「カール4世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
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| 戴冠日 = 1355年[[1月6日]] |
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| 別号 = ドイツ王、ボヘミア王、ルクセンブルク伯 |
| 別号 = ドイツ王、ボヘミア(ベーメン)王、ルクセンブルク伯 |
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| 出生日 = [[1316年]][[5月14日]] |
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'''カール4世'''('''Karl IV.''',[[1316年]][[5月14日]] - [[1378年]][[11月29日]])は、[[ルクセンブルク家]]出身の[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[1355年]] - 1378年)。[[ボヘミア]](ベーメン)王'''カレル1世'''(Karel I., 在位:[[1346年]] - 1378年)としても著名である。フランス式発音では'''シャルル'''(Charles)。 |
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[[ファイル:Karl IV HRR.jpg|thumb|180px|カール4世(プラハにある像)]] |
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文人皇帝として知られ、しばしば、最初の「近代的」君主と称される<ref name=sakai63>坂井(2003)pp.63-66</ref>。[[金印勅書]]の発布や[[プラハ・カレル大学|プラハ大学]]の創設、[[教皇]]の[[ローマ]]帰還への尽力などで知られる。 |
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'''カール4世'''('''Karl IV.''',[[1316年]][[5月14日]] - [[1378年]][[11月29日]])は、[[ルクセンブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[1355年]] - [[1378年]])。[[ボヘミア]]王'''カレル1世'''(Karel I., 在位:[[1346年]] - 1378年)としても知られる。フランス名'''シャルル'''(Charles)。皇帝[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]の孫で、父は[[ボヘミア]]王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]、母はボヘミアと[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ヴァーツラフ2世]]の娘[[エリシュカ・プシェミスロヴナ|エリシュカ]]。[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク伯]]でもあった(在位:1346年 - [[1353年]])。 |
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神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]の孫で、父はボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]](ヤン)、母はボヘミア及び[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ヴァーツラフ2世]]の娘[[エリシュカ・プシェミスロヴナ|エリシュカ]]。 |
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== 生涯 == |
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[[プラハ]]で生まれ、最初は[[ヴァーツラフ]](Václav、チェコ名)と名付けられた。その後7歳から14歳までの間[[パリ]]の宮廷で養育を受けたため、5ヶ国語を話すことができるようになったと言われる。また、この時期に当時の[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]の名を取って改名し、王族の[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]([[ヴァロワ家]]の祖)の娘でシャルル4世の従妹に当たる[[ブランシュ・ド・ヴァロワ|ブランシュ]]を最初の妻に迎えている。 |
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[[モラヴィア]]辺境伯(在位:[[1334年]] - [[1349年]])、[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク伯]]でもあった(在位:1346年 - [[1353年]])。 |
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[[1334年]]に[[モラヴィア]][[辺境伯]]となり、父ヨハンに代わってボヘミアを統治するようになる。[[1346年]]、皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]と対立する[[教皇|ローマ教皇]][[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]や、大叔父である[[トリーア大司教]][[バルドゥイン・フォン・ルクセンブルク|バルドゥイン]]を始めとする[[選帝侯]]から[[対立王]]として擁立され、ルートヴィヒ4世には廃位が宣言された。この直後に起こった[[クレシーの戦い]]で、[[フランス王国|フランス]][[皇太子|王太子]]ジャン(後の[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]])の救援に赴いていた父ヨハンが戦死したため、ボヘミア王およびルクセンブルク伯も継承している。翌[[1347年]]にルートヴィヒ4世が死去したため、晴れて単独の[[ローマ王|ドイツ王]]となった。 |
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== 生涯と治世 == |
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モラヴィア辺境伯は[[1349年]]、同母弟の[[ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク|ヨハン・ハインリヒ]]に、ルクセンブルク伯位は[[1353年]]、異母弟の[[ヴェンツェル1世 (ルクセンブルク公)|ヴェンツェル1世]]に与え、ルクセンブルク伯を公に格上げした。[[1354年]]から[[1355年]]にかけてはローマ遠征を行い、神聖ローマ皇帝として教皇より正式な戴冠を受けている。 |
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=== 出生とパリでの生活 === |
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カール4世は1316年5月14日、ボヘミア王国の都[[プラハ]]で生まれた。母は[[プシェミスル朝|プシェミスル家]]最後のボヘミア王[[ヴァーツラフ3世]]の妹エリシュカである。 |
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[[1306年]]、ヴァーツラフ3世が[[暗殺]]されるとプシュミスル家の男系は断絶し、その後様々な経緯があった<ref group="注釈">1306年以降、[[ハプスブルク家]]出身の[[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ]](1306年 - [[1307年]])と[[ケルンテン公国|カリンティア]](ケルンテン)の[[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|インジフ]](ハインリヒ、1307年 - 1310年)とが争い、両者ののち、ルクセンブルク家のヨハンが即位した。</ref>ものの、国内で王位継承に同意権を有していたボヘミアの有力貴族達は、最終的にボヘミア王として、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子で[[ドイツ]]西部の名門貴族ルクセンブルク家のヨハンを選んだ。[[1310年]]、ヨハンはエリシュカ・プシェミスロヴナと[[結婚]]してボヘミア王となった<ref name=sakai55>坂井(2003)pp.55-57</ref>。この2人の間に生まれた長男がカールである。カールは最初、伯父の先王と同じ[[ヴァーツラフ]](''Václav'':[[チェコ語]]。[[ドイツ語]]ではヴェンツェル:''Wenzel'')と名付けられた。 |
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カール4世は精力的に様々な政治改革を行なっている。まず、神聖ローマ帝国の最高法とも言える[[金印勅書]]を発布した。これにより、[[大空位時代]]より続く帝国内の混乱を収拾しようとしたのである。確かにこれにより、帝国は安定期に入ったが、この勅書によって[[選帝侯]]の特権も大幅に認めたため、ドイツの[[領邦]]の自立化はいよいよ決定的なものとなった。また、外交においてもフランスや[[ポーランド王国|ポーランド]]との国境問題を解決し、[[1377年]]には教皇の[[アヴィニョン捕囚|アヴィニョン滞在]]に終止符を打ってローマ教皇をローマに帰還させるなど、政治や外交においてはそれなりの成功を収めている。 |
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[[ファイル:Karl IV Blanca Valois.jpg|200px|left|thumb|最初の妻ブランシュ・ド・ヴァロワとカール]] |
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その後は長男[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]に[[ブランデンブルク辺境伯]]領を与え、[[1376年]]にドイツ王に就けて皇帝世襲を確実なものとし、次男[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]女王[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]]の結婚を取りまとめるなどして、確実に自家の権力を強化していた矢先の[[1378年]]に死去した。 |
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ルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引く[[チェコ人]]として生まれた彼であったが、政治にかかわる父と母の確執のため、3歳の時に母の手元から引き離され<ref name=sakai55/>、その後7歳から14歳までのあいだ[[パリ]]の宮廷に送られ、そこで養育された。これは、[[カペー朝]]最後の王となる[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]の王妃([[マリー・ド・リュクサンブール]])が父ヨハンの[[妹]]だったことによる。 |
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シャルル4世について、彼はのちに「王自身はラテン語の知識がなかったが、ラテン語の基礎を学ばせるため、宮廷司祭を家庭教師としてわたしにつけて下さった」と[[自伝]]に記している<ref name=lar>トレモリエール&リシ(2004)pp.404-406</ref>。 |
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カール4世は優れた文化人でもあり、その治世に本拠であるボヘミアでは、首都[[プラハ]]に帝国最初の大学([[プラハ・カレル大学|プラハ大学]])が創設された。プラハは学問文化の都市として発展し、ヨーロッパ屈指の文化都市として栄華を極めたと言われている。 |
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この時の教師がフランス貴族出身のピエール・ロジェ(のちの教皇[[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]])であり、彼に[[ラテン語]]や[[神学]]のほか帝王学を授けた<ref name=uo>魚住(1995)pp.110-113</ref><ref name=denki>ピーターズ(1980)pp.184-185</ref>。ゆきとどいた教育によって、彼は繊細で教養の高い若者に育った<ref name=lar/>。また、このことは後年、彼が神聖ローマ皇帝に選出されるに際して決定的な影響をあたえる機縁となった<ref name=uo/>。 |
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パリ滞在期間、彼は代父であるフランス王シャルル4世の名をとってカール(チェコ語ではカレル)と改名し、[[1329年]]には、フランス王族の[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]の娘でシャルル4世王からは従妹に当たる[[ブランシュ・ド・ヴァロワ|ブランシュ]]を最初の妻に迎えた。なお、ブランシュは[[ヴァロワ朝]]初代の[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の異母妹にあたる。 |
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=== イタリア遠征 === |
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[[1330年]]、カールはパリを去り、翌[[1331年]]からの2年間、父ヨハンとともに[[イタリア]]遠征をおこなった。[[ローマ教皇庁|教皇庁]]が[[1309年]]に南フランスの[[アヴィニョン]]に移った([[アヴィニョン捕囚]]<ref group="注釈">詩人ペトラルカは、アヴィニョンを「西方のバビロン」と呼び。教皇のアヴィニョン滞在を『[[旧約聖書]]』に記された[[バビロン捕囚]]になぞらえた。また、しばしば教皇クレメンス6世に対し、ローマへの帰還を訴えていた。</ref>)のち、イタリアにおいては、強力な皇帝による安定したイタリア統治を望む声が強まり、[[教皇派と皇帝派]]の対立が再燃した<ref name=sakai55/><ref group="注釈">教皇派はゲルフ(グエルフィ)、皇帝派はギベリン(ギベッリーニ)と称された。なお、[[シェークスピア]]の悲劇『[[ロミオとジュリエット]]』は教皇派と皇帝派に分かれて対立した、イタリアの2つの名家をモデルにしているといわれる。</ref>。カールはイタリア遠征のなか、[[ミラノ]]を牛耳る[[ヴィスコンティ家]]の手の者に毒を盛られかけたり、[[メディチ家]]率いる[[フィレンツェ共和国]]との戦いを自ら指揮したりしながら、政治上ないし軍事上の経験を積み重ね、一方では、芸術家や文人たちとの親交によって[[ルネサンス]]初期の[[人文主義]]にふれた。なお、「最初の人文主義者」と称される詩人[[ペトラルカ]]は、若きカールに期待したひとりであった<ref name=sakai55/><ref group="注釈">『[[神曲]]』の作者として著名なフィレンツェの[[ダンテ・アリギエーリ]]は、カールの祖父である神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世に普遍的帝国再建の夢を託した。ハインリヒ7世は1310年から[[1313年]]にかけてイタリアに遠征している。</ref>。 |
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=== 王子のボヘミア統治 === |
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{{main|聖ヴィート大聖堂}} |
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[[ファイル:St Vitus Cathedral from south.jpg|thumb|180px|right|プラハの聖ヴィート大聖堂の尖塔と門]] |
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[[1333年]]、17歳になったカールはボヘミアに帰り、在外の父ヨハンに代わって、ボヘミア及びその分国である[[モラヴィア]]の経営にあたった。1334年にはモラヴィア[[辺境伯]]となり、さらには、1340年に失明した父王の代理としてボヘミアを統治した。 |
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ボヘミア王国の都プラハの小丘上に立地する[[聖ヴィート大聖堂]]が[[ゴシック様式]]によって建設されたのは、カールの王子時代の[[1344年]]11月のことである。大聖堂は、北フランスの[[アラス]]出身のマテュー(マティア)を招いて起工された<ref name=ume>梅田(1958)pp.240-241</ref><ref group="注釈">聖ヴィート大聖堂は、マテューの死後は[[チェコ人]][[ペトル・パルレーシュ]]によってほぼ完成をみた。</ref>。これにともない、従来プラハには教区の統括者として[[マインツ大司教|マインツ大司教座]]に属する[[司教]]が置かれていたが、以降、独立した[[大司教]](プラハ大司教座)が置かれることとなった。 |
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王子時代における13年間におよぶボヘミア統治の経験は、父ヨハン没後の王位継承をきわめて円滑なものとした<ref name=sakai55/>。 |
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=== ボヘミア王、そしてドイツ王へ === |
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[[1346年]]、30歳となったカールは、[[ヴィッテルスバッハ家]]出身の皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]([[バイエルン大公|バイエルン公]])と対立する教皇クレメンス6世(在位:[[1342年]]-[[1352年]])によって、ルートヴィヒ4世の[[対立王]]として擁立された。教皇クレメンスはかつてのカールの師であり、ドイツ諸侯のなかにはルートヴィヒ4世の強引な所領拡大策に不満をもつ者も多く、ルクセンブルク家出身でカールの大叔父にあたる[[トリーア大司教]][[バルドゥイン・フォン・ルクセンブルク|バルドゥイン]]らの[[選帝侯]]もまたカールをドイツ王に選出してルートヴィヒ4世の皇帝廃位を宣言した。しかし、このときカールはドイツ各地のみならずイタリアにおいて「坊主王」と称されて軽侮と嘲笑の対象となった<ref name=kiku152>菊池(2003)pp.152-162</ref>。カールが、皇帝に教会保護の義務のみを負わせるという教皇庁の意向をすべて受け入れ、自身のドイツ王即位と引き替えに従来皇帝の既得権とされてきた権限の多くを放棄したからであった<ref group="注釈">カール4世はこのとき、1.ルートヴィヒ4世が皇帝として実施したすべての政策の無効と取り消しを宣言すること、2.皇帝即位に際し教皇の裁可を仰ぐこと、3.空位期間における教皇の帝国統治権や皇帝代理任命権を認めること、4.独仏間のあらゆる係争に関して教皇を仲裁人とすること、5.[[両シチリア王国]]の教皇の宗主権を認めること、6.皇帝が教皇領を通過するのは皇帝戴冠式に限ること、また、戴冠後は早急にローマを立ち去ること———を受け入れている。</ref>。ドイツ王としての[[戴冠式]]も、1346年、[[アーヘン]]ではなく[[ボン]](ともに現[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]])で簡素に催された。 |
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この年、父王ヨハンとともにカールはフランスへ行き、[[百年戦争]]で[[フランス王国]]側に立って参戦した。ところが、父ヨハンは戦争はじまって以来最大の会戦である[[クレシーの戦い]]でフランス[[皇太子|王太子]]ジャン(のちの[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]])の救援に赴いて戦死した。これにより、カールはボヘミア王及びルクセンブルク伯を継承することとなった。 |
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カールは翌[[1347年]]、プラハにおいてボヘミア王として戴冠式をあげた。直後、廃位を宣言されていたルートヴィヒ4世も死去したため、あわせて正式に単独の神聖ローマ皇帝=[[ローマ王|ドイツ王]]となった。ドイツの選帝侯と先帝ルートヴィヒとは[[1338年]]の協約によって、選帝侯によって選出されたドイツ王は教皇の認可をまつことなく神聖ローマ皇帝とみなされることを取り決めていた<ref name=sakai55/>。しかし、ドイツにおいては国王の世襲を主張するヴィッテルスバッハ家をはじめとして反対勢力も根強く、一時は対立王さえ現れかねない状況だったので、カール4世は当面本拠地であるボヘミア地方をかためた<ref name=sakai55/>。 |
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=== 「皇帝の都」プラハ === |
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{{main|プラハ・カレル大学|感染症の歴史#14世紀の「黒死病」}} |
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[[ファイル:Karl IV HRR.jpg|thumb|180px|left|プラハにあるカール4世像]] |
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彼は、神聖ローマ皇帝となってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれる<ref name=lar/>。 |
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[[1348年]]4月、カール4世は開催中であった全ボヘミア領邦議会<ref group="注釈">ボヘミア領内貴族の[[身分制議会]]である。</ref>の会期にあわせて一連の[[勅書]]を発布したが、彼はこれによって、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)の立場から自身の選帝侯及びボヘミア王としての諸特権を再確認し、一方では、ボヘミア王のもとでの所領の不可分性を規定した<ref name=sakai58>坂井(2003)pp.58-62</ref>。また、同時に発した別の勅書によって、プラハを単にボヘミアの首都であるだけでなく皇帝の都として大々的に整備することを宣言し、その一環として首都にプラハ大学(現在の[[プラハ・カレル大学|カレル大学]])を設立することを発令した<ref name=sakai58/>。 |
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ヨーロッパにおける[[大学]]は[[ボローニャ大学]]が最古で[[パリ大学]]がそれに次ぎ、[[イングランド]]では[[オックスフォード大学]]・[[ケンブリッジ大学]]、さらにイタリア南部でも[[サレルノ]]や[[ナポリ]]には創設されたが、[[ライン川]]の東側、神聖ローマ帝国の領域には大学がひとつもなかった。したがって、ドイツで学問を志す若者は遠方で学ぶよりほかなかったが、幼少をパリで過ごした文化人皇帝カール4世はそのような状況の解消に努めるとともに、プラハを「東方のパリ」たらしめんことを図ったのである<ref name=sakai58/>。 |
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ドイツ語圏初の大学は、カールの領国建設に資する[[官僚]]の育成を目的とするものでもあった<ref name=uo/>。これにより、プラハは東・中欧における学問の中心として栄え、ヨーロッパ屈指の文化都市として発展した。プラハ大学そのものも上述の諸大学に比肩され、後に神学者[[ヤン・フス]]らを輩出している。 |
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[[ファイル:Nuremberg Frauenkirche.jpg|thumb|180px|right|ニュルンベルクのフラウエン教会]] |
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1348年はまた、全ヨーロッパにおいては黒死病([[ペスト]])が猖獗をきわめた年でもあったが、ここでカール4世はドイツにおける[[ユダヤ人]]迫害を阻むことができず、南独の[[ニュルンベルク]]ではユダヤ人家屋の撤去と[[シナゴーグ]]撤去後の跡地への聖母教会(現・フラウエン教会)建設の許可をあたえている。一方、彼はボヘミア王としては、拡張したプラハ新市街への[[移民]]としてユダヤ教徒を歓迎し、関係法令でも移民の筆頭としてユダヤ人を掲げており、その姿勢には二重性がみとめられる<ref group="注釈">このようなカール4世の矛盾する態度は、当時はまだドイツでの立場が不安定であったため積極的な行動に出られなかったという見方がある半面、これを混乱にともなう不可避なこととして逆に利用し、将来のドイツ経営に役立てたのではないかとの見方がある。</ref>。いずれにせよ、このときプラハではペスト感染の症例自体が少なく、ユダヤ人に対する差別や迫害も起こっていない。 |
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[[1349年]]、カール4世はヴィッテルスバッハ家との和解を成立させ、ようやくアーヘンでドイツ王としてあらためて戴冠式を挙げた。同年、モラヴィア辺境伯の地位を同母弟の[[ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク|ヨハン・ハインリヒ]](ヤン・インジフ)にあたえている。 |
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=== ローマ遠征と教皇からの戴冠 === |
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カール4世は[[1353年]]、ルクセンブルク伯位を異母弟の[[ヴェンツェル1世 (ルクセンブルク公)|ヴェンツェル1世]]にあたえ、爵位をルクセンブルク公へと格上げした<ref group="注釈">1356年、カールの異母弟ヴェンツェルは、その妻の所領である[[ネーデルラント]]の[[ブラバント州]]の等族と「ジョワユーズ・アントレー(歓呼の入市)」として著名な協約を結んだ。これは、州の等族の特権を確認することとなった身分制的=等族的な国法として知られる。</ref>。 |
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[[1354年]]から1355年にかけてはイタリア遠征を行い、このあいだ[[ミラノ]]でイタリア王として戴冠、さらに[[ローマ]]では[[サンピエトロ大聖堂]]において神聖ローマ皇帝として正式な戴冠を受け、教皇[[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]]との協約をむすぶことに成功した。両者は互いに双方の[[主権]]を尊重しあうことを確約し、皇帝は教皇庁からの干渉を排する代わりにイタリアへの干渉を放棄した<ref name=naru81>成瀬(1956)pp.81-84</ref>。戴冠は1355年4月5日のことであり、カール4世はその日のうちにローマを離れた<ref name=uo/>。また、フィレンツェ、[[ヴェネツィア]]、ミラノなどの諸都市からは政治的妥協の見返りとして大金を供出させた<ref name=kiku152/>。カールは、祖父・父あるいは歴代皇帝とは異なりイタリア介入をおこなわず、むしろドイツの平穏とボヘミアの発展に力を注いだのである。 |
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ドイツ王権にとって教皇庁からの自由を確保することはドイツ問題を解決していくうえでの前提となっていたが、折しも百年戦争におけるフランスの劣勢は、ドイツにとって西境情勢の好転を意味していたのである<ref name=naru81/><ref group="注釈">1346年のクレシーの戦いのみならず1356年の[[ポワティエの戦い]]でもイングランドが大勝し、フランスは敗北を喫した。</ref>。戦争よりも外交に重きを置いた彼はハプスブルク、ヴィッテルスバッハ両家及び帝国諸侯らとの妥協に成功した<ref name=naru81/>。 |
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=== 金印勅書 === |
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{{main|金印勅書}} |
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[[ファイル:Goldene-bulle_1c-480x475.jpg|left|thumb|180px|1356年の金印勅書の金の印章]] |
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内政に力を傾注できる状況をつくったカール4世は、つづいて精力的に政治改革を進めた。まず、神聖ローマ帝国の最高法規でドイツ再建案ともいうべき[[金印勅書]](''Goldne Bulle'')を発布した。勅書は、[[1356年]]1月10日にはニュルンベルクの帝国議会で、同年12月25日には[[メス (フランス)|メッツ]]の帝国議会でそれぞれ承認された。これにより、[[大空位時代]]よりつづくドイツ国内の政治的混乱を打開しようとしたのである。 |
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[[叙任権闘争]]以降のドイツにあっては封建化が進展し、各諸侯の自立傾向が強まって、皇帝権の衰退が著しかった<ref name=r1>佐藤・池上(1997)pp.326-327</ref>。このことはまた、[[世襲]]にかわって、諸侯による[[選挙王政]]原理の台頭をみた。[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]や[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]ら歴代皇帝による帝国再興の夢は必ずしも実現しなかったが、カール4世の登場にいたってようやく、「ラントフリーデ」と称された、地域的な領邦平和令を帝国再建の基礎にすえる政策が実現にうつされたのである<ref name=r1/>。 |
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金印勅書は全文31章で、 |
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*戴冠式はアーヘン(当時はケルン大司教区に所在)で行うこと |
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*皇帝選出に関しては教皇の認可を要件としないこと |
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*皇帝選出権を[[選帝侯|七選帝侯]](マインツ大司教、トリーア大司教、[[ケルン大司教]]の3聖職諸侯、[[ライン宮中伯]](プファルツ選帝侯)、[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]]、[[ブランデンブルク辺境伯]]、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]の4世俗諸侯)が掌握すること |
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などが定められた<ref>『クロニック世界全史』(1994)p.337</ref><ref group="注釈">七選帝侯については[[13世紀]]代の法書「ザクセン・シュピーゲル」にその原型が記されている。同書にあっては当初ボヘミア王は除外されていたが、[[1237年]]の[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世帝]]の選挙には参加し、そののち、世俗選帝侯筆頭格として選帝侯グループに加わることとなった。</ref>。 |
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金印勅書の発布により、選帝侯の[[門地]]や[[権利]]、選挙のあり方などが規定されて二重選挙の可能性は消滅したものの、選帝侯には帝国の上級官職<ref group="注釈">マインツは帝国大宰相、トリーアはブルグント王国大宰相、ケルンはイタリア王国大宰相、ボヘミアは献酌侍従長、プファルツは大善頭、ザクセンは式部長、ブランデンブルクは侍従長であった。</ref>のみならず、それ自体、[[裁判権]]、[[鉱山]]採掘権、[[関税]]徴収権、[[貨幣]]鋳造権、ユダヤ人保護権など[[主権国家]]の元首のような強い権限があたえられた<ref name=r1/> |
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<ref name=kiku152/>。これによって帝国は安定期に入ったものの選帝侯の特権も大幅に認られて拡充されたため、ドイツの[[領邦]]の自立化はいよいよ決定的なものとなった<ref name=r1/>。金印勅書は、[[ナポレオン戦争]]による[[1806年]]の神聖ローマ帝国滅亡まで450年にわたって法的効力を発揮した。 |
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=== マイェスタス・カロリーナ === |
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金印勅書の発布とほぼ同時期、カール4世は、家領のなかでも中核をなすボヘミアにおいて、ボヘミア王カレルとして「[[マイェスタス・カロリーナ]]」と称する勅書を発布し、ドイツにおける金印勅書以上に国内の平和と安寧の保障者としての王権を強く打ち出そうとした。しかし、こちらはボヘミア国内の貴族の反発のため発布できなかった<ref name=sakai63/>。 |
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=== 家権拡大政策の展開 === |
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[[ファイル:Karl Fourth Bohemia Anna Schweidnitz.jpeg|right|thumb|300px|アンナ・シフィドニツカとカール4世]] |
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上述のように、金印勅書において世俗選帝侯としてボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯が確定している。これは、概ね既定事項を再確認したものではあったが、ここでハプスブルク家の[[オーストリア公国]]とヴィッテルスバッハ家の[[バイエルン公国]]という、ボヘミアにとっては二大ライバルにあたる勢力が巧妙に除外されていることに注意を払う必要がある<ref name=sakai63/><ref name=kiku152/>。 |
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金印勅書発布以降のカールは、家権拡大政策をいっそう積極的に展開して、王権の基礎の強化に努めた。とりわけ本拠地であるボヘミアの経営には傾注し、[[鉱山]]の開発や交通路の整備などをおこなったほか、ボヘミア王国の領域拡大にも努めている。義父の遺領を継いでオーバーファルツ(マイセン)および[[ラウジッツ|ニーダーラウジッツ]]を、[[アンナ・シフィドニツカ]]との結婚によって[[シレジア]](シュレジエン)を併合し、さらにブランデンブルク辺境伯領をバイエルン公[[オットー5世 (バイエルン公)|オットー5世]]より購入した<ref name=ume/><ref name=naru85>成瀬(1956)pp.84-85</ref>。 |
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[[1365年]]、カールは[[アルル]]において[[ブルグント王]](フランス語ではブルゴーニュ王)としての戴冠式をおこなっている。こうして、カールはドイツ王、イタリア王、ブルグント王の国王戴冠と神聖ローマ皇帝としての戴冠をすべて果たした最後の皇帝となった<ref name=sakai58/>。同年、[[ポーランド王]]家の血を引く[[エリーザベト・フォン・ポンメルン]]と結婚し、[[ポンメルン]]やポーランドなど北方への家領拡大の布石とした。 |
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[[アヴィニョン]]にあった教皇庁は、イタリア帰還の助力をカールに要請した。詩人ペトラルカはローマの運命を案じ、[[イタリア半島]]に平和を回復するようカールに書簡を送ったが、[[1367年]]から[[1369年]]にいたる再度のイタリア遠征には失敗した<ref name=denki/>。 |
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=== 2つの都市同盟承認と治世の晩年 === |
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{{main|ハンザ同盟}} |
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「[[ハンザ同盟]]」の名称で知られる経済共同体は、[[デンマーク]]王[[ヴァルデマー4世 (デンマーク王)|ヴァルデマー4世]]が[[バルト海]]・[[北海]]を中心とする北方交易を独占しようと試みたことに対し、いくつかの都市が反発して同盟をむすんだことに端を発している。[[1375年]]、カール4世は[[リューベック]]を盟主とするハンザ同盟の貿易独占権を承認した<ref>ロバーツ(2003)p.211</ref><ref group="注釈">[[1370年]]にはハンザ同盟はデンマークと戦い、これに勝利している。</ref>。同盟を構成する有力都市は、他に[[ハンブルク]]、[[ケルン]]、[[ブレーメン]]、ダンチヒ([[グダニスク]])などがあり、最盛期には200以上の都市が加盟していた。 |
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翌[[1376年]]、「[[シュヴァーベン]]都市同盟」が結成され、カールはこれも許可した<ref name=kiku163>菊池(2003)pp.162-172</ref>。この許可は、一説には帝位位世襲工作の資金調達のためであったといわれている。しかし、自ら定めた金印勅書に違反しての同盟許可はドイツ諸侯を憤慨させる結果となった。<ref name=kiku163/>。 |
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その後のカール4世は、長男[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]をブランデンブルク辺境伯領をあたえ、[[1376年]]にドイツ王に就けて皇帝世襲を確実なものとし、次男[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位継承者である女王[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]]の結婚を取りまとめて東方を固め、ハンガリー獲得の礎とした<ref name=uo/><ref name=naru85/>。 |
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このころ外交においては、フランスやポーランドとの国境問題を解決し、[[1377年]]には教皇のアヴィニョン滞在に終止符を打って教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]のローマ帰還を実現させて、みずからの声望を高め、ドイツの国際的地位を向上させた。 |
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カール4世はさまざまな手段を用いて確実に自家の権力を強化していた矢先の1378年11月29日、62年の生涯を閉じた。 |
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== 人物 == |
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=== 「ボヘミアの父」 === |
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[[ファイル:Burgkarlstein02.jpg|left|thumb|200px|プラハ南郊のカレルシュテイン城]] |
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{{main|ルクセンブルク家によるボヘミア統治}} |
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父ヨハンの代にルクセンブルク家がボヘミア王位を継承したことは、キリスト教世界におけるボヘミアの国威発揚と国力増進を意味していた<ref name=denki/>。そして、若くしてボヘミアの君主となったカール4世は、チェコ人によってしばしば「祖国の父」と称される<ref name=lar/>。チェコ人は、西[[スラヴ語]]系のチェコ語を話す民族で、[[モラヴィア王国]]時代には[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]によって[[正教会|ギリシア正教]]の布教もなされたが、[[10世紀]]後半以降、カトリックへの改宗が進んだ。 |
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カールは、皇帝の都としてのプラハを大々的に建設するとともに、商工業を育成し、さらにボヘミアの地位向上をめざした<ref group="注釈">大プラハ建設の布告とともにひらかれた議会で出された証書には「ボヘミア王国はドイツ王国の中で高貴な部分」と記している。</ref>。王子時代に建設された聖ヴィート大聖堂には「聖ヴァーツラフの王冠」が納められ、その王冠の下、ボヘミア、モラヴィア、シレジア、ラウジッツが統合されると証書に定めた。これは現在のチェコ共和国の国章にも反映される。カールはまた、王国の[[カトリック教会]]を保護したため、教会や[[聖職者]]の財産は増大した<ref name=ume/>。 |
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自負するところも相当に強かった彼は、各地に自身の名を冠した城を築いている<ref name=sakai55/>。チェコの[[カレルシュテイン城]]は、カールが皇帝となった1348年にプラハ南西近郊に建設された[[城]]であり、[[帝冠]]と王家の[[紋章]]とが保存されることで知られる<ref name=lar/>。現在は、[[古城街道]]を構成する城のひとつとして人気の観光地となっている。彼の名を冠したものとしては他に、世界的な[[温泉地]]として知られるボヘミア西部の[[カルロヴィ・ヴァリ|カールスバート]](カルロヴィ・ヴァリ)<ref name=sakai55/>や[[ヴルタヴァ川]]に架かるプラハの[[カレル橋]]<ref name=ume/>などがある。 |
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カールの治世において、首都プラハは中・東欧通商網の中核をなして文化的にも繁栄し、当時の南スラヴ諸侯からは「黄金のプラハ」と称されるほどであった<ref name=ume/><ref group="注釈">カールのボヘミア優先政策は、「カールはボヘミアに[[ブドウ]]や[[イチジク]]を植えている」と批判された。これについては、ペトラルカもカールに対し抗議の手紙を送っている(記事「[[ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策]]」参照)。</ref>。帝国の政治的重心も大きく東に移動した。 |
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=== 「文人皇帝」 === |
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彼は、パリで養育を受け、若いころにイタリアの文人との交わりをもったこともあって、5か国語に通じ、[[フランス語]]、[[イタリア語]]、ドイツ語、チェコ語を自由にあやつり、[[ラテン語]]で[[自伝]]を著しており、当時のヨーロッパにあって最も[[教養]]の高い君主であった<ref name=sakai55/>。彼自身、神学と[[法学]]には生涯にわたって興味を持ち続け、生活ぶりは質素で、また、重篤な信仰心をいだいており、該博な[[古典]]の知識を有していた<ref name=denki/>。 |
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カール4世はまた、自身のみならず、金印勅書第31条において、帝国は異なる複数の言語を用いる「諸国民」より構成される国家であるから、選帝侯の後継者たる者は7歳から14歳のあいだ、ドイツ語のほか、ラテン語、イタリア語、チェコ語を習得すべしとの条項を入れた<ref name=sakai63/>。もとよりこれはカールの願望であり、実現には移されなかったが、「国際的君主」「学者王」に導かれたプラハの宮廷にはヨーロッパ各地より学者や芸術家が招かれ、ドイツ・フランス・イタリアの文化が移植されて、当時のヨーロッパにおいて初期人文主義の一中心としての役割を担い、一方ではボヘミア民族文化が興隆したのであった<ref name=denki/>。 |
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== 評価 == |
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[[File:HRR 14Jh.jpg|300px|thumb|カール4世時代の帝国の領域と主要王家の領地{{legend|#BF80FF|[[ルクセンブルク家]]}}{{legend|#99CC66|[[ヴィッテルスバッハ家]]}}{{legend|#ffaa00|[[ハプスブルク家]]}}]] |
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カール4世は、上述のように、中世後期の神聖ローマ皇帝のなかでもきわめて個性的な統治を行った支配者であったが、その治世については歴史的評価が分かれている。 |
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金印勅書に関しても、これが、国王選挙の際に対立王が出現する事態、すなわち、諸侯の分裂によって二重選挙となる事態を回避してドイツに秩序と平穏をもたらしたとして評価する立場と、ドイツにおける領邦分裂体制の固定を促してしまったと見なす立場がある。 |
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七選帝侯は、金印勅書において、帝国を支える柱として、また、帝国永続の保障として、領国の不分割及び世俗選帝侯における長子単独相続が定められ、貨幣鋳造権をも含む国王大権が付与された。選帝侯は、国王選挙のほか年に一回、「選帝侯会議」をひらき、ある程度の領域的な管掌をも一方で分担しながら帝国全体の政治について審議することになって、帝国はさしあたって国王と選帝侯会議とを2本の柱とする複合帝国として一体的なものとなった。さらに、永続性の観点からは、固定的で高い権能を有するそれぞれの選帝侯国を基盤とする選挙帝制というべき国制が打ちたてられた<ref name=sakai63/>。 |
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彼は、冷徹な現実主義に立脚してドイツにおける支配関係の現状を追認して、それに法的根拠をあたえたのであり、これによってドイツでは国内治安が確立し、一時的にではあるがフェーデ(私闘)<ref group="注釈">中世ヨーロッパで盛行した法廷外での係争処理制度。</ref>も途絶した<ref name=kiku163/>。 |
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しかし、その反面では、通行関税の低減や[[市民権]]の市壁外住民への付与など、[[都市]]の利益を図った条項は、諸侯の利益に反するものとして削除され、なかでもドイツ諸侯に対抗するような都市同盟は国内平和を乱す元凶として禁止された。彼にもし都市を保護することによって諸侯に対する対抗勢力育成の意図があったとすれば、これは妥協にほかならなかった<ref name=sakai63/>。ただし、晩年みずから金印勅書に違約し、諸侯の反発があったにもかかわらず、その認可を強行した。 |
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カールの念頭にあったのは、家領と家権の拡大であり、皇帝位もそのためにこそ最大限に活用された。そして、金印勅書発布後のカールは家権拡大政策に専心して、最終的にはルクセンブルク家による事実上の皇帝世襲を企図していた<ref name=sakai63/><ref name=kiku163/>。しかし、長子ヴェンツェル、次子ジギスムントともに凡庸で、のちにボヘミア王国も神聖ローマ皇帝位もルクセンブルク家の手から離れてしまう。そして、皮肉なことに、いずれもカールがライバルとみなしたハプスブルク家の手に収まり、カールのおこなったことは[[1438年]]よりはじまる「[[ハプスブルク帝国]]」(ハプスブルク家による帝位の世襲化)を準備することとなってしまったのである<ref name=sakai63/><ref name=kiku163/>。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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カール4世は4度結婚している。 |
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カール4世は4度結婚した。1329年に結婚した最初の妃[[ブランシュ・ド・ヴァロワ]]は、[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]の娘でフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の異母妹であった。ブランシュとの間には2女が生まれた。 |
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* [[マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク (ハンガリー王妃)|マルガレーテ]](1335年 - 1349年) - [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王(のちに[[ポーランド王国|ポーランド]]王を兼ねる)[[ラヨシュ1世]]と結婚した。 |
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* [[カタリーナ・フォン・ルクセンブルク|カタリーナ]](1342年 - 1395年) - [[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]]と結婚し、死別後に[[バイエルン大公|バイエルン公]]兼[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[オットー5世 (バイエルン公)|オットー5世]]と再婚した。 |
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1329年に結婚した最初の妃[[ブランシュ・ド・ヴァロワ]]は、[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]の娘でフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の異母妹であった。ブランシュとの間には2女が生まれた。 |
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:* [[マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク (ハンガリー王妃)|マルガレーテ]](1335年 - 1349年) - [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王(後に[[ポーランド王国|ポーランド]]王を兼ねる)[[ラヨシュ1世]]と結婚した。 |
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* ヴェンツェル(1350年 - 1351年) |
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:* [[カタリーナ・フォン・ルクセンブルク|カタリーナ]](1342年 - 1395年) - [[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]]と結婚し、死別後に[[バイエルン大公|バイエルン公]]兼[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[オットー5世 (バイエルン公)|オットー5世]]と再婚した。 |
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1349年に[[ライン宮中伯]][[ルドルフ2世 (ライン宮中伯)|ルドルフ2世]]の娘[[アンナ・フォン・デア・プファルツ]]と結婚した。2人の間には1男が生まれたが夭逝した。 |
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:* ヴェンツェル(1350年 - 1351年) |
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1353年に低[[シレジア]]のシフィドニツァ公[[ヘンリク2世 (シフィドニツァ公)|ヘンリク2世]]の娘[[アンナ・シフィドニツカ|アンナ]]と結婚した。2人の間には1男1女が生まれた。 |
1353年に低[[シレジア]]のシフィドニツァ公[[ヘンリク2世 (シフィドニツァ公)|ヘンリク2世]]の娘[[アンナ・シフィドニツカ|アンナ]]と結婚した。2人の間には1男1女が生まれた。 |
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* [[エリーザベト・フォン・ |
:* [[エリーザベト・フォン・ベーメン|エリーザベト]](1358年 - 1373年) - オーストリア公[[アルブレヒト3世 (オーストリア公)|アルブレヒト3世]](ルドルフ4世の弟)と結婚した。 |
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* [[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]](1361年 - 1419年) - 神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公。 |
:* [[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]](1361年 - 1419年) - 神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公。 |
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[[1365年]]に[[ポメラニア]]公ボギスラフ5世の娘([[ポーランド王国|ポーランド]]王[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]の孫娘)[[エリーザベト・フォン・ポンメルン|エリーザベト]]と結婚した。2人の間には4男2女が生まれた。 |
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:* [[アン・オブ・ボヘミア|アンナ]](1366年 - 1394年) - [[イングランド]]王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]と結婚した。 |
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:* [[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]](1368年 - 1437年) - 神聖ローマ皇帝、ルクセンブルク公、ブランデンブルク選帝侯、ボヘミア王、ハンガリー王 |
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:* ヨハン(1370年 - 1396年) - ゲルリッツ公。ルクセンブルク女公[[エリーザベト (ルクセンブルク女公)|エリーザベト]]の父。 |
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:* カール(1372年 - 1373年) - 夭逝。 |
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:* [[マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク_(1373-1410)|マルガレーテ]](1373年 - 1410年) - [[ニュルンベルク城伯]][[ヨハン3世 (ニュルンベルク城伯)|ヨハン3世]]と結婚した。 |
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:* ハインリヒ(1377年 - 1378年) - 夭逝。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 参照 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
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1365年に[[ポメラニア]]公ボギスラフ5世の娘([[ポーランド王国|ポーランド]]王[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]の孫娘)[[エリーザベト・フォン・ポンメルン|エリーザベト]]と結婚した。2人の間には4男2女が生まれた。 |
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* [[成瀬治]]ほか『世界各国史III ドイツ史』[[山川出版社]]、1956年4月。 |
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* [[アン・オブ・ボヘミア|アンナ]](1366年 - 1394年) - [[イングランド]]王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]と結婚した。 |
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* [[梅田良忠]]ほか『世界各国史XIII 東欧史』山川出版社、1958年4月。 |
|||
* [[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]](1368年 - 1437年) - 神聖ローマ皇帝、ルクセンブルク公、ブランデンブルク選帝侯、ボヘミア王、ハンガリー王 |
|||
* エドワード・M・ピーターズ「カール4世」『世界伝記大事典<世界編>3 カ-クリ』[[ほるぷ出版]]、1980年12月。 |
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* ヨハン(1370年 - 1396年) - ゲルリッツ公。ルクセンブルク女公[[エリーザベト (ルクセンブルク女公)|エリーザベト]]の父。 |
|||
* [[樺山紘一]]・[[木村靖二]]・[[窪添慶文]]・[[湯川武]]監修『クロニック世界全史』[[講談社]]、1994年11月。ISBN 4-06-206891-5 |
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* カール(1372年 - 1373年) - 夭逝。 |
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* [[魚住昌良]]「カール4世」今井宏編『人物世界史1 西洋編(古代~17世紀)』山川出版社、1995年5月。ISBN 4-634-64300-6 |
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* [[マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク_(1373-1410)|マルガレーテ]](1373年 - 1410年) - [[ニュルンベルク城伯]][[ヨハン3世 (ニュルンベルク城伯)|ヨハン3世]]と結婚した。 |
|||
* [[佐藤彰一]]・[[池上俊一]]『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』[[中央公論社]]、1997年5月。ISBN 4-12-403410-5 |
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* ハインリヒ(1377年 - 1378年) - 夭逝。 |
|||
* [[坂井榮八郎]]『ドイツ史10講』[[岩波書店]]<[[岩波新書]]>、2003年2月。ISBN 4-00-430826-7 |
|||
* J.M.ロバーツ([[:en:John Roberts (historian)|en]])、月森左知・高橋宏訳、池上俊一監修『図説世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』[[創元社]]、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6 |
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* [[菊池良生]]『神聖ローマ帝国』講談社<[[講談社現代新書]]>、2003年7月。ISBN 978-4061496736 |
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* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ著『図説 ラルース世界史人物百科〈1〉古代‐中世<small>-アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで-</small>』[[原書房]]、2004年6月。ISBN 4-562-03728-8 |
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== 関連項目 == |
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2011年1月14日 (金) 15:46時点における版
カール4世 Karl IV | |
---|---|
神聖ローマ皇帝 | |
| |
在位 | 1355年 - 1378年11月29日 |
戴冠式 | 1355年1月6日 |
別号 | ドイツ王、ボヘミア(ベーメン)王、ルクセンブルク伯 |
出生 |
1316年5月14日 ボヘミア、プラハ |
死去 |
1378年11月29日 ボヘミア、プラハ |
配偶者 | ブランシュ・ド・ヴァロワ |
アンナ・フォン・デア・プファルツ | |
アンナ・シフィドニツカ | |
エリーザベト・フォン・ポンメルン | |
子女 |
マルガレーテ カタリーナ エリーザベト ヴェンツェル アンナ ジギスムント ほか |
家名 | ルクセンブルク家 |
王朝 | ルクセンブルク朝 |
父親 | ヨハン・フォン・ルクセンブルク |
母親 | エリシュカ・プシェミスロヴナ |
カール4世(Karl IV.,1316年5月14日 - 1378年11月29日)は、ルクセンブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1355年 - 1378年)。ボヘミア(ベーメン)王カレル1世(Karel I., 在位:1346年 - 1378年)としても著名である。フランス式発音ではシャルル(Charles)。
文人皇帝として知られ、しばしば、最初の「近代的」君主と称される[1]。金印勅書の発布やプラハ大学の創設、教皇のローマ帰還への尽力などで知られる。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の孫で、父はボヘミア王ヨハン(ヤン)、母はボヘミア及びポーランド王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカ。
モラヴィア辺境伯(在位:1334年 - 1349年)、ルクセンブルク伯でもあった(在位:1346年 - 1353年)。
生涯と治世
出生とパリでの生活
カール4世は1316年5月14日、ボヘミア王国の都プラハで生まれた。母はプシェミスル家最後のボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカである。
1306年、ヴァーツラフ3世が暗殺されるとプシュミスル家の男系は断絶し、その後様々な経緯があった[注釈 1]ものの、国内で王位継承に同意権を有していたボヘミアの有力貴族達は、最終的にボヘミア王として、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子でドイツ西部の名門貴族ルクセンブルク家のヨハンを選んだ。1310年、ヨハンはエリシュカ・プシェミスロヴナと結婚してボヘミア王となった[2]。この2人の間に生まれた長男がカールである。カールは最初、伯父の先王と同じヴァーツラフ(Václav:チェコ語。ドイツ語ではヴェンツェル:Wenzel)と名付けられた。
ルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引くチェコ人として生まれた彼であったが、政治にかかわる父と母の確執のため、3歳の時に母の手元から引き離され[2]、その後7歳から14歳までのあいだパリの宮廷に送られ、そこで養育された。これは、カペー朝最後の王となるフランス王シャルル4世の王妃(マリー・ド・リュクサンブール)が父ヨハンの妹だったことによる。
シャルル4世について、彼はのちに「王自身はラテン語の知識がなかったが、ラテン語の基礎を学ばせるため、宮廷司祭を家庭教師としてわたしにつけて下さった」と自伝に記している[3]。
この時の教師がフランス貴族出身のピエール・ロジェ(のちの教皇クレメンス6世)であり、彼にラテン語や神学のほか帝王学を授けた[4][5]。ゆきとどいた教育によって、彼は繊細で教養の高い若者に育った[3]。また、このことは後年、彼が神聖ローマ皇帝に選出されるに際して決定的な影響をあたえる機縁となった[4]。
パリ滞在期間、彼は代父であるフランス王シャルル4世の名をとってカール(チェコ語ではカレル)と改名し、1329年には、フランス王族のヴァロワ伯シャルルの娘でシャルル4世王からは従妹に当たるブランシュを最初の妻に迎えた。なお、ブランシュはヴァロワ朝初代のフィリップ6世の異母妹にあたる。
イタリア遠征
1330年、カールはパリを去り、翌1331年からの2年間、父ヨハンとともにイタリア遠征をおこなった。教皇庁が1309年に南フランスのアヴィニョンに移った(アヴィニョン捕囚[注釈 2])のち、イタリアにおいては、強力な皇帝による安定したイタリア統治を望む声が強まり、教皇派と皇帝派の対立が再燃した[2][注釈 3]。カールはイタリア遠征のなか、ミラノを牛耳るヴィスコンティ家の手の者に毒を盛られかけたり、メディチ家率いるフィレンツェ共和国との戦いを自ら指揮したりしながら、政治上ないし軍事上の経験を積み重ね、一方では、芸術家や文人たちとの親交によってルネサンス初期の人文主義にふれた。なお、「最初の人文主義者」と称される詩人ペトラルカは、若きカールに期待したひとりであった[2][注釈 4]。
王子のボヘミア統治
1333年、17歳になったカールはボヘミアに帰り、在外の父ヨハンに代わって、ボヘミア及びその分国であるモラヴィアの経営にあたった。1334年にはモラヴィア辺境伯となり、さらには、1340年に失明した父王の代理としてボヘミアを統治した。
ボヘミア王国の都プラハの小丘上に立地する聖ヴィート大聖堂がゴシック様式によって建設されたのは、カールの王子時代の1344年11月のことである。大聖堂は、北フランスのアラス出身のマテュー(マティア)を招いて起工された[6][注釈 5]。これにともない、従来プラハには教区の統括者としてマインツ大司教座に属する司教が置かれていたが、以降、独立した大司教(プラハ大司教座)が置かれることとなった。
王子時代における13年間におよぶボヘミア統治の経験は、父ヨハン没後の王位継承をきわめて円滑なものとした[2]。
ボヘミア王、そしてドイツ王へ
1346年、30歳となったカールは、ヴィッテルスバッハ家出身の皇帝ルートヴィヒ4世(バイエルン公)と対立する教皇クレメンス6世(在位:1342年-1352年)によって、ルートヴィヒ4世の対立王として擁立された。教皇クレメンスはかつてのカールの師であり、ドイツ諸侯のなかにはルートヴィヒ4世の強引な所領拡大策に不満をもつ者も多く、ルクセンブルク家出身でカールの大叔父にあたるトリーア大司教バルドゥインらの選帝侯もまたカールをドイツ王に選出してルートヴィヒ4世の皇帝廃位を宣言した。しかし、このときカールはドイツ各地のみならずイタリアにおいて「坊主王」と称されて軽侮と嘲笑の対象となった[7]。カールが、皇帝に教会保護の義務のみを負わせるという教皇庁の意向をすべて受け入れ、自身のドイツ王即位と引き替えに従来皇帝の既得権とされてきた権限の多くを放棄したからであった[注釈 6]。ドイツ王としての戴冠式も、1346年、アーヘンではなくボン(ともに現ノルトライン=ヴェストファーレン州)で簡素に催された。
この年、父王ヨハンとともにカールはフランスへ行き、百年戦争でフランス王国側に立って参戦した。ところが、父ヨハンは戦争はじまって以来最大の会戦であるクレシーの戦いでフランス王太子ジャン(のちのジャン2世)の救援に赴いて戦死した。これにより、カールはボヘミア王及びルクセンブルク伯を継承することとなった。
カールは翌1347年、プラハにおいてボヘミア王として戴冠式をあげた。直後、廃位を宣言されていたルートヴィヒ4世も死去したため、あわせて正式に単独の神聖ローマ皇帝=ドイツ王となった。ドイツの選帝侯と先帝ルートヴィヒとは1338年の協約によって、選帝侯によって選出されたドイツ王は教皇の認可をまつことなく神聖ローマ皇帝とみなされることを取り決めていた[2]。しかし、ドイツにおいては国王の世襲を主張するヴィッテルスバッハ家をはじめとして反対勢力も根強く、一時は対立王さえ現れかねない状況だったので、カール4世は当面本拠地であるボヘミア地方をかためた[2]。
「皇帝の都」プラハ
彼は、神聖ローマ皇帝となってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれる[3]。
1348年4月、カール4世は開催中であった全ボヘミア領邦議会[注釈 7]の会期にあわせて一連の勅書を発布したが、彼はこれによって、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)の立場から自身の選帝侯及びボヘミア王としての諸特権を再確認し、一方では、ボヘミア王のもとでの所領の不可分性を規定した[8]。また、同時に発した別の勅書によって、プラハを単にボヘミアの首都であるだけでなく皇帝の都として大々的に整備することを宣言し、その一環として首都にプラハ大学(現在のカレル大学)を設立することを発令した[8]。
ヨーロッパにおける大学はボローニャ大学が最古でパリ大学がそれに次ぎ、イングランドではオックスフォード大学・ケンブリッジ大学、さらにイタリア南部でもサレルノやナポリには創設されたが、ライン川の東側、神聖ローマ帝国の領域には大学がひとつもなかった。したがって、ドイツで学問を志す若者は遠方で学ぶよりほかなかったが、幼少をパリで過ごした文化人皇帝カール4世はそのような状況の解消に努めるとともに、プラハを「東方のパリ」たらしめんことを図ったのである[8]。
ドイツ語圏初の大学は、カールの領国建設に資する官僚の育成を目的とするものでもあった[4]。これにより、プラハは東・中欧における学問の中心として栄え、ヨーロッパ屈指の文化都市として発展した。プラハ大学そのものも上述の諸大学に比肩され、後に神学者ヤン・フスらを輩出している。
1348年はまた、全ヨーロッパにおいては黒死病(ペスト)が猖獗をきわめた年でもあったが、ここでカール4世はドイツにおけるユダヤ人迫害を阻むことができず、南独のニュルンベルクではユダヤ人家屋の撤去とシナゴーグ撤去後の跡地への聖母教会(現・フラウエン教会)建設の許可をあたえている。一方、彼はボヘミア王としては、拡張したプラハ新市街への移民としてユダヤ教徒を歓迎し、関係法令でも移民の筆頭としてユダヤ人を掲げており、その姿勢には二重性がみとめられる[注釈 8]。いずれにせよ、このときプラハではペスト感染の症例自体が少なく、ユダヤ人に対する差別や迫害も起こっていない。
1349年、カール4世はヴィッテルスバッハ家との和解を成立させ、ようやくアーヘンでドイツ王としてあらためて戴冠式を挙げた。同年、モラヴィア辺境伯の地位を同母弟のヨハン・ハインリヒ(ヤン・インジフ)にあたえている。
ローマ遠征と教皇からの戴冠
カール4世は1353年、ルクセンブルク伯位を異母弟のヴェンツェル1世にあたえ、爵位をルクセンブルク公へと格上げした[注釈 9]。
1354年から1355年にかけてはイタリア遠征を行い、このあいだミラノでイタリア王として戴冠、さらにローマではサンピエトロ大聖堂において神聖ローマ皇帝として正式な戴冠を受け、教皇インノケンティウス6世との協約をむすぶことに成功した。両者は互いに双方の主権を尊重しあうことを確約し、皇帝は教皇庁からの干渉を排する代わりにイタリアへの干渉を放棄した[9]。戴冠は1355年4月5日のことであり、カール4世はその日のうちにローマを離れた[4]。また、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなどの諸都市からは政治的妥協の見返りとして大金を供出させた[7]。カールは、祖父・父あるいは歴代皇帝とは異なりイタリア介入をおこなわず、むしろドイツの平穏とボヘミアの発展に力を注いだのである。
ドイツ王権にとって教皇庁からの自由を確保することはドイツ問題を解決していくうえでの前提となっていたが、折しも百年戦争におけるフランスの劣勢は、ドイツにとって西境情勢の好転を意味していたのである[9][注釈 10]。戦争よりも外交に重きを置いた彼はハプスブルク、ヴィッテルスバッハ両家及び帝国諸侯らとの妥協に成功した[9]。
金印勅書
内政に力を傾注できる状況をつくったカール4世は、つづいて精力的に政治改革を進めた。まず、神聖ローマ帝国の最高法規でドイツ再建案ともいうべき金印勅書(Goldne Bulle)を発布した。勅書は、1356年1月10日にはニュルンベルクの帝国議会で、同年12月25日にはメッツの帝国議会でそれぞれ承認された。これにより、大空位時代よりつづくドイツ国内の政治的混乱を打開しようとしたのである。
叙任権闘争以降のドイツにあっては封建化が進展し、各諸侯の自立傾向が強まって、皇帝権の衰退が著しかった[10]。このことはまた、世襲にかわって、諸侯による選挙王政原理の台頭をみた。フリードリヒ1世やフリードリヒ2世ら歴代皇帝による帝国再興の夢は必ずしも実現しなかったが、カール4世の登場にいたってようやく、「ラントフリーデ」と称された、地域的な領邦平和令を帝国再建の基礎にすえる政策が実現にうつされたのである[10]。
金印勅書は全文31章で、
- 戴冠式はアーヘン(当時はケルン大司教区に所在)で行うこと
- 皇帝選出に関しては教皇の認可を要件としないこと
- 皇帝選出権を七選帝侯(マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3聖職諸侯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の4世俗諸侯)が掌握すること
金印勅書の発布により、選帝侯の門地や権利、選挙のあり方などが規定されて二重選挙の可能性は消滅したものの、選帝侯には帝国の上級官職[注釈 12]のみならず、それ自体、裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権、ユダヤ人保護権など主権国家の元首のような強い権限があたえられた[10] [7]。これによって帝国は安定期に入ったものの選帝侯の特権も大幅に認られて拡充されたため、ドイツの領邦の自立化はいよいよ決定的なものとなった[10]。金印勅書は、ナポレオン戦争による1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで450年にわたって法的効力を発揮した。
マイェスタス・カロリーナ
金印勅書の発布とほぼ同時期、カール4世は、家領のなかでも中核をなすボヘミアにおいて、ボヘミア王カレルとして「マイェスタス・カロリーナ」と称する勅書を発布し、ドイツにおける金印勅書以上に国内の平和と安寧の保障者としての王権を強く打ち出そうとした。しかし、こちらはボヘミア国内の貴族の反発のため発布できなかった[1]。
家権拡大政策の展開
上述のように、金印勅書において世俗選帝侯としてボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯が確定している。これは、概ね既定事項を再確認したものではあったが、ここでハプスブルク家のオーストリア公国とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公国という、ボヘミアにとっては二大ライバルにあたる勢力が巧妙に除外されていることに注意を払う必要がある[1][7]。
金印勅書発布以降のカールは、家権拡大政策をいっそう積極的に展開して、王権の基礎の強化に努めた。とりわけ本拠地であるボヘミアの経営には傾注し、鉱山の開発や交通路の整備などをおこなったほか、ボヘミア王国の領域拡大にも努めている。義父の遺領を継いでオーバーファルツ(マイセン)およびニーダーラウジッツを、アンナ・シフィドニツカとの結婚によってシレジア(シュレジエン)を併合し、さらにブランデンブルク辺境伯領をバイエルン公オットー5世より購入した[6][12]。
1365年、カールはアルルにおいてブルグント王(フランス語ではブルゴーニュ王)としての戴冠式をおこなっている。こうして、カールはドイツ王、イタリア王、ブルグント王の国王戴冠と神聖ローマ皇帝としての戴冠をすべて果たした最後の皇帝となった[8]。同年、ポーランド王家の血を引くエリーザベト・フォン・ポンメルンと結婚し、ポンメルンやポーランドなど北方への家領拡大の布石とした。
アヴィニョンにあった教皇庁は、イタリア帰還の助力をカールに要請した。詩人ペトラルカはローマの運命を案じ、イタリア半島に平和を回復するようカールに書簡を送ったが、1367年から1369年にいたる再度のイタリア遠征には失敗した[5]。
2つの都市同盟承認と治世の晩年
「ハンザ同盟」の名称で知られる経済共同体は、デンマーク王ヴァルデマー4世がバルト海・北海を中心とする北方交易を独占しようと試みたことに対し、いくつかの都市が反発して同盟をむすんだことに端を発している。1375年、カール4世はリューベックを盟主とするハンザ同盟の貿易独占権を承認した[13][注釈 13]。同盟を構成する有力都市は、他にハンブルク、ケルン、ブレーメン、ダンチヒ(グダニスク)などがあり、最盛期には200以上の都市が加盟していた。
翌1376年、「シュヴァーベン都市同盟」が結成され、カールはこれも許可した[14]。この許可は、一説には帝位位世襲工作の資金調達のためであったといわれている。しかし、自ら定めた金印勅書に違反しての同盟許可はドイツ諸侯を憤慨させる結果となった。[14]。
その後のカール4世は、長男ヴェンツェルをブランデンブルク辺境伯領をあたえ、1376年にドイツ王に就けて皇帝世襲を確実なものとし、次男ジギスムントとハンガリーの王位継承者である女王マーリアの結婚を取りまとめて東方を固め、ハンガリー獲得の礎とした[4][12]。
このころ外交においては、フランスやポーランドとの国境問題を解決し、1377年には教皇のアヴィニョン滞在に終止符を打って教皇グレゴリウス11世のローマ帰還を実現させて、みずからの声望を高め、ドイツの国際的地位を向上させた。
カール4世はさまざまな手段を用いて確実に自家の権力を強化していた矢先の1378年11月29日、62年の生涯を閉じた。
人物
「ボヘミアの父」
父ヨハンの代にルクセンブルク家がボヘミア王位を継承したことは、キリスト教世界におけるボヘミアの国威発揚と国力増進を意味していた[5]。そして、若くしてボヘミアの君主となったカール4世は、チェコ人によってしばしば「祖国の父」と称される[3]。チェコ人は、西スラヴ語系のチェコ語を話す民族で、モラヴィア王国時代にはキュリロスによってギリシア正教の布教もなされたが、10世紀後半以降、カトリックへの改宗が進んだ。
カールは、皇帝の都としてのプラハを大々的に建設するとともに、商工業を育成し、さらにボヘミアの地位向上をめざした[注釈 14]。王子時代に建設された聖ヴィート大聖堂には「聖ヴァーツラフの王冠」が納められ、その王冠の下、ボヘミア、モラヴィア、シレジア、ラウジッツが統合されると証書に定めた。これは現在のチェコ共和国の国章にも反映される。カールはまた、王国のカトリック教会を保護したため、教会や聖職者の財産は増大した[6]。
自負するところも相当に強かった彼は、各地に自身の名を冠した城を築いている[2]。チェコのカレルシュテイン城は、カールが皇帝となった1348年にプラハ南西近郊に建設された城であり、帝冠と王家の紋章とが保存されることで知られる[3]。現在は、古城街道を構成する城のひとつとして人気の観光地となっている。彼の名を冠したものとしては他に、世界的な温泉地として知られるボヘミア西部のカールスバート(カルロヴィ・ヴァリ)[2]やヴルタヴァ川に架かるプラハのカレル橋[6]などがある。
カールの治世において、首都プラハは中・東欧通商網の中核をなして文化的にも繁栄し、当時の南スラヴ諸侯からは「黄金のプラハ」と称されるほどであった[6][注釈 15]。帝国の政治的重心も大きく東に移動した。
「文人皇帝」
彼は、パリで養育を受け、若いころにイタリアの文人との交わりをもったこともあって、5か国語に通じ、フランス語、イタリア語、ドイツ語、チェコ語を自由にあやつり、ラテン語で自伝を著しており、当時のヨーロッパにあって最も教養の高い君主であった[2]。彼自身、神学と法学には生涯にわたって興味を持ち続け、生活ぶりは質素で、また、重篤な信仰心をいだいており、該博な古典の知識を有していた[5]。
カール4世はまた、自身のみならず、金印勅書第31条において、帝国は異なる複数の言語を用いる「諸国民」より構成される国家であるから、選帝侯の後継者たる者は7歳から14歳のあいだ、ドイツ語のほか、ラテン語、イタリア語、チェコ語を習得すべしとの条項を入れた[1]。もとよりこれはカールの願望であり、実現には移されなかったが、「国際的君主」「学者王」に導かれたプラハの宮廷にはヨーロッパ各地より学者や芸術家が招かれ、ドイツ・フランス・イタリアの文化が移植されて、当時のヨーロッパにおいて初期人文主義の一中心としての役割を担い、一方ではボヘミア民族文化が興隆したのであった[5]。
評価
カール4世は、上述のように、中世後期の神聖ローマ皇帝のなかでもきわめて個性的な統治を行った支配者であったが、その治世については歴史的評価が分かれている。
金印勅書に関しても、これが、国王選挙の際に対立王が出現する事態、すなわち、諸侯の分裂によって二重選挙となる事態を回避してドイツに秩序と平穏をもたらしたとして評価する立場と、ドイツにおける領邦分裂体制の固定を促してしまったと見なす立場がある。
七選帝侯は、金印勅書において、帝国を支える柱として、また、帝国永続の保障として、領国の不分割及び世俗選帝侯における長子単独相続が定められ、貨幣鋳造権をも含む国王大権が付与された。選帝侯は、国王選挙のほか年に一回、「選帝侯会議」をひらき、ある程度の領域的な管掌をも一方で分担しながら帝国全体の政治について審議することになって、帝国はさしあたって国王と選帝侯会議とを2本の柱とする複合帝国として一体的なものとなった。さらに、永続性の観点からは、固定的で高い権能を有するそれぞれの選帝侯国を基盤とする選挙帝制というべき国制が打ちたてられた[1]。
彼は、冷徹な現実主義に立脚してドイツにおける支配関係の現状を追認して、それに法的根拠をあたえたのであり、これによってドイツでは国内治安が確立し、一時的にではあるがフェーデ(私闘)[注釈 16]も途絶した[14]。
しかし、その反面では、通行関税の低減や市民権の市壁外住民への付与など、都市の利益を図った条項は、諸侯の利益に反するものとして削除され、なかでもドイツ諸侯に対抗するような都市同盟は国内平和を乱す元凶として禁止された。彼にもし都市を保護することによって諸侯に対する対抗勢力育成の意図があったとすれば、これは妥協にほかならなかった[1]。ただし、晩年みずから金印勅書に違約し、諸侯の反発があったにもかかわらず、その認可を強行した。
カールの念頭にあったのは、家領と家権の拡大であり、皇帝位もそのためにこそ最大限に活用された。そして、金印勅書発布後のカールは家権拡大政策に専心して、最終的にはルクセンブルク家による事実上の皇帝世襲を企図していた[1][14]。しかし、長子ヴェンツェル、次子ジギスムントともに凡庸で、のちにボヘミア王国も神聖ローマ皇帝位もルクセンブルク家の手から離れてしまう。そして、皮肉なことに、いずれもカールがライバルとみなしたハプスブルク家の手に収まり、カールのおこなったことは1438年よりはじまる「ハプスブルク帝国」(ハプスブルク家による帝位の世襲化)を準備することとなってしまったのである[1][14]。
家族
カール4世は4度結婚している。
1329年に結婚した最初の妃ブランシュ・ド・ヴァロワは、ヴァロワ伯シャルルの娘でフランス王フィリップ6世の異母妹であった。ブランシュとの間には2女が生まれた。
1349年にライン宮中伯ルドルフ2世の娘アンナ・フォン・デア・プファルツと結婚した。2人の間には1男が生まれたが夭逝した。
- ヴェンツェル(1350年 - 1351年)
1353年に低シレジアのシフィドニツァ公ヘンリク2世の娘アンナと結婚した。2人の間には1男1女が生まれた。
1365年にポメラニア公ボギスラフ5世の娘(ポーランド王カジミェシュ3世の孫娘)エリーザベトと結婚した。2人の間には4男2女が生まれた。
脚注
注釈
- ^ 1306年以降、ハプスブルク家出身のルドルフ(1306年 - 1307年)とカリンティア(ケルンテン)のインジフ(ハインリヒ、1307年 - 1310年)とが争い、両者ののち、ルクセンブルク家のヨハンが即位した。
- ^ 詩人ペトラルカは、アヴィニョンを「西方のバビロン」と呼び。教皇のアヴィニョン滞在を『旧約聖書』に記されたバビロン捕囚になぞらえた。また、しばしば教皇クレメンス6世に対し、ローマへの帰還を訴えていた。
- ^ 教皇派はゲルフ(グエルフィ)、皇帝派はギベリン(ギベッリーニ)と称された。なお、シェークスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』は教皇派と皇帝派に分かれて対立した、イタリアの2つの名家をモデルにしているといわれる。
- ^ 『神曲』の作者として著名なフィレンツェのダンテ・アリギエーリは、カールの祖父である神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世に普遍的帝国再建の夢を託した。ハインリヒ7世は1310年から1313年にかけてイタリアに遠征している。
- ^ 聖ヴィート大聖堂は、マテューの死後はチェコ人ペトル・パルレーシュによってほぼ完成をみた。
- ^ カール4世はこのとき、1.ルートヴィヒ4世が皇帝として実施したすべての政策の無効と取り消しを宣言すること、2.皇帝即位に際し教皇の裁可を仰ぐこと、3.空位期間における教皇の帝国統治権や皇帝代理任命権を認めること、4.独仏間のあらゆる係争に関して教皇を仲裁人とすること、5.両シチリア王国の教皇の宗主権を認めること、6.皇帝が教皇領を通過するのは皇帝戴冠式に限ること、また、戴冠後は早急にローマを立ち去ること———を受け入れている。
- ^ ボヘミア領内貴族の身分制議会である。
- ^ このようなカール4世の矛盾する態度は、当時はまだドイツでの立場が不安定であったため積極的な行動に出られなかったという見方がある半面、これを混乱にともなう不可避なこととして逆に利用し、将来のドイツ経営に役立てたのではないかとの見方がある。
- ^ 1356年、カールの異母弟ヴェンツェルは、その妻の所領であるネーデルラントのブラバント州の等族と「ジョワユーズ・アントレー(歓呼の入市)」として著名な協約を結んだ。これは、州の等族の特権を確認することとなった身分制的=等族的な国法として知られる。
- ^ 1346年のクレシーの戦いのみならず1356年のポワティエの戦いでもイングランドが大勝し、フランスは敗北を喫した。
- ^ 七選帝侯については13世紀代の法書「ザクセン・シュピーゲル」にその原型が記されている。同書にあっては当初ボヘミア王は除外されていたが、1237年のコンラート4世帝の選挙には参加し、そののち、世俗選帝侯筆頭格として選帝侯グループに加わることとなった。
- ^ マインツは帝国大宰相、トリーアはブルグント王国大宰相、ケルンはイタリア王国大宰相、ボヘミアは献酌侍従長、プファルツは大善頭、ザクセンは式部長、ブランデンブルクは侍従長であった。
- ^ 1370年にはハンザ同盟はデンマークと戦い、これに勝利している。
- ^ 大プラハ建設の布告とともにひらかれた議会で出された証書には「ボヘミア王国はドイツ王国の中で高貴な部分」と記している。
- ^ カールのボヘミア優先政策は、「カールはボヘミアにブドウやイチジクを植えている」と批判された。これについては、ペトラルカもカールに対し抗議の手紙を送っている(記事「ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策」参照)。
- ^ 中世ヨーロッパで盛行した法廷外での係争処理制度。
参照
- ^ a b c d e f g h 坂井(2003)pp.63-66
- ^ a b c d e f g h i j 坂井(2003)pp.55-57
- ^ a b c d e トレモリエール&リシ(2004)pp.404-406
- ^ a b c d e 魚住(1995)pp.110-113
- ^ a b c d e ピーターズ(1980)pp.184-185
- ^ a b c d e 梅田(1958)pp.240-241
- ^ a b c d 菊池(2003)pp.152-162
- ^ a b c d 坂井(2003)pp.58-62
- ^ a b c 成瀬(1956)pp.81-84
- ^ a b c d 佐藤・池上(1997)pp.326-327
- ^ 『クロニック世界全史』(1994)p.337
- ^ a b 成瀬(1956)pp.84-85
- ^ ロバーツ(2003)p.211
- ^ a b c d e 菊池(2003)pp.162-172
参考文献
- 成瀬治ほか『世界各国史III ドイツ史』山川出版社、1956年4月。
- 梅田良忠ほか『世界各国史XIII 東欧史』山川出版社、1958年4月。
- エドワード・M・ピーターズ「カール4世」『世界伝記大事典<世界編>3 カ-クリ』ほるぷ出版、1980年12月。
- 樺山紘一・木村靖二・窪添慶文・湯川武監修『クロニック世界全史』講談社、1994年11月。ISBN 4-06-206891-5
- 魚住昌良「カール4世」今井宏編『人物世界史1 西洋編(古代~17世紀)』山川出版社、1995年5月。ISBN 4-634-64300-6
- 佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論社、1997年5月。ISBN 4-12-403410-5
- 坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波書店<岩波新書>、2003年2月。ISBN 4-00-430826-7
- J.M.ロバーツ(en)、月森左知・高橋宏訳、池上俊一監修『図説世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』創元社、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6
- 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社<講談社現代新書>、2003年7月。ISBN 978-4061496736
- フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ著『図説 ラルース世界史人物百科〈1〉古代‐中世-アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで-』原書房、2004年6月。ISBN 4-562-03728-8
関連項目
- アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)
- ルクセンブルク家
- ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策
- ルクセンブルク家によるボヘミア統治
- 金印勅書(黄金文書)
- カルロヴィ・ヴァリ
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