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[[1657年]]の'''[[明暦の大火]]'''の後、再建事業によって市域は'''[[隅田川]]'''を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、[[18世紀]]初頭には人口が百万人を超え、'''大江戸八百八町'''といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を[[東日本]]における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である[[上方]]([[近畿地方]])と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『[[東都歳時記]]』、『[[富嶽三十六景]]』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「'''東都'''」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から[[19世紀]]初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や[[参勤交代]]を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。
[[1657年]]の'''[[明暦の大火]]'''の後、再建事業によって市域は'''[[隅田川]]'''を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、[[18世紀]]初頭には人口が百万人を超え、'''大江戸八百八町'''といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を[[東日本]]における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である[[上方]]([[近畿地方]])と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『[[東都歳時記]]』、『[[富嶽三十六景]]』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「'''東都'''」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から[[19世紀]]初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や[[参勤交代]]を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。


=== 江戸の人口と識字率 ===
=== 江戸の人口 ===
''[[江戸の人口]]を参照''
[[ロドリゴ・デ・ビベロ]]によって[[1609年]]ごろに15万人と伝えられた江戸の[[人口]]は、[[18世紀]]初頭には100万人を超えたと考えられている。ちなみに[[国勢調査]]の始まった1801年のヨーロッパの諸都市の人口は[[ロンドン]] 86万4845人(市街化地区内)<ref>R. Price-Williams, "The Population of London, 1801-81", Journal of the Statistical Society of London, Vol. 48, No. 3 (1885), pp. 349-440. なお1801年当時の行政区分である[[シティ・オブ・ロンドン]]の人口は12万8129人、後世の[[グレーター・ロンドン]]に相当する地域の人口は101万1157人。</ref>、[[パリ]] 54万6856人(城壁内)であり、19世紀中頃にロンドンが急速に発達するまで、江戸の人口は[[北京市|北京]]<ref>清朝時代の戸籍人口は都市別集計が余り残っていないものの、北京は1845年に164万8千人とあり、1800年頃はこれよりも人口が少なかったと見られる。</ref>や[[広州市|広州]]と同規模か、あるいは世界一であったと推定されている。[[成人]]男性の[[識字率]]も[[幕末]]には'''70%'''を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。実際[[ロシア]]人革命家メーチニコフや、[[ドイツ]]人の考古学者[[ハインリッヒ・シュリーマン|シュリーマン]]らが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も[[和歌]]を嗜んだと言われており、その背景には[[寺子屋]]の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は40%~50%程度と推定されている<ref>鈴木理恵, "江戸時代における識字の多様性", 史学研究, 209号 (1995), pp. 23-40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。</ref>


=== 江戸の識字率 ===
また、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった[[町人]]人口のみであり、人口100万人とは、[[幕府]]による調査が行われていない[[武家]]や[[神官]]・[[僧侶]]などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。[[武士]]の人口は、[[参勤交代]]に伴う地方からの[[単身赴任]]者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの幅があり、最盛期の江戸の総人口も68万人から200万人まで様々な推定値が出されている。雑記等に記される同時代人の推定も50万人から200万人まで幅がある。
江戸の[[成人]]男性の[[識字率]]は[[幕末]]には'''70%'''を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。実際[[ロシア]]人革命家メーチニコフや、[[ドイツ]]人の考古学者[[ハインリッヒ・シュリーマン|シュリーマン]]らが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も[[和歌]]を嗜んだと言われており、その背景には[[寺子屋]]の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は40%~50%程度と推定されている<ref>鈴木理恵, "江戸時代における識字の多様性", 史学研究, 209号 (1995), pp. 23-40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。</ref>

* 町奉行支配下の町方・寺社門前地の町方人口
江戸の[[国勢調査|人口]]の最古の記録は、『正宝事録』の註釈として記された[[元禄]]6年([[1693年]])6月17日の35万3588人であり、[[徳川綱吉]]が浮説雑説を唱えた者を探すために行われたものであるが、実際に人口調査の体裁が整えられたのは、[[徳川吉宗]]によって子午改(6年毎)の全国人口調査が開始された[[享保]]6年([[1721年]])以降であり、[[大岡忠相|大岡越前守]]から[[有馬氏倫|有馬兵頭頭]]へ提出した書類の形式で伝えられている。大岡越前は享保8年([[1723年]])9月から享保9年([[1724年]])4月の間の9263人の急激な人口減少に気付き、享保10年([[1725年]])6月に臨時の人別改を実施して、1万0394人の急激な人口増加をは把握し、これらの季節的な人口変動の理由を、冬の火災の多さに帰し、冬の間子女は近隣実家等へ疎開する、春以降火災からの復興再建や土蔵の建築が増えて労働転入者も増える、などといった分析書を有馬兵頭へ提出している(撰要類集)。

以下公文書(『撰要類集』、『享保撰要類集』、『町奉行支配惣町人人数高之改』、『天保撰要類集』、『市中取締類集』)の他、複数の史料に記録として残っている江戸府内の町人の人口を男女別構成とともにまとめる。江戸の範囲は随時変わっており、寺社門前地が正式に御所内に組み込まれたのは[[1745年]]以降であり、朱引・墨引という呼称ができたのは[[1818年]]以降である。また安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所を含む。明治2年([[1869年]])4月に施行された江戸市街調査によると江戸は町地269万6000坪(8.913 km<sup>2</sup>, 15.8%)、寺社地266万1747坪 (8.799 km<sup>2</sup>, 15.6%)、武家地1169万2591坪(38.653 km<sup>2</sup>, 68.6%)より構成されていたが、この内武家地の人口は江戸時代を通じて調査より除外された。出典のうち『江戸会雑誌』、『吹塵録』、『江戸旧事考』、『統計学雑誌』などは明治時代中ごろにまとめられた二次的史料であり、元となる江戸時代の史料が現在では不明となっている。斜体で示した数字は (1) 他の年月に酷似した数字が登場しており、共に誤記が疑われるケース (2) 元の史料の人口に対して寺社方人口や新吉原などの計外人口を独自に加算したと推測されるケースのいずれかであり、信頼性が低い。

{|class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small"
|+江戸の町方人口表
!rowspan=2|年月
!rowspan=2|西暦
!colspan=3|町方並寺社門前
!colspan=3|町方支配場
!colspan=3|寺社門前地
!rowspan=2|出典・備考
|-
!合計
!男
!女
!合計
!男
!女
!合計
!男
!女
|-
||元禄6年||1693年||||||||353,588||||||||||||正宝事録
|-
||享保3年12月||1718年||||||||434,633||289,918||144,715||||||||享保通鑑(15歳以上, 本によっては</br>男38万9918人, 合計53万4633人と印刷)
|-
|rowspan=2|享保6年||rowspan=3|1721年||||||||''474,049''||''221,175''||''252,874''||||||||享保通鑑
|-
||||||||489,272||||||||||||享保通鑑(宗門別人口の合計)
|-
||享保6年11月||||||||501,394||323,285||178,109||||||||撰要類集, 環斉記聞,</br>江戸管鑰秘鑑,</br>御府内人別(吹塵録)
|-
||享保7年3月||rowspan=4|1722年||''526,211''||''225,700''||''300,511''||||||||||||||江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
|rowspan=2|享保7年4月||||||||483,355||312,884||170,471||||||||撰要類集,</br>環斉記聞(享保6年11月との人口増減)
|-
||||||||483,355||''312,887''||''174,077''||||||||環斉記聞(合計は原文ママ)
|-
||享保7年9月||||||||476,236||307,277||168,959||||||||撰要類集, 環斉記聞
|-
||享保8年4月||rowspan=11|1723年||||||||459,842||290,279||169,563||||||||撰要類集, 環斉記聞
|-
|rowspan=5|享保8年5月||''546,212''||''225,700''||''320,512''||||||||||||||土屋筆記, 承寛雑録
|-
||''526,210''||''226,197''||''300,013''||||||||||||||半日閑話
|-
||''526,317''||''300,511''||''225,807''||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号, 合計は原文ママ)
|-
||''526,212''||''325,700''||''200,512''||||||||||||||雑記(江戸会誌2号)
|-
||''526,317''||''300,510''||''225,807''||||||||||||||江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||享保8年5月15日||''522,710''||''205,700''||''301,022''||||||||||||||天享吾妻鏡(合計は原文ママ)
|-
||享保8年5月18日||''526,212''||''325,700''||''200,512''||||||||||||||千草の花
|-
|rowspan=2|享保8年7月||''531,400''||''225,700''||''305,100''||||||||||||||享保通鑑(合計は原文ママ)
|-
||''583,304''||||||||||||||||||柳営日録
|-
||享保8年9月||||||||473,840||304,686||169,154||||||||撰要類集, 環斉記聞
|-
||享保9年4月||rowspan=4|1724年||||||||464,577||299,072||165,505||||||||撰要類集
|-
||享保9年5月||''536,012''||''225,700''||''310,312''||||||||||||||柳烟雑録
|-
||享保9年7月||''537,531''||||||||||||||||||江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||享保9年9月||||||||469,343||301,018||168,325||||||||撰要類集
|-
||享保10年4月||rowspan=3|1725年||||||||462,102||301,125||160,977||||||||撰要類集
|-
||享保10年6月||||||||472,496||301,920||170,576||||||||撰要類集
|-
||享保10年9月||''537,531''||''322,423''||''215,108''||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||享保11年||1726年||||||||471,988||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
|rowspan=3|享保16年4月||rowspan=3|1731年||''525,700''||''300,510''||''225,190''||||||||||||||松の寿,</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||''525,700''||''300,510''||''225,150''||||||||||||||世説海談(合計は原文ママ)
|-
||''525,700''||''300,511''||''225,190''||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号, 合計は原文ママ)
|-
||享保17年4月||rowspan=2|1732年||''525,700''||''300,510''||''220,590''||||||||||||||月堂見聞集(合計は原文ママ)
|-
||享保17年11月||533,518||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||享保18年9月||1733||536,380||340,277||196,103||475,521||303,958||171,563||60,859||36,319||24,540||享保撰要類集
|-
||享保19年4月||rowspan=2|1734年||533,763||338,112||195,651||473,114||301,851||171,263||60,649||36,261||24,388||享保撰要類集
|-
||享保19年9月||528,776||335,279||193,497||468,840||299,530||169,310||59,936||35,749||24,187||享保撰要類集
|-
||享保20年4月||rowspan=2|1735年||''525,700''||''316,700''||''209,000''||||||||||||||半日閑話
|-
||享保20年9月||530,648||336,629||194,019||470,359||300,633||169,726||60,289||35,996||24,293||享保撰要類集
|-
||元文元年4月||rowspan=2|1736年||527,047||333,998||193,049||466,867||298,012||168,855||60,180||35,986||24,194||享保撰要類集
|-
||元文元年9月||527,974||||||467,588||||||60,386||36,108||24,278||享保撰要類集
|-
||元文2年||1737年||''526,212''||''300,512''||''225,700''||||||||||||||江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||元文3年||rowspan=3|1738年||||||||453,594||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||元文3年4月||528,117||333,238||194,879||469,601||298,445||171,156||58,516||34,793||23,723||町奉行支配惣町人人数高之改
|-
||元文3年9月||526,813||332,019||194,794||468,446||297,223||171,223||58,367||34,796||23,571||町奉行支配惣町人人数高之改
|-
||寛保2年||rowspan=2|1742年||''591,809''||||||||||||||||||江戸旧事考2巻
|-
||寛保2年9月||501,346||316,357||184,989||446,278||283,647||162,631||55,068||32,710||22,358||町奉行支配惣町人人数高之改
|-
|rowspan=4|寛保3年||rowspan=5|1743年||''515,122''||''300,013''||''215,109''||||||||||||||享和雑記,</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||''515,121''||''300,013''||''205,000''||||||||||||||寛延雑秘録(合計は原文ママ)
|-
||''515,121''||''300,013''||''215,109''||||||||||||||寛延奇談(乙巳雑記, 合計は原文ママ)
|-
||''515,121''||''300,012''||''215,109''||||||||||||||寛延奇談(吹塵録),</br>人別石高(江戸会雑誌2冊2号)
|-
||寛保3年4月||501,166||316,373||184,793||448,453||285,270||163,183||52,713||31,103||21,610||町奉行支配惣町人人数高之改
|-
|rowspan=2|延享元年||rowspan=2|1744年||||||||460,164||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別(吹塵録)
|-
||''526,612''||''225,700''||''300,912''||||||||||||||護花園随筆
|-
||延享2年9月||1745年||515,667||325,187||190,480||460,369||292,452||167,917||55,298||32,735||22,563||寛延雑秘録
|-
|rowspan=5|延享3年4月||rowspan=5|1746年||504,277||317,730||186,547||446,642||283,587||163,055||57,635||34,143||23,492||寛延雑秘録
|-
||''515,122''||''300,012''||''215,110''||||||||||||||延享世説
|-
||''515,122''||''310,013''||''205,109''||||||||||||||松の寿
|-
||''544,279''||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||''544,277''||||||||||||||||||江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||延享4年4月||rowspan=2|1747年||512,913||322,493||190,420||454,226||288,027||166,199||58,687||34,466||24,221||享保撰要類集
|-
||延享4年9月||513,327||322,752||190,575||453,592||287,505||166,087||59,735||35,247||24,488||享保撰要類集
|-
||寛延3年12月||1750年||509,708||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||宝暦6年||1756||505,858||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
|rowspan=2|宝暦12年||rowspan=2|1762年||''505,858''||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||501,880||||||||||||||||||御府内人別(吹塵録)
|-
||明和5年||1768年||508,467||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||安永3年||1774年||482,747||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||安永9年||1780年||489,787||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||天明3年||1783年||''564,747''||||||||||||||||||人別石高(江戸会雑誌2冊2号, 新吉原を含む)
|-
||天明6年||1786年||457,083||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||寛政3年||rowspan=2|1791年||''535,710''||||||||||||||||||半日閑話, 乙巳雑記,</br>雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||寛政3年5月||''535,710''||||||||||||||||||甲子夜話
|-
||寛政4年||1792年||481,669||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||寛政10年||rowspan=2|1798年||492,449||''283,063''||209,286||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号, 合計は原文ママ)
|-
||寛政10年5月||492,449||283,163||209,286||||||||||||||一話一言,</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||享和3年正月||1803年||''607,100''||''400,918''||''205,119''||||||||||||||人別石高(江戸会雑誌)
|-
||文化元年||1804年||492,053||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||文化7年||1810年||497,085||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||文化12年||1815年||''574,261''||||||||||||||||||江戸旧事考2巻
|-
|rowspan=2|文化13年||rowspan=2|1816年||501,161||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||501,061||||||||||||||||||御府内人別(吹塵録)
|-
||文政5年||1822年||520,793||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||文政11年||1828年||527,293||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||天保3年5月||1832年||545,623||297,536||248,087||474,674||260,149||214,525||70,949||37,387||33,562||椎乃実筆,</br>雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||天保5年||1834年||522,754||||||||||||||||||雑記(江戸会雑誌2冊2号),</br>御府内人別・江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||天保11年4月(5月)||1840年||551,369||296,414||254,955||||||||||||||天保撰要類集, 年番取扱(5月)
|-
||天保12年4月(5月)||1841年||563,689||306,451||257,238||||||||||||||天保撰要類集, 年番取扱(5月),</br>雑記(江戸会雑誌2冊2号, 5月所計),</br>江戸町数人口戸数(吹塵録, 5月改)
|-
||天保13年4月||1842年||551,063||295,518||255,545||477,349||257,130||220,219||73,714||38,388||35,326||天保撰要類集
|-
||天保14年||rowspan=4|1843年||562,257||||||||||||||||||江戸旧事考2巻
|-
||天保14年7月||553,257||292,352||260,905||479,103||253,820||225,283||74,154||38,532||35,622||天保撰要類集
|-
|rowspan=2|天保14年9月||547,434||288,732||258,702||474,739||251,045||223,694||72,695||37,687||35,008||天保撰要類集(9月届出)
|-
||547,952||289,032||258,920||477,076||252,327||224,749||70,876||36,705||34,171||天保撰要類集(11月26日届出)
|-
||弘化元年4月||rowspan=2|1844年||559,497||290,861||268,636||491,905||255,793||236,112||67,592||35,068||32,524||天保撰要類集
|-
||弘化元年9月||558,761||292,320||266,441||484,472||253,997||230,475||74,289||38,323||35,966||天保撰要類集
|-
||弘化2年5月||1845年||557,698||293,391||264,307||||||||||||||蠧余一得, 松の寿,</br>江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||嘉永2年9月||1849年||564,943||291,666||273,277||||||||||||||藤岡屋日記
|-
||嘉永3年4月||1850年||559,115||288,362||270,753||||||||||||||藤岡屋日記
|-
||嘉永6年4月||rowspan=2|1853年||574,927||295,453||279,474||492,271||253,180||239,091||82,656||42,273||40,383||市中取締類集
|-
||嘉永6年9月||575,091||295,275||279,816||492,317||252,847||239,470||82,774||42,428||40,346||市中取締類集
|-
||安政元年4月||rowspan=2|1854年||''573,619''||''294,028''||''279,591''||||||||||||||統計学雑誌306号
|-
||安政元年9月||570,898||292,413||278,485||||||||||||||統計学雑誌306号
|-
||安政2年4月||rowspan=2|1855年||''573,619''||''294,028''||''279,591''||||||||||||||統計学雑誌306号
|-
||安政2年9月||564,544||288,402||276,142||||||||||||||統計学雑誌306号
|-
||万延元年4月||rowspan=2|1860年||557,373||282,924||274,449||||||||||||||統計学雑誌306号
|-
||万延元年9月||562,505||287,644||274,861||||||||||||||統計学雑誌306号
|-
||慶応3年4月||rowspan=2|1867年||539,618||272,715||266,903||||||||||||||鎮台府一件, 統計学雑誌306号
|-
||慶応3年9月||538,463||269,902||268,561||457,066||228,959||228,107||81,397||40,943||40,454||鎮台府一件, 統計学雑誌306号,</br>内外新報21号
|-
|}
: ( [[山下重民]] 「江戸市街統計一班」 『江戸会雑誌』 1冊(2号) pp. 18–26(1889年); [[勝海舟]] 「江戸人口小記」「正徳ヨリ弘化迄江戸町数人口戸数」 『吹塵録』(1890年); [[小宮山綏介]] 「府内の人口」 『江戸旧事考』 2巻 pp. 19–23([[1891年]]); [[柚木重三]]、[[堀江保蔵]] 「本邦人口表」 『経済史研究』 7号 pp. 188–210([[1930年]]); [[幸田成友]] 「江戸の町人の人口」 『社会経済学会誌』 8巻(1号) pp. 1–23([[1938年]]); [[鷹見安二郎]] [江戸の人口の研究」 『全国都市問題会議』 第7回1(本邦都市発達の動向と其の諸問題上) pp. 59–83([[1940年]]); [[高橋梵仙]] 『日本人口史之研究』 三友社([[1941年]]); [[関山直太郎]] 『近世日本の人口構造』 [[吉川弘文館]]([[1958年]]); [[南和男]]『幕末江戸社会の研究』 吉川弘文館([[1978年]])などより作成。史料によって若干異なる場合は一方のみを記した。享保6年、享保7年3月、享保8年5月、享保8年7月、享保9年5月、享保9年7月、享保10年9月、享保16年4月、享保17年4月の数字を仮に町方並寺社門前の人口として扱ったが、公文書では少なくとも享保10年6月までは町方支配場の人口のみしか集計しておらず、そもそもこれらのほとんどに[[アナグラム]]的な数字の誤記が見受けられる。また『吹塵録』の「江戸人口小記」は町方並寺社門前の人口として子午年改の人口(御府内人別)をまとめているが、『撰要類集』では享保6年11月の人口を町奉行支配場のみの町人人口として記載しており、享保11年、元文3年、延享元年の数字も町奉行支配場町人人口として扱った。)
寛政10年5月([[1798年]])と天保11年4月([[1840年]])に関しては、それぞれ[[大田南畝]]の『一話一言』と『天保撰要類集』が三郡([[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]、[[荏原郡]]、[[葛飾郡]])に占める江戸の町方人口を記載している。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+江戸の郡別町方人口
!年月
!西暦
!内訳
!町方合計
!豊島郡内
!荏原郡内
!葛飾郡内
!出典
|-
|align=left rowspan=3|寛政10年5月||rowspan=3|1798年||align=left|合計||492,449||425,124||18,679||48,646||align=left rowspan=3|一話一言
|-
|align=left|男||283,163||245,766||10,334||27,063
|-
|align=left|女||209,286||179,358||8,345||21,583
|-
|align=left rowspan=3|天保11年4月(5月)||rowspan=3|1840年||align=left|合計||551,369||459,435||19,958||71,976||align=left rowspan=3|天保撰要類集</br>(4月人数を5月に所計)
|-
|align=left|男||296,414||248,125||10,436||37,853
|-
|align=left|女||254,955||211,310||9,522||34,123
|-
|}
江戸末期には出世地別の統計や地方に籍を置く出稼人の人口も報告されるようになっており、蜂屋茂橘の『椎乃実筆』以降、公文書を中心に記載が残っている。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
!rowspan=2|年月
!rowspan=2|西暦
!colspan=4|町方並寺社門前町方人口
!colspan=3|出稼人
!rowspan=2|出稼人加
算総人口
!rowspan=2|出典
|-
!合計
!当地出生
!他所出生
!不明
!合計
!男
!女
|-
|align=left|天保3年5月||1832年||545,623||414,774||130,849||0||||||||||align=left|椎乃実筆
|-
|align=left|天保12年4月||1841年||563,689||413,103||150,586||0||||||||||align=left|天保撰要類集, 年番取扱(5月)
|-
|align=left|天保14年||rowspan=4|1843年||562,257||||||||34,191||||||596,448||align=left|江戸旧事考2巻
|-
|align=left|天保14年7月||553,257||388,185||165,072||0||34,201||25,848||8,353||587,458||align=left|天保撰要類集
|-
|align=left|天保14年9月||547,952||386,040||161,881||31||29,475||22,374||7,101||577,427||align=left|天保撰要類集(9月届出)
|-
|align=left|天保14年9月||547,434||378,885||168,549||0||29,476||22,437||7,039||576,910||align=left|天保撰要類集(11月26日届出)
|-
|align=left|弘化元年4月||rowspan=2|1844年||559,497||401,121||158,321||55||24,092||19,142||4,950||583,589||align=left|天保撰要類集
|-
|align=left|弘化元年9月||558,761||401,363||157,333||65||21,650||17,044||4,606||580,411||align=left|天保撰要類集
|-
|align=left|嘉永2年9月||1849年||564,943||||||||11,594||9,701||1,893||562,657||align=left|藤岡屋日記
|-
|align=left|嘉永3年4月||1850年||559,115||414,686||144,231||198||10,434||8,679||1,755||569,549||align=left|藤岡屋日記
|-
|align=left|嘉永6年4月||rowspan=2|1853年||574,927||||||||9,265||7,686||1,579||584,192||align=left|市中取締類集
|-
|align=left|嘉永6年9月||575,091||430,871||143,919||301||9,075||7,534||1,541||584,166||align=left|市中取締類集
|-
|align=left|安政元年4月||rowspan=2|1854年||''573,619''||''432,022''||''141,264''||''333''||''8,515''||''7,026''||''1,489''||''582,134''||align=left|統計学雑誌306号
|-
|align=left|安政元年9月||570,898||429,917||140,637||344||8,306||6,869||1,437||579,204||align=left|統計学雑誌306号
|-
|align=left|安政2年4月||rowspan=2|1855年||''573,619''||''432,022''||''141,264''||''333''||''8,515''||''7,026''||''1,489''||''582,134''||align=left|統計学雑誌306号
|-
|align=left|安政2年9月||564,544||426,774||137,431||339||7,979||6,609||1,370||572,523||align=left|統計学雑誌306号
|-
|align=left|万延元年4月||rowspan=2|1860年||557,373||428,367||128,584||422||6,393||5,113||1,280||563,766||align=left|統計学雑誌306号
|-
|align=left|万延元年9月||562,505||425,169||137,004||332||8,021||6,636||1,385||570,526||align=left|統計学雑誌306号
|-
|align=left|慶応3年4月||rowspan=2|1867年||539,618||421,711||117,407||500||4,692||3,642||1,050||544,310||align=left|統計学雑誌306号
|-
|align=left|慶応3年9月||538,463||421,023||116,926||514||4,616||3,597||1,019||543,079||align=left|統計学雑誌306号
|-
|}
公文書で出稼人を加えた町人人口が最大(58万7458人)となったのは天保14年([[1843年]])7月であり、出稼人を除いた町人人口が最大(57万5901人)となったのは嘉永6年([[1853年]])9月のことである。但し『江戸旧事考』は出稼人を加えた町人人口が最大となった天保14年の人口を59万6448人とし(内訳等の数字は公文書の天保14年7月のものと似ている)、出稼人を除いた町人人口が最大になった数字として100年前の寛保二年([[1742年]])の59万1809人を挙げている(『江戸旧事考』の数字は多くの場合計外人口を加算しているものと思われる)。『江戸会雑誌』は享和3年([[1803年]])正月の数字として60万7100人を挙げている(但し男性の人口を誤って10万人多く記載していると思われる)。江戸は地方から[[下向]]者が多く、江戸時代中期には男性が女性の倍近くいたが、末期には男女差がかなり解消された。

このほか[[天野信景]]の『[[塩尻]]』は、享保6年(1721年)の町方人口として86万2600人を記載している。また、大田南畝の『半日閑話』、[[岩瀬京山]]の『蜘蛛の糸』、向山誠斎の『乙巳雑記』などは、天明6年10月20八日([[1786年]])または天明7年5月25日以降([[1787年]])に江戸の町人の人口が100万人を超える128万5300人であったと伝えている。また天保8年([[1837年]])の人口として128万4815人という数字も伝わっている。共に災害の直後の非常時であったため、これらが武家人口を含めた真の江戸の人口であるとする解釈があるが、(1) 男女比が逆転している (2) 50年隔てた両年の人口や後述の計外人口の構成が酷似しているなど信頼性が低い。
{|class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small"
|+その他の町方人口
!年月
!西暦
!総数
!男
!女
!出典
|-
||享保6年11月||1721年||align=right|862,600||||||塩尻
|-
||天明6年||rowspan=3|1786年||1,367,880||||||江戸旧事考2巻
|-
||天明6年10月||1,285,300||587,800||697,100||乙巳雑記(合計は原文ママ)
|-
||天明6年10月28日||1,285,300||587,800||690,500||半日閑話(合計は原文ママ)
|-
||天明7年5月||1787年||1,285,300||587,800||697,500||蜘蛛の糸
|-
||天保8年||rowspan=2|1837年||1,284,815||587,810||697,005||[[三田村鳶魚|江戸の女]]
|-
||天保8年10月||1,287,800||589,800||688,000||浮世の有様(合計は原文ママ)
|-
|}
* 新吉原、寺社方の人口
[[吉原 (東京都)|新吉原]]は1657年の[[明暦の大火]]の際に江戸郊外に作られた居住地区であったが、安政元年よりも前は町奉行の支配下に入っておらず、江戸御府内人口の統計から除外されてきた。また神官・僧侶は特殊階級とみなされ、人口の統計から除外されている。以下複数の雑記に記録されている計外人口を列挙するが、時代を超えて数字が酷似していることから、数点の元史料をもとに数字が伝えられ、誤記により変化した考えられる。
寺社方人口として一番控えめな数字を採用すると約4万人程度となる。また新吉原の人口は約1万人程度である。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+ 江戸の新吉原、寺社方人口
!rowspan=2|年月
!rowspan=2|西暦
!colspan=6|寺社方
!rowspan=2|新吉原
!rowspan=2|町方
!rowspan=2|町方・寺社方</br>・新吉原合計
!rowspan=2|出典
|-
!出家</br>(沙門,</br>坊主)
!山伏</br>(修験者)
!禰宜</br>(社人,</br>神主,</br>神職)
!比丘尼</br>(尼)
!大神楽荒</br>神仏</br>(釜仏)</br>神子
!盲人</br>(座頭,</br>盲目,</br>盲女)
|-
|align=left|享保6年||1721年||37,095||6,075||9,006||||||||||489,272||541,448||align=left|享保通鑑
|-
|align=left|享保7年3月||1722年||36,096||6,015||903||||||1,000||||526,211||570,225||align=left|江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
|align=left rowspan=5|享保8年5月||rowspan=7|1723年||26,097||6,075||1,910||||||||8,161||531,400||565,482||align=left|享保通鑑(合計は原文ママ)
|-
||36,095||6,075||903||||||||||546,212||590,405||align=left|土屋筆記
|-
||36,095||6,075||930||||||||||526,212||569,312||align=left|承寛雑録
|-
||26,097||7,075||903||||||7,030||8,163||526,210||566,990||align=left|半日閑話(合計は原文ママ)
|-
||36,095||6,075||903||||||1,010||8,161||526,212||578,456||align=left|雑記(江戸会誌2号)
|-
|align=left|享保8年5月15日||3,695||903||1,000||||||||||522,710||528,308||align=left|天享吾妻鏡
|-
|align=left|享保8年5月18日||36,025||6,075||903||||||1,010||||526,212||579,415||align=left|千草の花
|-
|align=left|享保9年5月||rowspan=2|1724年||36,025||6,075||9,003||||||1,010||7,125||536,012||588,325||align=left|柳烟雑録(合計は原文ママ)
|-
|align=left|享保9年7月||20,390||4,275||903||5,836||6,723||||8,679||537,531||584,337||align=left|江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
|align=left|享保16年||rowspan=2|1731年||26,005||3,075||900||||||||11,960||525,700||567,640||align=left|江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
|align=left|享保16年4月||26,000||3,075||900||||||||8,960||525,700||564,640||align=left|世説海談(合計は原文ママ)
|-
|align=left|享保17年4月||1732年||26,000||3,075||90||6,750||||||8,960||525,700||570,575||align=left|月堂見聞集(他に川原者3250人)
|-
|align=left|享保20年4月||1735年||26,005||3,075||900||||||||8,960||525,700||564,600||align=left|半日閑話
|-
|align=left|元文2年||1737年||30,695||675||903||||||||1,010||526,212||559,495||align=left|江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
|align=left rowspan=5|寛保3年||rowspan=5|1743年||36,695||4,277||5,843||5,831||6,723||1,284||8,679||515,122||584,454||align=left|享和雑記
|-
||36,690||4,277||||5,837||6,723||1,283||8,679||515,121||578,610||align=left|寛延雑秘録
|-
||36,695||4,277||5,843||5,837||6,723||1,283||8,679||515,121||584,458||align=left|寛延奇談(乙巳雑記)
|-
||36,695||4,277||||5,831||6,723||1,289||8,679||515,122||578,616||align=left|江戸町数人口戸数(吹塵録)
|-
||||||||||||||8,679||515,121||523,800||align=left|人別石高(江戸会雑誌2冊2号)
|-
|align=left|延享元年||1744年||||||||||||||8,062||526,612||534,674||align=left|護花園随筆
|-
|align=left|延享3年4月||1746年||36,695||4,274||5,821||5,831||6,721||1,284||12,584||515,122||588,332||align=left|延享世話
|-
|align=left|天明6年10月||rowspan=2|1786年||53,430||7,230||3,580||||||3,840||14,500||1,285,300||1,349,540||align=left|乙巳雑記(合計は原文ママ)
|-
|align=left|天明6年10月28日||52,430||7,230||3,580||||||3,840||14,500||1,285,300||1,366,880||align=left|半日閑話
|-
|align=left|天明7年5月||1787年||52,430||7,230||3,580||||||3,840||14,500||1,285,300||1,366,880||align=left|蜘蛛の糸
|-
|align=left rowspan=2|寛政3年||rowspan=3|1791年||26,090||381||900||||||||8,940||535,710||574,721||align=left|乙巳雑記(合計は原文ママ)
|-
||26,090||3,081||900||||||||8,940||535,710||574,721||align=left|半日閑話
|-
|align=left|寛政3年5月||26,090||3,081||900||||||||9,940||535,710||564,720||align=left|甲子夜話(合計は原文ママ)
|-
|align=left|享和3年1月||1803年||||||||||||||8,896||607,100||615,996||align=left|人別石高(江戸会雑誌2冊2号)
|-
|align=left|天保8年10月||1837年||54,805||7,230||3,580||||||3,844||15,700||1,287,800||1,372,959||align=left|浮世の有様
|-
|align=left|慶応2年9月||1866年||||||||||||||6,551||||||align=left|藤岡屋日記
|-
|align=left|慶応3年4月||1867年||||||||||||||6,921||539,618||546,539||align=left|藤岡屋日記
|-
|}


* 寺社門前町支配下の農民、町人の人口
御府内の範囲は時代によって異なり、特に寺社門前町の取り扱いについては幕府役人の間でも問い合わせがあった。実際朱印内であってもかなりの農地が武家屋敷とともに存在した。そのため町奉行支配下の町人人口として計上されている寺社門前地の人口には、農地に点在する農民、一部町人の人口が含まれていないとする解釈がある。鷹見安二郎(1940年)によると住宅密集地区外に点在する民家は文政年間で約9500戸程度と見積もられ、約4万3500人程度である。

* 被差別階級の人口
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+江戸の被差別階級の人口
!年月
!西暦
!合計
![[弾左衛門]]・[[車善七]]・
松右衛門手下
!当日寄非人
!出典
|-
|align=left|元禄5年||1692年||5,366||4,329||1,037||align=left|憲教類典抄
|-
|align=left|享保2年2月||1717年||8,004||6,854||1,150||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|元禄7年||rowspan=2|1722年||||5,373||||align=left|徳川時代警察沿革誌
|-
|align=left|享保7年4月||7,842||||||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|延享元年10月||1744年||11,563||||||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|延享2年3月||1745年||10,148||7,091||3,057||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|寛延3年12月||1750年||7,442||6,836||606||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|明和8年9月||1771年||10,118||4,766||5,352||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|安永6年6月||1777年||6,222||4,209||1,813||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|天明6年10月||1786年||10,760||3,785||6,975||align=left|安永撰要類集, 雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|天保5年3月||1834年||11,800||5,709||6,091||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|天保6年9月||1835年||12,500||5,587||6,913||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|天保8年2月||1837年||13,266||5,505||7,761||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|天保12年||1841年||||5,632||||align=left|旧幕府掟書
|-
|align=left|天保13年1月||1842年||||||6,430||align=left|赦(旧幕引継書)
|-
|align=left|嘉永3年||1850年||10,008||5,157||4,851||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|align=left|慶応元年||1865年||10,293||5,460||4,833||align=left|雑記(江戸会誌2冊10号)
|-
|}

* 武士及び使用人の人口
武家屋敷に使用人として住む町人の人口は、幕府の管理下になかったため、江戸の人口統計から除外されている。また軍事機密保持なども理由に、武士階級全体の人口がそもそも統計として残っていない。いくつかの雑記は江戸在中の武士の人口として2億人を超える荒唐無稽な数値を記載しているが、『土屋筆記』は御屋敷方の人口として享保8年(1723年)5月に70万0973人という御屋敷人口を伝えている。また『柳烟雑録』は享保9年(1724年)5月の武家人口として、大名264人、旗本5205人、御目見以下1万7004人、与力・同心並びに六尺・下男3万0909人、その他487人、合計5万3865人と伝えている。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+江戸の御屋敷人口
!年月
!西暦
!武家人口
!男
!女
!出典
|-
|align=left|享保8年5月||1723年||700,973||||||align=left|土屋筆記</br>(御門之外40万0453人)
|-
|align=left|享保9年5月||1724年||53,865||||||align=left|柳烟雑録</br>(合計は原文ママ, 町人を加えた総人口は64万2190人)
|-
|align=left|享保17年4月||1732年||236,987,950||236,826,340||161,610||align=left|月堂見聞集
(町人等を加えた総人口は2億2716万1775人)
|-
|align=left|享保17年4月||1732年||7,379,692||||||align=left|月堂見聞集
(町人等を加えた総人口は790万5392人)
|-
|align=left|享保20年4月||1735年||236,085,950||227,485,000||8,600,950||align=left|半日閑話
|-
|align=left|寛政3年||1791年||236,580,390||||||align=left|乙巳雑記, 半日閑話
|-
|align=left|寛政3年5月||1791年||236,580,390||||||align=left|甲子夜話
|-
|align=left|文化12年||1815年||236,580,390||||||align=left|甲子夜話
|-
|}

小宮山綏介(1891年)は、『柳烟雑録』の統計を元に諸藩の在府者と家族の人口を12万1100人、旗本御家人と家族の人口を8万3403人、その家来・従事者5万8936人、合計約26万人程度と推定している。また天保14年の調査に対しては、合計約30万人程度と推定している。一方鷹見安二郎(1940年)は明治初年の華族・士族人口や石高の統計などをもとに、諸藩の在府者と家族の人口を約36万人、幕府配下の武家と家族の人口を約26万人、合計約62万人と推定している。関山直太郎(1958年)は、旗本御家人と家族約11万5千人、その家来・従属者約10万人、諸藩の在府者と家族約18万人、幕府直属の足軽・奉公人等約10万人、合計約50万人と推定している。過去の人口推定値として海外でしばしば引用されるTertius Chandler(1987年)は、町奉行支配下の町人人口の3/8程度を武士人口とし、18万8千人([[1701年]])から約21万5千人([[1854年]])と見積もっている。


=== 江戸から東京へ ===
=== 江戸から東京へ ===
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同年旧暦7月14日(8月29日)の[[廃藩置県]]以降、段階的周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日([[1872年]]2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年([[1874年]])3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年([[1878年]])11月2日には[[東京15区|東京十五区]]制に落ち着く。以降、東京の町並が[[東京市]]、[[東京都]]へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。
同年旧暦7月14日(8月29日)の[[廃藩置県]]以降、段階的周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日([[1872年]]2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年([[1874年]])3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年([[1878年]])11月2日には[[東京15区|東京十五区]]制に落ち着く。以降、東京の町並が[[東京市]]、[[東京都]]へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。

以下明治以降、東京十五区成立までの朱印内と東京府の[[壬申戸籍|本籍]]、[[現住人口]]をまとめる。本籍人口に関しては皇族を含まない数値を採用した。また族籍別人口は脚注参照。

{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
!rowspan="2"|元号年月
!rowspan="2"|西暦年月
!rowspan="2"|人口統計
!colspan="3"|朱印内
!colspan="3"|東京府
!rowspan="2"|出典・備考
|-
!合計
!男
!女
!合計
!男
!女
|-
|align=left|明治2年旧暦1月1日||align=left|1868年11月19日||align=left|本籍人口||||||||674,447||||||align=left|府藩県石高人口表 (実際には明治3年~</br>明治4年中(但し廃藩置県前)の人口と見られる)
|-
|align=left|明治2年旧暦4月||align=left|1869年2月||align=left|本籍人口||503,703||260,936||242,767||||||||align=left|東京市史稿</br>(朱印内市中五十番区は武家地, 寺社地を除く)
|-
|align=left|明治3年旧暦閏10月||align=left|1870年11月||align=left|本籍人口||||||||672,748||342,768||329,980||align=left|東京市史稿 (族籍別人口<ref>『東京市史稿』による明治3年旧暦閏10月の東京府の族籍別本籍人口は, 平民59万2758人, 士族2万0530人, 市族家来1万7822人, 士族同居之者8人, 卒2万6724人, 卒家来並小者796人, 卒同居之者36人, 幕府附諸職人116人, 幕府附諸職人少者19人, 社務人1478人, 社務人召仕494人, 僧5165人, 僧召仕2743人, 尼25人, 穢多1143人, 非人2891人</ref>)
|-
|align=left|明治3年~4年中||align=left|1870~1871年||align=left|本籍人口||||||||674,440||||||align=left|統計集誌 (族籍別人口<ref>『統計集誌』による明治3年~明治4年中の東京府の族籍別本籍人口は, 士族2万0552人, 卒2万6746人, 神職1176人, 僧尼5190人, 平民61万571人, 穢多1143人, 非人2891人, 死刑171人</ref>)
|-
|align=left|明治4年旧暦7月14日||align=left|1871年8月29日||align=left|本籍人口||||||||674,267||||||align=left|明治史要 (実際には廃藩置県前の人口と見られる)
|-
|align=left rowspan=2|明治5年旧暦1月29日||align=left rowspan=2|1872年3月8日||align=left|本籍人口||494,146||249,310||244,836||779,339||392,045||387,294||align=left|東京市史稿
|-
|align=left|現住人口||||||||859,345||446,728||412,617||align=left|維新以降帝国統計材料彙纂
|-
|align=left rowspan=2|明治5年中||rowspan=2 align=left|1872年中||align=left|本籍人口||507,015||||||||||||rowspan=2 align=left|東京府志料
|-
|align=left|現住人口||578,290||299,006||244,836||882,232||||
|-
|align=left rowspan=2|明治6年1月1日||rowspan=2 align=left|1873年1月1日||align=left|本籍人口||513,305||256,888||256,417||813,480||407,777||405,703||rowspan=2 align=left|日本地誌提要,</br>維新以降帝国統計材料彙纂
|-
|align=left|現住人口||595,905||310,050||285,855||887,322||458,467||428,855
|-
|rowspan=2 align=left|明治7年1月1日||rowspan=2 align=left|1874年1月1日||align=left|本籍人口||||||||830,917||415,677||415,240||rowspan=2 align=left|維新以降帝国統計材料彙纂
|-
|align=left|現住人口||||||||932,458|||482,567||449,891
|-
|rowspan=2 align=left|明治7年中||rowspan=2 align=left|1874年||align=left|本籍人口||516,732||258,639||258,093||||||||rowspan=2 align=left|東京一覧
|-
|align=left|現住人口||593,673||||||894,262||||
|-
|rowspan=2 align=left|明治8年1月1日||rowspan=2 align=left|1875年1月1日||align=left|本籍人口||||||||853,262||426,656||426,606||rowspan=2 align=left|維新以降帝国統計材料彙纂 (『日本全国戸籍表』の</br>東京府本籍人口は85万5251人)
|-
|align=left|現住人口||||||||986,091||517,564||468,527
|-
|rowspan=2 align=left|明治9年1月1日||rowspan=2 align=left|1876年1月1日||align=left|本籍人口||||||||870,641||435,854||434,787||rowspan=2 align=left|維新以降帝国統計材料彙纂 (『日本全国戸籍表』の</br>東京府本籍人口は87万3622人, 族籍別人口<ref>『内務省第二回年報』による明治9年1月1日の東京府の族籍別本籍人口は, 華族2411人, 士族6万4694人, 平民80万4272人, 僧2151人, 尼94人</ref>)
|-
|align=left|現住人口||||||||1,027,517||543,958||483,559
|-
|rowspan=2 align=left|明治10年1月1日||rowspan=2 align=left|1877年1月1日||align=left|本籍人口||||||||890,681||447,711||442,970||align=left|東京府管内統計表 (族籍別人口<ref>『東京府管内統計表』による明治10年1月1日の東京府の族籍別本籍人口は, 華族2497人, 士族5万9795人, 平民82万8389人</ref>,</br>『日本全国戸口表』の東京府本籍人口は87万7027人)
|-
|align=left|現住人口||716,728||370,056||346,672||1,047,594||539,643||507,951||align=left|東京府統計表 (族籍別人口<ref>『東京府統計表』による明治10年1月1日の朱印六大区内の族籍別現住人口は, 華族2246人, 士族11万4699人, 平民59万9783人; 東京府内の族籍別現住人口は華族2586人, 士族13万5318人, 平民90万9690人</ref>)
|-
|rowspan=2 align=left|明治11年1月1日||rowspan=2 align=left|1878年1月1日||align=left|本籍人口||595,424||297,315||298,109||914,321||459,263||455,058||rowspan=2 align=left|東京府統計表 (族籍別人口<ref>『東京府統計表』による明治11年1月1日の朱印六大区内の族籍別本籍人口は, 華族2241人, 士族6万2957人, 平民53万0226人; 朱印六大区内の族籍別現住人口は, 華族2309人, 士族12万5052人, 平民60万9458人; 東京府内の族籍別本籍人口は, 華族2571人, 士族7万5017人, 平民83万6733人; 東京府内の族籍別現住人口は, 華族2639人, 士族14万6052人, 平民92万3869人</ref>,</br>『日本全国戸口表』の東京府本籍人口は88万1421人)
|-
|align=left|現住人口||736,819||383,035||353,784||1,072,560||555,049||517,511
|-
|}


== 都市 ==
== 都市 ==

2010年10月29日 (金) 01:16時点における版

江戸(えど) [1]は、日本の首都・東京の旧称であり、1603年から1868年まで江戸幕府が置かれていた都市である。

江戸図屏風に見る、初期の江戸
弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図

概要

江戸は、江戸時代徳川幕府が置かれた日本の政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城徳川氏将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあった。幕末になると政治的中心が京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しなかった。

1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書により江戸は「東京」と改称され、続く天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。翌年には明治新政府も京都から東京に移され、日本の事実上の首都となる。また、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された(1871年廃藩置県に伴い新・東京府に更置)。

江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる武家の町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。

歴史

徳川氏以前の江戸

江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。

地名の由来は諸説あるが、は川あるいは入江とすると、は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。当時の江戸は、武蔵国下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。

江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。11世紀秩父氏から出た江戸重継は、江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。重継の子である江戸重長1180年源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に和解して鎌倉幕府御家人となった。弘長元年10月3日1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えるが、室町時代に次第に衰え、本拠地を多摩郡喜多見(現在の東京都世田谷区喜多見)に移した。また、応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・鵜の木丸子や隅田川下流域の金杉石浜牛島、江戸郷の国府方柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。

代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には長禄2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代、現在の神田川並びに日本橋川の前身である平川(平河)は日比谷入江に流れ込んでおり、西に日比谷入江、東に江戸湊(但し『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)がある江戸前島周辺は中世には、浅草品川湊と並ぶ、武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は利根川(現在の古利根川中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原西国方面に出る際の中継地点となった。太田道灌の時代には鎌倉街道と浅草を結ぶ道路が江戸城と平川に沿って東西に走り、その付近に城下町が形成された。吉祥寺は当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。法恩寺浄土寺も江戸時代以前は平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には、江戸城の東側の大橋(後の常盤橋)付近に「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、万里集九飯尾宗祇宗牧など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている[2]

道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である上杉朝良長享の乱の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ朝興も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は高輪原の戦い後北条氏に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方里見氏)に後北条氏との対決を決意させたと言われている[3]。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区の隅田川以西・以南及び墨田区川崎市多摩地区の各々一部まで含まれている。

従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、大田道灌及びその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方が登場するようになった[4]。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある[5]。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて歴史考古学による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている[2]

徳川時代の江戸

一介の地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物は、徳川家康であった。

1590年後北条氏小田原の役豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三掘平川江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。

家康が1600年関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。

一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。

愛宕山から見た江戸のパノラマ』 撮影者:ベアト 1865-1866

1657年明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。

江戸の人口

江戸の人口を参照

江戸の識字率

江戸の成人男性の識字率幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。実際ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は40%~50%程度と推定されている[6]

江戸から東京へ

慶応4年/明治元年旧暦1月3日(1868年1月27日)に戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、同年旧暦4月11日(5月3日)に最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた(江戸無血開城)。

同年旧暦7月1日(5月12日)に町地を中心に「江戸府」が設置された。同年旧暦7月17日(9月6日)には「江戸」は「東京」と改称され、「江戸府」は「東京府」となった(江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書)。同年旧暦10月13日(11月26日)に明治天皇東京行幸した際、「江戸城」は「東京城」と改称された。翌明治2年旧暦2月19日(1869年3月31日)には新たに朱引きの範囲が定められ、旧暦3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暦3月28日(5月9日)には、明治天皇が二度目の行幸を行い、「東京城」を「皇城」と称し、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。旧暦11月2日(12月4日)には武家地を含めた地域が東京府の管轄となった。明治4年旧暦6月9日(1871年7月26日)には朱引が改定され、大区小区制に基づく六大区制が導入された。

同年旧暦7月14日(8月29日)の廃藩置県以降、段階的周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日(1872年2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年(1874年)3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年(1878年)11月2日には東京十五区制に落ち着く。以降、東京の町並が東京市東京都へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。

都市

江戸の範囲

江戸の墨引き(≒明治期の朱引き)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1888年)。江戸城の東、現在の丸の内東京駅付近を中心とする半径4kmほどの円状を為す。

江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。[7] 元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。

江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった[8]。今日「大江戸」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である[9]

江戸の市街地の拡大 (内藤昌 「江戸―その築城と都市計画―」 月刊文化財 175号(1978年))
年号 西暦 総面積 武家地 町人地 寺社地 その他
正保年中 1647年頃 43.95 km2 34.06 km2
(77.4%)
4.29 km2
(9.8%)
4.50 km2
(10.3%)
1.10 km2
(2.5%)
寛文10~13年 1670~1673年 63.42 km2 43.66 km2
(68.9%)
6.75 km2
(10.6%)
7.90 km2
(12.4%)
5.1 km2
(8.1%)
享保10年 1725年 69.93 km2 46.47 km2
(66.4%)
8.72 km2
(12.5%)
10.74 km2
(15.4%)
4.00 km2
(5.7%)
慶応元年 1865年 79.8 km2 50.7 km2
(63,5%)
14.2 km2
(17.8%)
10.1 km2
(12.7%)
4.8 km2
(6.0%)
明治2年 1869年 56.36 km2 38.65 km2
(68.6%)
8.92 km2
(15.8%)
8.80 km2
(15.6%)

以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。

元々、徳川家康自身が駿府に本拠を置き出世した大名であったので、駿河系の地名が、江戸には多く移植されている(例:秋葉原 駿河の隣国、遠江秋葉神社に由来)。

実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末なつくりのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。

しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の大手門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に最初の町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。

江戸中心部の主要な門と橋、寺社。青部分は江戸を敵から守る堀と神田川、隅田川。

江戸は「の」の字形に設計された[10]ことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。

家康の死後、二代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人口の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。

更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。

城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武麹町台地、東の青龍平川、南の朱雀日比谷入江、西の白虎東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道四神相応に則っている点とされる[11]。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設にともなって城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。

江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた水道1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。

1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。

大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。

神社仏閣

神社

寺院

江戸近郊

江戸の生活と文化

娯楽

『目黒新富士』(名所江戸百景より。歌川広重:江戸後期)視界の開けた場所から望む富士に江戸の住人は親しみ、浮世絵富士講をはじめ多くの文化の対象となった。これは目黒に二つあった富士塚のうちの一方、新富士(現存せず)と富士山を描いたもの。
市村座での『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』より稲瀬川勢揃いの場(歌川豊国:1862年(文久2年))。江戸時代の町人文化を代表する歌舞伎。本作の時代には作者河竹黙阿弥が活躍し、江戸歌舞伎が隆盛を極めた。

服装

諺・故事成語

(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)

  • 江戸の敵を長崎で討つ
  • 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
  • 江戸っ子は5月の鯉の吹き流し
  • 江戸っ子の梨を食うよう
  • 江戸っ子の初もの食い
  • 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め

                                      

江戸を題材にした作品

小説

随筆

映画・テレビドラマ

その他多数あり。

小江戸

川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された川越市栃木市佐原市などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「小江戸」と呼ばれている。

脚注

  1. ^ 外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり
  2. ^ a b 齋藤慎一『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第三章「南関東の都市と道」(2004年発表)/第一五章「中近世移行期の都市江戸」(新稿)
  3. ^ 佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開」『中世東国政治史論』塙書房、2006年(1992年発表)
  4. ^ 代表的なものとして、岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』教育出版、1999年、など
  5. ^ 代表的なものとして、平野明夫「太田道灌と江戸城」東京都教育委員会『文化財の保護』21号、1989年、など
  6. ^ 鈴木理恵, "江戸時代における識字の多様性", 史学研究, 209号 (1995), pp. 23-40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。
  7. ^ 竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦『東京都の歴史』山川出版 2003年 168-170頁
  8. ^ 江戸の範囲 (レファレンスの杜) 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月
  9. ^ 江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜) 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月
  10. ^ 内藤昌
  11. ^ 柳営秘鑑
  12. ^ 江戸食文化紀行

外部リンク

関連項目

関連書籍

  • 谷畑美帆 『江戸八百八町に骨が舞う』人骨から解く病気と社会 吉川弘文館 (2006年)ISBN 4642056130
  • 鈴木理生 『江戸の橋』 三省堂 ISBN 4-385-36261-0
  • 矢田挿雲 『江戸から東京へ』 全9巻、中公文庫、新版1999年
  • 江戸名所図会』 全8巻、ちくま学芸文庫 1997年、2009年復刊
  • 川田寿 『江戸名所図会を読む』 正続 東京堂出版 1990. 95年
  • スーパームックCG日本史シリーズ/CG再現 3江戸の暮らし(07/9) 5江戸の風景(08/1) 7江戸の遊び(08/4) 9大奥と江戸の女たち(08/9/25) 17大江戸事件帳(09/4) 双葉社