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|称号・勲章 = [[1923年11月9日記念メダル]]<ref name="ラムスデン202">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.202]]</ref><br>[[黄金ナチ党員バッジ]]<br>[[パイロット兼観測員章|ダイヤモンド付パイロット兼観測員章金章]]([[:de:Flugzeugführerabzeichen|de]]){{#tag:ref|空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング]]より個人的に贈られた<ref name="ラムスデン29">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.29]]</ref>。|group=#}}<br>[[ドイツ鷲勲章]]([[:de:Verdienstorden vom Deutschen Adler|de]]) |
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|退任日 = 1945年4月28日 |
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|退任理由 = 総統による全官位剥奪 |
|退任理由 = 総統による全官位剥奪 |
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|当選回数2 = 4回 |
|当選回数2 = 4回 |
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|退任日3 = 1945年4月28日 |
|退任日3 = 1945年4月28日 |
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|退任理由3 = 総統による全官位剥奪 |
|退任理由3 = 総統による全官位剥奪 |
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|国旗4 = DEU1935 |
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|就任日5 = 1944年7月20日 |
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|退任日5 = 1945年4月28日 |
|退任日5 = 1945年4月28日 |
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|退任理由5 = 総統による全官位剥奪 |
|退任理由5 = 総統による全官位剥奪 |
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|就任日6 = 1939年10月7日 |
|就任日6 = 1939年10月7日 |
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|退任日6 = 1945年4月28日 |
|退任日6 = 1945年4月28日 |
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|その他職歴2 = [[File:Flag Schutzstaffel.svg|23px]] [[国家保安本部]]長官 |
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|就任日7 = 1942年6月4日 |
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|退任日7 = 1943年1月31日 |
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|元首 = |
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'''ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー''' |
'''ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー'''(Heinrich Luitpold Himmler,{{Audio|de-Heinrich Himmler.ogg|発音}},[[1900年]][[10月7日]] - [[1945年]][[5月23日]])は[[ドイツ]]の政治家。<br>[[1929年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の[[準軍事組織]]である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]の第4代[[親衛隊全国指導者|親衛隊全国指導者(RFSS)]]に就任し、党内警察業務を司った。[[ナチ党の権力掌握|ナチ党の政権掌握]]後には全ドイツ警察長官、[[ヒトラー内閣]][[内務大臣 (ドイツ)|内務大臣]]などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握した。[[ゲシュタポ]]や[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所(KZ)]]も彼の指揮下に置かれていた。[[第二次世界大戦]]時にはドイツが占領した[[ヨーロッパ]]の広範な地域に彼の警察権力が及ぶこととなった。[[ゲルマン民族]]を[[支配民族]]([[:de:Herrenrasse|de]])と考え、他民族を蔑視した。とりわけ[[ユダヤ人]]を強く憎悪し、大戦中にはヨーロッパのユダヤ人や[[ロマ]]など「[[生きるに値しない命]]」に対して大量虐殺([[ホロコースト]])を組織的に実行した。[[ソビエト連邦|ソ連]]人や[[ポーランド人]]、[[チェコ人]]などの[[スラブ民族]]に対しても軽蔑心を隠さず、冷酷な態度で支配に臨んだ。またゲルマン民族であっても反体制派や「民族の血を汚す者」は厳しく取り扱った。大戦後期には[[軍集団]]の指揮も任されたが、戦果はあげられなかった。大戦末期にはドイツの戦況を絶望視して独断で[[アメリカ合衆国]]との講和交渉を試みたが失敗。これを知った[[アドルフ・ヒトラー]]の逆鱗に触れて解任された。その後、[[イギリス軍]]の捕虜となり、自殺した。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-19, Familie Himmler.jpg|150px|thumb|left|[[ハインリヒ・フォン・バイエルン|ハインリヒ王子]]とヒムラー一家<ref name="学研1128">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.128]]</ref>。<br><SUB>母アンナ(後列左)、父ゲプハルト(後列右)、ハインリヒ(前列左)、代父ハインリヒ王子と弟エルンスト(中央)、兄ゲプハルト(前列右)</SUB>]] |
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ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]のヒルデガルト通り(Hildegardstraße)二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた<ref name=" |
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]のヒルデガルト通り(Hildegardstraße)二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた<ref name="ラムスデン202"/><ref name="クノップ(2001)上158">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.158]]</ref><ref name="グレーバー8">[[#グレーバー|グレーバー、p.8]]</ref><ref name="Katrin31">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.31]]</ref>。 |
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父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー(Joseph Gebhard Himmler)は、[[税関]]職員の[[非嫡出子]]として生まれ、貧しくも苦学して名門の[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン]]を卒業し[[ギムナジウム]]の教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室の[[ハインリヒ・フォン・バイエルン|ハインリヒ王子]]の家庭教師を務めていた<ref name=" |
父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー(Joseph Gebhard Himmler)は、[[税関]]職員の[[非嫡出子]]として生まれ、貧しくも苦学して名門の[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン]]を卒業し[[ギムナジウム]]の教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室の[[ハインリヒ・フォン・バイエルン|ハインリヒ王子]]の家庭教師を務めていた<ref name="Katrin24">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.24]]</ref><ref name="グレーバー8"/><ref name="クノップ(2001)上158"/>。母アンナ・マリア・ヒムラー(Anna Maria Himmler)(旧姓ハイダー(Heyder))は、裕福な貿易商人の娘で、1897年にゲープハルトと結婚していた<ref name="Katrin30">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.30]]</ref>。 |
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ヒムラーが生まれる二年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルートヴィヒ(Gebhard Ludwig)を儲けている<ref name=" |
ヒムラーが生まれる二年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルートヴィヒ(Gebhard Ludwig)を儲けている<ref name="Manvell1">[[#Manvell|Manvell,Fraenkel, p.1]]</ref>。さらに1905年12月23日には三男エルンスト・ヘルマン(Ernst Hermann)が生まれている<ref name="Katrin31"/>。 |
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ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」もバイエルン王族から名付けた名前であった。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの[[代父母|代父]]となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものだった<ref name=" |
ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」もバイエルン王族から名付けた名前であった<ref name="Katrin31"/>。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの[[代父母|代父]]となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものだった<ref name="ヘーネ40">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.40]]</ref>。当時、王室の人間から名前をもらうことは大変な愛顧であり、名誉なことであった<ref name="グレーバー8"/><ref name="クノップ(2001)上158"/>。こうした王室との関わりと[[カトリック]]への厚い信仰心によってヒムラー家は大変に保守的な家風であり、ハインリヒもカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。ただし父ゲプハルトは[[反ユダヤ主義]]者ではなかった<ref name="クノップ(2001)上158"/>。ヒムラー家は金持ちとまではいえないが、かなり安定した[[中産階級]]の家庭であった<ref name="クノップ(2001)上158"/>。戦後、多くの歴史学者が幼少期・青年期のヒムラーに「異常性」や「犯罪性」を見つけ出そうと試みたが、それらしいものは見つけられなかった。[[ロジャー・マンベル]]が当時のバイエルンという地域環境にヒムラーの精神性を求めているぐらいである<ref name="松永10">[[#松永|松永、p.10]]</ref>。 |
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[[File:Himmler7.jpg|150px|thumb|left|7歳の頃]] |
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父ゲプハルトの遺したメモによるとヒムラーは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れは取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという<ref name=" |
父ゲプハルトの遺したメモによるとヒムラーは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れは取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという<ref name="クノップ(2001)上158"/>。1910年9月にミュンヘンの名門ギムナジウムの[[ヴィルヘルム・ギムナジウム]]([[:de:Wilhelmsgymnasium München|de]])に入学した<ref name="Katrin42">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.42]]</ref>。同ギムナジウムの担任教師から「たいそうな才能に恵まれた生徒で、たゆまぬ勤勉さと燃えるような向上心と極めて熱心な授業態度によって、クラスで最優秀の成績を収めた」と称賛された<ref name="クノップ(2001)上156">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.156]]</ref><ref name="クノップ(2003)83">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.83]]</ref>。このギムナジウムでの同級生に後に[[アメリカ合衆国]]に移住してアメリカ国民となり、歴史学者となった[[ジョージ・ハルガーテン]]([[:en:George W. F. Hallgarten|en]])がいた<ref name="クノップ(2003)83"/>{{#tag:ref|ハルガーデンはナチ党政権誕生と共にアメリカへ逃れた。ヒムラーは後に同級生のハルガーデンのことを「ユダヤの虱」と呼んで馬鹿にした<ref name="ヘーネ45">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.45]]</ref>|group=#}}。ハルガーテンはこの頃のヒムラーについて「考えられる限りで最も優しい子羊だった。虫一匹殺せないような少年だった」と証言している<ref name="クノップ(2001)上156"/>。1913年に父ゲプハルトがミュンヘン北東の[[ランツフート]]の[[ハンス・カロッサ・ギムナウジム]]([[:de:Hans-Carossa-Gymnasium Landshut|de]])の共同校長に任じられたため、ヒムラー一家はランツフートへ移住した<ref name="Manvell2">[[#Manvell|Manvell,Fraenkel, p.2]]</ref>。ヒムラーも父が校長を務めるギムナジウムへ入学している。彼は歴史学、古典学、宗教学で最優秀の成績をとり<ref name="クノップ(2001)上160">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.160]]</ref>、他の主要科目も優秀な成績であったが、体育だけは苦手だったという<ref name="谷70">[[#谷|谷、p.70]]</ref>。[[第一次世界大戦]]をはさんで1919年7月に同校を卒業した。卒業証書には「常に品行方正で、性格は几帳面な勤勉さを持っていた」と記された<ref name="クノップ(2001)上160"/>。 |
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[[第一次世界大戦]]中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr)の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった<ref name=" |
[[第一次世界大戦]]中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr)の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった<ref name="Katrin50">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.50]]</ref>。さらに1915年7月29日、17歳になった兄ゲプハルトが予備軍(Landsturm)に入隊し、1918年4月に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]へ送られた<ref name="Katrin51">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.51]]</ref>。 |
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ヒムラーも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまず彼がギムナジウムを卒業することを希望していたが、熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使って息子の入隊の可能性を探った。ヒムラーは始め海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず |
ヒムラーも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまず彼がギムナジウムを卒業することを希望していたが、熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使って息子の入隊の可能性を探った。ヒムラーは始め海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず{{#tag:ref|近眼の者は海軍士官になれなかった<ref name="ヘーネ40">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.40]]</ref>|group=#}}、1917年末にバイエルン王国の第11歩兵連隊「フォン・デア・タン」に入隊した<ref name="ヴィストリヒ199">[[#ヴィストリヒ|ヴィストリヒ、p.199]]</ref><ref name="ヘーネ41">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.41]]</ref>。[[レーゲンスブルク]]で6カ月の歩兵訓練を受けた後、1918年6月15日から9月15日まで[[フライジンク]]で士官候補生としてのコースを修め、9月15日から10月1日まで[[バイロイト]]のバイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた<ref name="クノップ(2001)上161">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.161]]</ref><ref name="松永105">[[#松永|松永、p.105]]</ref><ref name="ヘーネ41"/>。 |
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しかしヒムラーが前線へ配属される前に1918年11月初めに[[ドイツ革命]]が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、彼が実戦経験を持つことはなかった{{#tag:ref|しかしヒムラーは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している<ref> |
しかしヒムラーが前線へ配属される前に1918年11月初めに[[ドイツ革命]]が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、彼が実戦経験を持つことはなかった{{#tag:ref|しかしヒムラーは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している<ref>[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.160]]、[[#ヘーネ|ヘーネ、p.41]]</ref>。|group=#}}。 |
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なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で塹壕戦を経験し、兵長まで昇進して[[一級鉄十字章]]と[[二級鉄十字章]]を受章している<ref name=" |
なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で塹壕戦を経験し、兵長まで昇進して[[一級鉄十字章]]と[[二級鉄十字章]]を受章している<ref name="Katrin57">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.57]]</ref>。また代父ハインリヒ王子は大戦中に戦死した。ハインリヒ王子の遺産のうち1000ライヒスマルクの[[戦時国債]]がヒムラーに遺贈された<ref name="クノップ(2001)上158"/>。 |
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=== 第一次世界大戦後 === |
=== 第一次世界大戦後 === |
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第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしヒムラーはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には[[ドイツ義勇軍|反革命義勇軍(フライコール)]]の一部隊であるラウターバッハ義勇軍に加わって社会主義者が立ち上げた[[バイエルン・レーテ共和国|ミュンヘン・レーテ共和国]]の打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ヒムラーの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでも彼は後方支援の任務に留まっている<ref name=" |
第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしヒムラーはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には[[ドイツ義勇軍|反革命義勇軍(フライコール)]]の一部隊であるラウターバッハ義勇軍(Freikorps Lauterbach)に加わって社会主義者が立ち上げた[[バイエルン・レーテ共和国|ミュンヘン・レーテ共和国]]の打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ヒムラーの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでも彼は後方支援の任務に留まっている<ref name="ヘーネ41"/>。 |
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その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトは息子に農場で働くことを求めた<ref name=" |
その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトは息子に農場で働くことを求めた<ref name="ヘーネ41"/>。ヒムラーは父の求めに応じてミュンヘン北方[[インゴルシュタット]]の農場で働いていたが、まもなく[[チフス]]に罹病し寝込み、医者から1年間療養してその間は大学で農学を勉強するよう薦められた。1919年10月18日、ヒムラーは[[ミュンヘン工科大学]]に入学して農学を学ぶこととなった<ref name="ヘーネ42">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.42]]</ref>。1919年11月9日、彼は大学内のある学生倶楽部に入会した。決闘で顔に傷を入れてもらいたいと願っていたためだった。当時のドイツの大学では男が決闘をして顔に傷を付けることは大きなステータスであったが<ref name="グレーバー20">[[#グレーバー|グレーバー、p.20]]</ref>{{#tag:ref|同様に決闘で顔に傷を入れている人物に[[オットー・スコルツェニー]][[親衛隊大佐]]や[[ルドルフ・ディールス]]親衛隊大佐がいる|group=#}}、ヒムラーは胃弱でビールを飲むことが出来なかったため、「決闘に参加する資格なし」と認定されてしまった<ref name="クノップ(2001)上160"/>。焦ったヒムラーは直ちに医者から胃腸過敏症の証明書をもらい、ようやく決闘への参加が認められた<ref name="クノップ(2001)上160"/>。しかし誰も弱々しい彼を決闘相手として認めてくれなかった。ヒムラーがようやく決闘して顔に傷を入れることができたのは、卒業間近の1922年6月22日のことであった<ref name="グレーバー20"/>。 |
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しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことが彼自身の日記から窺える{{#tag:ref|彼の日記は、戦後ヒムラーの別荘から[[アメリカ軍]]兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けた。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、[[スケートリンク]]の切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある<ref |
しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことが彼自身の日記から窺える{{#tag:ref|彼の日記は、戦後ヒムラーの別荘から[[アメリカ軍]]兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けた。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、[[スケートリンク]]の切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある<ref name="グレーバー10">[[#グレーバー|グレーバー、p.10]]</ref>。|group=#}}。1919年には盲目の人物の家に何度も通って本を読み聞かせ<ref name="グレーバー20"/>、1921年には貧しい老女の所へ通って食料などをそっと置いていった{{#tag:ref|1921年の日記にケルンベルガーなる老女の家にパンを置いていったことの記述がある。詳しくは[[:q:Transwiki:ハインリヒ・ヒムラー#ヒムラー自身の発言|語録の項目]]を参照|group=#}}。友人が病気になるとこまめに見舞いにいって、本人や家族に代わってお使いをした<ref name="グレーバー21">[[#グレーバー|グレーバー、p.21]]</ref>。ウィーンの恵まれない子供のための慈善芝居にも出演している<ref name="グレーバー21"/>。 |
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またヒムラーの日記から、1921年頃から彼が外国への移住を計画していたことが分かる{{#tag:ref|1921年11月23日付けの彼の日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは[[:q:Transwiki:ハインリヒ・ヒムラー#ヒムラー自身の発言|語録の項目]]を参照|group=#}}。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年に[[ソビエト連邦|ソ連]]大使館に[[ウクライナ]]に移住できないかを問い合わせている<ref name=" |
またヒムラーの日記から、1921年頃から彼が外国への移住を計画していたことが分かる{{#tag:ref|1921年11月23日付けの彼の日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは[[:q:Transwiki:ハインリヒ・ヒムラー#ヒムラー自身の発言|語録の項目]]を参照|group=#}}。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年に[[ソビエト連邦|ソ連]]大使館に[[ウクライナ]]に移住できないかを問い合わせている<ref name="クノップ(2001)上167">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.167]]</ref>。 |
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1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった<ref name=" |
1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった<ref name="クノップ(2001)上167"/>。卒業後すぐに[[オーバーシュライシュハイム]]([[:de:Oberschleißheim|Oberschleißheim]])で農薬や肥料を扱う会社の研究員となる<ref name="クノップ(2001)上167"/>。しかし1923年8月末にはヒムラーはオーバーシュライシュハイムでの仕事を退職して、ミュンヘンに戻り、政治活動に専念するようになる<ref name="クノップ(2001)上160"/><ref name="ヘーネ46">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.46]]</ref>。 |
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政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、[[バイエルン人民党]]に入党している(1923年に離党)<ref name=" |
政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、[[バイエルン人民党]]に入党している(1923年に離党)<ref name="クノップ(2001)上160"/>。1920年5月、ミュンヘン市民自衛軍に入隊し、ヴァイマル共和国第21ライフル連隊からライフルと鉄兜を受け取った<ref name="ヘーネ42"/>。第21ライフル連隊は[[エルンスト・レーム]]が兵器担当将校を務めていた<ref name="グレーバー25">[[#グレーバー|グレーバー、p.25]]</ref>。大学卒業に際して、ヒムラーはレームの組織した准軍事組織「[[帝国戦闘旗団]]」([[:de:Bund Reichskriegsflagge|de]])に入団した<ref name="ヘーネ46"/><ref name="グレーバー25"/>。1923年、国粋主義団体「[[アルタマーネン]]」([[:de:Artamanen|de]])に入団している<ref name="クノップ(2001)上160"/>。ここで[[リヒャルト・ヴァルター・ダレ]]の独特な[[農本主義]]「[[血と大地]]」思想([[:de:Blut-und-Boden-Ideologie|de]])に影響された。ヒムラーは、親衛隊全国指導者となったのちにダレを親衛隊に招き入れている<ref name="森瀬200">[[#森瀬|森瀬繚・司史生、p.200]]</ref>。ヒムラーは自作農民中心社会を夢見ていた。農地の豊かな東方にドイツ農民を植民させることによって農家の二男・三男が都市へ出る必要がなくなり、またドイツ政府に対して農民が決定的な影響力を持つようになると確信していた。1924年の彼のメモは「都市生活者を農民にけしかけている国際ユダヤ民族は最も邪悪な農民の敵」とし、また「600年来、ドイツ農民は世襲財産を守り、拡大するためにスラブ民族と戦うよう運命づけられてきた」としている。ヒムラーの「国際ユダヤ民族」と「スラブ劣等民族」への憎しみは農本主義の産物だった<ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.53-54]]</ref>。 |
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=== ナチ党黎明期の活動 === |
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こうした政治活動や軍事活動を通じてヒムラーは、国粋主義に加えて[[反ユダヤ主義]]、生存圏、後のナチ党時代に連なる思想基盤を形成することとなった。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-054-53A, Nürnberg, Reichsparteitag.jpg|250px|thumb|right|1927年の[[ナチ党党大会]]。ヒトラーとヒムラー(眼鏡の人物)]] |
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1923年8月、党員番号14303で[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党したが、ヒムラーはあくまで帝国戦闘旗団のメンバーとしてレームに従った。[[ミュンヘン一揆]]の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国戦闘旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている<ref name="谷71">[[#谷|谷、p.71]]</ref><ref name="テーラー231">[[#テーラー|テーラー,ショー, p.231]]</ref>。 |
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ヒムラーがいつ[[ヒトラー]]と初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかし彼がヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである<ref name="グレーバー32">[[#グレーバー|グレーバー、p.32]]</ref>。 |
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==== ナチ党黎明期の活動 ==== |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1969-054-53A, Nürnberg, Reichsparteitag.jpg|200px|thumb|right|1927年。ヒトラーとヒムラー(眼鏡の人物)]][[File:Bundesarchiv Bild 146II-783, Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|1929年、親衛隊全国指導者になったばかりの頃]] |
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1923年8月、党員番号14303で[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党したが、ヒムラーはあくまで帝国戦闘旗団のメンバーとしてレームに従った。[[ミュンヘン一揆]]の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国戦闘旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている<ref name="ヒムラーとヒトラー71">『ヒムラーとヒトラー<small>氷のユートピア</small>』71ページ</ref>。 |
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当時のヒムラーはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかし彼の尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、彼の失望は深かった<ref name="クノップ(2001)上168">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.168]]</ref>。 |
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ヒムラーがいつヒトラーと初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかし彼がヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである<ref name="ナチス親衛隊32">『ナチス親衛隊』32ページ</ref>。 |
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党の活動が禁止された間、ヒムラーは[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]、[[アルブレヒト・フォン・グラーフェ]]([[:de:Albrecht von Graefe (Politiker)|de]])、[[グレゴール・シュトラッサー]]が指導するナチ党偽装政党[[国家社会主義自由運動]](NSFB)に入党した<ref name="クノップ(2001)上168"/><ref name="グレーバー27">[[#グレーバー|グレーバー、p.27]]</ref><ref name="ヘーネ48">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.48]]</ref>。ヒムラーはナチス左派で知られたグレゴール・シュトラッサーの下で120ライヒスマルクの給料で働くこととなった。シュトラッサーは1924年5月と12月の[[国会 (ドイツ)|国会]]議員選挙に出馬することとなり、ヒムラーは[[ニーダーバイエルン]]([[:de:Niederbayern|Niederbayern]])の宣伝担当に任命された。これが彼の最初の大抜擢となった<ref name="グレーバー28">[[#グレーバー|グレーバー、p.28]]</ref>。オートバイに乗って走り回る彼の姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している<ref name="谷72">[[#谷|谷、p.72]]</ref>。シュトラッサーはヒムラーについて「彼(ヒムラー)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=ベルリン)へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている<ref name="クノップ(2003)94">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.94]]</ref>。 |
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当時のヒムラーはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかし彼の尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、彼の失望は深かった<ref name="ヒトラーの共犯者上168">『ヒトラーの共犯者 上』168ページ</ref>。 |
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1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されるとシュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年にシュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者となるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった<ref name="クノップ(2001)上168"/>。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーより[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の方を高く買っていたという<ref name="桧山166">[[#桧山|桧山、p.166]]</ref>。 |
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党の活動が禁止された間、ヒムラーは[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]が興した偽装政党[[国家社会主義自由運動|国家社会主義自由党]](NSFP)に入党した<ref name="ナチス親衛隊27">『ナチス親衛隊』27ページ</ref>。同党には[[ナチス左派]][[グレゴール・シュトラッサー]]がおり、ヒムラーは120ライヒスマルクで彼の下で働くこととなった。シュトラッサーは1924年5月と12月の[[国会 (ドイツ)|国会]]議員選挙に出馬することとなり、ヒムラーは[[ニーダーバイエルン]]([[:de:Niederbayern|Niederbayern]])の宣伝担当に任命された。これが彼の最初の大抜擢となった<ref name="ナチス親衛隊28">『ナチス親衛隊』28ページ</ref>。オートバイに乗って走り回る彼の姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している<ref name="ヒムラーとヒトラー72">『ヒムラーとヒトラー<small>氷のユートピア</small>』72ページ</ref>。シュトラッサーはヒムラーについて「彼(ヒムラー)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=ベルリン)へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている<ref name="ヒトラーの親衛隊94">『ヒトラーの親衛隊』94ページ</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146II-783, Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|1929年、親衛隊全国指導者になったばかりの頃]] |
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1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されるとシュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年にシュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者となるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった<ref name="ヒトラーの共犯者上168"/>。 |
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1925年8月8日に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に入隊(隊員番号168)。1927年には第3代親衛隊全国指導者[[エアハルト・ハイデン]]の代理に任じられた。ハイデンは[[突撃隊]]最高指導者[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]と対立を深めて[[1929年]][[1月6日]]に辞職することとなった<ref name="山下(2010)39">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.39]]</ref><ref name="学研134">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]</ref>。ヒムラーはハイデンの後任として、同日第4代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった<ref name="山下(2010)39"/><ref name="クランク16">[[#クランク|クランクショウ、p.16]]</ref>。 |
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1928年7月3日には[[リッペ自由州]]([[:de:Lippe (Land)#Freistaat Lippe (1918–1945) |Freistaat Lippe]])[[ブロンベルク]]([[:de:Blomberg|Blomberg]])の地主の娘で看護婦のマルガレーテ・ボーデンと結婚しているが、党からヒムラーに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ<ref name="グレーバー37">[[#グレーバー|グレーバー、p.37]]</ref><ref name="谷73">[[#谷|谷、p.73]]</ref><ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.56-57]]</ref>。しかし経営不振で後に倒産した。1929年8月8日に長女グドルーンが生まれたが<ref name="Katrin123">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.123]]</ref>、その直後にヒムラー夫妻は別居状態と化した<ref name="グレーバー38">[[#グレーバー|グレーバー、p.38]]</ref><ref name="谷74">[[#谷|谷、p.74]]</ref><ref name="ヘーネ57">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.57]]</ref>。 |
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ヒムラーは1925年から[[突撃隊]]に参加していたが、1925年8月8日には[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]へ移籍した(隊員番号168)。そして1927年には第3代親衛隊全国指導者[[エアハルト・ハイデン]]の代理に任じられた。しかしハイデンは1929年1月5日に「制服の仕立てにユダヤ人の店を利用していた」というスキャンダルを暴露され、ヒトラーによって親衛隊全国指導者を解雇された。これが転機となり、自他共に認めるハイデンの片腕であったヒムラーはハイデンの後任として、翌日付けで第4代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった。また、ヒムラー自身も突撃隊上級大佐の肩書だった。 |
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1928年には[[リッペ自由州]]([[:de:Lippe (Land)#Freistaat Lippe (1918–1945) |Freistaat Lippe]])[[ブロンベルク]]([[:de:Blomberg|Blomberg]])の地主の娘で看護婦のマルガレーテ・ボーデンと結婚しているが、党からヒムラーに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ<ref name="ナチス親衛隊37">『ナチス親衛隊』37ページ</ref><ref>ヒムラーとヒトラー<small>氷のユートピアP73</small></ref>。しかし経営不振で後に倒産、結婚後一年足らずで別居状態と化した<ref name="ヒムラーとヒトラー74">『ヒムラーとヒトラー<small>氷のユートピア</small>』74ページ</ref>。 |
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=== 親衛隊全国指導者 === |
=== 親衛隊全国指導者 === |
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ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1000人<ref name="学研134">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]</ref><ref name="ヘーネ64">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.64]]</ref>、1930年12月には2700人<ref name="学研134"/><ref name="ヘーネ64"/>、1932年4月には2万5000人<ref name="山下(2010)43">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.43]]</ref>、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。 |
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==== ナチ党政権掌握前 ==== |
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これは[[1929年]][[10月24日]]の[[ニューヨーク]]・[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街の大暴落]]により発生した[[世界恐慌]]が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した<ref name="グレーバー61">[[#グレーバー|グレーバー、p.61]]</ref>。親衛隊より多くこの人材源を吸収した突撃隊には、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く者が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた<ref name="学研134">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]</ref><ref name="グレーバー62">[[#グレーバー|グレーバー、p.62]]</ref>。親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに1930年8月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者[[ヴァルター・シュテンネス]]([[:de:Walther Stennes|de]])が党指導部に対して反乱を起こした<ref>[[#阿部|阿部、p.168-169]]</ref>。こうした情勢からヒトラーは[[1930年]][[11月7日]]付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「[[長いナイフの夜]]」までは形式的には突撃隊の下部組織であった)<ref name="阿部172">[[#阿部|阿部、p.172]]</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-02134, Bad Harzburg, Gründung der Harzburger Front.jpg|200px|thumb|right|1931年、[[国家人民党]]と[[鉄兜団]]と「[[ハルツブルク戦線]]」を組織した際のナチ党。[[エルンスト・レーム]]の後ろにいる黒い帽子の人物がヒムラー。]] |
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ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1000人、1930年12月には2700人、1932年4月には2万5000人、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。この背景には[[ニューヨーク]]で起こった[[世界恐慌]]があった。恐慌の影響でドイツに多くの失業者が発生し、彼らは「にわか国家社会主義者」となり、なだれを打ってナチスの突撃隊に入隊し、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働くようになっていた。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れていた<ref name="武装SS全史134">『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』34ページ</ref>。親衛隊は突撃隊に対抗する道具としてヒトラーの興味を惹き、その規模の拡大が認められたのであった。後にヒトラー個人に忠誠を誓う親衛部隊という性格が強められていく。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-02134, Bad Harzburg, Gründung der Harzburger Front.jpg|250px|thumb|right|1931年、[[国家人民党]]と[[鉄兜団]]と「[[ハルツブルク戦線]]」を組織した際のナチ党。[[エルンスト・レーム]]の後ろにいる黒い帽子の人物がヒムラー。]] |
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1930年11月、ヒトラーは「党内の警察業務の遂行が親衛隊の基本任務である」と明確に定め、ヒムラーはこの任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。[[親衛隊上級大佐]][[フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン]]男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に彼は目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌年に同課を[[SD (ナチス)|SD]]に改組した。長官にハイドリヒを任命した。 |
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ヒムラーは党内警察としての任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。1931年6月に[[親衛隊上級大佐]][[フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン]]男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に彼は目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌1932年7月に同課を[[SD (ナチス)|SD]]に改組した。長官にハイドリヒを任命した<ref name="桧山169">[[#桧山|桧山、p.169]]</ref><ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.175-176]]</ref>。 |
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1931年4月初め |
1931年4月初めのヴァルター・シュテンネスの再反乱ではベルリン大管区親衛隊指導者[[クルト・ダリューゲ]]が鎮圧に活躍している。この功績で親衛隊はヒトラーから高く評価されるようになり、党内警察として突撃隊からの独立性を強めた<ref name="山下(2010)43">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.43]]</ref>。 |
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ヒムラーは親衛隊をヒトラー |
『血と大地』イデオロギーを確立したダレは「歴史に現れる偉大な帝国や文化はほとんど[[北欧人種|北方人種]]により作られた。これらの帝国や文化が滅びたのは北方人種の純血が守れなかったからである」と説いていた。こうした思想に強く影響されていたヒムラーは、[[1929年]]4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった<ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.55・60]]</ref>。人種の基準を立てることで親衛隊をエリート集団とし、数で勝る突撃隊を抑え込むことを目指した<ref name="桧山166">[[#桧山|桧山、p.166]]</ref>。1931年12月31日の命令で「SSは特別に選抜されたドイツ的北方人種の集団である」と定義し、ダレを長官とする[[親衛隊人種及び移住本部]](RuSHA)を新設させ、親衛隊員たちに対してRuSHAの調査と許可を経ずに結婚することを禁じた<ref name="山下(2010)80">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.80]]</ref>。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された。また婚姻が許可された親衛隊員は子供を持つことが義務として定められており、子供のない親衛隊員は給料の一部を受給できなかった。「ゲルマン人種を純粋培養するつもりだ」とヒムラーはことあるごとにスピーチするようになった<ref name="クノップ(2003)100">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.100]]</ref>。ヒムラーは後に植物と絡めて次のように語った。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」<ref name="グレーバー61">グレーバー、61頁</ref><ref name="ヘーネ60">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.60]]</ref>。 |
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1932年1月25日にはヒムラーは党本部建物である[[褐色の家]]([[:de:Braunes Haus|de]])の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた<ref name="グレーバー66">[[#グレーバー|グレーバー、p.66]]</ref><ref name="ヘーネ78">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.78]]</ref>。 |
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1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために親衛隊の制服を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた<ref name="ナチ・ドイツ軍装読本14"/>。この黒服はよく[[ファシスト党]]の[[黒シャツ隊]]を模したものと言われるが、実際にモデルとなったのは[[プロイセン王国]][[近衛兵]]の[[軍服]]であるため正しくない。 |
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1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために親衛隊の制服を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた<ref name="山下(2010)43"/>。黒服のデザインのモデルとなったのは[[プロイセン王国]]時代の[[近衛軽騎兵]]([[:de:1. Leib-Husaren-Regiment Nr. 1|de]])である<ref name="ラムスデン59">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.59]]</ref>。 |
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==== ナチス党政権掌握後 ==== |
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-C05557, Berlin, Sepp Dietrich, Hitler, Heinrich Himmler.jpg|right|thumb|200px|1937年、[[ヨーゼフ・ディートリヒ]](左)と[[アドルフ・ヒトラー]](中央)と]] |
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R96954, Berlin, Hermann Göring ernennt Himmler zum Leiter der Gestapo.jpg|right|thumb|200px|1934年、プロイセン州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]から[[ゲシュタポ]]監査官及び長官代理に任命された]] |
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[[画像:HimmlerAndHeydrich 1938.jpeg|thumb|right|200px|right|thumb|200px|1938年3月。[[保安警察]]長官の[[ラインハルト・ハイドリヒ]]と]] |
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ヒトラーが大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]から首相に任命されて政権を掌握した1933年1月30日、多くの党幹部が中央政府や各州の閣僚に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった<ref name="SSの歴史フジ84">『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)84ページ</ref>。3月9日、[[ハインリヒ・ヘルト]]が首相を務めるバイエルン州政府が[[フランツ・フォン・エップ]]率いる突撃隊と親衛隊部隊に制圧されると、ようやくヒムラーは[[ミュンヘン]]警察長官に任命された<ref name="SSの歴史フジ84"/>。閣僚にこそ任命されなかったものの彼は不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。彼はハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と狩らせた。バイエルン州法相[[ハンス・フランク]]の提唱で政治的敵対者を収容する[[ダッハウ強制収容所]]が建設されると、ヒムラーはその運営の管轄を任せられた。1933年4月1日、彼は[[バイエルン州]]警察長官に任命された<ref name="ヒトラー全記録229">『ヒトラー全記録』229ページ</ref>。 |
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=== ナチ党の権力掌握後 === |
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1933年9月にはヒトラーをボディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭を集めて親衛隊兼儀仗兵部隊(ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー、略号:LAH)を創設し、その司令官には[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]を任命した。この部隊は後に[[第1SS装甲師団|第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」]]に成長する。しかしディートリヒはこの部隊をヒトラーだけに責任を負い、ヒムラーから独立した存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってヒムラーとディートリヒの間で争いがあった<ref name="武装SS全史1144">『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』144ページ</ref>。 |
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==== 政治警察を掌握 ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-R96954, Berlin, Hermann Göring ernennt Himmler zum Leiter der Gestapo.jpg|right|thumb|200px|1934年、プロイセン州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]から[[ゲシュタポ]]監査官及び長官代理に任命された]] |
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ヒトラーが[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|大統領]]から[[ドイツの首相|首相]]に任命されて[[ナチ党の権力掌握|政権を掌握]]した[[1933年]][[1月30日]]、多くの党幹部が中央政府や各州の要職に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった<ref name="ヘーネ84">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.84]]</ref>。ヒムラーが自分をあまり強く推さなかったのが原因であるという<ref name="グレーバー67">[[#グレーバー|グレーバー、p.67]]</ref>。 |
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[[プロイセン州]]内相[[ヘルマン・ゲーリング]]は2月22日に1万5000人のSS隊員を[[プロイセン州]]補助警察として動員した<ref name="桧山259">[[#桧山|桧山、p.259]]</ref>。しかしこの補助警察の指揮権は[[クルト・ダリューゲ]]が握っていた<ref name="桧山259"/>。3月9日、ヒムラーは、[[ハインリヒ・ヘルト]]首相の[[バイエルン州]]政府の解体に参加したが、この解体も主導的役割は[[フランツ・フォン・エップ]]が果たし、ヒムラーの役割は副次的だった。ヒトラーが新しいバイエルンの統治者「バイエルン州総監」に選んだのもエップだった。ヒムラーは自分がそのポストに任命されると期待していたが<ref name="グレーバー67"/>、結局彼には[[ミュンヘン]]警察長官(Polizeipräsidenten von München)のポストが与えられるに留まった<ref name="ヘーネ84"/><ref name="lexikon">[http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/HimmlerH.htm lexikon der wehrmacht]</ref>。しかし彼は不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。彼はハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と「[[保護拘禁]]」([[:de:Schutzhaft|de]])させた<ref name="大野23">[[#大野|大野、p.23]]</ref>。 |
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[[ヒトラー内閣]][[内相]][[ヴィルヘルム・フリック]]による[[強制的同一化]]政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までに[[プロイセン州]]と[[シャウムブルク=リッペ州]]([[:de:Schaumburg-Lippe|Schaumburg-Lippe]])を除く全ドイツの警察権はヒムラーに任せられることとなった<ref name="ナチス親衛隊76">『ナチス親衛隊』76ページ</ref>。一方プロイセン州は首都[[ベルリン]]を含んでドイツ国土の半分以上を占めた巨大州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとしなかった。ヒムラーやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察[[ゲシュタポ]]やその局長[[ルドルフ・ディールス]]の無法行為を讒言するなどして<ref>ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)46 - 47ページ</ref>、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。 |
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「保護拘禁」した者を収容する施設としてミュンヘン郊外の[[ダッハウ]]に[[ダッハウ強制収容所]]を設置させ、1933年3月20日にヒムラーが記者会見で同収容所の開設を発表した<ref name="長谷川63">[[#長谷川|長谷川、p.63]]</ref>。同収容所は開設当初から親衛隊が単独で運営していた。1933年4月1日には[[バイエルン州]]政治警察司令官(Politischer Polizeikommandeur in Bayern)に任命された<ref name="阿部229">[[#阿部|阿部、p.229]]</ref>。 |
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ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し<ref name="ゲシュタポ79">ジャック・ドラリュ著『ゲシュタポ・狂気の歴史』(講談社学術文庫)79ページ </ref>、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官の座に留任したが既に形式的な存在であり、実質的にゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されていた<ref name="武装SS全史1114">『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)114ページ</ref><ref name="ヒトラー全記録269">阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)269ページ</ref><ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像90">大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)90ページより</ref>。この後も警察権力は次々とヒムラーの下に集められていき、最終的に1936年にヒムラーが全ドイツ警察長官に任命されたことで彼の警察掌握は完成を見た<ref name="ヒトラーの親衛隊102">グイド・クノップ著『ヒトラーの親衛隊』(原書房)102ページ</ref>。 |
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[[ヒトラー内閣]][[内相]][[ヴィルヘルム・フリック]]による[[強制的同一化]]政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までに[[プロイセン州]]と[[シャウムブルク=リッペ州]]([[:de:Schaumburg-Lippe|de]])を除く各州の政治警察はヒムラーに任せられることとなった<ref name="クノップ(2001)上178">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.178]]</ref><ref name="グレーバー76">[[#グレーバー|グレーバー、p.76]]</ref><ref name="ヘーネ98">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.98]]</ref>。 |
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[[image:Bundesarchiv Bild 102-14886, Kurt Daluege, Heinrich Himmler, Ernst Röhm.jpg|left|thumb|200px|1934年、突撃隊幕僚長[[エルンスト・レーム]](右)とベルリン親衛隊指導者[[クルト・ダリューゲ]](左)と。]] |
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一方ヒムラーがゲシュタポを掌握した頃、突撃隊は貴族や[[ユンカー]]が牛耳る国防軍に取って替わる第二革命を唱え、合法的な政権奪取を目指して既存政治勢力と妥協を図る党指導部との緊張を益々高めていた。ヒトラーは突撃隊の粛清を企図しつつも、相手が長年の同志エルンスト・レームであることもあり、優柔不断になっていた。ヒムラーも恩人であったレームの粛清に思い悩んだが、ハイドリヒに「親衛隊の未来のためにも粛清に参加すべきだ」とつき上げられ、レーム粛清を決意した。ヒムラーも一度決意したのちはためらったり、手心を加えることはなかった<ref name="ナチス親衛隊77">『ナチス親衛隊』77ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ104">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)104ページ</ref>。ヒムラーとハイドリヒはゲーリングの指揮の下、暗殺対象者リストの作成にあたり、レームら突撃隊幹部の謀反の証拠を捏造し、とうとうヒトラーに粛清を決意させた。1934年6月30日の[[長いナイフの夜]]事件において親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた<ref name="ヒトラー全記録280">『ヒトラー全記録』(柏書房)280ページ</ref><ref name="ナチス親衛隊86">『ナチス親衛隊』86ページ</ref>。またこの事件の後、国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]も親衛隊の「功績」を高く評価し、親衛隊が三連隊の軍隊を保有することを承認した。ヒムラーが欲しがっていた親衛隊の戦闘部隊[[親衛隊特務部隊]]が創設される運びとなった。この部隊が後に[[武装親衛隊]]となる<ref name="武装SS30">『武装SS ナチスもう一つ暴力装置』30ページ</ref>。親衛隊の党内権力は着々と拡大された。 |
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一方プロイセン州は首都[[ベルリン]]を含んでドイツ国土の半分以上を占めた巨大州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとしなかった。ヒムラーやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察[[ゲシュタポ]]やその局長[[ルドルフ・ディールス]]の無法行為を讒言するなどして<ref>[[#バトラー|バトラー、p.46-47]]</ref>、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。 |
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レーム死後、すべての[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]は親衛隊の管轄となり、ヒムラーは、[[ダッハウ強制収容所]]の所長だった[[テオドール・アイケ]]を全強制収容所監視監、[[親衛隊髑髏部隊]](強制収容所看守部隊)総監に任命した<ref name="SSの歴史フジ206">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)206ページ</ref>。 |
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ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長 (Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt) の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し<ref name="ドラリュ79">[[#ドラリュ文庫|ドラリュ、文庫p.79]]</ref>、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官 (Chef der Geheimen Staatspolizeiamt)の座に留任したが既に形式的な存在であり、実質的なゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されていた<ref name="学研1114">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.114]]</ref><ref name="阿部269">[[#阿部|阿部、p.269]]</ref><ref name="大野90">[[#大野|大野、p.90]]</ref>。 |
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ヒトラー内閣発足以降、親衛隊は[[ノルトラント出版社]]、[[DEST|ドイツ土石製造有限会社(DEST)]]、[[DAW (ナチ親衛隊企業)|ドイツ装備製造有限会社(DAW)]]など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校だった[[オズヴァルト・ポール]]を[[親衛隊本部]]の経済部門の部長に任じて、彼にこれらの企業の経営を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位もポールの下に置かれていた。ヒムラーは親衛隊企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社は彼が経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた<ref name="ナチス親衛隊149">『ナチス親衛隊』149ページ</ref>。 |
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==== 長いナイフの夜 ==== |
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1936年6月17日、ヒムラーはフリックから全ドイツ警察長官に任じられた。彼はこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として[[秩序警察]]を発足させ、[[親衛隊大将]][[クルト・ダリューゲ]]を長官に任じた。一方政治警察の[[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]]は[[保安警察]]として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた。さらに1937年11月13日には「[[親衛隊及び警察指導者|親衛隊及び警察高級指導者]]」(Höhere SS und Polizeiführer、略称HSSPF)の職を新設してドイツの各地域に配置した。この職はヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位をその地域において代行する者であった。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-14886, Kurt Daluege, Heinrich Himmler, Ernst Röhm.jpg|thumb|250px|1934年、突撃隊幕僚長[[エルンスト・レーム]](右)とベルリン親衛隊指導者[[クルト・ダリューゲ]](左)と。]] |
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一方ヒムラーがゲシュタポを掌握した頃、[[エルンスト・レーム]]率いる[[突撃隊]]は貴族や[[ユンカー]]が牛耳る国軍に取って替わる第二革命を唱え、国軍との緊張を高めていた。国軍との連携を重視するヒトラーにとって厄介な存在となりつつあった。とはいえ長年の同志であるレームが相手であるだけにヒトラーの突撃隊問題に関する立場は曖昧であった。1934年2月28日にはレームと国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]に国軍がドイツ唯一の国防兵力であり、突撃隊は訓練など国軍の補助にあたることで合意させて和解させようとした<ref name="ヘーネ102">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.102]]</ref>。しかし突撃隊には不満が残り、レームは反ヒトラー言動を強めた<ref name="ヘーネ102"/>。 |
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ハイドリヒは親衛隊の勢力拡大の蓋になっている突撃隊を粛清するチャンスが来たと見て、レーム一派の抹殺計画を企てた<ref name="ヘーネ104">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.104]]</ref>。しかしヒムラーにとってレームはかつて最も尊敬した人物であり、恩人でもあった。またその計画を実行に移せば突撃隊と親衛隊に修復不可能な溝ができるため、しばらくは悩んでいた<ref name="ヘーネ104"/><ref name="グレーバー77">[[#グレーバー|グレーバー、p.77]]</ref>。しかし結局ハイドリヒに説き伏せられてヒムラーもついにレームら突撃隊幹部を粛清することを企図するようになった。ヒムラーも一度決意したのちはためらったり、手心を加えることはなかった<ref name="ヘーネ104"/><ref name="グレーバー77"/>。 |
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1939年9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安警察を統合させて、[[国家保安本部]]を設置させた<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像14">大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)15ページ</ref>。 |
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ヒムラーとハイドリヒは、同じく突撃隊の粛清を企図するゲーリングと連携した。突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った<ref name="ヘーネ105">ヘーネ、105頁</ref><ref name="桧山292">[[#桧山|桧山、p.292]]</ref>。更にハイドリヒに暗殺対象者リストの作成にあたらせた<ref name="グレーバー78">[[#グレーバー|グレーバー、p.78]]</ref>。 |
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こうした警察権力掌握の過程の中で、親衛隊は国内外の様々な政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的だった[[陸軍]][[元帥]][[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[国防大臣]]と[[陸軍]][[上級大将]][[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]陸軍総司令官を[[ブロンベルク罷免事件|スキャンダルで失脚]]させたり、海外でも[[ソヴィエト連邦]][[陸軍]][[元帥]][[ミハイル・トゥハチェフスキー]]を初めとする[[大粛清|赤軍首脳部が粛清]]されるよう謀略工作を行った。また[[オーストリア]]首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]の暗殺にも関与し、[[オーストリア・ナチス党]]によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。 |
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そして[[1934年]]6月はじめ頃から偽造された証拠がばら撒かれて突撃隊「武装蜂起」の噂が流された。この噂を重く受け止めた大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]と国防相ブロンベルクは、1934年6月21日に首相ヒトラーに対し、もし突撃隊問題が解決できないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。この通告によりヒトラーは粛清を実行するしかなくなった。またこの頃すでにヒンデンブルクの死が近いことは明らかだった。ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは軍に忠誠を誓わせねばならず、そのためには軍が望むレーム以下突撃隊幹部の粛清が必要だった。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという<ref name="阿部274">[[#阿部|阿部、p.274]]</ref><ref name="ヘーネ111">ヘーネ、111頁</ref>。 |
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=== 戦時中 === |
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[[image:Bundesarchiv Bild 121-0273, Krakau, Ankunft Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]と(ポーランド、1939年)]] |
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1939年8月、ヒトラーから[[ポーランド侵攻]]の口実を作るよう命じられたヒムラーは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのが[[グライヴィッツ事件]]であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員[[アルフレート・ナウヨックス]]がポーランド軍人に成りすまして[[ポーランド]]の[[グライヴィッツ]]放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった<ref name="ヒトラーの秘密警察68">『ヒトラーの秘密警察』68ページ</ref>。 |
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こうして1934年6月30日に行われた粛清事件「[[長いナイフの夜]]」において親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた<ref name="阿部280">[[#阿部|阿部、p.280]]</ref><ref name="グレーバー86">[[#グレーバー|グレーバー、p.86]]</ref>。 |
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しかし大戦前期にヒトラーの信用を損なう事件もいくつか存在した。1939年11月8日、ヒトラーは[[ビュルガーブロイケラー]]([[:de:Bürgerbräukeller|Bürgerbräukeller]])でミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜にスイスへ不法越境しようとした[[ゲオルク・エルザー]]が容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命じた。彼はヒトラーの期待にこたえるべく、自らがエルザーの所へ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった<ref name="SSの歴史フジ285">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)285ページ</ref>。 |
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==== 全ドイツ警察長官 ==== |
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またヒムラーやSDのハイドリヒは、ルーマニアの「鉄の護衛隊」を支持していたが、「鉄の護衛隊」は1941年1月に[[イオン・アントネスク]]に対して反乱を起こす。ヒトラーや外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]はアントネスクを支持したが、SDはなおも「鉄の護衛隊」を擁護し、[[ホリア・シマ]]以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD将校は処分された<ref name="SSの歴史フジ286">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)286ページ</ref>。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大をとめる好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続々と任命するようになった。しかしながら戦争が進むにつれ、外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった<ref name="SSの歴史フジ288">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)288ページ</ref>。 |
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[[File:HimmlerAndHeydrich 1938.jpeg|thumb|right|200px|thumb|200px|1938年3月。[[保安警察]]長官の[[ラインハルト・ハイドリヒ]]と]] |
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内相[[ヴィルヘルム・フリック]]はヒムラーを嫌い、[[クルト・ダリューゲ]]を警察指導者にしたがっていた。そのため1934年11月にはダリューゲがドイツ内務省第三局(Abteilung III)(警察局)の局長に任じられた<ref name="Yerger148">[[#Yerger|Yerger, p.148]]</ref>。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた<ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.196-197]]</ref>。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた<ref name="ヘーネ197">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.197]]</ref>。 |
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そして1936年6月17日、ヒムラーは全ドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)に任じられた<ref name="クランク85">[[#クランク|クランクショウ、p.85]]</ref><ref>[[#スティン|スティン、p.25-26]]</ref><ref name="山下(2010)92">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.92]]</ref>。彼はこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として[[秩序警察]]を発足させ、[[親衛隊大将]]ダリューゲを長官に任じた<ref name="スティン26">[[#スティン|スティン、p.26]]</ref>。一方政治警察の[[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]]は[[保安警察]]として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた<ref name="スティン26"/>。 |
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1942年6月4日、国家保安本部長官兼[[ベーメン・メーレン保護領]]副総督を務めていたハイドリヒが、[[イギリス]]が送りこんできた[[チェコ人]]暗殺部隊に暗殺された。しばらくはヒムラーが国家保安本部長官職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]][[親衛隊少将]]を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはヒトラーの同意も得て[[親衛隊大将]][[エルンスト・カルテンブルンナー]]を後任に任じた<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像251">大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)288ページ</ref>。1943年8月20日、ヒムラーはフリックに代わって内相に就任、名実ともにドイツ警察の支配者となった<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像251">阿部良男著『ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>』(柏書房)601ページ</ref>。 |
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さらに1937年11月13日には「[[親衛隊及び警察指導者|親衛隊及び警察高級指導者]]」(Höhere SS und Polizeiführer、略称HSSPF)の職を新設してドイツの各地域に配置した。この職はヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位をその地域において代行する者であった<ref name="山下(2010)66">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.66]]</ref>。 |
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==== ヒムラーとホロコースト ==== |
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[[画像:Bundesarchiv Bild 192-308, KZ-Mauthausen, Himmlervisite.jpg|right|thumb|200px|1941年4月、[[マウトハウゼン強制収容所]]の視察。話しかけている人物は所長[[フランツ・ツィライス]][[親衛隊中佐]](当時)]] |
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開戦前から戦争初期にかけてヒムラー以下親衛隊はユダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になった[[SD (ナチス)|SD]]ユダヤ人課の[[アドルフ・アイヒマン]]が注目され、1939年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはヒムラーはドイツ民族性強化国家委員(Reichskommisar fürdie Festigung des deutschen Volkstums)に任命された<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策88">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>』88ページ</ref><ref name="武装SS全史1119">『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』119ページ</ref>。この権限に基づき、彼は親衛隊の本部の一つとして「[[ドイツ民族性強化国家委員本部]]」(RKFDV)を設置し、親衛隊大将[[ウルリヒ・グライフェルト]]を本部長に任じた。[[アーリア人]]の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策を推し進めた。 |
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1939年9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安警察を統合させて、[[国家保安本部]](RSHA)を親衛隊内に設置させた<ref name="大野15">[[#大野|大野、p.15]]</ref>。 |
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1939年9月の[[ポーランド侵攻]]後、国家保安本部は占領下[[ポーランド]]や[[ソ連]]占領地域に[[アインザッツグルッペン]](特別行動部隊)を派遣して[[ユダヤ人]]を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ヒムラーも1940年5月に「ユダヤ人根絶の[[大粛清|ボルシェヴィキ的方法]]は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている<ref name="SSの歴史フジ319">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319ページ</ref>。ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)の決定はヒムラーではなく[[アドルフ・ヒトラー]]と考えられている。ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏であるといわれる<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策99">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>』99ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ319">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319ページ</ref>。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはヒムラーと親衛隊である。 |
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==== 強制収容所掌握 ==== |
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1941年6月に[[バルバロッサ作戦]]([[独ソ戦]])が発動された後、国家保安本部は[[アインザッツグルッペン]]をソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ヒムラーはポーランドの[[アウシュヴィッツ強制収容所]]所長[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]をベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウシュヴィッツを絶滅収容所と改築することを命じた。これを受けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた<ref name="ナチ強制収容所153">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>』153ページ</ref><ref name="ヒトラーの共犯者上195">『ヒトラーの共犯者 上』195ページ</ref>。さらにこの後、ポーランドにユダヤ人の殺戮だけを目的とした[[ベウジェツ強制収容所]]、[[ソビボル強制収容所]]、[[トレブリンカ強制収容所]]の三大[[絶滅収容所]]が建設された。ユダヤ人はヨーロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人課課長になっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。 |
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「長いナイフの夜」の後、すべての[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]は親衛隊の管轄となり、ヒムラーは、[[ダッハウ強制収容所]]の所長だった[[テオドール・アイケ]]を全強制収容所監督官、[[親衛隊髑髏部隊]](強制収容所看守部隊)総監に任命した<ref name="ヘーネ206">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.206]]</ref>。 |
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突撃隊やゲーリングが創設した強制収容所はほとんどが閉鎖されていった<ref name="高橋39">[[#高橋|高橋、p.39]]</ref>。代わりに1936年9月に[[ザクセンハウゼン強制収容所]]<ref name="高橋39"/>、1937年7月末に[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]<ref name="リュビー65">[[#リュビー|リュビー、p.65]]</ref>、1938年8月に[[マウトハウゼン強制収容所]]、1938年11月に[[フロッセンビュルク強制収容所]]、1939年5月に[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]が創設された<ref name="高橋45">[[#高橋|高橋、p.45]]</ref>。 |
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正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒがベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行った[[ヴァンゼー会議]]であるとされる。この会議で[[ユダヤ人問題の最終的解決]]について各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺は1941年代にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがヒムラーのユダヤ人問題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある<ref name="ヒトラー全記録535">『ヒトラー全記録』535ページ</ref>。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分の権限を誇示するための意味があったことを主張している<ref name="アイヒマン調書76">ヨッヘン・フォン・ラング編『アイヒマン調書 <small>イスラエル警察尋問録音記録</small>』(岩波書店)76ページ</ref>。 |
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ヒムラーが全ドイツ警察長官になると保護拘禁の範囲が拡大された。もともとは政治犯のみが保護拘禁の対象だったが、「常習的犯罪者」と「反社会分子」も保護拘禁されて強制収容所へ入れられるようになった<ref name="高橋41">[[#高橋|高橋、p.41]]</ref>。なお戦前期には人種だけを理由として強制収容所に入れられるケースは基本的にはなかった。ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで強制収容所に入れられるようになったのは戦中のことである<ref name="長谷川66">[[#長谷川|長谷川、p.66]]</ref>。ただし例外として1938年11月の「[[水晶の夜]]」事件で逮捕されたユダヤ人3万人は強制収容所に移送されている(水晶の夜の際に逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間にして釈放されている)<ref name="長谷川80">[[#長谷川|長谷川、p.80]]</ref><ref name="リュビー20">[[#リュビー|リュビー、p.20]]</ref>。 |
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[[File:Auschwiz Selektion.jpg|thumb|200px|1944年5月、[[アウシュヴィッツ強制収容所]]に到着したユダヤ人。労働させる者とガス室送りにする者の選別]] |
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一般的にヒムラーや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。[[親衛隊経済管理本部]]長官であり、強制収容所運営の責任者である[[オズヴァルト・ポール]]は一貫して強制収容所へぶち込んだユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指していた。労働できる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強制労働に従事させられた。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスもその回顧録に「アウシュヴィッツへ送られてくるユダヤ人は本来すべて抹殺されるはずであったが、ドイツ・ユダヤ人が最初に送られてきた頃にはすでに労働可能な者は選別して収容所の軍需目的に使用するようにという命令が出されていた」と書いている<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策106">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>』106ページ</ref>。[[総力戦]]体制が強まる中、強制収容所の奴隷労働力はナチスにとってますます重要になっていた。ヒムラーは強制収容所の囚人の死亡率を下げることを一貫して命じ続け、親衛隊経済管理本部もそれに努力していた<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策159">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>』159ページ</ref>。 |
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==== 企業経営 ==== |
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一方、「労働不能」ユダヤ人は、ナチスにとって全く役に立たないばかりか、それでなくても悪かったドイツの食糧事情を無駄に悪化させる厄介な存在であった。そのため即時に絶滅対象としたのであった。戦時中に行われたユダヤ人絶滅政策とは基本的に「労働不能」と認定されたユダヤ人の絶滅政策であった<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策123">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>』123ページ</ref>。 |
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ヒトラー内閣発足以降、親衛隊は[[ノルトラント出版社]]、[[DEST|ドイツ土石製造有限会社(DEST)]]、[[DAW (ナチ親衛隊企業)|ドイツ装備製造有限会社(DAW)]]など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校だった[[オズヴァルト・ポール]]を[[親衛隊本部]]の経済部門の部長に任じて、彼にこれらの企業の経営を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位もポールの下に置かれていた。ヒムラーは親衛隊企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社は彼が経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた<ref name="グレーバー149">[[#グレーバー|グレーバー、 p.149]]</ref>。 |
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==== 工作活動 ==== |
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ヒムラーやポールの命令を受けてアウシュヴィッツや[[マイダネク強制収容所]]でも「労働不能者」(=ガス室送り)と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、[[ヨーゼフ・メンゲレ]]はその典型として悪名高い<ref name="ナチ強制収容所158">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>』158ページ</ref>。 |
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こうした警察権力掌握の過程の中で、親衛隊は国内外の様々な政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的だった[[陸軍]][[元帥]][[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[国防大臣]]と[[陸軍]][[上級大将]][[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]陸軍総司令官を[[ブロンベルク罷免事件|スキャンダルで失脚]]させたり、海外でも[[ソヴィエト連邦]][[陸軍]][[元帥]][[ミハイル・トゥハチェフスキー]]を初めとする[[大粛清|赤軍首脳部が粛清]]されるよう謀略工作を行った。また[[オーストリア]]首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]の暗殺にも関与し、[[オーストリア・ナチス党]]によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。 |
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==== 親衛隊の軍隊化 ==== |
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ただし、飽くまでもヒムラーはナチズムの信奉者であり、ヒトラーのユダヤ人絶滅の意思は完遂するつもりであった。したがって労働に従事させる者もいずれは殺すつもりであった。1942年秋にはヒムラーが[[オットー・ゲオルク・ティーラック]]法相との会談で「労働を介した絶滅」という言葉を口にしたことはそれが端的に表していると言えよう<ref name="ナチ強制収容所188">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>』188ページ</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-C05557, Berlin, Sepp Dietrich, Hitler, Heinrich Himmler.jpg|right|thumb|200px|1937年、[[ヨーゼフ・ディートリヒ]](左)と[[アドルフ・ヒトラー]](中央)と]] |
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1933年3月17日にヒムラーはヒトラーをボディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭117名を選抜して「SS司令部衛兵班、ベルリン」(SS-Stabswache Berlin)を創設させた。指揮官には[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]を任じた<ref name="山下(2010)170">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.170]]</ref>。この部隊は後に[[第1SS装甲師団|「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」]](Leibstandarte SS Adolf Hitler、略号:LAH、LSSAH)の名を与えられ、戦時中には[[武装親衛隊]](Waffen-SS)の最精鋭師団となる<ref name="山下(2010)170"/><ref name="スティン41">[[#スティン|スティン、p.41]]</ref><ref name="ヘーネ89">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.89]]</ref>。しかしディートリヒはこの部隊をヒトラーだけに責任を負い、ヒムラーから独立した存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってヒムラーとディートリヒの間で争いがあった<ref name="学研1144">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.144]]</ref>。 |
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これに触発されたヒムラーは、SSの軍隊を欲しがるようになり、司令部衛兵班創設と同じ時期に自動車化された機動力を持ち、警察より強力な火力を備えた「政治予備隊」(Politische Bereitschaft)を創設させ、いくつかの[[親衛隊上級地区]]に配置した<ref name="スティン42">[[#スティン|スティン、p.42]]</ref><ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.163]]</ref>。[[アドルフ・ヒトラー]]も軍の枠組みにとらわれずに自由に動かせる「私軍」をほしがっていた。ナチ党の私兵部隊の突撃隊には反ヒトラー派も多く、ヒトラーの「私軍」になりうる余地はなかった。1934年6月末、[[ヴァイマル共和国軍|国軍]](Reichswehr)と争っていた突撃隊幹部は[[長いナイフの夜]]事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはヒムラーら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高い評価を得ることとなった。ヒトラーは親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]は親衛隊が三連隊の軍隊を保有することを承認した<ref name="芝30">[[#芝|芝、p.30]]</ref>。これを受けてヒトラーは、1934年9月24日に三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ武装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが[[親衛隊特務部隊]]であった<ref name="芝30">[[#芝|芝、p.30]]</ref>。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。 |
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==== 軍司令官として ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Weill-059-18, Metz, Heinrich Himmler auf Panzer.jpg|right|thumb|200px|1940年9月。[[第1SS装甲師団]]の戦車を視察する]] |
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-J28419, Himmler überreicht die Goldene Nahkampfspange.jpg|right|thumb|200px|1944年12月、[[ヴァイクセル軍集団]]司令官として]] |
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ナチ党の政権掌握後、ヒムラーは親衛隊の軍隊を持ちたいと考えていた。アドルフ・ヒトラーも軍の枠組みにとらわれずに自由に動かせる「私軍」をほしがっていた。ナチ党の私兵部隊の突撃隊には反ヒトラー派も多く、ヒトラーの「私軍」になりうる余地はなかった。1934年6月末、[[ヴァイマル共和国軍|国軍]](Reichswehr)と争っていた突撃隊幹部は[[長いナイフの夜]]事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはヒムラーら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高い評価を得ることとなった。ヒトラーは軍部からの信任も厚い親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。1934年9月24日、ヒトラーは三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ武装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが[[親衛隊特務部隊]]であった<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置30">芝健介著『武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>』(講談社選書メチエ)30ページ</ref>。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。 |
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こうして政治予備隊が1934年9月24日に[[親衛隊特務部隊]](SS-VT)に再編されて軍隊化される運びとなった<ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.163]]</ref>。 |
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特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年以降[[ドイツ国防軍|国防軍]](Wehrmacht)と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州[[バート・トェルツ]]に親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年には[[ブラウンシュヴァイク]]にも親衛隊士官学校が開設された<ref name="武装SS30">『武装SS ナチスもう一つ暴力装置』30ページ</ref>。特務部隊の軍事教練には[[パウル・ハウサー]](1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置30">芝健介著『武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>』(講談社選書メチエ)30ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ430">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)430ページ</ref>。 |
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特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年以降[[ドイツ国防軍|国防軍]](Wehrmacht)と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州[[バート・トェルツ]]に親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年には[[ブラウンシュヴァイク]]にも親衛隊士官学校が開設された<ref name="武装SS30">『武装SS ナチスもう一つ暴力装置』30ページ</ref>。特務部隊の軍事教練には[[パウル・ハウサー]](1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置30">芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)30ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ430">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)430ページ</ref>。 |
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1936年10月1日、ヒムラーは親衛隊特務部隊の管理のため、[[パウル・ハウサー]]を長とする親衛隊特務部隊総監部を創設させた<ref name="スティン46">[[#スティン|スティン、p.46]]</ref>。 |
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武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である[[親衛隊大将]][[ゴットロープ・ベルガー]]が主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にない[[ヒトラー・ユーゲント]]などの若年層やドイツ系外国人なども盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装SSに勧誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れにはアレルギーがあったがベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。武装親衛隊の中には[[インド人]]で構成された部隊や[[ボスニア]]の[[イスラム教徒]]を中心に構成された師団まで存在した([[第13SS武装山岳師団]])<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置第五章">芝健介著『武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>』(講談社選書メチエ)第五章</ref>。 |
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=== 戦時中 === |
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==== 警察活動 ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 121-0273, Krakau, Ankunft Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]と(ポーランド、1939年)]] |
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1939年8月、ヒトラーから[[ポーランド侵攻]]の口実を作るよう命じられたヒムラーは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのが[[グライヴィッツ事件]]であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員[[アルフレート・ナウヨックス]]がポーランド軍人に成りすまして[[ポーランド]]の[[グライヴィッツ]]放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった<ref name="ヒトラーの秘密警察68">『ヒトラーの秘密警察』68ページ</ref>。 |
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しかし大戦前期にヒトラーの信用を損なう事件もいくつか存在した。1939年11月8日、ヒトラーは[[ビュルガーブロイケラー]]でミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜にスイスへ不法越境しようとした[[ゲオルク・エルザー]]が容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命じた。彼はヒトラーの期待にこたえるべく、自らがエルザーの所へ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった<ref name="SSの歴史フジ285">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)285ページ</ref>。 |
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またヒムラーやSDのハイドリヒは、ルーマニアの「鉄の護衛隊」を支持していたが、「鉄の護衛隊」は1941年1月に[[イオン・アントネスク]]に対して反乱を起こす。ヒトラーや外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]はアントネスクを支持したが、SDはなおも「鉄の護衛隊」を擁護し、[[ホリア・シマ]]以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD将校は処分された<ref name="SSの歴史フジ286">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)286ページ</ref>。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大をとめる好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続々と任命するようになった。しかしながら戦争が進むにつれ、外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった<ref name="SSの歴史フジ288">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)288ページ</ref>。 |
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1942年6月4日、国家保安本部長官兼[[ベーメン・メーレン保護領]]副総督を務めていたハイドリヒが、[[イギリス]]が送りこんできた[[チェコ人]]暗殺部隊に暗殺された。しばらくはヒムラーが国家保安本部長官職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]][[親衛隊少将]]を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはヒトラーの同意も得て[[親衛隊大将]][[エルンスト・カルテンブルンナー]]を後任に任じた<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像251">大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)288ページ</ref>。1943年8月20日、ヒムラーはフリックに代わって内相に就任、名実ともにドイツ警察の支配者となった<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像251">阿部良男著『ヒトラー全記録 -20645日の軌跡-』(柏書房)601ページ</ref>。 |
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==== 軍司令官として ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Weill-059-18, Metz, Heinrich Himmler auf Panzer.jpg|right|thumb|250px|1940年9月。[[第1SS装甲師団]]の戦車を視察する]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-J28419, Himmler überreicht die Goldene Nahkampfspange.jpg|right|thumb|250px|1944年12月、[[ヴァイクセル軍集団]]司令官として]] |
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1939年5月、ヒトラーは2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。ヒムラーは師団創設のため砲兵連隊の設立を急いだが、1939年9月のポーランド侵攻までに間に合わず、親衛隊特務部隊はこの戦争を連隊編成で参加した。ポーランド戦後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。特務部隊は1940年4月22日の[[親衛隊作戦本部]]の司令により親衛隊特務部隊は[[武装親衛隊]](Waffen-SS)と名を変えた。武装親衛隊はどんどん拡張され、大戦を通じて38個師団90万の兵力を数えるまでに成長した。国防軍に比べると損害率や戦死者・負傷者が多かったが、ヒムラーはこの理由について「国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるため」と説明していた<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置60">芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)60ページ</ref>。 |
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武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である[[親衛隊大将]][[ゴットロープ・ベルガー]]が主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にない[[ヒトラー・ユーゲント]]などの若年層やドイツ系外国人なども盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装SSに勧誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れにはアレルギーがあったがベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。武装親衛隊の中には[[インド人]]で構成された部隊や[[ボスニア]]の[[イスラム教徒]]を中心に構成された師団まで存在した([[第13SS武装山岳師団]])<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置第五章">芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)第五章</ref>。 |
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ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒトラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月14日には国防軍情報部([[アプヴェーア]])部長[[ヴィルヘルム・カナリス]][[海軍大将]]が失脚。ヒトラーはアプヴェーアの機能を[[国家保安本部]]第6局(国外諜報Ausland-SD、局長[[ヴァルター・シェレンベルク]])の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた<ref name="ヒトラーの秘密警察221">『ヒトラーの秘密警察』221ページ</ref>。 |
ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒトラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月14日には国防軍情報部([[アプヴェーア]])部長[[ヴィルヘルム・カナリス]][[海軍大将]]が失脚。ヒトラーはアプヴェーアの機能を[[国家保安本部]]第6局(国外諜報Ausland-SD、局長[[ヴァルター・シェレンベルク]])の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた<ref name="ヒトラーの秘密警察221">『ヒトラーの秘密警察』221ページ</ref>。 |
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さらに1944年12月2日にヒムラーはオーベルライン軍集団司令官に就任し、西部戦線で指揮を執った。ヒムラーのオーベルライン軍集団は[[ストラスブール]]まで数キロまで迫ったが、結局[[アメリカ軍]]の反撃にあって[[ライン川]]の向こうへ撃退された。しかしヒトラーはオーベルライン軍集団でのヒムラーの指揮を評価し、1945年1月23日にヒムラーを東部戦線の[[ヴァイクセル軍集団]]司令官に任じた。参謀総長[[ハインツ・グデーリアン]]上級大将はこの人事に反対したが、ヒトラーは強行した。ヒムラーは今度こそ戦勝報告をヒトラーにもたらそうとはりきり、予備軍や武装SS残存兵力をかき集め、また[[フェリックス・シュタイナー]]ら著名な武装親衛隊将軍を招集した。ドイツ本土に迫る赤軍を迎え撃つが、すでにドイツ軍は消耗しきっており、しかも部隊指揮経験を持たないヒムラーはまともな作戦指揮が出来なかった。ソ連軍に[[オーデル川]]を突破された。グデーリアンはヒムラー降ろしを急ぎ、結局、最後にはヒトラーも司令官の首を挿げ替えることに同意し、1945年3月20日、同軍集団の司令官職は[[陸軍]][[大将]][[ゴットハルト・ハインリツィ]]にかえられた。この件でヒムラーの権威は大きく傷ついた<ref name="SSの歴史フジ538">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)538ページ</ref>。ヒムラーの軍集団司令官就任は[[マルティン・ボルマン]]の陰謀であるとする説もある<ref name="SSの歴史フジ532">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)532ページ</ref>。 |
さらに1944年12月2日にヒムラーはオーベルライン軍集団司令官に就任し、西部戦線で指揮を執った。ヒムラーのオーベルライン軍集団は[[ストラスブール]]まで数キロまで迫ったが、結局[[アメリカ軍]]の反撃にあって[[ライン川]]の向こうへ撃退された。しかしヒトラーはオーベルライン軍集団でのヒムラーの指揮を評価し、1945年1月23日にヒムラーを東部戦線の[[ヴァイクセル軍集団]]司令官に任じた。参謀総長[[ハインツ・グデーリアン]]上級大将はこの人事に反対したが、ヒトラーは強行した。ヒムラーは今度こそ戦勝報告をヒトラーにもたらそうとはりきり、予備軍や武装SS残存兵力をかき集め、また[[フェリックス・シュタイナー]]ら著名な武装親衛隊将軍を招集した。ドイツ本土に迫る赤軍を迎え撃つが、すでにドイツ軍は消耗しきっており、しかも部隊指揮経験を持たないヒムラーはまともな作戦指揮が出来なかった。ソ連軍に[[オーデル川]]を突破された。グデーリアンはヒムラー降ろしを急ぎ、結局、最後にはヒトラーも司令官の首を挿げ替えることに同意し、1945年3月20日、同軍集団の司令官職は[[陸軍]][[大将]][[ゴットハルト・ハインリツィ]]にかえられた。この件でヒムラーの権威は大きく傷ついた<ref name="SSの歴史フジ538">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)538ページ</ref>。ヒムラーの軍集団司令官就任は[[マルティン・ボルマン]]の陰謀であるとする説もある<ref name="SSの歴史フジ532">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)532ページ</ref>。 |
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==== ヒムラーとホロコースト ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 192-308, KZ-Mauthausen, Himmlervisite.jpg|right|thumb|250px|1941年4月、[[マウトハウゼン強制収容所]]の視察。話しかけている人物は所長[[フランツ・ツィライス]][[親衛隊少佐]](当時)]] |
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開戦前から戦争初期にかけてヒムラー以下親衛隊はユダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になった[[SD (ナチス)|SD]]ユダヤ人課の[[アドルフ・アイヒマン]]が注目され、1939年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはヒムラーはドイツ民族性強化国家委員(Reichskommisar fürdie Festigung des deutschen Volkstums)に任命された<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策88">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』88ページ</ref><ref name="武装SS全史1119">『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』119ページ</ref>。この権限に基づき、彼は親衛隊の本部の一つとして「[[ドイツ民族性強化国家委員本部]]」(RKFDV)を設置し、親衛隊大将[[ウルリヒ・グライフェルト]]を本部長に任じた。[[アーリア人]]の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策を推し進めた。 |
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1939年9月の[[ポーランド侵攻]]後、国家保安本部は占領下[[ポーランド]]や[[ソ連]]占領地域に[[アインザッツグルッペン]](特別行動部隊)を派遣して[[ユダヤ人]]を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ヒムラーも1940年5月に「ユダヤ人根絶の[[大粛清|ボルシェヴィキ的方法]]は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている<ref name="SSの歴史フジ319">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319ページ</ref>。ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)の決定はヒムラーではなく[[アドルフ・ヒトラー]]と考えられている。ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏であるといわれる<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策99">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』99ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ319">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319ページ</ref>。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはヒムラーと親衛隊である。 |
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1941年6月に[[バルバロッサ作戦]]([[独ソ戦]])が発動された後、国家保安本部は[[アインザッツグルッペン]]をソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ヒムラーはポーランドの[[アウシュヴィッツ強制収容所]]所長[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]をベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウシュヴィッツを絶滅収容所と改築することを命じた。これを受けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた<ref name="ナチ強制収容所153">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』153ページ</ref><ref name="ヒトラーの共犯者上195">『ヒトラーの共犯者 上』195ページ</ref>。さらにこの後、ポーランドにユダヤ人の殺戮だけを目的とした[[ベウジェツ強制収容所]]、[[ソビボル強制収容所]]、[[トレブリンカ強制収容所]]の三大[[絶滅収容所]]が建設された。ユダヤ人はヨーロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人課課長になっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。 |
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正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒがベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行った[[ヴァンゼー会議]]であるとされる。この会議で[[ユダヤ人問題の最終的解決]]について各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺は1941年代にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがヒムラーのユダヤ人問題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある<ref name="ヒトラー全記録535">『ヒトラー全記録』535ページ</ref>。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分の権限を誇示するための意味があったことを主張している<ref name="アイヒマン調書76">ヨッヘン・フォン・ラング編『アイヒマン調書 -イスラエル警察尋問録音記録-』(岩波書店)76ページ</ref>。 |
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一般的にヒムラーや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。[[親衛隊経済管理本部]]長官であり、強制収容所運営の責任者である[[オズヴァルト・ポール]]は一貫して強制収容所へぶち込んだユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指していた。労働できる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強制労働に従事させられた。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスもその回顧録に「アウシュヴィッツへ送られてくるユダヤ人は本来すべて抹殺されるはずであったが、ドイツ・ユダヤ人が最初に送られてきた頃にはすでに労働可能な者は選別して収容所の軍需目的に使用するようにという命令が出されていた」と書いている<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策106">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』106ページ</ref>。[[総力戦]]体制が強まる中、強制収容所の奴隷労働力はナチスにとってますます重要になっていた。ヒムラーは強制収容所の囚人の死亡率を下げることを一貫して命じ続け、親衛隊経済管理本部もそれに努力していた<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策159">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』159ページ</ref>。 |
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一方、「労働不能」ユダヤ人は、ナチスにとって全く役に立たないばかりか、それでなくても悪かったドイツの食糧事情を無駄に悪化させる厄介な存在であった。そのため即時に絶滅対象としたのであった。戦時中に行われたユダヤ人絶滅政策とは基本的に「労働不能」と認定されたユダヤ人の絶滅政策であった<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策123">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』123ページ</ref>。 |
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ヒムラーやポールの命令を受けてアウシュヴィッツや[[マイダネク強制収容所]]でも「労働不能者」(=ガス室送り)と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、[[ヨーゼフ・メンゲレ]]はその典型として悪名高い<ref name="ナチ強制収容所158">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』158ページ</ref>。 |
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ただし、飽くまでもヒムラーはナチズムの信奉者であり、ヒトラーのユダヤ人絶滅の意思は完遂するつもりであった。したがって労働に従事させる者もいずれは殺すつもりであった。1942年秋にはヒムラーが[[オットー・ゲオルク・ティーラック]]法相との会談で「労働を介した絶滅」という言葉を口にしたことはそれが端的に表していると言えよう<ref name="ナチ強制収容所188">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』188ページ</ref>。 |
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==== ヒトラー暗殺計画 ==== |
==== ヒトラー暗殺計画 ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-109-18A, Berlin, Bendlerstraße, Waffen-SS-Männer.jpg|thumb|250px|1944年7月21日、ヒムラーの命令でベルリンのベントラー街(国防省)を占拠した[[武装親衛隊]]。]] |
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1944年7月20日、[[陸軍]][[大佐]][[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]ら国防軍将校が[[ヒトラー暗殺計画]]を実行した。ヒムラーは一連の謀反の最大の鎮圧者となったが、ヒムラー自身が事前に計画を知っていながら、事件の発生を黙認した可能性が指摘されている<ref name="ヒトラーの共犯者上204">『ヒトラーの共犯者 上』204ページ</ref>。 |
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1944年7月20日午後0時40分過ぎ、[[東プロイセン]]・[[ケントシン|ラステンブルク]]にあった[[総統大本営]]「[[ヴォルフスシャンツェ]]」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]][[大佐]][[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]伯爵([[国内予備軍]]参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった([[ヒトラー暗殺計画]])。 |
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この時ヒムラーは25キロ離れたマウルゼー湖畔のSS本部にいたが、午後1時頃に事件を知るとただちにラステンブルクの総統大本営へ急行し、わずか30分で到着した<ref name="ヒトラー暗殺事件128">ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)128ページ</ref>。 |
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暗殺計画実行直前の1944年7月17日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画を立てている者として[[カール・ゲルデラー]]と[[陸軍]][[上級大将]][[ルートヴィヒ・ベック]]の逮捕状を発給するようヒムラーに求めているが、彼は何故か拒否している。SDの某将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともヒムラーがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となってはわからないが、いずれにしてもこの暗殺計画は失敗におわり、その後のヒムラーはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった<ref name="ヒトラーの共犯者上204">『ヒトラーの共犯者 上』204ページ</ref>。 |
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ヒムラーは総統大本営に到着後、SS隊員とともに捜査を開始した。会議室から一人姿を消したクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が犯人であると確信し、ベルリンのSS[[フンベルト・アッハマー・ピフラーダー]]親衛隊上級大佐([[:de:Humbert Achamer-Pifrader]])にシュタウフェンベルクの逮捕を命令した(しかしベントラー街にシュタウフェンベルクの逮捕に向かったピフラーダーの方が逆にシュタウフェンベルクにより身柄を押さえられてしまっている)。ヒトラーはシュタウフェンベルクの上官である国内予備軍司令官[[フリードリヒ・フロム]]上級大将も何らかの形で謀反に関わっていると考え、ヒムラーを新たな国内予備軍司令官に任命し、ベルリンへ行くよう命じた。予備軍とはいえ、ヒムラーは念願の軍司令官の地位を手に入れたことになる<ref name="ヒトラー暗殺事件148">ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)148ページ</ref>。午後5時頃にヒトラーを別れる際に「総統、後のことは私にお任せください」と述べている<ref name="ナチス親衛隊228">『ナチス親衛隊』228ページ</ref>。 |
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1944年7月20日、爆弾事件の報告を受けたヒムラーはベルリンへ直行してヒトラーと面会し、「総統、後のことは私にお任せください」と述べている<ref name="ナチス親衛隊228">『ナチス親衛隊』228ページ</ref>。ヒムラーは国家保安本部長官[[エルンスト・カルテンブルンナー]]に大々的な捜査・逮捕を命じた。カルテンブルンナーの指揮の下に捜査が進められ、最終的に5000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった<ref name="ナチス親衛隊229">『ナチス親衛隊』229ページ</ref>。 |
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ヒムラーがベルリンに到着した7月21日明け方にはすでにシュタウフェンベルク大佐ら首謀者はベントラー街([[:de:Bendlerblock]])(国防省)においてフロムの命令で銃殺されており、その遺体はフロムの指示で勲章や階級章や軍服などを付けたまま軍人として埋葬されていた。ヒムラーはただちに武装親衛隊を動員してベントラー街を占拠した。シュタウフェンベルク大佐らの遺体を掘り起こさせて勲章などを剥奪すると、その遺体を火葬させて灰は野原にばら撒いた。 |
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ヒムラーは国家保安本部長官[[エルンスト・カルテンブルンナー]]に大々的な捜査・逮捕を命じた。カルテンブルンナーの指揮の下に捜査が進められ、最終的に5000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった<ref name="ナチス親衛隊229">『ナチス親衛隊』229ページ</ref>。 |
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ヒムラーは一連の謀反の最大の鎮圧者となったが、ヒムラー自身が事前に計画を知っていながら、事件の発生を黙認した可能性が指摘されている<ref name="ヒトラーの共犯者上204">『ヒトラーの共犯者 上』204ページ</ref>。 |
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暗殺計画実行直前の1944年7月17日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画を立てている者として[[カール・ゲルデラー]]と[[陸軍]][[上級大将]][[ルートヴィヒ・ベック]]の逮捕状を発給するようヒムラーに求めているが、彼は何故か拒否している。SDの某将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともヒムラーがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となってはわからないが、いずれにしてもこの暗殺計画は失敗におわり、その後のヒムラーはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった<ref name="ヒトラーの共犯者上204">『ヒトラーの共犯者 上』204ページ</ref>。 |
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[[ドイツ国防軍|国防軍]]の将校たちが暗殺事件に関与していたことは国防軍の地位を下げることにつながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがヒムラーを |
[[ドイツ国防軍|国防軍]]の将校たちが暗殺事件に関与していたことは国防軍の地位を下げることにつながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがヒムラーを国内予備軍司令官に任じたこともこのことのだめ押しとなった<ref name="ナチス親衛隊230">『ナチス親衛隊』230ページ</ref>。 |
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=== 戦争末期 === |
=== 戦争末期 === |
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シェレンベルクの斡旋で1945年2月19日、訪独した[[スウェーデン]]赤十字社の[[フォルケ・ベルナドッテ]]伯爵とヒムラーが入院していたホーヘンリーヘン病院において初めて会見した。ベルナドッテは米英との和平のためには強制収容所の囚人の解放が良いと薦め、まず[[スカンジナビア半島]]の強制収容所抑留者をスウェーデンに引き渡してほしいと求めた。しかしこの時ヒムラーは「もしその要求に応じたら、スウェーデンの新聞はでかでかと書くでしょうね。『戦犯ヒムラー、最後の土壇場で責任逃れ。今から免罪対策』とね。」と述べて拒否した<ref name="ナチス親衛隊235">『ナチス親衛隊』235ページ</ref>。しかしその後、ますます戦況が絶望的になり、ヒムラーはついにアメリカとイギリスに対しては降伏しても構わないという心境に至った。米英軍とドイツ軍の残存兵力でもって協力してソ連と戦うことを望んだ。4月2日にヒムラーは再度ベルナドッテと面会した。ヒムラーは西部戦線における条件付き降伏を米英に提案してくれないかと求めた。ベルナドッテはヒムラーに「ヒムラーがヒトラーの後継者を名乗ること。ナチ党を解体させて党員を配置換えすること。スカンジナビア半島系の強制収容所抑留者を釈放すること」などを条件として求めた。ヒムラーはこれに応じた。その後もヒムラーとベルナドッテは4月20日と4月24日に面会して米英に対しての降伏に向けた調整を続けた<ref name="ナチス親衛隊236">『ナチス親衛隊』236ページ</ref><ref name="髑髏の結社SSの歴史フジ550">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版)550ページ</ref>。 |
シェレンベルクの斡旋で1945年2月19日、訪独した[[スウェーデン]]赤十字社の[[フォルケ・ベルナドッテ]]伯爵とヒムラーが入院していたホーヘンリーヘン病院において初めて会見した。ベルナドッテは米英との和平のためには強制収容所の囚人の解放が良いと薦め、まず[[スカンジナビア半島]]の強制収容所抑留者をスウェーデンに引き渡してほしいと求めた。しかしこの時ヒムラーは「もしその要求に応じたら、スウェーデンの新聞はでかでかと書くでしょうね。『戦犯ヒムラー、最後の土壇場で責任逃れ。今から免罪対策』とね。」と述べて拒否した<ref name="ナチス親衛隊235">『ナチス親衛隊』235ページ</ref>。しかしその後、ますます戦況が絶望的になり、ヒムラーはついにアメリカとイギリスに対しては降伏しても構わないという心境に至った。米英軍とドイツ軍の残存兵力でもって協力してソ連と戦うことを望んだ。4月2日にヒムラーは再度ベルナドッテと面会した。ヒムラーは西部戦線における条件付き降伏を米英に提案してくれないかと求めた。ベルナドッテはヒムラーに「ヒムラーがヒトラーの後継者を名乗ること。ナチ党を解体させて党員を配置換えすること。スカンジナビア半島系の強制収容所抑留者を釈放すること」などを条件として求めた。ヒムラーはこれに応じた。その後もヒムラーとベルナドッテは4月20日と4月24日に面会して米英に対しての降伏に向けた調整を続けた<ref name="ナチス親衛隊236">『ナチス親衛隊』236ページ</ref><ref name="髑髏の結社SSの歴史フジ550">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版)550ページ</ref>。 |
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1945年4月20日、最後の総統誕生日にヒムラーはベルリンの[[総統地下壕]]に入り、ヒトラーと面会した。しかし廃人と化したヒトラーにはすでに何も期待しておらず、早々に総統地下壕を出ると、部分降伏に向けた工作を再開した。4月21日午前2時、ケルステンの地所でシェレンベルクとともに「[[世界ユダヤ人会議]]」の特使と極秘に面会した。ヒムラーは[[テレージエンシュタット強制収容所]]や[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]の[[ユダヤ人]]の解放を約し、米英への取り成しを求めた<ref name="ヒトラーの共犯者上207">グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上 |
1945年4月20日、最後の総統誕生日にヒムラーはベルリンの[[総統地下壕]]に入り、ヒトラーと面会した。しかし廃人と化したヒトラーにはすでに何も期待しておらず、早々に総統地下壕を出ると、部分降伏に向けた工作を再開した。4月21日午前2時、ケルステンの地所でシェレンベルクとともに「[[世界ユダヤ人会議]]」の特使と極秘に面会した。ヒムラーは[[テレージエンシュタット強制収容所]]や[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]の[[ユダヤ人]]の解放を約し、米英への取り成しを求めた<ref name="ヒトラーの共犯者上207">グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上-12人の側近たち-』(原書房)207ページ</ref>。 |
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ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領は「部分降伏はありえず」として、正式にヒムラーの提案の拒絶を発表している<ref name="ナチス親衛隊258">『ナチス親衛隊』258ページ</ref>。ヒムラーは落胆した。しかもこのヒムラーの活動は1945年4月28日、[[BBC]]の放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、ベルリンの[[総統地下壕]]に居住していたヒトラーの知るところとなる<ref name="ヒトラー全記録646">阿部良男著『ヒトラー全記録 |
ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領は「部分降伏はありえず」として、正式にヒムラーの提案の拒絶を発表している<ref name="ナチス親衛隊258">『ナチス親衛隊』258ページ</ref>。ヒムラーは落胆した。しかもこのヒムラーの活動は1945年4月28日、[[BBC]]の放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、ベルリンの[[総統地下壕]]に居住していたヒトラーの知るところとなる<ref name="ヒトラー全記録646">阿部良男著『ヒトラー全記録 -20645日の軌跡-』(柏書房)646ページ</ref>。 |
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==== 解任 ==== |
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5月1日午前0時頃にヒムラーは親衛隊員たちを引き連れて[[フレンスブルク]]のデーニッツの元を訪れた。デーニッツは不測の事態に備えてUボートの水兵で周りを固めた。自身も銃を書類の下に隠し持っていたという。デーニッツはここでヒトラーの電報をヒムラーに見せ、総統が死んだこと、みずからが後継者に指名されたこと、そしてヒムラーは解任されたことを告げた。電報を読んだヒムラーの顔は青ざめ、しばらく考えこんだ様子であったという。しかしすぐにデーニッツに祝福の言葉を述べ、みずからが次席としてデーニッツを支えたいと述べた。デーニッツはこれを拒否したが、親衛隊や警察勢力の離反を警戒して結局[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]の行政長官の地位を与えた<ref name="SSの歴史フジ557">『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)557ページ</ref><ref name="ナチス親衛隊259">『ナチス親衛隊』259ページ</ref>。 |
5月1日午前0時頃にヒムラーは親衛隊員たちを引き連れて[[フレンスブルク]]のデーニッツの元を訪れた。デーニッツは不測の事態に備えてUボートの水兵で周りを固めた。自身も銃を書類の下に隠し持っていたという。デーニッツはここでヒトラーの電報をヒムラーに見せ、総統が死んだこと、みずからが後継者に指名されたこと、そしてヒムラーは解任されたことを告げた。電報を読んだヒムラーの顔は青ざめ、しばらく考えこんだ様子であったという。しかしすぐにデーニッツに祝福の言葉を述べ、みずからが次席としてデーニッツを支えたいと述べた。デーニッツはこれを拒否したが、親衛隊や警察勢力の離反を警戒して結局[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]の行政長官の地位を与えた<ref name="SSの歴史フジ557">『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)557ページ</ref><ref name="ナチス親衛隊259">『ナチス親衛隊』259ページ</ref>。 |
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しかし戦時中から米英において「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏準備政権である[[フレンスブルク政府|デーニッツ政権]]にとっては邪魔な存在だった。5月6日17時頃にデーニッツはヒムラーと東方占領地域大臣[[アルフレート・ローゼンベルク]]らに解任を申し渡した。ヒムラーは首相代行[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]伯爵(ヒトラー内閣蔵相)と会談したが、結局デーニッツ政権との交渉を諦めた<ref name="ヒトラーの共犯者上209">グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上 |
しかし戦時中から米英において「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏準備政権である[[フレンスブルク政府|デーニッツ政権]]にとっては邪魔な存在だった。5月6日17時頃にデーニッツはヒムラーと東方占領地域大臣[[アルフレート・ローゼンベルク]]らに解任を申し渡した。ヒムラーは首相代行[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]伯爵(ヒトラー内閣蔵相)と会談したが、結局デーニッツ政権との交渉を諦めた<ref name="ヒトラーの共犯者上209">グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上 -12人の側近たち-』(原書房)209ページ</ref>。 |
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===逃亡と死=== |
===逃亡と死=== |
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[[File:Himmler Dead.jpg|thumb|自殺直後]] |
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[[File:Himmler-death-mask.jpg|150px|left|thumb|デスマスク]] |
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デーニッツ政権を放逐されたヒムラーは5月20日に「野戦憲兵曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って眼帯を装着、[[ルドルフ・ブラント]]、[[カール・ゲプハルト]]などの側近たちと共にホルシュタインから[[エルベ川]]を超えて逃亡していった。5月22日、[[ブレーマーフェルデ]] |
デーニッツ政権を放逐されたヒムラーは5月20日に「野戦憲兵曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って眼帯を装着、[[ルドルフ・ブラント]]、[[カール・ゲプハルト]]などの側近たちと共にホルシュタインから[[エルベ川]]を超えて逃亡していった。5月22日、[[ブレーマーフェルデ]]と[[ハンブルク]]の間にあるバルンシュテット村のはずれでイギリス軍に拘束された。捕虜としてイギリス軍の[[リューネブルク]]捕虜収容所に送られた。 |
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ヒムラーは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最期の命令となった。 |
ヒムラーは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最期の命令となった。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-55, Heinrich Himmler mit Frau und Tochter Gudrun.jpg|thumb|左から娘グドルーン、妻マルガレーテ、ヒムラー。]] |
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-55, Heinrich Himmler mit Frau und Tochter Gudrun.jpg|thumb|左から娘グドルーン、妻マルガレーテ、ヒムラー。]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1990-080-04, Marga Himmler.jpg|thumb|left|150px|妻マルガレーテ(1918年)]] |
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1928年7月3日、ヒムラーはブロンベルクの地主の娘マルガレーテ・ボーデンと結婚している。マルガレーテは金髪碧眼の長身であり、彼が理想とする「ドイツ女性」であった。彼女は第一次世界大戦中に看護婦をしており、ベルリンで短い結婚生活をした後、父の資金で診療所をやっていた。しかしヒムラーより7歳も年上であり、しかもプロテスタントの女性であったので、カトリックの両親は結婚に大反対した。しかし彼は譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている<ref name="ナチス親衛隊37">『ナチス親衛隊』37ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ56">『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)56ページ</ref>。 |
1928年7月3日、ヒムラーはブロンベルクの地主の娘マルガレーテ・ボーデンと結婚している。マルガレーテは金髪碧眼の長身であり、彼が理想とする「ドイツ女性」であった。彼女は第一次世界大戦中に看護婦をしており、ベルリンで短い結婚生活をした後、父の資金で診療所をやっていた。しかしヒムラーより7歳も年上であり、しかもプロテスタントの女性であったので、カトリックの両親は結婚に大反対した。しかし彼は譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている<ref name="ナチス親衛隊37">『ナチス親衛隊』37ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ56">『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)56ページ</ref>。 |
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1929年8月にマルガレーテとの間に一人娘[[グドルーン・ブルヴィッツ]]([[:de:Gudrun Burwitz|Gudrun]])を儲けた。ヒムラーはグドルーンを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。彼はグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。強制収容所視察の日の夜、グドルーンは日記にそのことを書いている<ref name="ヒトラーの親衛隊125">『ヒトラーの親衛隊』125ページ</ref>。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ヒムラーはこの養子のことにはほとんど関心を |
1929年8月にマルガレーテとの間に一人娘[[グドルーン・ブルヴィッツ]]([[:de:Gudrun Burwitz|Gudrun]])を儲けた。ヒムラーはグドルーンを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。彼はグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。強制収容所視察の日の夜、グドルーンは日記にそのことを書いている<ref name="ヒトラーの親衛隊125">『ヒトラーの親衛隊』125ページ</ref>。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ヒムラーはこの養子のことにはほとんど関心を持たず、グドルーンが生まれた後は妻マルガレーテからも興味をなくし、別居するようになった。 |
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ヒムラーは1937年からヘトヴィヒ・ポトハスト(Hedwig Potthast)と愛人関係となっていた。ヘドヴィヒは1930年代半ばからヒムラーの個人スタッフの秘書となっていた女性だった。この女性との間に長男ヘルゲ(1942年誕生)と次女ナネッテ(1944年誕生)を儲けている<ref name="SSの歴史フジ409">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)409ページ</ref>。ヘドヴィヒとの愛人関係が深まるとマルガレーテと離婚しようとしたが、グドルーンのことがあって結局中止した。 |
ヒムラーは1937年からヘトヴィヒ・ポトハスト(Hedwig Potthast)と愛人関係となっていた。ヘドヴィヒは1930年代半ばからヒムラーの個人スタッフの秘書となっていた女性だった。この女性との間に長男ヘルゲ(1942年誕生)と次女ナネッテ(1944年誕生)を儲けている<ref name="SSの歴史フジ409">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)409ページ</ref>。ヘドヴィヒとの愛人関係が深まるとマルガレーテと離婚しようとしたが、グドルーンのことがあって結局中止した。 |
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ヘトヴィヒの両親はヒムラーがヘドヴィヒに子供を身ごもらせながら結婚しようとせず、家すら用意しないことに憤慨していたが、私的生活は極めて質素であったヒムラーに愛人用の家を用意できる金はなかった。結局、党の金庫を握っている[[マルティン・ボルマン]]に頼んで党の費用から8000マルクを借り、ケーニヒス湖の[[ベルヒスガーデン=シェーナウ]]([[:de:Schönau am Königssee|Berchtesgaden-Schönau]])にヘドヴィヒ用の住居を建てることにした。ここはボルマン夫人ゲルダ・ボルマンの家に近いため、ヒムラーとボルマンの友好を深める場ともなった<ref name="SSの歴史フジ409"/>。なお愛人やその子供2人に関することは一般国民には秘匿されていた<ref name="ヒトラーの親衛隊130">『ヒトラーの親衛隊』130ページ</ref>。 |
ヘトヴィヒの両親は、ヒムラーがヘドヴィヒに子供を身ごもらせながら結婚しようとせず、家すら用意しないことに憤慨していたが、私的生活は極めて質素であったヒムラーに愛人用の家を用意できる金はなかった。結局、党の金庫を握っている[[マルティン・ボルマン]]に頼んで党の費用から8000マルクを借り、ケーニヒス湖の[[ベルヒスガーデン=シェーナウ]]([[:de:Schönau am Königssee|Berchtesgaden-Schönau]])にヘドヴィヒ用の住居を建てることにした。ここはボルマン夫人ゲルダ・ボルマンの家に近いため、ヒムラーとボルマンの友好を深める場ともなった<ref name="SSの歴史フジ409"/>。なお愛人やその子供2人に関することは一般国民には秘匿されていた<ref name="ヒトラーの親衛隊130">『ヒトラーの親衛隊』130ページ</ref>。 |
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兄のゲプハルトは1939年から文部省に勤務して、工学出版物に関する課の課長となった。1944年には部長クラスに昇進。またゲプハルトは武装親衛隊にも入隊しており、[[親衛隊大佐]]まで昇進している。1945年には武装親衛隊監督官のポストに就任している。ミュンヘンにある欧州アフガニスタン協会にも勤務した。 |
兄のゲプハルトは1939年から文部省に勤務して、工学出版物に関する課の課長となった。1944年には部長クラスに昇進。またゲプハルトは武装親衛隊にも入隊しており、[[親衛隊大佐]]まで昇進している。1945年には武装親衛隊監督官のポストに就任している。ミュンヘンにある欧州アフガニスタン協会にも勤務した。 |
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弟のエルンストはベルリン放送局の主任技師を務めていたが、ベルリン攻防戦で戦死した。エルンストの孫、カトリン(Katrin Himmler)はユダヤ人と結婚し、祖父兄弟に関する著書がある。 |
弟のエルンストはベルリン放送局の主任技師を務めていたが、ベルリン攻防戦で戦死した。エルンストの孫、カトリン(Katrin Himmler)はユダヤ人と結婚し、祖父兄弟に関する著書がある。 |
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ヒムラーの父ゲープハルトの異母兄であるコンラート・ヒムラー(Konrad Himmler)の孫にハンス・ヒムラー(Hans HImmler)がいる。彼はSS中尉であったが、酔って職務上の機密を漏らしたのを知ったヒムラーは彼が死刑になるよう命令した。その後減刑されてハンスは前線送りとなったが、親衛隊について否定的な発言があったとされて再度逮捕され、結局[[ダッハウ強制収容所]]で「同性愛者」として銃殺刑に処せられている。この件は親族であっても親衛隊の規律を乱す者は容赦しないことを |
ヒムラーの父ゲープハルトの異母兄であるコンラート・ヒムラー(Konrad Himmler)の孫にハンス・ヒムラー(Hans HImmler)がいる。彼はSS中尉であったが、酔って職務上の機密を漏らしたのを知ったヒムラーは彼が死刑になるよう命令した。その後減刑されてハンスは前線送りとなったが、親衛隊について否定的な発言があったとされて再度逮捕され、結局[[ダッハウ強制収容所]]で「同性愛者」として銃殺刑に処せられている。この件は、ヒムラーが親族であっても親衛隊の規律を乱す者は容赦しないことを示そうとしたのではないかと考えられている<ref name="ヒトラーの親衛隊110">『ヒトラーの親衛隊』110ページ</ref>。 |
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戦後、邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負ったグドルーンは戦後のドイツ社会から差別的な扱いを受け、彼女はナチス擁護の[[歴史修正主義]]者になった。戦後結婚してブルヴィッツと改名したが、グドルーンは「嘘をついて新しい人生を始めることなどできません。私はずっとグドルーン・ヒムラ-であることに変わりはありません」と述べている。彼女はナチス戦犯の逃亡生活や捕まった後の弁護を支援する団体「静かなる助力」の活動に貢献した<ref name="ヒトラーの親衛隊417">『ヒトラーの親衛隊』417ページ</ref>。 |
戦後、邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負ったグドルーンは、戦後のドイツ社会から差別的な扱いを受け、彼女はナチス擁護の[[歴史修正主義]]者になった。戦後結婚してブルヴィッツと改名したが、グドルーンは「嘘をついて新しい人生を始めることなどできません。私はずっとグドルーン・ヒムラ-であることに変わりはありません」と述べている。彼女はナチス戦犯の逃亡生活や捕まった後の弁護を支援する団体「静かなる助力」の活動に貢献した<ref name="ヒトラーの親衛隊417">『ヒトラーの親衛隊』417ページ</ref>。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-R99621, Heinrich Himmler.jpg|thumb|1938年のヒムラーの肖像画。]] |
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*[[アドルフ・ヒトラー]]からは「'''忠臣ハインリヒ'''」と呼ばれていた。[[エルンスト・レーム]]からは「'''アンヒムラー'''(Anhimmler、熱狂的崇拝者の意)」と揶揄されていた<ref name="ヒトラーの共犯者上171">『ヒトラーの共犯者 上』171ページ</ref>。また「'''お国のハイニ'''(ライヒス・ハイニ)」というあだ名もあった<ref name="ヒトラーの共犯者上178">『ヒトラーの共犯者 上』178ページ</ref>。これらが美称にせよ蔑称にせよヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ヒムラーの共通した風評だった。 |
*[[アドルフ・ヒトラー]]からは「'''忠臣ハインリヒ'''」と呼ばれていた。[[エルンスト・レーム]]からは「'''アンヒムラー'''(Anhimmler、熱狂的崇拝者の意)」と揶揄されていた<ref name="ヒトラーの共犯者上171">『ヒトラーの共犯者 上』171ページ</ref>。また「'''お国のハイニ'''(ライヒス・ハイニ)」というあだ名もあった<ref name="ヒトラーの共犯者上178">『ヒトラーの共犯者 上』178ページ</ref>。これらが美称にせよ蔑称にせよヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ヒムラーの共通した風評だった。 |
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*ヒムラーには、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の操り人形であるとの風評があり、「'''4つのH'''」(Himmlers Hirn heißt Heydrich、ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ)というジョークが流れた<ref name="ヒトラーの共犯者上187">『ヒトラーの共犯者 上』187ページ</ref>。 |
*ヒムラーには、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の操り人形であるとの風評があり、「'''4つのH'''」(Himmlers Hirn heißt Heydrich、ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ)というジョークが流れた<ref name="ヒトラーの共犯者上187">『ヒトラーの共犯者 上』187ページ</ref>。 |
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*運動神経が鈍く、1936年にバート・テルツのSS士官学校で国家体力検定を受けたヒムラーは、SS全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、結局銅賞の受賞で終わった。彼はどうしても銀章が欲しくて銀章の受賞者である[[カール・ヴォルフ]](ヒムラーの副官)から彼を昇進させる代わりに銀章を譲り受けたという<ref name="学研1135">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.135]]</ref>。また[[ヴァルター・シェレンベルク]]SS少将の回顧録によると1939年9月に[[ポーゼン]]でヒムラーが列車を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという<ref name="シェレンベルク53">[[#シェレンベルク|シェレンベルク、p.53]]</ref>。その後、取り巻きのSS将軍・将校たちはヒムラーの鼻眼鏡を探すのに苦労し、激昂したヒムラーの怒声を聞きながら気まずい空気の中で歩き出す羽目になったという。カール・ヴォルフは、ヒムラーと車両の中で長々と話して引きとめていたシェレンベルクが原因だとしてシェレンベルクに「キミを恨むぞ」と言ったという<ref name="シェレンベルク53"/>。 |
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*自らの地味な容姿のせいか「'''見た目より中身は濃い'''」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。 |
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*ヒムラーは、華奢な生活を嫌い、権力を握っても私生活は極めて質素であった。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である。」という言葉を残している<ref name="ヒトラーの共犯者上152">『ヒトラーの共犯者 上』152ページ</ref>。 |
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*ヒムラーは、動物には優しい人物であり、動物の保護やドイツの子供たちに動物への愛を教える教育を熱く論じていた。「何も知らずに森の端で草を食む、何の罪もない動物に銃を向ける」ことを批判していた。特に狩猟長官であるゲーリングの鹿狩り好きについては「あんなかわいい目をした鹿を殺すなんて異常だ」と愚痴をこぼしている。このヒムラーの動物への優しさは彼が「下等人種」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ヒムラーは「下等人種」については「破壊への意志、原始的な欲望、露骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である。」と述べており、事実上、動物より下に位置づける世界観を持っていた<ref name="ヒトラーの共犯者上194">『ヒトラーの共犯者 上』194ページ</ref>。 |
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*ヒムラーの歴史観で一番大事な物は特定の人物でも社会階級でもなく「ゲルマン民族の血」であった。個人は所詮すぐに死ぬ存在であるが、祖先から子孫へという民族の血の流れは悠久であり、不滅の物と考えていた。そのため祖先・家系の名誉のためには自決さえもいとわないという[[日本]]の[[武士道]]には深く共鳴していた。ヒムラーは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、日本を見習えとよく演説した<ref name="ヒムラーとヒトラー123">『ヒムラーとヒトラー <small>氷のユートピア</small>』123ページ</ref>。サムライのほかにも[[ローマ帝国]]の[[プラエトリアニ]]、[[インド]]の[[カースト制]]の[[クシャトリア]]階級にも強い感銘を受けていた<ref name="ヒトラーの親衛隊90">『ヒトラーの親衛隊』90ページ</ref>。 |
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*SD対外諜報部長官[[ヴァルター・シェレンベルク]][[親衛隊少将]]によるとヒムラーの日本への関心はかなり強く、[[日本史]]にも精通していたという。結局実現しなかったが、親衛隊の[[士官候補生]]と[[日本軍]]の士官候補生の交換留学も考えていたという<ref name="秘密機関長の手記188">ヴァルター・シェレンベルク著『秘密機関長の手記』(角川書店)188ページ</ref>。 |
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*生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたヒムラーは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師[[フェリックス・ケルステン]]を寵愛した。そのためケルステンはヒムラーを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によると[[エルンスト・カルテンブルンナー]]はケルステンを警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を図ろうとしたことがあるという。これを聞いたヒムラーは激怒し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルシュテンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と叱責したという<ref name="ヒトラーの共犯者上191">『ヒトラーの共犯者 上』191ページ</ref>。 |
*生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたヒムラーは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師[[フェリックス・ケルステン]]を寵愛した。そのためケルステンはヒムラーを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によると[[エルンスト・カルテンブルンナー]]はケルステンを警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を図ろうとしたことがあるという。これを聞いたヒムラーは激怒し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルシュテンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と叱責したという<ref name="ヒトラーの共犯者上191">『ヒトラーの共犯者 上』191ページ</ref>。 |
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*ヒムラーは部下のSS隊員に「強さ」を求める演説をしょっちゅう行った。ヒムラーと話しているとすぐに「強さ」の話が始まるので[[ヘルマン・ゲーリング]]はそれを「ヒムラーの発作」と呼んだ<ref name="クノップ(2003)109">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.109]]</ref>。ヒムラーの「強さ」への渇望により、武装SS士官学校などでは過酷な演習が行われ、しばしば死者が発生した<ref name="クノップ(2003)109"/>。イギリスのコマンド部隊の訓練に匹敵する死亡者水準であったという<ref name="テーラー119">[[#テーラー|テーラー,ショー, p.119]]</ref>。ゲーリングはヒムラーから武装SSの実弾演習の話を聞かされた時、「親愛なるヒムラー、私も空軍の降下訓練で同じことをやろうと思っているのだよ。パラシュートをつけて二度飛ばせ、三度目はパラシュート無しで飛ばすのだ。」と皮肉ったという。ヒムラーがどう反応したかは伝わっていない<ref name="クノップ(2003)109"/>。 |
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*運動神経は鈍く、[[ヴァルター・シェレンベルク]]SS少将の回顧録によると1939年9月に[[ポーゼン]]でヒムラーが列車を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという<ref name="秘密機関長の手記53">ヴァルター・シェレンベルク著『秘密機関長の手記』(角川書店)53ページ</ref>。また1936年にバート・テルツのSS士官学校で国家体力検定を受けたヒムラーは、SS全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、結局銅賞の受賞で終わった。彼はどうしても銀章が欲しくて銀章の受賞者である[[カール・ヴォルフ]](ヒムラーの副官)から彼を昇進させる代わりに銀章を譲り受けたという<ref name="武装SS全史135">『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』135ページ</ref>。 |
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*自らの地味な容姿のせいか「'''見た目より中身は濃い'''」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。 |
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*ヒムラーは、華美な生活を嫌い、権力を握っても私生活は極めて質素であった<ref name="クノップ(2001)上58">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.58]]</ref>。[[1929年]]から給料を据え置いたといわれ、[[ランゲ・アンド・ゾーネ|ランゲ・ウント・ゼーネ]]の[[腕時計]]を買うのにマッサージ師[[フェリックス・ケルステン]]から100ライヒスマルクの借金をしていたという<ref name="山下(2010)58">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.58]]</ref>。「[[親衛隊全国指導者友の会]]([[:de:Freundeskreis Reichsführer SS|de]])」に財界から大量の献金があったが、ヒムラーは私服を肥やすことなく、全て親衛隊の機密費と高官の経費に充てていたという<ref name="山下(2010)58"/>。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である。」という言葉を残している<ref name="クノップ(2001)上152">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.152]]</ref>。 |
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*ヒムラーはSSの軍規・規律に反する行為を犯した隊員には異常なまでに厳しかった。そうした隊員にSS法廷が下した判決がヒムラーに報告されると彼はもっと厳しい罰を下すよう命じる事が多かった<ref name="クノップ(2003)109"/>。特に横領や命令されていない殺人など個人的犯罪は厳罰を以って処した<ref name="山下(2010)158">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.158]]</ref>。1935年のSS命令でも命令されていないのに個人的にユダヤ人を殺害することは禁じている<ref name="山下(2010)158"/>。ブーヘンヴァルト強制収容所所長[[カール・オットー・コッホ]]SS大佐も横領と個人的殺人の容疑で逮捕されて処刑されている。殺人自体より、SSの規律を乱している点がヒムラーにとっては問題であった<ref name="山下(2010)158"/>。 |
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*ヒムラーは、動物には優しい人物であり、動物の保護やドイツの子供たちに動物への愛を教える教育を熱く論じていた<ref name="クノップ(2001)上194">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.194]]</ref>。狩猟長官であるゲーリングの狩猟好きについて「ゲーリング、あの血に飢えた犬の畜生は動物と見れば手当たり次第に殺している。何も知らずに森の端で草を食む、何の罪もない動物を撃ち殺すのがなぜ楽しいのか。それは正真正銘の虐殺だ」とケルステンに愚痴をこぼしている<ref name="クノップ(2003)125">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.125]]</ref><ref>[[#クランク|クランクショウ、p.26-27]]</ref>。このヒムラーの動物への優しさは彼が「[[下等人種|下等人種(ウンターメンシュ)]]([[:de:Untermensch|de]])」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ヒムラーは「下等人種」については「破壊への意志、原始的な欲望、露骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である。」と述べており、事実上、動物より下に位置づける世界観を持っていた<ref name="クノップ(2001)上194"/>。 |
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*ヒムラーの歴史観で一番大事な物は特定の人物でも社会階級でもなく「ゲルマン民族の血」であった。個人は所詮すぐに死ぬ存在であるが、祖先から子孫へという民族の血の流れは悠久であり、不滅の物と考えていた。そのため祖先・家系の名誉のためには自決さえもいとわないという[[日本]]の[[武士道]]には深く共鳴していた。ヒムラーは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、日本を見習えとよく演説した<ref name="ヒムラーとヒトラー123">『ヒムラーとヒトラー -氷のユートピア-』123ページ</ref>。サムライのほかにも[[ローマ帝国]]の[[プラエトリアニ]]、[[インド]]の[[カースト制]]の[[クシャトリア]]階級にも強い感銘を受けていた<ref name="ヒトラーの親衛隊90">『ヒトラーの親衛隊』90ページ</ref>。 |
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*SD対外諜報部長官[[ヴァルター・シェレンベルク]][[親衛隊少将]]によるとヒムラーの日本への関心はかなり強く、[[日本史]]にも精通していたという。結局実現しなかったが、親衛隊の[[士官候補生]]と[[日本軍]]の士官候補生の交換留学も考えていたという<ref name="シェレンベルク188">[[#シェレンベルク|シェレンベルク、p.188]]</ref>。また日本人が[[アーリア人種]]であることを立証しようと図り、戦争末期になっても[[ルーン文字]]と[[片仮名|カナ文字]]の関連性についての調査に意見をしたりしていた<ref name="クランク19">[[#クランク|クランクショウ、p.19]]</ref> |
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*部下たちの残虐な処刑を視察してヒムラーの気分が悪くなったという証言が複数ある。 |
*部下たちの残虐な処刑を視察してヒムラーの気分が悪くなったという証言が複数ある。 |
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**1941年8月、ヒムラーは[[ミンスク]]で[[親衛隊中将]][[アルトゥール・ネーベ]]の指揮する[[アインザッツグルッペン]]B隊の銃殺を視察し、ネーベに100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていた彼は気分を悪くしてよろけ、危うく地面に手をつきそうになってしまったという([[親衛隊大将]][[エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー]]の証言による)<ref name="ナチス親衛隊200">『ナチス親衛隊』200ページ</ref>。アインザッツグルッペンの殺人活動が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのはこのためではないかといわれている<ref name="ナチス親衛隊200"/>。 |
**1941年8月、ヒムラーは[[ミンスク]]で[[親衛隊中将]][[アルトゥール・ネーベ]]の指揮する[[アインザッツグルッペン]]B隊の銃殺を視察し、ネーベに100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていた彼は気分を悪くしてよろけ、危うく地面に手をつきそうになってしまったという([[親衛隊大将]][[エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー]]の証言による)<ref name="ナチス親衛隊200">『ナチス親衛隊』200ページ</ref>。アインザッツグルッペンの殺人活動が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのはこのためではないかといわれている<ref name="ナチス親衛隊200"/>。 |
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ヒムラーは、善く言えばロマンチスト、悪く言えば現実逃避的な性格だった。そのためファンタジックな話やオカルトによくのめりこんでいた。『[[インディ・ジョーンズ]]』などオカルトを題材とした映画でよくナチスが登場するのはヒムラーの影響といえる。 |
ヒムラーは、善く言えばロマンチスト、悪く言えば現実逃避的な性格だった。そのためファンタジックな話やオカルトによくのめりこんでいた。『[[インディ・ジョーンズ]]』などオカルトを題材とした映画でよくナチスが登場するのはヒムラーの影響といえる。 |
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ヒムラーは1933年にオーストリアから来たオカルト的人物[[カール・マリア・ヴィリグート]]と知り合った。「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前までにさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた |
ヒムラーは1933年にオーストリアから来たオカルト的人物[[カール・マリア・ヴィリグート]]と知り合った。自らを「ウリゴート族の末裔でゲルマン賢者」であるとし、「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前までにさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた」「イルミニズムがゲルマン民族の本来の民族宗教であり、キリスト教がそれを盗用した」「聖書はドイツ人が書いた」などと主張していた<ref name="クノップ(2003)113">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.113]]</ref>。ヒムラーは彼のオカルトに大変のめりこみ、ヴィリグートを親衛隊に招き入れ、[[親衛隊人種及び移住本部]]に配属させた。ヴィリグートはいつでもヒムラーのオフィスに入ることを許され、ヒムラーに「過去の記憶」を披露して彼を満足させた<ref name="クノップ(2003)114">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.114]]</ref>。ヒムラーが功績を認めた親衛隊員に授与する[[親衛隊名誉リング]]のデザインもヴィリグートに任せている<ref name="クノップ(2003)114">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.114]]</ref>。 |
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ヒムラーは、ドイツの古代史研究機関として「[[アーネンエルベ]]」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検し |
ヒムラーは、ドイツの古代史研究機関として「[[アーネンエルベ]]」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検し、[[チベット]]や[[シュヴァルツヴァルト]]など神秘的な場所で先史時代のアーリア人古代文明の存在を探そうとした。古城の廃墟にスパイを送り、キリストの[[聖杯]]を探させたこともあった<ref name="クノップ(2003)110">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.110]]</ref>。 |
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東方から攻めよせた[[フン族]]の突撃を防いだ砦といわれる古城ヴェーヴェルスブルク城([[:en:Wewelsburg|Wewelsburg]])にヒムラーは興味を引かれ、1934年7月に彼はこの城を手に入れた。1500年の時を超えて東方から攻めよせようとするソ連からヨーロッパを守る城であると現在と過去を生きる男ヒムラーは期待していた。早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。第二次世界大戦のドイツの敗戦までにこの城に彼がつぎ込んだ資金は1300万[[ライヒスマルク]]にも及ぶ{{#tag:ref|1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという<ref> |
東方から攻めよせた[[フン族]]の突撃を防いだ砦といわれる古城ヴェーヴェルスブルク城([[:en:Wewelsburg|Wewelsburg]])にヒムラーは興味を引かれ、1934年7月に彼はこの城を手に入れた。1500年の時を超えて東方から攻めよせようとするソ連からヨーロッパを守る城であると、現在と過去を生きる男ヒムラーは期待していた。早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。第二次世界大戦のドイツの敗戦までにこの城に彼がつぎ込んだ資金は1300万[[ライヒスマルク]]にも及ぶ{{#tag:ref|[[読売新聞]]2004年12月18日夕刊によると1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという<ref name="山下(2010)627">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.627]]</ref>。したがって1300万ライヒスマルクとは273億ほどであろうか。|group=#}}。大食堂にはオーク製の巨大テーブルが置かれ、この城の「騎士」と認められた親衛隊幹部のネーム入りの椅子が並んでいた。ここでヒムラーや親衛隊幹部達は数時間も瞑想にふけっていた。地下室には石造りの台が12台置かれていて、親衛隊大将が死亡した際には遺骨がここに安置された。親衛隊名誉リングは、持主が親衛隊を離れるか死亡した場合にはヒムラーの手元に返され、ヴェーヴェルスブルク城に永久に保存されることとなっていた。他にも1万2000冊に及ぶ図書室、応接間、ヒムラーの客室、SS最高法廷もこの城に設置された。ヒトラーのヴェーヴェルスブルク城来訪を心待ちにしていた彼は、ヒトラーの部屋も作らせていたが、結局ヒトラーがヴェーヴェルスブルク城を訪れることはなかった<ref name="SSの歴史フジ158">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)158ページ</ref><ref name="ナチス親衛隊116">『ヒトラーの親衛隊』116ページ</ref>。 |
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またヒムラーはスラブ民族の征服者であるザクセン王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]を深く尊敬していた。スラブ民族(=現在のソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には必ず[[クヴェトリンブルク]]大聖堂の墓を詣でた。冷え切った真夜中の納骨堂でヒムラーは毎年敬虔にひざまづいていた。[[フェリックス・ケルステン]]によるとヒムラーは |
またヒムラーは、スラブ民族の征服者であるザクセン王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]を深く尊敬していた。スラブ民族(=現在のソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には必ず[[クヴェトリンブルク]]大聖堂の墓を詣でた。冷え切った真夜中の納骨堂でヒムラーは毎年敬虔にひざまづいていた。[[フェリックス・ケルステン]]によると、ヒムラーは7月2日の夜12時から瞑想を行い、ハインリヒ1世との霊的交信を始めたという。半睡状態のヒムラーが「ハインリヒ王の霊が重大なお告げを持って現れる」と述べ、続いて「このたびの王のおぼしめしは…」とお告げを語るのが恒例であった。ついには自身がハインリヒ1世の化身と信じるまでになったという<ref name="SSの歴史フジ160">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)160ページ</ref>。 |
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ヒムラーは |
ヒムラーは熱心なカトリックの家に生まれ、本人も若かりし頃は熱心なカトリックであったが、ナチ党の党活動をする内に徐々にキリスト教とは距離を置くようになっていた。そのため、親衛隊の隊員たちもキリスト教から切り離し、彼の異教的な思想に取り込むことをはかるようになった。婚姻内部規則で親衛隊隊員の結婚式はキリスト教会で行なうことを禁止した。またクリスマスを祝う習慣をやめさせるため、[[冬至祭]]を親衛隊の祭典とした。キリスト教ではなくSSを通じて神を信ずる者を彼は求めていたが、結局隊員達をキリスト教から切り離すことはできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されるなどしていった。一般SSの三分の二は相変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装SSや[[親衛隊髑髏部隊|髑髏部隊]]では比較的多く、武装SSの53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属していた。武装親衛隊の将軍の中には[[ヴィルヘルム・ビットリッヒ]]SS大将のように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた<ref name="SSの歴史フジ162">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)162ページ</ref>。 |
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== 語録と言及 == |
== 語録と言及 == |
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== 注釈 == |
== 注釈 == |
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{{Reflist|group=#|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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'''日本語文献''' |
'''日本語文献''' |
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*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]著|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部}} |
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*ヨッヘン・フォン・ラング編、小俣和一郎訳『アイヒマン調書 <small>イスラエル警察尋問録音記録</small>』([[岩波書店]])ISBN 978-4000220507 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])|translator=[[滝川義人]]|year=[[2002年]]|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[大野英二]]著|year=2001|title=ナチ親衛隊知識人の肖像|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624111823|ref=大野}} |
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*『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』([[学研ホールディングス|学研]])ISBN 978-4056026429 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・キーガン]]著|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス35|asin=B000J9H4WO|ref=キーガン}} |
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*谷喬夫『ヒトラーとヒムラー <small>氷のユートピア</small>』講談社選書メチエ ISBN 4062581760 |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン著|translator=芳地昌三|year=1985|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>(上記文庫版)|publisher=[[サンケイ出版]]|series=第二次世界大戦文庫24|isbn=978-4383024280|ref=キーガン文庫}} |
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*ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 <small>髑髏の結社</small>』森亮一(訳)、フジ出版社、1981年、ISBN 4-89226-050-9 |
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*{{Cite book|和書|author=[[グイド・クノップ]]([[:de:Guido Knopp|de]])|de]]|translator=[[高木玲]]|year=[[2001年]]|title=ヒトラーの共犯者 <small>12人の側近たち</small> 上|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562034178|ref=クノップ(2001)上}} |
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**ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 上』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594937 |
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*{{Cite book|和書|author=グイド・クノップ|translator=高木玲|year=2003年|title=ヒトラーの親衛隊|publisher=原書房|isbn=978-4562036776|ref=クノップ(2003)}} |
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**ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 下』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594944 |
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*{{Cite book|和書|author=[[エドゥアルト・クランクショウ]]([[:en:Edward Crankshaw|en]])著|translator=[[渡辺修]]|year=[[1973年]]|title=秘密警察―ヒトラー帝国の兇手|publisher=[[図書出版社]]|ref=クランク}} |
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*ジャック・ドラリュ著、片岡啓治訳『ゲシュタポ・狂気の歴史』(講談社学術文庫)ISBN 978-4061594333 |
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*{{Cite book|和書|author=[[栗原優]]著|year=1997|title=ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027019|ref=栗原}} |
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*芝健介著『武装SS ナチスもう一つの暴力装置』([[講談社選書メチエ]])ISBN 978-4062580397 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ゲリー・S・グレーバー]]([[:en:Gerry S. Graber|en]])|translator=[[滝川義人]] |year=[[2000年]]|title=ナチス親衛隊|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887214132|ref=グレーバー}} |
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*レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 上』([[河出書房新社]])ISBN 978-4309224404 |
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*{{Cite book|和書|author=[[オイゲン・コーゴン]]著|translator=[[林功三]]|year=2001|title=SS国家 <small>ドイツ強制収容所のシステム</small>|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4623033201|ref=コーゴン}} |
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*レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 下』(河出書房新社)ISBN 978-4309224411 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・シェレンベルク]]|translator=[[大久保和郎]]|year=[[1960年]]|title=秘密機関長の手記|publisher=[[角川書店]]|asin=B000JAPW2M|ref=シェレンベルク}} |
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*リチャード・オウヴァリー著、秀岡尚子訳『ヒトラーと第三帝国』([[河出書房新社]])ISBN 978-4309611853 |
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*{{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|year=[[1995年]]|title=武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062580397|ref=芝}} |
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*マイケル・ベーレンバウム著、芝健介訳『ホロコースト全史』([[創元社]])ISBN 978-4422300320 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジョージ・H・スティン]]([[:en:George H. Stein|en]])|translator=[[吉本貴美子]]|others=[[吉本隆昭]]監修|year=[[2001年]]|title=詳解 武装SS興亡史 <small>ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45</small>|publisher=[[学研]]|series=WW selection|isbn=978-4054013186|ref=スティン}} |
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*ロビン・ラムスデン著、知野龍太観訳『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』(原書房)ISBN 978-4562029297 |
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*{{Cite book|和書|author=[[高橋三郎]]著|year=2000|title=強制収容所における「生」|publisher=[[世界思想社]](新装版)|isbn=978-4790708285|ref=高橋}} |
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*グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの共犯者 上』([[原書房]])ISBN 978-4562034178 |
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*{{Cite book|和書|author=[[谷喬夫]]著|year=2000|title=ヒトラーとヒムラー <small>氷のユートピア</small>|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062581769|ref=谷}} |
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*グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの親衛隊』(原書房)ISBN 978-4562036776 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジェームス・テーラー]]([[:en:James Taylor|en]])、[[ウォーレン・ショー]]([[:en:Warren Shaw|en]])|translator=[[吉田八岑]]|year=[[1993年]] |
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*ルパート・バトラー著、田口未和訳『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)ISBN 978-4562039760 |
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|title=ナチス第三帝国事典|publisher=[[三交社]]|isbn=978-4879191144|ref=テーラー}} |
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*栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>』、[[1997年]]、[[ミネルヴァ書房]]、ISBN 978-4623027019 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジャック・ドラリュ]]([[:fr:Jacques Delarue |fr]])著|translator=[[片岡啓治]]|year=1968|title=ゲシュタポ・狂気の歴史―ナチスにおける人間の研究|publisher=[[サイマル出版会]]|asin=B000JA4KQQ|ref=ドラリュ}} |
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*阿部良男著『ヒトラー全記録』([[柏書房]])ISBN 978-4760120581 |
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**{{Cite book|和書|author=ジャック・ドラリュ著|translator=片岡啓治|year=2000|title=ゲシュタポ・狂気の歴史|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594333|ref=ドラリュ文庫}} |
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*森瀬繚、司史生著『図解第三帝国』([[新紀元社]])ISBN 978-4775305515 |
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*{{Cite book|和書|author=[[長谷川公昭]]著|year=1996|title=ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794207401|ref=長谷川}} |
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*山下栄一郎著『ナチ・ドイツ軍装読本 警察とナチ党の組織と制服』([[彩流社]])ISBN 978-4779112126 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ルパート・バトラー]]([[:de:Rupert Butler|de]])著|translator=[[田口未和]]|year=2006|title=ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ;恐怖と狂気の物語|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562039760|ref=バトラー}} |
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*長谷川公昭著『ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>』([[草思社]])ISBN 978-4794207401 |
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*{{Cite book|和書|author=[[桧山良昭]]|year=[[1976年]]|title=ナチス突撃隊|publisher=[[白金書房]]|asin=B000J9F2ZA|ref=桧山}} |
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*ゲリー・S・グレーバー著、滝川義人訳『ナチス親衛隊』([[東洋書林]])ISBN 978-4887214132 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ラウル・ヒルバーグ]]著|translator=[[望田幸男]]・[[原田一美]]・[[井上茂子]]|year=1997|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760115167|ref=ヒルバーグ上}} |
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*[[ヴァルター・シェレンベルク]]著、[[大久保和郎]]訳『秘密機関長の手記』([[角川書店]])1960年 |
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*{{Cite book|和書|author=ラウル・ヒルバーグ著|translator=望田幸男・原田一美・井上茂子|year=1997|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻|publisher=柏書房|isbn=978-4760115174|ref=ヒルバーグ下}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ハインツ・ヘーネ]]著|translator=[[森亮一]]|year=1981|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small>|publisher=[[フジ出版社]]|isbn=978-4892260506|ref=ヘーネ}} |
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**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 上|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594937|ref=ヘーネ文庫上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 下|publisher=講談社学術文庫|isbn=978-4061594944|ref=ヘーネ文庫下}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[マイケル・ベーレンバウム]]著|translator=[[芝健介]]|year=1996|title=ホロコースト全史|publisher=[[創元社]]|isbn=978-4422300320|ref=ベーレンバウム}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[松永祝一]]|year=[[2005年]]|title=ハインリッヒ・ヒムラー|publisher=[[文芸社]]|isbn=978-4286005461|ref=松永}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[森瀬繚]]、[[司史生]]|year=[[2008年]]|title=図解第三帝国|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4775305515|ref=森瀬}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[山下英一郎]]|year=1997年|title=SSガイドブック|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4883172986|ref=山下(1997)}} |
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*{{Cite book|和書|author=山下英一郎|year=[[2006年]]|title=ナチ・ドイツ軍装読本 <small>SS・警察・ナチ党の組織と制服</small>|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779112126|ref=山下(2006)}} |
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*{{Cite book|和書|author=山下英一郎|year=[[2010年]]|title=制服の帝国 <small>ナチスSSの組織と軍装</small>|publisher=彩流社|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ロビン・ラムスデン]]([[:en:Robin Lumsden|en]])|translator=[[知野龍太]]|year=[[1997年]]|title=ナチス親衛隊軍装ハンドブック|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562029297|ref=ラムスデン}} |
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*{{Cite book|和書|editor=[[ヨッヘン・フォン・ラング]]編|translator=[[小俣和一郎]]|year=[[1960年]]|title=アイヒマン調書 <small>イスラエル警察尋問録音記録</small>|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000220507|ref=ラング}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[マルセル・リュビー]]著|translator=[[菅野賢治]]|year=1998|title=ナチ強制・絶滅収容所 <small>18施設内の生と死</small>|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480857507|ref=リュビー}} |
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*{{Cite book|和書|year=[[2001年]]|title=武装SS全史I|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研1}} |
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*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研2}} |
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'''英語文献''' |
'''英語文献''' |
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*{{Cite book|author=Katrin Himmler|translator=Michael Mitchell|year=2008|title=The Himmler Brothers -A German Family History-(ペーパーバック)|publisher=Pan Macmillan|isbn= 978-0330448147|ref=Katrin}} |
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*Roger Manvell,Heinrich Fraenkel著『HEINRICH HIMMLER The Sinister Life of the Head of the SS and Gestapo』(ペーパーバック) ISBN 978-1602391789 |
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*{{Cite book|author=Roger Manvell,Heinrich Fraenkel|year=2007|title=HEINRICH HIMMLER The Sinister Life of the Head of the SS and Gestapo([[ペーパーバック]])|publisher=Skyhorse Publishing|language=[[英語]]|isbn=978-1602391789|ref=Manvell}} |
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*Katrin Himmler著、Michael Mitchell訳『The Himmler Brothers <small>A German Family History</small>』(ペーパーバック) ISBN 978-0330448147 |
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*{{Cite book|author=Mark C. Yerger|year=2002|title=Allgemeine-SS|publisher=Schiffer Pub Ltd|language=[[英語]]|isbn=978-0764301452|ref=Yerger}} |
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=== 出典 === |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.lohengrin-verlag.de/Artikel/Himmler.htm Heinrich Himmler und die Schwarze Sonne] |
* [http://www.lohengrin-verlag.de/Artikel/Himmler.htm Heinrich Himmler und die Schwarze Sonne] |
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{{Start box}} |
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{{先代次代|[[親衛隊全国指導者]]|1929 - 1945|[[エアハルト・ハイデン]]|[[カール・ハンケ]]}} |
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{{S-ppo}} |
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{{先代次代|[[国家保安本部|国家保安本部長官]]|1942 - 1943|[[ラインハルト・ハイドリヒ]]|[[エルンスト・カルテンブルンナー]]}} |
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{{先代次代|[[内務大臣]]|1943 - 1945|[[ヴィルヘルム・フリック]]|[[ヴィルヘルム・シュトゥッカート]]}} |
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}} |
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{{Succession box |
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}} |
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{{S-off}} |
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{{Succession box |
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| title = 全ドイツ警察長官 |
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}} |
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{{Succession box |
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| title = [[内務大臣]] |
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}} |
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{{S-mil}} |
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{{Succession box |
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}} |
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{{Succession box |
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}} |
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{{Succession box |
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| title = [[ヴァイクセル軍集団]]司令官 |
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| years = [[1945年]][[1月25日]] - [[1945年]][[3月12日]] |
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{{End box}} |
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{{ |
{{Good article}} |
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{{Link FA|it}} |
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{{DEFAULTSORT:ひむらあ はいんりひ}} |
{{DEFAULTSORT:ひむらあ はいんりひ}} |
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[[Category:ミュンヘン出身の人物]] |
[[Category:ミュンヘン出身の人物]] |
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[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]] |
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[[Category:第一次世界大戦後ドイツ義勇軍]] |
[[Category:第一次世界大戦後ドイツ義勇軍]] |
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[[Category:ナチ党 |
[[Category:ナチ党員]] |
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[[Category:突撃隊隊員]] |
[[Category:突撃隊隊員]] |
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[[Category:親衛隊将軍]] |
[[Category:親衛隊将軍]] |
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[[Category:ドイツ第三帝国期の政治家]] |
[[Category:ドイツ第三帝国期の政治家]] |
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[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]<!--ヴァイクセル軍集団司令官なので--> |
[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]<!--ヴァイクセル軍集団司令官なので--> |
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[[Category:ドイツの反共主義者]] |
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[[Category:ホロコースト]] |
[[Category:ホロコースト]] |
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[[Category:神秘思想家]] |
[[Category:神秘思想家]] |
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[[Category:自殺した人物]] |
[[Category:自殺した人物]] |
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{{Link FA|it}} |
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[[ar:هاينريك هملر]] |
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[[az:Henrix Himmler]] |
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[[gl:Heinrich Himmler]] |
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[[he:היינריך הימלר]] |
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[[hr:Heinrich Himmler]] |
[[hr:Heinrich Himmler]] |
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2010年12月21日 (火) 06:48時点における版
ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Himmler | |
---|---|
1942年のヒムラー | |
生年月日 | 1900年10月7日 |
出生地 |
ドイツ帝国 バイエルン王国、ミュンヘン |
没年月日 | 1945年5月23日(44歳没) |
死没地 |
ドイツ国 プロイセン州 ハノーファー県リューネブルク |
出身校 | ミュンヘン工科大学 |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
称号 |
1923年11月9日記念メダル[1] 黄金ナチ党員バッジ ダイヤモンド付パイロット兼観測員章金章(de)[# 1] ドイツ鷲勲章(de) |
配偶者 | マルガレーテ・ヒムラ-(旧姓ボーデン) |
サイン | |
在任期間 | 1929年1月6日 - 1945年4月28日 |
選挙区 |
オーバーバイエルン テューリンゲン |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1930年9月14日 - 1945年4月28日 |
在任期間 | 1936年6月17日 - 1945年4月28日 |
内閣 | ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1943年8月24日 - 1945年4月28日 |
国内予備軍司令官 | |
在任期間 | 1944年7月20日 - 1945年4月28日 |
その他の職歴 | |
ドイツ民族性強化国家委員 (1939年10月7日 - 1945年4月28日) | |
国家保安本部長官 (1942年6月4日 - 1943年1月31日) |
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 発音 ,1900年10月7日 - 1945年5月23日)はドイツの政治家。
1929年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第4代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。ナチ党の政権掌握後には全ドイツ警察長官、ヒトラー内閣内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握した。ゲシュタポや強制収容所(KZ)も彼の指揮下に置かれていた。第二次世界大戦時にはドイツが占領したヨーロッパの広範な地域に彼の警察権力が及ぶこととなった。ゲルマン民族を支配民族(de)と考え、他民族を蔑視した。とりわけユダヤ人を強く憎悪し、大戦中にはヨーロッパのユダヤ人やロマなど「生きるに値しない命」に対して大量虐殺(ホロコースト)を組織的に実行した。ソ連人やポーランド人、チェコ人などのスラブ民族に対しても軽蔑心を隠さず、冷酷な態度で支配に臨んだ。またゲルマン民族であっても反体制派や「民族の血を汚す者」は厳しく取り扱った。大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、戦果はあげられなかった。大戦末期にはドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗。これを知ったアドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後、イギリス軍の捕虜となり、自殺した。
経歴
生い立ち
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国の首都ミュンヘンのヒルデガルト通り(Hildegardstraße)二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた[1][4][5][6]。
父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー(Joseph Gebhard Himmler)は、税関職員の非嫡出子として生まれ、貧しくも苦学して名門のルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンを卒業しギムナジウムの教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室のハインリヒ王子の家庭教師を務めていた[7][5][4]。母アンナ・マリア・ヒムラー(Anna Maria Himmler)(旧姓ハイダー(Heyder))は、裕福な貿易商人の娘で、1897年にゲープハルトと結婚していた[8]。
ヒムラーが生まれる二年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルートヴィヒ(Gebhard Ludwig)を儲けている[9]。さらに1905年12月23日には三男エルンスト・ヘルマン(Ernst Hermann)が生まれている[6]。
ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」もバイエルン王族から名付けた名前であった[6]。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの代父となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものだった[10]。当時、王室の人間から名前をもらうことは大変な愛顧であり、名誉なことであった[5][4]。こうした王室との関わりとカトリックへの厚い信仰心によってヒムラー家は大変に保守的な家風であり、ハインリヒもカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。ただし父ゲプハルトは反ユダヤ主義者ではなかった[4]。ヒムラー家は金持ちとまではいえないが、かなり安定した中産階級の家庭であった[4]。戦後、多くの歴史学者が幼少期・青年期のヒムラーに「異常性」や「犯罪性」を見つけ出そうと試みたが、それらしいものは見つけられなかった。ロジャー・マンベルが当時のバイエルンという地域環境にヒムラーの精神性を求めているぐらいである[11]。
父ゲプハルトの遺したメモによるとヒムラーは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れは取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという[4]。1910年9月にミュンヘンの名門ギムナジウムのヴィルヘルム・ギムナジウム(de)に入学した[12]。同ギムナジウムの担任教師から「たいそうな才能に恵まれた生徒で、たゆまぬ勤勉さと燃えるような向上心と極めて熱心な授業態度によって、クラスで最優秀の成績を収めた」と称賛された[13][14]。このギムナジウムでの同級生に後にアメリカ合衆国に移住してアメリカ国民となり、歴史学者となったジョージ・ハルガーテン(en)がいた[14][# 2]。ハルガーテンはこの頃のヒムラーについて「考えられる限りで最も優しい子羊だった。虫一匹殺せないような少年だった」と証言している[13]。1913年に父ゲプハルトがミュンヘン北東のランツフートのハンス・カロッサ・ギムナウジム(de)の共同校長に任じられたため、ヒムラー一家はランツフートへ移住した[16]。ヒムラーも父が校長を務めるギムナジウムへ入学している。彼は歴史学、古典学、宗教学で最優秀の成績をとり[17]、他の主要科目も優秀な成績であったが、体育だけは苦手だったという[18]。第一次世界大戦をはさんで1919年7月に同校を卒業した。卒業証書には「常に品行方正で、性格は几帳面な勤勉さを持っていた」と記された[17]。
第一次世界大戦中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr)の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった[19]。さらに1915年7月29日、17歳になった兄ゲプハルトが予備軍(Landsturm)に入隊し、1918年4月に西部戦線へ送られた[20]。
ヒムラーも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまず彼がギムナジウムを卒業することを希望していたが、熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使って息子の入隊の可能性を探った。ヒムラーは始め海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず[# 3]、1917年末にバイエルン王国の第11歩兵連隊「フォン・デア・タン」に入隊した[21][22]。レーゲンスブルクで6カ月の歩兵訓練を受けた後、1918年6月15日から9月15日までフライジンクで士官候補生としてのコースを修め、9月15日から10月1日までバイロイトのバイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた[23][24][22]。
しかしヒムラーが前線へ配属される前に1918年11月初めにドイツ革命が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、彼が実戦経験を持つことはなかった[# 4]。
なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で塹壕戦を経験し、兵長まで昇進して一級鉄十字章と二級鉄十字章を受章している[26]。また代父ハインリヒ王子は大戦中に戦死した。ハインリヒ王子の遺産のうち1000ライヒスマルクの戦時国債がヒムラーに遺贈された[4]。
第一次世界大戦後
第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしヒムラーはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には反革命義勇軍(フライコール)の一部隊であるラウターバッハ義勇軍(Freikorps Lauterbach)に加わって社会主義者が立ち上げたミュンヘン・レーテ共和国の打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ヒムラーの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでも彼は後方支援の任務に留まっている[22]。
その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトは息子に農場で働くことを求めた[22]。ヒムラーは父の求めに応じてミュンヘン北方インゴルシュタットの農場で働いていたが、まもなくチフスに罹病し寝込み、医者から1年間療養してその間は大学で農学を勉強するよう薦められた。1919年10月18日、ヒムラーはミュンヘン工科大学に入学して農学を学ぶこととなった[27]。1919年11月9日、彼は大学内のある学生倶楽部に入会した。決闘で顔に傷を入れてもらいたいと願っていたためだった。当時のドイツの大学では男が決闘をして顔に傷を付けることは大きなステータスであったが[28][# 5]、ヒムラーは胃弱でビールを飲むことが出来なかったため、「決闘に参加する資格なし」と認定されてしまった[17]。焦ったヒムラーは直ちに医者から胃腸過敏症の証明書をもらい、ようやく決闘への参加が認められた[17]。しかし誰も弱々しい彼を決闘相手として認めてくれなかった。ヒムラーがようやく決闘して顔に傷を入れることができたのは、卒業間近の1922年6月22日のことであった[28]。
しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことが彼自身の日記から窺える[# 6]。1919年には盲目の人物の家に何度も通って本を読み聞かせ[28]、1921年には貧しい老女の所へ通って食料などをそっと置いていった[# 7]。友人が病気になるとこまめに見舞いにいって、本人や家族に代わってお使いをした[30]。ウィーンの恵まれない子供のための慈善芝居にも出演している[30]。
またヒムラーの日記から、1921年頃から彼が外国への移住を計画していたことが分かる[# 8]。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年にソ連大使館にウクライナに移住できないかを問い合わせている[31]。
1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった[31]。卒業後すぐにオーバーシュライシュハイム(Oberschleißheim)で農薬や肥料を扱う会社の研究員となる[31]。しかし1923年8月末にはヒムラーはオーバーシュライシュハイムでの仕事を退職して、ミュンヘンに戻り、政治活動に専念するようになる[17][32]。
政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、バイエルン人民党に入党している(1923年に離党)[17]。1920年5月、ミュンヘン市民自衛軍に入隊し、ヴァイマル共和国第21ライフル連隊からライフルと鉄兜を受け取った[27]。第21ライフル連隊はエルンスト・レームが兵器担当将校を務めていた[33]。大学卒業に際して、ヒムラーはレームの組織した准軍事組織「帝国戦闘旗団」(de)に入団した[32][33]。1923年、国粋主義団体「アルタマーネン」(de)に入団している[17]。ここでリヒャルト・ヴァルター・ダレの独特な農本主義「血と大地」思想(de)に影響された。ヒムラーは、親衛隊全国指導者となったのちにダレを親衛隊に招き入れている[34]。ヒムラーは自作農民中心社会を夢見ていた。農地の豊かな東方にドイツ農民を植民させることによって農家の二男・三男が都市へ出る必要がなくなり、またドイツ政府に対して農民が決定的な影響力を持つようになると確信していた。1924年の彼のメモは「都市生活者を農民にけしかけている国際ユダヤ民族は最も邪悪な農民の敵」とし、また「600年来、ドイツ農民は世襲財産を守り、拡大するためにスラブ民族と戦うよう運命づけられてきた」としている。ヒムラーの「国際ユダヤ民族」と「スラブ劣等民族」への憎しみは農本主義の産物だった[35]。
ナチ党黎明期の活動
1923年8月、党員番号14303で国家社会主義ドイツ労働者党に入党したが、ヒムラーはあくまで帝国戦闘旗団のメンバーとしてレームに従った。ミュンヘン一揆の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国戦闘旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている[36][37]。
ヒムラーがいつヒトラーと初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかし彼がヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである[38]。
当時のヒムラーはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかし彼の尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、彼の失望は深かった[39]。
党の活動が禁止された間、ヒムラーはエーリヒ・ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グラーフェ(de)、グレゴール・シュトラッサーが指導するナチ党偽装政党国家社会主義自由運動(NSFB)に入党した[39][40][41]。ヒムラーはナチス左派で知られたグレゴール・シュトラッサーの下で120ライヒスマルクの給料で働くこととなった。シュトラッサーは1924年5月と12月の国会議員選挙に出馬することとなり、ヒムラーはニーダーバイエルン(Niederbayern)の宣伝担当に任命された。これが彼の最初の大抜擢となった[42]。オートバイに乗って走り回る彼の姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している[43]。シュトラッサーはヒムラーについて「彼(ヒムラー)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=ベルリン)へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている[44]。
1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されるとシュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年にシュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者となるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった[39]。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーよりヨーゼフ・ゲッベルスの方を高く買っていたという[45]。
1925年8月8日に親衛隊(SS)に入隊(隊員番号168)。1927年には第3代親衛隊全国指導者エアハルト・ハイデンの代理に任じられた。ハイデンは突撃隊最高指導者フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンと対立を深めて1929年1月6日に辞職することとなった[46][47]。ヒムラーはハイデンの後任として、同日第4代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった[46][48]。
1928年7月3日にはリッペ自由州(Freistaat Lippe)ブロンベルク(Blomberg)の地主の娘で看護婦のマルガレーテ・ボーデンと結婚しているが、党からヒムラーに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ[49][50][51]。しかし経営不振で後に倒産した。1929年8月8日に長女グドルーンが生まれたが[52]、その直後にヒムラー夫妻は別居状態と化した[53][54][55]。
親衛隊全国指導者
ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1000人[47][56]、1930年12月には2700人[47][56]、1932年4月には2万5000人[57]、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。 これは1929年10月24日のニューヨーク・ウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した[58]。親衛隊より多くこの人材源を吸収した突撃隊には、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く者が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた[47][59]。親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに1930年8月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス(de)が党指導部に対して反乱を起こした[60]。こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的には突撃隊の下部組織であった)[61]。
ヒムラーは党内警察としての任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。1931年6月に親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校ラインハルト・ハイドリヒに彼は目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌1932年7月に同課をSDに改組した。長官にハイドリヒを任命した[62][63]。
1931年4月初めのヴァルター・シュテンネスの再反乱ではベルリン大管区親衛隊指導者クルト・ダリューゲが鎮圧に活躍している。この功績で親衛隊はヒトラーから高く評価されるようになり、党内警察として突撃隊からの独立性を強めた[57]。
『血と大地』イデオロギーを確立したダレは「歴史に現れる偉大な帝国や文化はほとんど北方人種により作られた。これらの帝国や文化が滅びたのは北方人種の純血が守れなかったからである」と説いていた。こうした思想に強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった[64]。人種の基準を立てることで親衛隊をエリート集団とし、数で勝る突撃隊を抑え込むことを目指した[45]。1931年12月31日の命令で「SSは特別に選抜されたドイツ的北方人種の集団である」と定義し、ダレを長官とする親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を新設させ、親衛隊員たちに対してRuSHAの調査と許可を経ずに結婚することを禁じた[65]。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された。また婚姻が許可された親衛隊員は子供を持つことが義務として定められており、子供のない親衛隊員は給料の一部を受給できなかった。「ゲルマン人種を純粋培養するつもりだ」とヒムラーはことあるごとにスピーチするようになった[66]。ヒムラーは後に植物と絡めて次のように語った。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」[58][67]。
1932年1月25日にはヒムラーは党本部建物である褐色の家(de)の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた[68][69]。
1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために親衛隊の制服を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた[57]。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の近衛軽騎兵(de)である[70]。
ナチ党の権力掌握後
政治警察を掌握
ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命されて政権を掌握した1933年1月30日、多くの党幹部が中央政府や各州の要職に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった[71]。ヒムラーが自分をあまり強く推さなかったのが原因であるという[72]。
プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングは2月22日に1万5000人のSS隊員をプロイセン州補助警察として動員した[73]。しかしこの補助警察の指揮権はクルト・ダリューゲが握っていた[73]。3月9日、ヒムラーは、ハインリヒ・ヘルト首相のバイエルン州政府の解体に参加したが、この解体も主導的役割はフランツ・フォン・エップが果たし、ヒムラーの役割は副次的だった。ヒトラーが新しいバイエルンの統治者「バイエルン州総監」に選んだのもエップだった。ヒムラーは自分がそのポストに任命されると期待していたが[72]、結局彼にはミュンヘン警察長官(Polizeipräsidenten von München)のポストが与えられるに留まった[71][74]。しかし彼は不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。彼はハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と「保護拘禁」(de)させた[75]。
「保護拘禁」した者を収容する施設としてミュンヘン郊外のダッハウにダッハウ強制収容所を設置させ、1933年3月20日にヒムラーが記者会見で同収容所の開設を発表した[76]。同収容所は開設当初から親衛隊が単独で運営していた。1933年4月1日にはバイエルン州政治警察司令官(Politischer Polizeikommandeur in Bayern)に任命された[77]。
ヒトラー内閣内相ヴィルヘルム・フリックによる強制的同一化政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までにプロイセン州とシャウムブルク=リッペ州(de)を除く各州の政治警察はヒムラーに任せられることとなった[78][79][80]。
一方プロイセン州は首都ベルリンを含んでドイツ国土の半分以上を占めた巨大州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとしなかった。ヒムラーやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察ゲシュタポやその局長ルドルフ・ディールスの無法行為を讒言するなどして[81]、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。
ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長 (Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt) の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し[82]、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官 (Chef der Geheimen Staatspolizeiamt)の座に留任したが既に形式的な存在であり、実質的なゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されていた[83][84][85]。
長いナイフの夜
一方ヒムラーがゲシュタポを掌握した頃、エルンスト・レーム率いる突撃隊は貴族やユンカーが牛耳る国軍に取って替わる第二革命を唱え、国軍との緊張を高めていた。国軍との連携を重視するヒトラーにとって厄介な存在となりつつあった。とはいえ長年の同志であるレームが相手であるだけにヒトラーの突撃隊問題に関する立場は曖昧であった。1934年2月28日にはレームと国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクに国軍がドイツ唯一の国防兵力であり、突撃隊は訓練など国軍の補助にあたることで合意させて和解させようとした[86]。しかし突撃隊には不満が残り、レームは反ヒトラー言動を強めた[86]。
ハイドリヒは親衛隊の勢力拡大の蓋になっている突撃隊を粛清するチャンスが来たと見て、レーム一派の抹殺計画を企てた[87]。しかしヒムラーにとってレームはかつて最も尊敬した人物であり、恩人でもあった。またその計画を実行に移せば突撃隊と親衛隊に修復不可能な溝ができるため、しばらくは悩んでいた[87][88]。しかし結局ハイドリヒに説き伏せられてヒムラーもついにレームら突撃隊幹部を粛清することを企図するようになった。ヒムラーも一度決意したのちはためらったり、手心を加えることはなかった[87][88]。
ヒムラーとハイドリヒは、同じく突撃隊の粛清を企図するゲーリングと連携した。突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った[89][90]。更にハイドリヒに暗殺対象者リストの作成にあたらせた[91]。
そして1934年6月はじめ頃から偽造された証拠がばら撒かれて突撃隊「武装蜂起」の噂が流された。この噂を重く受け止めた大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクと国防相ブロンベルクは、1934年6月21日に首相ヒトラーに対し、もし突撃隊問題が解決できないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。この通告によりヒトラーは粛清を実行するしかなくなった。またこの頃すでにヒンデンブルクの死が近いことは明らかだった。ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは軍に忠誠を誓わせねばならず、そのためには軍が望むレーム以下突撃隊幹部の粛清が必要だった。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという[92][93]。
こうして1934年6月30日に行われた粛清事件「長いナイフの夜」において親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた[94][95]。
全ドイツ警察長官
内相ヴィルヘルム・フリックはヒムラーを嫌い、クルト・ダリューゲを警察指導者にしたがっていた。そのため1934年11月にはダリューゲがドイツ内務省第三局(Abteilung III)(警察局)の局長に任じられた[96]。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた[97]。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた[98]。
そして1936年6月17日、ヒムラーは全ドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)に任じられた[99][100][101]。彼はこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として秩序警察を発足させ、親衛隊大将ダリューゲを長官に任じた[102]。一方政治警察のゲシュタポと刑事警察は保安警察として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた[102]。
さらに1937年11月13日には「親衛隊及び警察高級指導者」(Höhere SS und Polizeiführer、略称HSSPF)の職を新設してドイツの各地域に配置した。この職はヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位をその地域において代行する者であった[103]。
1939年9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安警察を統合させて、国家保安本部(RSHA)を親衛隊内に設置させた[104]。
強制収容所掌握
「長いナイフの夜」の後、すべての強制収容所は親衛隊の管轄となり、ヒムラーは、ダッハウ強制収容所の所長だったテオドール・アイケを全強制収容所監督官、親衛隊髑髏部隊(強制収容所看守部隊)総監に任命した[105]。
突撃隊やゲーリングが創設した強制収容所はほとんどが閉鎖されていった[106]。代わりに1936年9月にザクセンハウゼン強制収容所[106]、1937年7月末にブーヘンヴァルト強制収容所[107]、1938年8月にマウトハウゼン強制収容所、1938年11月にフロッセンビュルク強制収容所、1939年5月にラーフェンスブリュック強制収容所が創設された[108]。
ヒムラーが全ドイツ警察長官になると保護拘禁の範囲が拡大された。もともとは政治犯のみが保護拘禁の対象だったが、「常習的犯罪者」と「反社会分子」も保護拘禁されて強制収容所へ入れられるようになった[109]。なお戦前期には人種だけを理由として強制収容所に入れられるケースは基本的にはなかった。ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで強制収容所に入れられるようになったのは戦中のことである[110]。ただし例外として1938年11月の「水晶の夜」事件で逮捕されたユダヤ人3万人は強制収容所に移送されている(水晶の夜の際に逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間にして釈放されている)[111][112]。
企業経営
ヒトラー内閣発足以降、親衛隊はノルトラント出版社、ドイツ土石製造有限会社(DEST)、ドイツ装備製造有限会社(DAW)など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校だったオズヴァルト・ポールを親衛隊本部の経済部門の部長に任じて、彼にこれらの企業の経営を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位もポールの下に置かれていた。ヒムラーは親衛隊企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社は彼が経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた[113]。
工作活動
こうした警察権力掌握の過程の中で、親衛隊は国内外の様々な政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的だった陸軍元帥ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防大臣と陸軍上級大将ヴェルナー・フォン・フリッチュ陸軍総司令官をスキャンダルで失脚させたり、海外でもソヴィエト連邦陸軍元帥ミハイル・トゥハチェフスキーを初めとする赤軍首脳部が粛清されるよう謀略工作を行った。またオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースの暗殺にも関与し、オーストリア・ナチス党によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。
親衛隊の軍隊化
1933年3月17日にヒムラーはヒトラーをボディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭117名を選抜して「SS司令部衛兵班、ベルリン」(SS-Stabswache Berlin)を創設させた。指揮官にはヨーゼフ・ディートリヒを任じた[114]。この部隊は後に「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」(Leibstandarte SS Adolf Hitler、略号:LAH、LSSAH)の名を与えられ、戦時中には武装親衛隊(Waffen-SS)の最精鋭師団となる[114][115][116]。しかしディートリヒはこの部隊をヒトラーだけに責任を負い、ヒムラーから独立した存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってヒムラーとディートリヒの間で争いがあった[117]。
これに触発されたヒムラーは、SSの軍隊を欲しがるようになり、司令部衛兵班創設と同じ時期に自動車化された機動力を持ち、警察より強力な火力を備えた「政治予備隊」(Politische Bereitschaft)を創設させ、いくつかの親衛隊上級地区に配置した[118][119]。アドルフ・ヒトラーも軍の枠組みにとらわれずに自由に動かせる「私軍」をほしがっていた。ナチ党の私兵部隊の突撃隊には反ヒトラー派も多く、ヒトラーの「私軍」になりうる余地はなかった。1934年6月末、国軍(Reichswehr)と争っていた突撃隊幹部は長いナイフの夜事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはヒムラーら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高い評価を得ることとなった。ヒトラーは親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは親衛隊が三連隊の軍隊を保有することを承認した[120]。これを受けてヒトラーは、1934年9月24日に三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ武装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが親衛隊特務部隊であった[120]。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。
こうして政治予備隊が1934年9月24日に親衛隊特務部隊(SS-VT)に再編されて軍隊化される運びとなった[119]。
特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年以降国防軍(Wehrmacht)と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州バート・トェルツに親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年にはブラウンシュヴァイクにも親衛隊士官学校が開設された[121]。特務部隊の軍事教練にはパウル・ハウサー(1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた[122][123]。
1936年10月1日、ヒムラーは親衛隊特務部隊の管理のため、パウル・ハウサーを長とする親衛隊特務部隊総監部を創設させた[124]。
戦時中
警察活動
1939年8月、ヒトラーからポーランド侵攻の口実を作るよう命じられたヒムラーは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのがグライヴィッツ事件であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員アルフレート・ナウヨックスがポーランド軍人に成りすましてポーランドのグライヴィッツ放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった[125]。
しかし大戦前期にヒトラーの信用を損なう事件もいくつか存在した。1939年11月8日、ヒトラーはビュルガーブロイケラーでミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜にスイスへ不法越境しようとしたゲオルク・エルザーが容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命じた。彼はヒトラーの期待にこたえるべく、自らがエルザーの所へ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった[126]。
またヒムラーやSDのハイドリヒは、ルーマニアの「鉄の護衛隊」を支持していたが、「鉄の護衛隊」は1941年1月にイオン・アントネスクに対して反乱を起こす。ヒトラーや外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップはアントネスクを支持したが、SDはなおも「鉄の護衛隊」を擁護し、ホリア・シマ以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD将校は処分された[127]。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大をとめる好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続々と任命するようになった。しかしながら戦争が進むにつれ、外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった[128]。
1942年6月4日、国家保安本部長官兼ベーメン・メーレン保護領副総督を務めていたハイドリヒが、イギリスが送りこんできたチェコ人暗殺部隊に暗殺された。しばらくはヒムラーが国家保安本部長官職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊少将を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはヒトラーの同意も得て親衛隊大将エルンスト・カルテンブルンナーを後任に任じた[129]。1943年8月20日、ヒムラーはフリックに代わって内相に就任、名実ともにドイツ警察の支配者となった[129]。
軍司令官として
1939年5月、ヒトラーは2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。ヒムラーは師団創設のため砲兵連隊の設立を急いだが、1939年9月のポーランド侵攻までに間に合わず、親衛隊特務部隊はこの戦争を連隊編成で参加した。ポーランド戦後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。特務部隊は1940年4月22日の親衛隊作戦本部の司令により親衛隊特務部隊は武装親衛隊(Waffen-SS)と名を変えた。武装親衛隊はどんどん拡張され、大戦を通じて38個師団90万の兵力を数えるまでに成長した。国防軍に比べると損害率や戦死者・負傷者が多かったが、ヒムラーはこの理由について「国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるため」と説明していた[130]。
武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である親衛隊大将ゴットロープ・ベルガーが主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層やドイツ系外国人なども盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装SSに勧誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れにはアレルギーがあったがベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。武装親衛隊の中にはインド人で構成された部隊やボスニアのイスラム教徒を中心に構成された師団まで存在した(第13SS武装山岳師団)[131]。
ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒトラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月14日には国防軍情報部(アプヴェーア)部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が失脚。ヒトラーはアプヴェーアの機能を国家保安本部第6局(国外諜報Ausland-SD、局長ヴァルター・シェレンベルク)の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた[132]。
さらに1944年7月20日、ヒトラー暗殺計画の鎮圧に際してヒムラーは国内予備軍司令官の地位を授かった(実務は親衛隊大将ハンス・ユットナーが代行した)。この時から陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用も陸軍から親衛隊経済管理本部の手に移っている。親衛隊は国防軍に対して完全なる優位を確立した。
さらに1944年12月2日にヒムラーはオーベルライン軍集団司令官に就任し、西部戦線で指揮を執った。ヒムラーのオーベルライン軍集団はストラスブールまで数キロまで迫ったが、結局アメリカ軍の反撃にあってライン川の向こうへ撃退された。しかしヒトラーはオーベルライン軍集団でのヒムラーの指揮を評価し、1945年1月23日にヒムラーを東部戦線のヴァイクセル軍集団司令官に任じた。参謀総長ハインツ・グデーリアン上級大将はこの人事に反対したが、ヒトラーは強行した。ヒムラーは今度こそ戦勝報告をヒトラーにもたらそうとはりきり、予備軍や武装SS残存兵力をかき集め、またフェリックス・シュタイナーら著名な武装親衛隊将軍を招集した。ドイツ本土に迫る赤軍を迎え撃つが、すでにドイツ軍は消耗しきっており、しかも部隊指揮経験を持たないヒムラーはまともな作戦指揮が出来なかった。ソ連軍にオーデル川を突破された。グデーリアンはヒムラー降ろしを急ぎ、結局、最後にはヒトラーも司令官の首を挿げ替えることに同意し、1945年3月20日、同軍集団の司令官職は陸軍大将ゴットハルト・ハインリツィにかえられた。この件でヒムラーの権威は大きく傷ついた[133]。ヒムラーの軍集団司令官就任はマルティン・ボルマンの陰謀であるとする説もある[134]。
ヒムラーとホロコースト
開戦前から戦争初期にかけてヒムラー以下親衛隊はユダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になったSDユダヤ人課のアドルフ・アイヒマンが注目され、1939年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはヒムラーはドイツ民族性強化国家委員(Reichskommisar fürdie Festigung des deutschen Volkstums)に任命された[135][136]。この権限に基づき、彼は親衛隊の本部の一つとして「ドイツ民族性強化国家委員本部」(RKFDV)を設置し、親衛隊大将ウルリヒ・グライフェルトを本部長に任じた。アーリア人の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策を推し進めた。
1939年9月のポーランド侵攻後、国家保安本部は占領下ポーランドやソ連占領地域にアインザッツグルッペン(特別行動部隊)を派遣してユダヤ人を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ヒムラーも1940年5月に「ユダヤ人根絶のボルシェヴィキ的方法は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている[137]。ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)の決定はヒムラーではなくアドルフ・ヒトラーと考えられている。ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏であるといわれる[138][137]。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはヒムラーと親衛隊である。
1941年6月にバルバロッサ作戦(独ソ戦)が発動された後、国家保安本部はアインザッツグルッペンをソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ヒムラーはポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスをベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウシュヴィッツを絶滅収容所と改築することを命じた。これを受けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた[139][140]。さらにこの後、ポーランドにユダヤ人の殺戮だけを目的としたベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所が建設された。ユダヤ人はヨーロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人課課長になっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。
正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒがベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行ったヴァンゼー会議であるとされる。この会議でユダヤ人問題の最終的解決について各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺は1941年代にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがヒムラーのユダヤ人問題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある[141]。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分の権限を誇示するための意味があったことを主張している[142]。
一般的にヒムラーや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。親衛隊経済管理本部長官であり、強制収容所運営の責任者であるオズヴァルト・ポールは一貫して強制収容所へぶち込んだユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指していた。労働できる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強制労働に従事させられた。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスもその回顧録に「アウシュヴィッツへ送られてくるユダヤ人は本来すべて抹殺されるはずであったが、ドイツ・ユダヤ人が最初に送られてきた頃にはすでに労働可能な者は選別して収容所の軍需目的に使用するようにという命令が出されていた」と書いている[143]。総力戦体制が強まる中、強制収容所の奴隷労働力はナチスにとってますます重要になっていた。ヒムラーは強制収容所の囚人の死亡率を下げることを一貫して命じ続け、親衛隊経済管理本部もそれに努力していた[144]。
一方、「労働不能」ユダヤ人は、ナチスにとって全く役に立たないばかりか、それでなくても悪かったドイツの食糧事情を無駄に悪化させる厄介な存在であった。そのため即時に絶滅対象としたのであった。戦時中に行われたユダヤ人絶滅政策とは基本的に「労働不能」と認定されたユダヤ人の絶滅政策であった[145]。
ヒムラーやポールの命令を受けてアウシュヴィッツやマイダネク強制収容所でも「労働不能者」(=ガス室送り)と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、ヨーゼフ・メンゲレはその典型として悪名高い[146]。
ただし、飽くまでもヒムラーはナチズムの信奉者であり、ヒトラーのユダヤ人絶滅の意思は完遂するつもりであった。したがって労働に従事させる者もいずれは殺すつもりであった。1942年秋にはヒムラーがオットー・ゲオルク・ティーラック法相との会談で「労働を介した絶滅」という言葉を口にしたことはそれが端的に表していると言えよう[147]。
ヒトラー暗殺計画
1944年7月20日午後0時40分過ぎ、東プロイセン・ラステンブルクにあった総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に参謀本部大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(国内予備軍参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった(ヒトラー暗殺計画)。
この時ヒムラーは25キロ離れたマウルゼー湖畔のSS本部にいたが、午後1時頃に事件を知るとただちにラステンブルクの総統大本営へ急行し、わずか30分で到着した[148]。
ヒムラーは総統大本営に到着後、SS隊員とともに捜査を開始した。会議室から一人姿を消したクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が犯人であると確信し、ベルリンのSSフンベルト・アッハマー・ピフラーダー親衛隊上級大佐(de:Humbert Achamer-Pifrader)にシュタウフェンベルクの逮捕を命令した(しかしベントラー街にシュタウフェンベルクの逮捕に向かったピフラーダーの方が逆にシュタウフェンベルクにより身柄を押さえられてしまっている)。ヒトラーはシュタウフェンベルクの上官である国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将も何らかの形で謀反に関わっていると考え、ヒムラーを新たな国内予備軍司令官に任命し、ベルリンへ行くよう命じた。予備軍とはいえ、ヒムラーは念願の軍司令官の地位を手に入れたことになる[149]。午後5時頃にヒトラーを別れる際に「総統、後のことは私にお任せください」と述べている[150]。
ヒムラーがベルリンに到着した7月21日明け方にはすでにシュタウフェンベルク大佐ら首謀者はベントラー街(de:Bendlerblock)(国防省)においてフロムの命令で銃殺されており、その遺体はフロムの指示で勲章や階級章や軍服などを付けたまま軍人として埋葬されていた。ヒムラーはただちに武装親衛隊を動員してベントラー街を占拠した。シュタウフェンベルク大佐らの遺体を掘り起こさせて勲章などを剥奪すると、その遺体を火葬させて灰は野原にばら撒いた。
ヒムラーは国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーに大々的な捜査・逮捕を命じた。カルテンブルンナーの指揮の下に捜査が進められ、最終的に5000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった[151]。
ヒムラーは一連の謀反の最大の鎮圧者となったが、ヒムラー自身が事前に計画を知っていながら、事件の発生を黙認した可能性が指摘されている[152]。
暗殺計画実行直前の1944年7月17日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画を立てている者としてカール・ゲルデラーと陸軍上級大将ルートヴィヒ・ベックの逮捕状を発給するようヒムラーに求めているが、彼は何故か拒否している。SDの某将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともヒムラーがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となってはわからないが、いずれにしてもこの暗殺計画は失敗におわり、その後のヒムラーはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった[152]。
国防軍の将校たちが暗殺事件に関与していたことは国防軍の地位を下げることにつながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがヒムラーを国内予備軍司令官に任じたこともこのことのだめ押しとなった[153]。
戦争末期
講和交渉
1945年春、ヒムラーはドイツの最終勝利の確信を失っていた。これは専属マッサージ師フェリックス・ケルステンやSD第Ⅵ局(対外諜報)局長ヴァルター・シェレンベルクらとの会話から窺い知れる。ヒトラー政権が存続するためには、ソ連を除いた英米との講和が必要であると認識していた。
シェレンベルクの斡旋で1945年2月19日、訪独したスウェーデン赤十字社のフォルケ・ベルナドッテ伯爵とヒムラーが入院していたホーヘンリーヘン病院において初めて会見した。ベルナドッテは米英との和平のためには強制収容所の囚人の解放が良いと薦め、まずスカンジナビア半島の強制収容所抑留者をスウェーデンに引き渡してほしいと求めた。しかしこの時ヒムラーは「もしその要求に応じたら、スウェーデンの新聞はでかでかと書くでしょうね。『戦犯ヒムラー、最後の土壇場で責任逃れ。今から免罪対策』とね。」と述べて拒否した[154]。しかしその後、ますます戦況が絶望的になり、ヒムラーはついにアメリカとイギリスに対しては降伏しても構わないという心境に至った。米英軍とドイツ軍の残存兵力でもって協力してソ連と戦うことを望んだ。4月2日にヒムラーは再度ベルナドッテと面会した。ヒムラーは西部戦線における条件付き降伏を米英に提案してくれないかと求めた。ベルナドッテはヒムラーに「ヒムラーがヒトラーの後継者を名乗ること。ナチ党を解体させて党員を配置換えすること。スカンジナビア半島系の強制収容所抑留者を釈放すること」などを条件として求めた。ヒムラーはこれに応じた。その後もヒムラーとベルナドッテは4月20日と4月24日に面会して米英に対しての降伏に向けた調整を続けた[155][156]。
1945年4月20日、最後の総統誕生日にヒムラーはベルリンの総統地下壕に入り、ヒトラーと面会した。しかし廃人と化したヒトラーにはすでに何も期待しておらず、早々に総統地下壕を出ると、部分降伏に向けた工作を再開した。4月21日午前2時、ケルステンの地所でシェレンベルクとともに「世界ユダヤ人会議」の特使と極秘に面会した。ヒムラーはテレージエンシュタット強制収容所やラーフェンスブリュック強制収容所のユダヤ人の解放を約し、米英への取り成しを求めた[157]。
ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は「部分降伏はありえず」として、正式にヒムラーの提案の拒絶を発表している[158]。ヒムラーは落胆した。しかもこのヒムラーの活動は1945年4月28日、BBCの放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、ベルリンの総統地下壕に居住していたヒトラーの知るところとなる[159]。
解任
かねてからヒムラーとの間の連絡将校ヘルマン・フェーゲラインが亡命を企てて逮捕されたことや、ベルリンの戦いにおける武装親衛隊の不活発さが原因でヒムラーに不信感を持っていたヒトラーは上記の報道を知って激怒した。ヒトラーはヒムラーの全官職を剥奪し、逮捕命令を出した。当時ヒムラーの官職は親衛隊全国指導者、ヒトラー内閣内務大臣、全ドイツ警察長官、国民突撃隊総司令官であった。
しかし当時の伝達機能の混乱により、ヒムラーの逮捕命令が伝達されたのはドイツ北部の指揮権を持っていた海軍総司令官カール・デーニッツの元に届いたものに限られた。デーニッツは逮捕命令を受領するが、命令にはドイツ北部の全反逆者の処置命令も附属していたために実行が困難なこと、またヒムラーが依然として警察や親衛隊を掌握しており、その兵力が多かったために命令を無視している。
5月1日午前0時頃にヒムラーは親衛隊員たちを引き連れてフレンスブルクのデーニッツの元を訪れた。デーニッツは不測の事態に備えてUボートの水兵で周りを固めた。自身も銃を書類の下に隠し持っていたという。デーニッツはここでヒトラーの電報をヒムラーに見せ、総統が死んだこと、みずからが後継者に指名されたこと、そしてヒムラーは解任されたことを告げた。電報を読んだヒムラーの顔は青ざめ、しばらく考えこんだ様子であったという。しかしすぐにデーニッツに祝福の言葉を述べ、みずからが次席としてデーニッツを支えたいと述べた。デーニッツはこれを拒否したが、親衛隊や警察勢力の離反を警戒して結局シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の行政長官の地位を与えた[160][161]。
しかし戦時中から米英において「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏準備政権であるデーニッツ政権にとっては邪魔な存在だった。5月6日17時頃にデーニッツはヒムラーと東方占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルクらに解任を申し渡した。ヒムラーは首相代行ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵(ヒトラー内閣蔵相)と会談したが、結局デーニッツ政権との交渉を諦めた[162]。
逃亡と死
デーニッツ政権を放逐されたヒムラーは5月20日に「野戦憲兵曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って眼帯を装着、ルドルフ・ブラント、カール・ゲプハルトなどの側近たちと共にホルシュタインからエルベ川を超えて逃亡していった。5月22日、ブレーマーフェルデとハンブルクの間にあるバルンシュテット村のはずれでイギリス軍に拘束された。捕虜としてイギリス軍のリューネブルク捕虜収容所に送られた。
ヒムラーは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最期の命令となった。
ヒムラーは、イギリス軍の一兵卒の捕虜への粗末な扱いに耐えられなくなり、収容所所長に対して「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗った。さらに連合軍上層部との政治的交渉を求めた。所長は上層部に取り計らってみると回答したが、結局交渉は拒否された。翌5月23日、ヒムラーの身体検査が行われた。全裸にされ軍医が口の中を調べようとした際にヒムラーは奥歯に隠し持っていたシアン化カリウムのカプセルを噛み砕いて自殺した。自殺を防げなかった軍医は直後に「やられた」と口にしたという。遺体は一日放置され、イギリス軍の報告を受けて到着した米軍と赤軍の士官の検死を受けた後、リューネブルクの森に埋められた[163][164]。
家族
1928年7月3日、ヒムラーはブロンベルクの地主の娘マルガレーテ・ボーデンと結婚している。マルガレーテは金髪碧眼の長身であり、彼が理想とする「ドイツ女性」であった。彼女は第一次世界大戦中に看護婦をしており、ベルリンで短い結婚生活をした後、父の資金で診療所をやっていた。しかしヒムラーより7歳も年上であり、しかもプロテスタントの女性であったので、カトリックの両親は結婚に大反対した。しかし彼は譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている[165][166]。
1929年8月にマルガレーテとの間に一人娘グドルーン・ブルヴィッツ(Gudrun)を儲けた。ヒムラーはグドルーンを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。彼はグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。強制収容所視察の日の夜、グドルーンは日記にそのことを書いている[167]。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ヒムラーはこの養子のことにはほとんど関心を持たず、グドルーンが生まれた後は妻マルガレーテからも興味をなくし、別居するようになった。
ヒムラーは1937年からヘトヴィヒ・ポトハスト(Hedwig Potthast)と愛人関係となっていた。ヘドヴィヒは1930年代半ばからヒムラーの個人スタッフの秘書となっていた女性だった。この女性との間に長男ヘルゲ(1942年誕生)と次女ナネッテ(1944年誕生)を儲けている[168]。ヘドヴィヒとの愛人関係が深まるとマルガレーテと離婚しようとしたが、グドルーンのことがあって結局中止した。
ヘトヴィヒの両親は、ヒムラーがヘドヴィヒに子供を身ごもらせながら結婚しようとせず、家すら用意しないことに憤慨していたが、私的生活は極めて質素であったヒムラーに愛人用の家を用意できる金はなかった。結局、党の金庫を握っているマルティン・ボルマンに頼んで党の費用から8000マルクを借り、ケーニヒス湖のベルヒスガーデン=シェーナウ(Berchtesgaden-Schönau)にヘドヴィヒ用の住居を建てることにした。ここはボルマン夫人ゲルダ・ボルマンの家に近いため、ヒムラーとボルマンの友好を深める場ともなった[168]。なお愛人やその子供2人に関することは一般国民には秘匿されていた[169]。
兄のゲプハルトは1939年から文部省に勤務して、工学出版物に関する課の課長となった。1944年には部長クラスに昇進。またゲプハルトは武装親衛隊にも入隊しており、親衛隊大佐まで昇進している。1945年には武装親衛隊監督官のポストに就任している。ミュンヘンにある欧州アフガニスタン協会にも勤務した。
弟のエルンストはベルリン放送局の主任技師を務めていたが、ベルリン攻防戦で戦死した。エルンストの孫、カトリン(Katrin Himmler)はユダヤ人と結婚し、祖父兄弟に関する著書がある。
ヒムラーの父ゲープハルトの異母兄であるコンラート・ヒムラー(Konrad Himmler)の孫にハンス・ヒムラー(Hans HImmler)がいる。彼はSS中尉であったが、酔って職務上の機密を漏らしたのを知ったヒムラーは彼が死刑になるよう命令した。その後減刑されてハンスは前線送りとなったが、親衛隊について否定的な発言があったとされて再度逮捕され、結局ダッハウ強制収容所で「同性愛者」として銃殺刑に処せられている。この件は、ヒムラーが親族であっても親衛隊の規律を乱す者は容赦しないことを示そうとしたのではないかと考えられている[170]。
戦後、邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負ったグドルーンは、戦後のドイツ社会から差別的な扱いを受け、彼女はナチス擁護の歴史修正主義者になった。戦後結婚してブルヴィッツと改名したが、グドルーンは「嘘をついて新しい人生を始めることなどできません。私はずっとグドルーン・ヒムラ-であることに変わりはありません」と述べている。彼女はナチス戦犯の逃亡生活や捕まった後の弁護を支援する団体「静かなる助力」の活動に貢献した[171]。
人物
- アドルフ・ヒトラーからは「忠臣ハインリヒ」と呼ばれていた。エルンスト・レームからは「アンヒムラー(Anhimmler、熱狂的崇拝者の意)」と揶揄されていた[172]。また「お国のハイニ(ライヒス・ハイニ)」というあだ名もあった[173]。これらが美称にせよ蔑称にせよヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ヒムラーの共通した風評だった。
- ヒムラーには、ラインハルト・ハイドリヒの操り人形であるとの風評があり、「4つのH」(Himmlers Hirn heißt Heydrich、ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ)というジョークが流れた[174]。
- 運動神経が鈍く、1936年にバート・テルツのSS士官学校で国家体力検定を受けたヒムラーは、SS全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、結局銅賞の受賞で終わった。彼はどうしても銀章が欲しくて銀章の受賞者であるカール・ヴォルフ(ヒムラーの副官)から彼を昇進させる代わりに銀章を譲り受けたという[175]。またヴァルター・シェレンベルクSS少将の回顧録によると1939年9月にポーゼンでヒムラーが列車を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという[176]。その後、取り巻きのSS将軍・将校たちはヒムラーの鼻眼鏡を探すのに苦労し、激昂したヒムラーの怒声を聞きながら気まずい空気の中で歩き出す羽目になったという。カール・ヴォルフは、ヒムラーと車両の中で長々と話して引きとめていたシェレンベルクが原因だとしてシェレンベルクに「キミを恨むぞ」と言ったという[176]。
- 生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたヒムラーは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師フェリックス・ケルステンを寵愛した。そのためケルステンはヒムラーを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によるとエルンスト・カルテンブルンナーはケルステンを警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を図ろうとしたことがあるという。これを聞いたヒムラーは激怒し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルシュテンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と叱責したという[177]。
- ヒムラーは部下のSS隊員に「強さ」を求める演説をしょっちゅう行った。ヒムラーと話しているとすぐに「強さ」の話が始まるのでヘルマン・ゲーリングはそれを「ヒムラーの発作」と呼んだ[178]。ヒムラーの「強さ」への渇望により、武装SS士官学校などでは過酷な演習が行われ、しばしば死者が発生した[178]。イギリスのコマンド部隊の訓練に匹敵する死亡者水準であったという[179]。ゲーリングはヒムラーから武装SSの実弾演習の話を聞かされた時、「親愛なるヒムラー、私も空軍の降下訓練で同じことをやろうと思っているのだよ。パラシュートをつけて二度飛ばせ、三度目はパラシュート無しで飛ばすのだ。」と皮肉ったという。ヒムラーがどう反応したかは伝わっていない[178]。
- 自らの地味な容姿のせいか「見た目より中身は濃い」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。
- ヒムラーは、華美な生活を嫌い、権力を握っても私生活は極めて質素であった[180]。1929年から給料を据え置いたといわれ、ランゲ・ウント・ゼーネの腕時計を買うのにマッサージ師フェリックス・ケルステンから100ライヒスマルクの借金をしていたという[181]。「親衛隊全国指導者友の会(de)」に財界から大量の献金があったが、ヒムラーは私服を肥やすことなく、全て親衛隊の機密費と高官の経費に充てていたという[181]。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である。」という言葉を残している[182]。
- ヒムラーはSSの軍規・規律に反する行為を犯した隊員には異常なまでに厳しかった。そうした隊員にSS法廷が下した判決がヒムラーに報告されると彼はもっと厳しい罰を下すよう命じる事が多かった[178]。特に横領や命令されていない殺人など個人的犯罪は厳罰を以って処した[183]。1935年のSS命令でも命令されていないのに個人的にユダヤ人を殺害することは禁じている[183]。ブーヘンヴァルト強制収容所所長カール・オットー・コッホSS大佐も横領と個人的殺人の容疑で逮捕されて処刑されている。殺人自体より、SSの規律を乱している点がヒムラーにとっては問題であった[183]。
- ヒムラーは、動物には優しい人物であり、動物の保護やドイツの子供たちに動物への愛を教える教育を熱く論じていた[184]。狩猟長官であるゲーリングの狩猟好きについて「ゲーリング、あの血に飢えた犬の畜生は動物と見れば手当たり次第に殺している。何も知らずに森の端で草を食む、何の罪もない動物を撃ち殺すのがなぜ楽しいのか。それは正真正銘の虐殺だ」とケルステンに愚痴をこぼしている[185][186]。このヒムラーの動物への優しさは彼が「下等人種(ウンターメンシュ)(de)」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ヒムラーは「下等人種」については「破壊への意志、原始的な欲望、露骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である。」と述べており、事実上、動物より下に位置づける世界観を持っていた[184]。
- ヒムラーの歴史観で一番大事な物は特定の人物でも社会階級でもなく「ゲルマン民族の血」であった。個人は所詮すぐに死ぬ存在であるが、祖先から子孫へという民族の血の流れは悠久であり、不滅の物と考えていた。そのため祖先・家系の名誉のためには自決さえもいとわないという日本の武士道には深く共鳴していた。ヒムラーは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、日本を見習えとよく演説した[187]。サムライのほかにもローマ帝国のプラエトリアニ、インドのカースト制のクシャトリア階級にも強い感銘を受けていた[188]。
- SD対外諜報部長官ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将によるとヒムラーの日本への関心はかなり強く、日本史にも精通していたという。結局実現しなかったが、親衛隊の士官候補生と日本軍の士官候補生の交換留学も考えていたという[189]。また日本人がアーリア人種であることを立証しようと図り、戦争末期になってもルーン文字とカナ文字の関連性についての調査に意見をしたりしていた[190]
- 部下たちの残虐な処刑を視察してヒムラーの気分が悪くなったという証言が複数ある。
- 1941年8月、ヒムラーはミンスクで親衛隊中将アルトゥール・ネーベの指揮するアインザッツグルッペンB隊の銃殺を視察し、ネーベに100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていた彼は気分を悪くしてよろけ、危うく地面に手をつきそうになってしまったという(親衛隊大将エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーの証言による)[191]。アインザッツグルッペンの殺人活動が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのはこのためではないかといわれている[191]。
- 1941年12月15日、ハイドリヒがベーメン・メーレン保護領副総督として統治していたプラハを視察したヒムラーは、プラハ聖堂横の広場で行われた大規模な公開処刑を見学した。ところが掃射された直後に彼は気を失って椅子にどさりと座り込んだという。ハイドリヒが警察長官とともにヒムラーの肩を掴んで助け起こしメルセデス・ベンツまで運んだが、ハイドリヒの顔には軽蔑の色が浮かんでいたという(親衛隊大将クルト・シャハト=イッサーリスの証言による)[192]。
- 強制収容所の視察中にヒムラーは、ユダヤ人のガス室処刑の様子を覗き穴から見たが、彼は気分を悪くしてガス室の裏へまわり嘔吐したという。この様子を見た二人の親衛隊員は最前線に送られることになったという(強制収容所の囚人ハンス・フランケンタールの証言による)[193]。
ヒムラーとオカルト
ヒムラーは、善く言えばロマンチスト、悪く言えば現実逃避的な性格だった。そのためファンタジックな話やオカルトによくのめりこんでいた。『インディ・ジョーンズ』などオカルトを題材とした映画でよくナチスが登場するのはヒムラーの影響といえる。
ヒムラーは1933年にオーストリアから来たオカルト的人物カール・マリア・ヴィリグートと知り合った。自らを「ウリゴート族の末裔でゲルマン賢者」であるとし、「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前までにさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた」「イルミニズムがゲルマン民族の本来の民族宗教であり、キリスト教がそれを盗用した」「聖書はドイツ人が書いた」などと主張していた[194]。ヒムラーは彼のオカルトに大変のめりこみ、ヴィリグートを親衛隊に招き入れ、親衛隊人種及び移住本部に配属させた。ヴィリグートはいつでもヒムラーのオフィスに入ることを許され、ヒムラーに「過去の記憶」を披露して彼を満足させた[195]。ヒムラーが功績を認めた親衛隊員に授与する親衛隊名誉リングのデザインもヴィリグートに任せている[195]。
ヒムラーは、ドイツの古代史研究機関として「アーネンエルベ」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検し、チベットやシュヴァルツヴァルトなど神秘的な場所で先史時代のアーリア人古代文明の存在を探そうとした。古城の廃墟にスパイを送り、キリストの聖杯を探させたこともあった[196]。
東方から攻めよせたフン族の突撃を防いだ砦といわれる古城ヴェーヴェルスブルク城(Wewelsburg)にヒムラーは興味を引かれ、1934年7月に彼はこの城を手に入れた。1500年の時を超えて東方から攻めよせようとするソ連からヨーロッパを守る城であると、現在と過去を生きる男ヒムラーは期待していた。早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。第二次世界大戦のドイツの敗戦までにこの城に彼がつぎ込んだ資金は1300万ライヒスマルクにも及ぶ[# 9]。大食堂にはオーク製の巨大テーブルが置かれ、この城の「騎士」と認められた親衛隊幹部のネーム入りの椅子が並んでいた。ここでヒムラーや親衛隊幹部達は数時間も瞑想にふけっていた。地下室には石造りの台が12台置かれていて、親衛隊大将が死亡した際には遺骨がここに安置された。親衛隊名誉リングは、持主が親衛隊を離れるか死亡した場合にはヒムラーの手元に返され、ヴェーヴェルスブルク城に永久に保存されることとなっていた。他にも1万2000冊に及ぶ図書室、応接間、ヒムラーの客室、SS最高法廷もこの城に設置された。ヒトラーのヴェーヴェルスブルク城来訪を心待ちにしていた彼は、ヒトラーの部屋も作らせていたが、結局ヒトラーがヴェーヴェルスブルク城を訪れることはなかった[198][199]。
またヒムラーは、スラブ民族の征服者であるザクセン王ハインリヒ1世を深く尊敬していた。スラブ民族(=現在のソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には必ずクヴェトリンブルク大聖堂の墓を詣でた。冷え切った真夜中の納骨堂でヒムラーは毎年敬虔にひざまづいていた。フェリックス・ケルステンによると、ヒムラーは7月2日の夜12時から瞑想を行い、ハインリヒ1世との霊的交信を始めたという。半睡状態のヒムラーが「ハインリヒ王の霊が重大なお告げを持って現れる」と述べ、続いて「このたびの王のおぼしめしは…」とお告げを語るのが恒例であった。ついには自身がハインリヒ1世の化身と信じるまでになったという[200]。
ヒムラーは熱心なカトリックの家に生まれ、本人も若かりし頃は熱心なカトリックであったが、ナチ党の党活動をする内に徐々にキリスト教とは距離を置くようになっていた。そのため、親衛隊の隊員たちもキリスト教から切り離し、彼の異教的な思想に取り込むことをはかるようになった。婚姻内部規則で親衛隊隊員の結婚式はキリスト教会で行なうことを禁止した。またクリスマスを祝う習慣をやめさせるため、冬至祭を親衛隊の祭典とした。キリスト教ではなくSSを通じて神を信ずる者を彼は求めていたが、結局隊員達をキリスト教から切り離すことはできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されるなどしていった。一般SSの三分の二は相変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装SSや髑髏部隊では比較的多く、武装SSの53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属していた。武装親衛隊の将軍の中にはヴィルヘルム・ビットリッヒSS大将のように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた[201]。
語録と言及
その他
- ドイツ以外の国にも、ヒムラーのように独裁者の個人的信任を背景に政治警察を一手に任された政治家は少なくない。こうした者はしばしば「ヒムラー」と形容されることがある。特にソ連のラヴレンチー・ベリヤや中華人民共和国の康生などは、「眼鏡の小男」という容姿までヒムラーと良く似ていた。
- 映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』ではウルリッヒ・ネーデンが演じている。憔悴しきったヒトラーを影で罵倒し、副官にまで「いまさら禁欲的な菜食主義者に期待しても仕方ないだろう」と酷評されているが、史実ではそのヒムラーも菜食主義者だった。実際の出演は映画冒頭のみでネーデンも短い撮影とセリフの消化に苦労したことをコメントしているが、その後のシーンでも毒薬カプセル・副官処刑など総統地下壕の崩壊に影を落とす存在として描かれている。なおネーデンは後年の1944年末を舞台とした別の映画『わが教え子、ヒトラー』でもヒムラーを演じている。
注釈
- ^ 空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングより個人的に贈られた[2]。
- ^ ハルガーデンはナチ党政権誕生と共にアメリカへ逃れた。ヒムラーは後に同級生のハルガーデンのことを「ユダヤの虱」と呼んで馬鹿にした[15]
- ^ 近眼の者は海軍士官になれなかった[10]
- ^ しかしヒムラーは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している[25]。
- ^ 同様に決闘で顔に傷を入れている人物にオットー・スコルツェニー親衛隊大佐やルドルフ・ディールス親衛隊大佐がいる
- ^ 彼の日記は、戦後ヒムラーの別荘からアメリカ軍兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けた。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、スケートリンクの切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある[29]。
- ^ 1921年の日記にケルンベルガーなる老女の家にパンを置いていったことの記述がある。詳しくは語録の項目を参照
- ^ 1921年11月23日付けの彼の日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは語録の項目を参照
- ^ 読売新聞2004年12月18日夕刊によると1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという[197]。したがって1300万ライヒスマルクとは273億ほどであろうか。
参考文献
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タグ; name "ナチ親衛隊知識人の肖像251"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)60ページ
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外部リンク
- http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/HimmlerH.htm
- http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HimmlerHeinrich/
- Biografie bei Shoa.de
- http://www.fdk-berlin.de/forum2000/filme/himmler.html
- http://www.kueste.vvn-bda.de/grab.htm
- Biografie Himmlers und weiterführende Links
- Heinrich Himmler und die Schwarze Sonne
党職 | ||
---|---|---|
先代 エアハルト・ハイデン |
親衛隊全国指導者 1929年1月6日 - 1945年4月28日 |
次代 カール・ハンケ |
先代 ラインハルト・ハイドリヒ |
国家保安本部長官 1942年6月4日 - 1943年1月30日 |
次代 エルンスト・カルテンブルンナー |
公職 | ||
先代 (新設) |
全ドイツ警察長官 1936年6月17日 - 1945年4月28日 |
次代 (廃止) |
先代 ヴィルヘルム・フリック |
内務大臣 1943年8月24日 - 1945年4月28日 |
次代 ヴィルヘルム・シュトゥッカート |
軍職 | ||
先代 フリードリヒ・フロム |
国内予備軍司令官 1944年7月20日 - 1945年4月28日 |
次代 (廃止) |
先代 (新設) |
上ライン軍集団司令官 1944年12月10日 - 1945年1月24日 |
次代 (廃止) |
先代 (新設) |
ヴァイクセル軍集団司令官 1945年1月25日 - 1945年3月12日 |
次代 ゴットハルト・ハインリツィ |