヘスの家族・ニュルンベルク裁判でヘスと同席した人物といったヘスと面識のある人物はいずれもニュルンベルクにいた彼が替え玉であったとは考えていない。 |
ただし、ヘスの家族・ニュルンベルク裁判でヘスと同席した人物といったヘスと面識のある人物はいずれもニュルンベルクにいた彼が替え玉であったとは考えていない。 |
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== 脚注 == |
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<references group= "注釈"/> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*[[ユージン・バード]]([[:en:Eugene K. Bird|Eugene Bird]])著、『囚人ルドルフ・ヘス:いまだ獄中に生きる元ナチ副総統』、[[笹尾久]]・[[加地永都子]]訳、[[出帆社]]、[[1976年]] |
*[[ユージン・バード]]([[:en:Eugene K. Bird|Eugene Bird]])著、『囚人ルドルフ・ヘス:いまだ獄中に生きる元ナチ副総統』、[[笹尾久]]・[[加地永都子]]訳、[[出帆社]]、[[1976年]] |
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*[[ヴルフ・シュヴァルツヴェラー]](Wulf Schwarzwäller)『ヒトラーの代理人:ルードルフ・ヘス』、[[松谷健二]]訳、[[早川書房]]、1976年 |
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*[[ウェルナー・マーザー]]著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』[[西義之]]訳、[[TBSブリタニカ]]、1979年 |
*[[ウェルナー・マーザー]]著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』[[西義之]]訳、[[TBSブリタニカ]]、1979年 |
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*[[ハインツ・ヘーネ]] 『SSの歴史 -髑髏の結社-』 [[森亮一]]訳、[[フジ出版社]]、1981年。ISBN 978-4892260506 |
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*[[:en:Joseph E. Persico|ジョゼフ・E・パーシコ]]著 [[白幡憲之]]訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、[[原書房]]、[[1996年]]、ISBN 978-4562028641 |
*[[:en:Joseph E. Persico|ジョゼフ・E・パーシコ]]著 [[白幡憲之]]訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、[[原書房]]、[[1996年]]、ISBN 978-4562028641 |
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*ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年、ISBN 978-4562028658 |
*ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年、ISBN 978-4562028658 |
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*[[:en:Robert S. Wistrich|ロベルト・S・ヴィストリヒ]]著、[[滝川義人]]訳、『ナチス時代ドイツ人名事典』、[[2002年]]、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887215733 |
*[[:en:Robert S. Wistrich|ロベルト・S・ヴィストリヒ]]著、[[滝川義人]]訳、『ナチス時代ドイツ人名事典』、[[2002年]]、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887215733 |
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=== 出典 === |
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== 関連項目 == |
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[[category:バイエルンの軍人]] |
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[[category:第一次世界大戦後ドイツ義勇軍]] |
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[[category:ナチ党員]] |
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[[category:親衛隊将軍]] |
[[category:親衛隊将軍]] |
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[[category:ドイツ第三帝国期の政治家]] |
[[category:ドイツ第三帝国期の政治家]] |
2010年11月19日 (金) 01:31時点における版
ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス Rudolf Walter Richard Heß | |
---|---|
親衛隊大将制服姿のヘス(1933年頃) | |
生年月日 | 1894年4月26日 |
出生地 |
オスマン帝国、 アレクサンドリア |
没年月日 | 1987年8月17日(93歳没) |
死没地 |
西ドイツ 西ベルリン,シュパンダウ区 |
出身校 | ミュンヘン大学 |
前職 | 軍人 |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
称号 | 血盟勲章 |
配偶者 | イルゼ・プレール |
サイン | |
選挙区 | 第29選挙区(ライプツィヒ) |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1933年3月5日 - 1941年5月11日 |
在任期間 | 1933年4月21日 - 1941年5月11日 |
内閣 | ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1933年12月1日 - 1941年5月11日 |
ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(Rudolf Walter Richard Heß, 1894年4月26日 - 1987年8月17日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党副総統(総統代理、指導者代理とも訳される)、ヒトラー内閣無任所大臣。党内初の親衛隊名誉指導者であり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。ルドルフ・ヘスと表記されることが多い[# 1]。
生涯
生い立ち
ルドルフ・ヘスは1894年4月26日エジプトのアレクサンドリアでドイツ人貿易商ヨハン・フリッツ・ヘス(Johann Fritz Heß)の息子として生まれた。母はスイスの豪商・領事の娘クララ・ミュンシェ(Klara Münch)[1][2]。弟にアルフレート、妹にマルガレーテがいる。ヘス家の居間には皇帝ヴィルヘルム2世の肖像画が飾られ、皇帝の誕生日には本国と同様に祝う典型的なドイツ人家庭であった。なお、父は後にヘス自身の密告でダッハウに送られている[要出典]。また弟アルフレートは精神障害者だった[3]。
アレキサンドリアのドイツ人学校に通うとともに家庭教師に学んだ。権威主義的で厳格な父の支配する家庭で、ヘスは神秘主義に魅かれやすい内向的な性格に育ち、瞑想の呼吸法を自分なりにアレンジするなど東洋的な思考法に染まっていった。1908年にはドイツ本国・ライン地方のバート・ゴーデスベルクにあるの寄宿制ギムナジウムに送られて青年期をそこで過ごしたが、学友からは「エジプト人」と呼ばれて馬鹿にされたという[4]。
ギムナジウムで3年過ごした後、父の希望でスイスの商業学校へ入学した。1年でここの学業を終え、ドイツ・ハンブルクで年期奉公した[5]。将来父の貿易商の家業を継ぐための修行であった[6]。
第一次世界大戦
1914年8月に第一次世界大戦がはじまると、父の反対を押しきって従軍を志願した。ヘスが父に逆らったのはこの時が初めてだった。ヘスはバイエルン王国軍第一歩兵連隊隷下の第一中隊に入営し[7]、西部戦線のイーペル戦に動員された。ついでソンムとアルトワの陣地に駐留した[8]。はじめての戦場にヘスはかなり興奮したらしく、「村々が燃えていました。心を奪われるほど美しく。戦争!」と手紙に書きつづっている[9]。
1915年4月に兵長に昇進し、陣地防衛での勇戦が認められ、二級鉄十字章を授与された[8]。1915年夏に伍長に昇進した[9]。1916年2月から始まったヴェルダンの戦いに動員され、6月12日に榴弾の破片で両足と背に重傷を負った[10]。退院後の1916年12月に副曹長に昇進するとともにバイエルン第18予備歩兵連隊第10中隊隷下の小隊の小隊長に任じられ、ルーマニア戦線に派遣された[10]。しかし1917年、ルーマニア・フォクシャニでの戦闘で肺に銃弾を受けるという重傷を負った。ライヒホルツグリューンで長期入院することとなった。1917年8月8日に書留郵便で少尉昇進の辞令を受けた[11]。
退院後の1918年春には志願していた航空隊への移籍が認められた。アウクスブルクの飛行学校に通った後、1918年11月1日付けでバイエルン第35戦闘機中隊(Bayrsche Jagdstaffel 35)の戦闘機パイロットになった[12]。しかし空の英雄になるには時が遅かった。ヘスの初出撃のわずか数日後に大戦は終結し、一機も撃ち落とすことはなかった[13][12]。
1918年12月13日に退役した[12]。
第一次世界大戦後
戦時中にエジプトの父の会社は同地の事実上の宗主国であるイギリスによって敵性外国人財産として没収されていた[12]。ヘスは1919年2月16日にミュンヘン大学に入学した[# 2]。
ミュンヘン大学入学とほぼ同時期に彼は国粋主義団体トゥーレ協会に参加した[15]。ミュンヘンのホテル「フィーア・ヤーレスツァイテン」に武器を調達、義勇兵の徴募、サボタージュ部隊の扇動など、ミュンヘンを実効支配したバイエルン・レーテ共和国を打倒するために重要な任務を果たした。1919年5月にフランツ・フォン・エップ率いる義勇軍(フライコール)が「フィーア・ヤーレスツァイテン」に司令部を置いたが、この際に同義勇軍に加わっている[14]。五か月ほど同義勇軍に将校として勤務していた[16]。
この後、ヘスはミュンヘン大学に戻り、経済学、歴史、政治学、地政学を学んだ。このとき地政学の父と呼ばれるカール・ハウスホーファー教授の薫陶をうけた。ハウスホーファーは大戦中には将官として出征し、また説得力に富んだ教授であったため、広く尊敬された人物であった。ヘスも彼に深く心酔し、強い影響を受けた。ハウスホーファーは「ドイツ民族には『生存圏』が不足しており、これは東方にしか見出す事が出来ない」という持論を持っており、ヘスはこの生存圏構想に強く惹かれていた[17][18]。
ヘスは多くの元軍人たちと同様に共産主義者とユダヤ人がドイツ革命の黒幕(11月の犯罪者)と確信していた。大学在学中も反共主義と反ユダヤ主義の政治運動に没頭した。元々ヘスはユダヤ人とまったく関わりがなく、反ユダヤ主義者でも親ユダヤ主義者でもなかったのだが、敗戦によるドイツの混乱が酷過ぎたため、当時横行していた敗戦の責任をユダヤ人に被せる言論に惹かれて一気に反ユダヤ主義者になってしまったという[19][20]。
ルール地方でスパルタクス団(ドイツ共産党の前身)の反乱が発生すると、その鎮圧に参加するため1920年3月29日に再びエップ義勇軍に入隊した。ヘスは国軍の飛行場を防衛する任に就いていた。4月末には反乱は鎮圧され、ヘスも4月30日にエップ義勇軍を退役した[21]。
ナチ党闘争時代の活動
1920年5月、ミュンヘンのビヤホール「シュテルンエッカーブロイ」においてアドルフ・ヒトラーの演説を始めて聞き[22]、非常に共感を覚えたヘスは、7月1日にナチ党の創立メンバーとして入党した(党員番号16)[23]。学生リーダーとなってヒトラーとも密接な関係を築く。このころのヘスの手紙からはヒトラーを「護民官」と呼んで熱狂する様子がよく伝わってくる。
1923年11月8日夜20時30分から始まったミュンヘン一揆においてはヒトラーに同道して「ビュルガーブロイケラー」へ突入した。ヘスはその夜捕まえたバイエルン州政府閣僚の移送にあたった。さらに翌日午前11時には大学生たちを率いてミュンヘン市役所を襲撃してユダヤ人と社民党員の市議会議員を拘束し、彼らを人質としてビュルガーブロイケラーへ移送した。その後も人質の監視の任にあたっていた。ヘスは人質に乱暴な取扱いはしなかったという[24]。
一揆の失敗を知り、オーストリアのザルツブルクに逃亡するが[25]、翌1924年4月2日にヒトラーに判決が下った事を知るとミュンヘンへ戻った。自首してバイエルンの国民法廷から18か月の禁固刑を言い渡された[26]。ヒトラーと同じランツベルク刑務所に投獄された[26][27]。
獄中ではヒトラーと非常に親密な関係を築いた。ハウスホーファー教授が頻繁にランツベルク刑務所のヘスを訪ね、ヒトラー、ヘス、ハウスホーファーの三人で長時間にわたり語り合ったりしていた[28]。ヒトラーの著書『わが闘争』の口述筆記もヘスが務めた。ヘスはただの筆記者ではなく、ヒトラーの著述のアドバイザーでもあった。『我が闘争』の中の「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」などの項目はヘスの影響が大きい[29][30]。
出獄後は一時ミュンヘン大学でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。ヒトラーの個人秘書となり、ヒトラーとの密接な関係を続けた。彼はヒトラーのスケジュールを管理し、またヒトラーへの苦情の受付を担当するなどして、ヒトラーを面倒事から解放した。またヒトラーに接近する者の管理を行った。アルフレート・ローゼンベルクは当時の事について「ヒトラーに近づくのは容易ではなかった。いつもその近くにヘスがいたからだ」と語っている[31]。ただし1932年までヘスにはナチ党内で公式の肩書は何もなかった。ヘスはヒトラーの個人的な秘書にすぎなかった[30]。
ヒトラーとヘスは公的な場では「貴方(Sie)」で呼び合っていたが、私的な場では親密な間柄の二人称「きみ(Du)」で呼び合う仲だった[32]。しかしヒトラーはすでにこの頃からヘスにいらつく事があり、1927年夏にはハインリヒ・ホフマンに対して「ヘスは真面目だが、時々神経に触る」と語っている[33]。
1927年12月20日にはヒトラーとハウスホーファー教授を立会人としてイルゼ・プレールと結婚している。結婚式はキリスト教会を嫌って市役所において行った[34][35]。
ヘスはヒトラーの秘書活動の合間を縫って党のための宣伝飛行も行っていた。「ドイツ一周飛行」や「ツークシュピッツ飛行」などの航空イベントに参加した[36]。1931年にはナチ党所有の航空機で社民党の集会に低空飛行をかけて社民党員を蹴散らした。この件で社民党から告発を受けて裁判沙汰となった。普段は真面目でおとなしいが、突然飛行機に乗って極端な事をやる傾向は当時からあったようである[36]。
グレゴール・シュトラッサーの除名後の1932年12月にヒトラーはシュトラッサーの組織全国指導者の職をいくつかに分解し、そのうちの中心的な役割をヘスとロベルト・ライに与えた。ヘスには中央政治局局長なる地位が与えられた。これは全ての党機関を監督する責任者であった[37][30][38]。
ナチ党政権獲得後
翌1933年1月30日にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりアドルフ・ヒトラーがドイツ国首相に任命された。1933年3月の国会選挙でヘスは国会議員に当選した[39]。
1933年4月21日にナチ党の副総統(Stellvertreter des Führers、邦訳では「指導者代理」や「総統代理」とも呼ばれる)に任命された[30][40][41]。この職位は総統の名で党のあらゆる問題を処理する権限を持ち、また立法が国家社会主義に即しているかどうか監視するためにドイツ国のあらゆる法律制定に参画すると定められていた[42]。ヘスにはヨーゼフ・ゲッベルスの新聞、エルンスト・レームの突撃隊、ヘルマン・ゲーリングの警察権力といったような実力が何もなかった。ヘスの実権は全てアドルフ・ヒトラーから発せられるものであった。そして恐らくそれが彼が副総統の地位を得た理由であった[43]。
ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊(SS)に接近を図り、親衛隊名誉指導者として親衛隊に入隊し、ヒムラーから親衛隊大将の階級を与えられた。親衛隊大将の階級を最初に得たのはヘスである。1934年6月にはヘスは副総統の権限で親衛隊情報部SDをナチ党唯一の諜報機関とすると定めた[44]。
1933年7月からはマルティン・ボルマンがヘスの秘書・副官として活動するようになった。ボルマンは非常に有能な人物で上官ヘスから徐々に権限を奪っていた[45]。
1933年10月3日にはナチ党外国組織(AO)の長官に就任した。エルンスト・ヴィルヘルム・ボーレをそのチーフに任じて海外に住む党員の管理を行った。また外国籍のドイツ人の管理のための機関として「外国でのドイツ主義のための民族団体」(VDA)を立ち上げ、恩師のカール・ハウスホーファーにその総裁に就任してもらっている。更にヨアヒム・フォン・リッベントロップに「ビューロー・リッベントロップ」を立ち上げさせた。ヘスはこれらの組織を使って外務省やナチ党外務局アルフレート・ローゼンベルクなどと外交権をめぐって争った[46]。
1933年12月1日にはヒトラー内閣に無任所大臣として入閣した。党を代表して内閣に参加するという建前であった[42]。
1934年6月30日の突撃隊粛清(「長いナイフの夜」)の直前の6月25日にヘスは突撃隊で横行していた第二革命論を批判する声明を出した。しかしヘスがレーム以下突撃隊幹部をまとめて粛清することを知らされたのは当日朝早くのヒトラーの電話によってであった。この事はヘスにとってだいぶショックであったらしい。粛清自体にではなく、自分に事前に何も伝えてくれなかった事にである[47]。ヒトラーはその電話でヘスにミュンヘンの褐色館に参じるよう命じ、自身はレーム以下突撃隊幹部を招集していたバート・ヴィースゼーに逮捕に向かった[48]。一方ヘスは命令通りミュンヘンの褐色館に参じた。褐色館でも数十名の突撃隊員が監禁されており、ヘスは彼らに「諸君も容疑者だ。諸君のうち罪なき者も、他人の罪により苦しむことになるであろう。」と冷たい口調で言い放ったという[49]。しかしその後、ヒトラーがヘスの友人のアウグスト・シュナイトフーバー突撃隊大将の銃殺を決定した時にはかなり動揺した様子であったといい、ヘスはヒトラーに考え直させようとしたが、却下されて奥の部屋に引っ込み、そこで泣いていたという[49][47]。一方でレームの粛清には何のためらいもなかったらしく、ヘスは「最大の豚は消えねばならない」と述べ、「総統!レームの処刑は私にお任せください!」とヒトラーに願い出ている。もっともヒトラーはこれを認めず、別の者に処刑させた[50][47]。
この粛清事件の後の頃からヘスはノイローゼ気味になり、しまいには心気症ヒポコンデリーを患った。彼は1933年代から胃痛や胆石痛を訴えるようになっていたが、それがますます酷くなった[51]。ボルマンに実務がゆだねられることが多くなり、ヒトラーとも徐々に疎遠となった[52]。この頃ヒトラーはゲーリングに「ヘスが私に代わって務める事が無ければいいんだがな。そうなったら気の毒なのはヘスなんだか党なんだか、分からんな」と語ったという[53]。
総統の寵愛を失うにつれてヘスには政府代表としてドイツ各地を巡って国民や党員と交流を深める仕事が多く割り当てられるようになり、実権をますます喪失させていった[54]。日々冷遇されるヘスは神秘的な世界に逃亡するようになった。占星術師やダウジング師、夢占い師、千里眼などが続々と副総統の下に集まって来るようになった[51]。
1935年制定の反ユダヤ主義法ニュルンベルク法にはヘスの署名がある[55][56]。その後もユダヤ人を社会から追放する多数の法律に署名した[57]。ただ1938年11月8日の反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」事件については、彼が首謀者であるゲッベルスと仲が良くなかった事もあり、「文化的市街を略奪して汚すのはドイツ人らしくない」と批判を口にしている[58]。
1939年8月にはゲーリングを議長とする国防閣僚会議の議員となる[30]。もっともこの国防閣僚会議は一度も開かれたことはなく、単なる名誉職であった[59]。1939年9月1日にヒトラーは対ポーランド戦の開戦にあたっての国会演説でヘスをゲーリングに次ぐ第二後継者と定めた[60][59]。もちろんこの頃のヘスはほとんど実権を喪失していた。ヘスの国民的人気に配慮しただけの指名であった[59]
イギリスへの飛行
ポーランド侵攻後、ドイツはイギリスとフランスから宣戦布告を受けた。1940年6月にドイツはフランスを下して占領下に置いた。ヒトラーはイギリスに対してはかねてから和平を望んでおり、ヘスも同意見であった。また、同じく対英和平論者であったハウスホーファーと1940年8月31日に会談した際、「ヘスが飛行機に乗って重要な目的地に旅立つ」「ヘスが大きな城に入っていく」という夢を見たと告げられており、ヘスは単独で渡英し、和平を実現することを思いついた。
ヘスはハウスホーファーと、その息子のアルブレヒト・ハウスホーファー(en)とたびたび書簡を交わした。アルブレヒトは英国側の接触者として、ハミルトン公ダグラス・ダグラス=ハミルトン(en)を推薦した。ハミルトン公は国王や首相ウィンストン・チャーチルと親しく、ヘスとベルリンオリンピックで面会したことがあった。ヘスはハミルトン公の元に手紙を送ったが、イギリス側の検閲のため届かなかった。
1940年10月頃からヘスは飛行訓練を始めた。訓練にはBf110戦闘機の設計者であるウィリー・メッサーシュミットも協力している。ヘスは以降30回の飛行訓練を行った。また国外大管区指導者エルンスト・ボーレはハミルトン公あて書簡の英訳を依頼されている。これらの準備は秘密裏に行われたわけではなかったが、差し止められることはなかった。書簡の英訳が終了した頃、ヘスは飛行を試みたが、飛行機の故障により引き返した。この際に飛行の理由と、「失敗した時を考慮し、総統は何も知らぬ立場に置かねばならない」と副官ピンチ大尉(Karl-Heinz Pintsch)に語っている。
1941年5月10日正午、アルフレート・ローゼンベルクがヘスの元を訪れ、ヒトラーに対する連絡の有無を相談した。午後6時10分、ヘスはイギリスに向けてBf110戦闘機を操り飛び立った。この際、ピンチ大尉が空軍に戦闘機の誘導電波発出を依頼したため、ヘルマン・ゲーリングはヘスの飛行を知った。ゲーリングは第26戦闘飛行旅団長アドルフ・ガーランドに副総統機の捜索を命じたが、すでに薄暮にさしかかっていたため、ガーランドは形だけの訓練を行い「捜索失敗」を報告した。以降、ドイツはヘスの消息をつかむことが出来なかった。
イギリスにはバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍を撃退した強力な防空網が敷かれていた。しかもわずかな訓練で夜間飛行を行い着陸することは相当な難事であった。しかしヘスは防空網をかいくぐり、イギリス時間午後8時30分頃、スコットランドのグラスゴー郊外の農場に不時着した。ヘスは右足首を捻挫したものの、無事であった。ヘスは身分を隠して「アルフレート・ホルン大尉」と名乗り、逮捕に来た民間防衛隊員にハミルトン公との面会を依頼した。しかしすでに深夜であったため、ハミルトン公は翌日に面会することにした。
イギリスでの虜囚時代
5月11日、ヘスはハミルトン公と面会して身分を明かした。事態の重大さに驚いたハミルトン公はヘスをブキャナン城に移し、政府に連絡を取った。同じ頃、副官ピンチ大尉はオーバーザルツベルクのベルクホーフに到着し、三時間待たされた後にヒトラーにヘスの書簡を見せた。書簡を読んだヒトラーは驚愕し、「おお神よ、ヘスがイギリスへ飛んだ」と叫んだと言われる[61]。ピンチ大尉はその後逮捕され、1944年まで収監された。
5月12日、ドイツではヒトラーと外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップが討議し、ヘスの飛行を認可すれば、ドイツが同盟国を裏切って対英単独講和を行おうとしたと取られることを危惧した。午後8時、ミュンヘン放送局で「党員ヘスが病気進行のため、総統の制止を振り切って飛行機に乗って飛び立ち、帰還していない」とヘスの飛行がはじめて公表された。
5月13日午前0時(イギリス時間)、ハミルトン公とともにヘスの元を訪れたBBCヨーロッパ部長イヴォーネ・カークパトリック(en)は、その人物が間違いなくヘスであると確認した。ヘスはカークパトリックらに4時間にわたって語りかけ、ヨーロッパにおけるドイツの「フリーハンド」を要求した。午前6時、BBC放送でヘスの飛来がはじめて報道された。ただし、理由については「イギリスはゲシュタポから逃れられる唯一の国である」と述べたのみであった。カークパトリックの報告を受けたチャーチルは、ヘスを「国家捕虜」として扱うことを決め、陸軍省によって拘禁することを決めた。
ヘスがイギリスに到着したことを知ったドイツは再度放送を行い、精神異常の結果であったことを強調した。また、外相リッベントロップはイタリアのベニート・ムッソリーニ首相と会談し、ヘスが精神異常であったことを説明した。ムッソリーニは表面上は愛想良く振る舞い、ドイツ側に諒解の意を伝えたが、後にイタリア外相チャーノに、「ナチス体制にとっては大打撃だが、ドイツの権限を失墜させる点では喜ばしい」と語っている。
5月16日、ヘスはブキャナン城からロンドン塔に移送された。ちなみに、ヘスはロンドン塔に幽閉された最後の人物である。チャーチルはヘスの対英和平意図を議会で公表しようとしたが、閣僚の反対を受けて断念した。同日、ナチス党本部は「ドイツに関する限り、ヘス事件は終了した。我々はもはやヘス氏となんの関わりもない」と声明した。これ以降、両国政府がヘスに関して動きを見せることはなくなった。
メッサーシュミットやハウスホーファーらピンチ大尉以外の関係者は取り調べを受けたが短期間で釈放された。ヘスの権限は新たにナチ党官房長に任命されたマルティン・ボルマンが掌握した。しかしヘスの写真はドイツ各地で他のナチス幹部と同様に飾られ続け、家族には閣僚としてのヘスの年金が支払われ続けた。
5月20日、ヘスはファンボロー市付近のミチェット・プレイス(Mytchett Place)基地に移送された。拘禁生活でヘスは鬱病を悪化させ、食物に毒物が入っているのではないかという怖れにとりつかれた。6月15日、ヘスは部屋のバルコニーから飛び降り、自殺を図ったが命はとりとめた。1942年6月26日、ヘスはウェールズのアバガヴェニーにある精神病院に収容され、終戦までそこにいた。
ニュルンベルク裁判
1945年10月10日にニュルンベルク裁判にかけるためにアメリカ軍が管理するニュルンベルク刑務所に入れられた[62]。
しかしヘスは記憶喪失を主張した。アメリカ軍がヘスをゲーリングやハウスホーファー教授と引き合わせても、ヘスは「この人を知らない」と主張した[63]。11月7日に彼の弁護士ギュンター・フォン・ロールシャイト博士はヘスの精神鑑定を求めた[64]。法廷の要請によりアメリカ・イギリス・ソ連の精神分析医が10名集められてヘスの精神鑑定を行った。彼らは「ヘスの健忘症は、弁明を行ったり過去の出来事を理解したりする彼の能力を妨げるものである」と結論した。裁判を受ける法的能力があるかどうかは判事団にゆだねられた[65]。
刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると彼の知能指数は120だった[66]。
11月20日からニュルンベルク裁判が始まった。ヘスは全ての起訴事項(第一起訴事項「共同謀議」、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」)で起訴された。11月21日に被告人全員に対して自分の訴因について「有罪」か「無罪」かを答える罪状認否が行われたが、この際にヘスだけが「ナイン(ノー)」と答えて失笑を買った[67][68]。ヘスはこれ以外にも奇妙な行動が目立った。終始虚ろな目をしており、床に寝っ転がって食事をしたり、運動場で脚を高く上げて行進したり、法廷でヘッドホンの着用を拒否したり、卑猥な言葉をつぶやいたり、公判中に小説を読んだりしていた[69]。
11月29日にヘスに法廷能力があるかどうかの審理が開かれた。一人被告席に座るヘスに心理分析官ギルバート大尉は「貴方はもうじき来なくて良くなるだろう」と告げた。ヘスはこれに驚いた様子であったという[65]。審理がはじまるとヘスは突然「今後、私の記憶は外部世界に対して再び反応します。記憶喪失を装っていたのは、戦術上の理由からであります」と述べ、自ら記憶喪失ではないことを明らかにした。これに法廷や世界中のマスコミは驚いた。これを受けて判事団は1945年12月1日に「ヘスには責任能力あり」と結論し、彼は裁判に残ることとなった[70]。
1946年2月5日、ヘスはロートシャイト弁護士を熱心でないとして解雇し、ハンス・フランクの弁護をしているアルフレート・ザイドルを指名した[71][72]。被告側弁論においてヘスが自ら立つことはなかった。ザイドル弁護士は独ソ不可侵条約の密約問題を持ち出し、ソ連が裁判官の席に座る資格はない事を主張した[73]。またかつてヘスの指揮下にあった海外のある組織がスパイ活動をしていなかったことを証明するために二人の証人を召喚してヘスの弁護側反論は終わった。ヘス自身が証言に立たなかったので、反対尋問もなかった[73]。
1946年10月1日に被告人全員に対して判決が下った。ヘスは判決の際にもヘッドホンを付けることを拒否した。判決文が読み上げられている間、彼は体を前後に揺らしていた。ヘスは「第三帝国による忌まわしい行為に実際には参画していなかった」として第三起訴事項「戦争犯罪」と第四起訴事項「人道に対する罪」について無罪とされた。一方で「初期のナチ党における共謀にはヒトラー、ゲーリングに次ぐ幹部として加わっており、また彼はチェコスロバキアとポーランドを分割する布告に署名している」として第一起訴事項「共同謀議」と第二起訴事項「平和に対する罪」で有罪とされた[74]。
その後に個別に言い渡された量刑判決では、ヘスは終身刑判決を受けた。ヘスは死刑判決を逃れた10人の被告の1人だった。10月16日、死刑判決を受けた10人の死刑囚(自殺したゲーリングのぞく)の刑が執行された。死刑執行後、ヘス以下死刑判決を逃れた被告らは死刑場の清掃をさせられた。ヘスは死刑の際に飛び散った血のついた床を見つけると右手を掲げてナチ式敬礼を行った[75]。
シュパンダウ刑務所
1947年7月18日から他の禁固判決を受けた戦犯たち(ヘス以外にバルトゥール・フォン・シーラッハ、アルベルト・シュペーア、カール・デーニッツ、コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵、ヴァルター・フンク、エーリッヒ・レーダー)とともにシュパンダウ刑務所(en)で服役することになった[76][77]。
同刑務所は米英仏ソ四国の共同管理であって月ごとに看守が交代した。イギリスが1月、5月、9月。フランスが2月、6月、10月。ソ連が3月、7月、11月。アメリカが4月、8月、12月を担当した[77]。ヘスの囚人番号は一番最後の7番であった[78]。ヘスは刑務所に入る際に飛行服とヘルメットとブーツの保管に細心の注意を払ってくれと頼んでいる[78]。
受刑中もヘスの内向的な性格は他の受刑者となじまず、1人瞑想したりしていた。アメリカ軍の刑務所管理官ユージン・バード(Eugene Bird)大佐は囚人たちにかなり寛大で、宇宙計画に関心を持っていたヘスのためにNASAの研究成果を調達したり、バード大佐の名前でヘスとNASAの科学者の文通を取り持ってあげるなどしていた。しかしバード大佐はソ連の圧力で後に解任された[79]。
1954年にノイラート、1955年にレーダー、1956年にデーニッツ、1957年にフンクが釈放された。そして1966年9月30日にシュペーアとシーラッハが刑期満了で釈放されると、ヘスはただ1人の受刑者となった。しばしば家族や政治家、学者たちから減刑嘆願書が連合国に提出されたが、ソ連の反対によって常に却下された[80][81][82][# 3]。拒否権を有するソ連が反対を続ける限り、ヘスが釈放される可能性はなかったが、ネオナチによってヘスは「ナチズムの殉教者」として次第に祭り上げられていった。しかしヘス自身はネオナチを、「正統なナチズムの歪曲や誤解の産物」として嘲り嫌っていたという。
1987年8月17日、93歳のヘスはシュパンダウ刑務所内で電気コードを首に巻き付けて死亡した。鬱病による首吊り自殺とされているが、暗殺説が出回った。ヘスの息子ヴォルフ=リュディガー・ヘスもイギリスによる暗殺説を主張している。彼は「ソ連が釈放に傾きつつあったためイギリス単独飛行の際に話し合われた事を釈放後に暴露されることを恐れたイギリスが父を暗殺した」と推測している[83]。
葬儀には支持者などが殺到したため埋葬は延期され、その後秘密裏に行われた。現在でも毎年命日になると多くのネオナチたちがヘスの墓のあるヴンジーデルで集会を開いている[84][80]。
ルドルフ・ヘス暗殺説
ヘスの遺書や状況が不審であるとして、ヘスの息子や支援者たちは暗殺説を唱えている。 暗殺説提唱者の主張する根拠は次のとおりである。
- ヘスの遺書の筆跡が違う。
- 遺書には日付が書かれておらず、形式を重んじるヘスらしくない。また、ヘスが大事に思っていた孫に対してまったく言及していない。
- 首を吊るのに利用したとされる電気コードが不自然な形で首に巻かれている。
ルドルフ・ヘス替え玉説
イギリスの歴史作家ヒュー・トマス[85]は1941年5月10日以降のヘスは本人ではなく替え玉だという説を提唱した。本物のヘスはイギリスに到着する前にヘルマン・ゲーリングの陰謀で撃墜されたことになっている[86]。替え玉説提唱者の主張する根拠は次のとおり。
- イギリスに捕まった後のヘスの行動が奇妙
- 渡英後のヘスには前歯のすきがなくなっている
- ヘスは呼吸器疾患を患っていたはずなのに渡英後は急斜面を軽々と駆け上がった
- ヘスにあるはずの第一次世界大戦の時の戦傷がない
- イギリスに飛び立つ前のヘスのメッサーシュミットBf110には燃料タンクが付いていなかったが、イギリスに墜落したヘスの機体にはタンクが付いていた
ただし、ヘスの家族・ニュルンベルク裁判でヘスと同席した人物といったヘスと面識のある人物はいずれもニュルンベルクにいた彼が替え玉であったとは考えていない。
脚注
- ^ アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長を務めた親衛隊大佐ルドルフ・フェルディナント・ヘスとは別人。所長のヘスの姓の綴りはHößであり、総統代理のHeßとは異なる。両者を区別するために、ルドルフ・フェルディナント・ヘスの方をルドルフ・ヘースと表記することもある。
- ^ ヘスはアビトゥーアに合格していないが、出征した者はアビトゥーアに合格していなくても入学が認められていた[14]。
- ^ 著名な嘆願者としてはA・J・P・テイラー、マルティン・ニーメラー、アドルフ・アルント(de)、アンドレ・フランソワ=ポンセ(en)などがいる。村瀬興雄 『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』 (中公新書、1968年) ISBN 978-4121001542、はしがき
参考文献
- ユージン・バード(Eugene Bird)著、『囚人ルドルフ・ヘス:いまだ獄中に生きる元ナチ副総統』、笹尾久・加地永都子訳、出帆社、1976年
- ヴルフ・シュヴァルツヴェラー(Wulf Schwarzwäller)『ヒトラーの代理人:ルードルフ・ヘス』、松谷健二訳、早川書房、1976年
- ウェルナー・マーザー著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』西義之訳、TBSブリタニカ、1979年
- ハインツ・ヘーネ 『SSの歴史 -髑髏の結社-』 森亮一訳、フジ出版社、1981年。ISBN 978-4892260506
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、原書房、1996年、ISBN 978-4562028641
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年、ISBN 978-4562028658
- グイド・クノップ(Guido Knopp)著、『ヒトラーの共犯者 上:』、高木玲訳、原書房、ISBN 978-4562034178
- 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』第3巻、文春文庫、1992年。ISBN 4-16-714138-8
- ロベルト・S・ヴィストリヒ著、滝川義人訳、『ナチス時代ドイツ人名事典』、2002年、東洋書林、ISBN 978-4887215733
出典
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- ^ シュヴァルツヴェラー、37・39頁
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- ^ ピンチ大尉自身の回想では、書簡を読んだ後「それで、ヘスは今どこにいる?」と質問するなど、終始冷静であったという。
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- ^ クノップ、上巻272頁
- ^ 『スペイン市民戦争』などの著書があるイギリスの歴史家ヒュー・トマスとは別人
- ^ ヒュー・トマス 『ルドルフ・ヘス暗殺 シュパンダウ囚人第七号』 早川書房 1981年、コリン・ウィルソン ダモン・ウィルソン 『世界不思議百科 総集編』 青土社 1995年、コリン・ウィルソン「本物か、偽ものか/ルドルフ・ヘスの謎」(ジョン・カニング編 『未解決事件19の謎』 社会思想社 1989年)
関連項目
- ルドルフ・フェルディナント・ヘス - 名前が似ているが別人である。混同を避けるため「ルドルフ・ヘース」と呼ばれることもある。