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「国鉄103系電車」の版間の差分

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2009年2月17日 (火) 00:28時点における版

国鉄103系電車
ファイル:103-248.jpg
(量産冷房車・延命N40改造車、大阪環状線)
主要諸元
軌間 1,067
電気方式 直流1,500V
最高運転速度 100
設計最高速度 100
起動加速度 2.0*1 ~3.3*2
減速度(常用) 3.5
減速度(非常) 5.0
編成定員 48(席)+88(立)=136名 *3
54(席)+90(立)=144名 *4
最大寸法
(長・幅・高)
20,000 ×2,832 ×3,935 mm
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
出力 主電動機 MT55
110kW×4基 / 両
制御装置 直並列組合せ制御、抵抗制御、弱め界磁制御
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
備考 *1 : 4M4T編成
*2 : 8M2T編成(1000番台)
*3 : 先頭車
*4 : 中間車
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国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車

国鉄の通勤形電車としては前作に当たる101系を基に、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、経済性を最重視して再設計され、1963年昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

また、本項ではインドネシアの鉄道会社(PT. Kereta Api)に譲渡された車両についても記述する。

歴史

開発

101系における全電動車化計画とその中止

1958年から中央線を皮切りに量産車の導入が開始された101系は、特急形急行形などと共通設計のモーターの歯数比を変更して使用し、これによる全電動車方式で高加速性能を実現することを前提に設計され、当時の典型的な高性能通勤電車の一つであった。しかし、その設計理念は、通勤五方面作戦など緊急性の高いラッシュ対策に追われ、この理念が要求する変電所容量や架線設備の強化にまで手が回らない、当時の国鉄の財政状況およびスケジュールに適合せず、中央線においても変電所容量の不足から、全電動車方式での運用を断念し、電動機を装備しない付随車の挿入が実施されることとなった。

本来、全電動車で運用することが前提の101系の設計においては、付随車の挿入による電動車(M)と付随車(T)の比率(MT比)変更は、性能の大幅な低下を招いた。しかも、特に財政上要求が強かったMT比1:1での運用は、定格出力100kW/hのMT46形を主電動機とする101系の場合、その出力曲線と減速歯車の歯数比の関係で事実上不可能[1]であり、MT比1:1を実現してより低コストに、そして大量に新型通勤電車を量産するには、主電動機の設計を変更し、定格出力を強化して特に低速域での牽引力を向上する必要があった。

新形通勤電車の要件

101系が設備面で能力低下を強いられた事から国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を上げた。カルダン駆動による新性能車では初期の全M車を前提とする101系に代表されるグループを高性能車、MT比1:1を目指して経済性を追求する103系に代表されるグループを高経済車と呼ぶことがある。私鉄各社でも高性能車から高経済車への移行が見られ、日本の鉄道史での大きな流れの一つであった。

電動機の設計

そのような状況下1960年1月には101系の電動機出力を120kW/hに増強した試験車による試運転を実施し、高出力・高回転型の電動機を検討した他、1960年3月には回生ブレーキ付の101系910番台を試作製造している。 これらの試験結果と新形通勤電車の投入予定線区(1959年当時で山手・京浜東北・総武緩行・中央緩行・城東・阪和)の線区特性を考慮した結果、高回転型のMT46形の出力増強型では目標とする性能が得られない事から、新形通勤電車用の低回転型のMT55形が開発される事になった。

MT55型電動機は、

  • 主として8両の運転を想定し、MT比1:1程度
  • 駅間距離が短く平均速度が比較的低い路線

に適合するような設計となっている。 また、投入予定線区で8両運転をする事を前提にして当時の主電動機を用いてシミュレーションを行った結果、MT55形は新形通勤電車用の電動機として最大の目標であった低消費電力を達成できたこと以外に、駆動時の発熱に余裕があるため将来のスピードアップにも耐えうること、1パンタグラフあたりの集電電流が小さいので架線の温度上昇も防げること、などの利点が認められ以後の通勤電車の主電動機として大いに採用されることになった。

切迫した電力供給事情

中央線の101系は全電動車方式で投入されたが変電所等の能力が追いつかず限流値を480アンペア(A)から350Aに下げて運転した。6M4T運転になり限流値を420Aまで戻す事ができたが、M車比率が高い場合は電力事情以外にも架線温度上昇などの問題も発生していて架線増強も併せて行う必要があった。

そのような苦労もあり、1961年春に首都圏での次の101系投入先は変電所能力が他線に比べて大きかった山手線に決定される。その山手線ですら電力事情から限流値を300Aに設定しなければならない他、主電動機の温度上昇を抑えるため電気ブレーキも未使用にしなければならず、山手線一周は旧形車よりも時間がかかった。 101系による新性能化を進めるためには、変電所設備等の増強をセットにする必要があり多大な費用がかかること、線区ごとで細かな設定が必要になるため経済的で運転に関して制約のない通勤車への要望が高まってゆく。

103系の投入先

新形通勤電車の概要がまとまってくると103系をどの線区に投入するかが焦点となった。1962年6月頃には103系を山手線に投入するのかどうか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきであるという議論がなされている。1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、更に限流値を350A、480Aにできるような変電所増強が計画されていた。

しかし103系4M4Tの限流値415Aで使用した場合、1962年秋の変電所増強分で101系6M2Tの限流値480Aでの運転と一周の所要時間で、ほぼ同等な運転を行うことができた。そのため103系を山手線に入れることを早急に決めなければ不要な変電所増強を行うことになる事から1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新形通勤電車の投入線区について」がまとめられ103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ1962年11月5日の常務会にて103系電車は山手線に、山手線で使用中の101系は総武緩行線に転用することが決定された。

1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われたが、電動車比率が上がった事から限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧形車よりも20秒短縮できたに過ぎなかった。このように変電所の増強が完了するまで新性能化がなされていながらも旧形車なみの運転速度に甘んじなければならなかったのが当時の首都圏の電力事情であった。

試運転

1963年3月25日先行試作車1編成が落成し9か月にわたる試運転を繰り返した後12月28日より営業運転に入った。試運転ではいくつか問題が発生していたものの早急な新車投入が求められていたことから最低限の手直しで量産車を発注している。

量産

1964年以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより、日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、昭和40~50年代(1970~1980年代)の東京大阪など日本大都市圏の通勤輸送を支えた。

最初の投入先

1964年5月より103系の量産車が山手線に配置され1964年度だけで202両が製造された。山手線に使われていた101系は当初の予定通り総武緩行線に転出し別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で使用された。

駅間距離の長い区間への進出

量産が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異なる路線にも103系が使われ始めることになる。実は1962年の新形通勤電車の投入線区には常磐線(平均速度52.8Km/h)と京阪神緩行線(同56.7Km/h)も含まれていたが、103系の仕様決定に関してはこれらの路線を除いた対象線区での平均速度が参考にされている。103系が駅間距離の短い線区向けという特徴がある以上、駅間距離の長い線区に対しては何らかの改善または新形式の設計が必要と考えていたからで、1964年には京阪神緩行線の新性能化に対して関西支社に103系で良いのか新形式を必要とするのか検討させている。大鉄局では1950年代後半に京都-神戸の短距離快速の増発のために快速から逃げ切れるだけの性能を有した高性能通勤電車を要求した事があり、4扉ロングシート、歯車比1:4.82、均衡速度103km/h、250%乗車時の時速100km/hまでの加速度1.3km/h/sという101系全電動車編成でも不可能な性能だったが、これは複々線区間の外側線が本社管轄だった事から自由な増発が出来ず、内側の複線区間に快速と緩行を押し込まれた事により必要となった形式であり、1964年当時大鉄局としては、現在の線路使用方法(内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく既存形式(101系や103系を指す)でも使えるとの認識を示している。

1965年の京浜東北線への投入時、ノッチオフの速度が上がった事から、103系の歯車比を1:5.6にすることやMT54による通勤電車の可能性を模索したが、いずれも現状の103系に比べて特に電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間においても現状通り103系電車の方が経済性が高く、無理に高速タイプにする必要は無いとの結論を得た。

これらの調査結果を受け、1967年末から常磐線に103系が投入される際にも特に大きな設計変更は考えられなかったが、このころ、メンテナンスフリーのディスクブレーキ付き台車TR212が開発されていたので、ブレーキ使用頻度が高くなる事もあり常磐線投入車から、このディスクブレーキ付き台車を用いる事になった。[2]

運転速度向上による問題点

駅間距離の長い区間での運転が増えると、様々な問題点が発生することになる。京阪神緩行線に投入された3年後の1972年3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかる事から保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキがオフになり故障と紛らわしいため運転士から苦情が多く、さらに保護回路が作動する際に衝動が大きく乗り心地にも影響を与える等の問題が出ることがわかった。設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため101系に取り付けられていた減圧継電器は取り付けていなかった事も原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し1972年度中に過電圧を防止する対策が講じられた[3]

車体構造

車体構造は101系に準じており、普通鋼が採用された。そのため、101系とは外観は前面以外においてほとんど差が無いが、床下構造が大きく変わっている。また、製造が進むにつれどんどん近代化していき、初期製造車と最終増備車を比べてみるとかなり違っている。

基本性能

MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離1.36km程度の通勤線区にて運用されることを前提に、主電動機を、低回転数時のトルク特性重視で定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計のMT55形(定格出力110kW/h)とし、85%界磁での定格速度を36.5km/hに設定して電力消費量を抑えた経済車である。加速度は4M4Tで2.0(6M4Tでは2.3)km/h/sとなるように設定されていた[4]

MT55形主電動機は従前の主電動機に比べてやや大形であるため、電動車の車輪径は通常の860mmより大きい910mm、電動車の台車の軸間距離は通常の2100mmより広い2300mmとされた。また、歯車比は15:91=1:6.07とされたが、これは860mmの車輪径に換算すると1:5.73に相当する。

比較的駅間が短く速度の低い路線への使用を目的として設計されているため、継続して高速運転を行う線区には不向きとされる。また高速運転時を配慮して弱界磁を35%として設計したが、実効値は40%程度で100km/hまでの所要時間は2分程度かかっていた。京阪神緩行線など一部の線区では設計通りの35%になるように小改造を行い高速性能を改善した車両もある。

本形式の設計は帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系飯田線用の119系121系にも応用された。

新造車3,447両の他、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両となっている。ただし奈良線和歌山線の電化開業および可部線新性能化用として0・1000番台から61両(JR化後、事故廃車補充用として更に1両)、仙石線在籍車両のうちの4両が105系に改造され、また事故廃車となった車両も数両[5]あったため、3,503両が同時に存在したことはない。

101系からの変更点

  • 車内床のコルク材の使用をやめ、床の厚みが薄くなり、台枠底面の高さがやや上昇した。
  • パンタグラフは、高圧引通線の短縮化などを目的に、M'車ではなくM車(クモハ103形、モハ103形)に設置した。
  • 運転中の乗務員に対する軌道の流れによる圧迫感を防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小した。
  • 運転台機器は、視認性を重視したメーター類の配置、操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられたマスコンとブレーキハンドル、扱いやすさの点から制御卓にまとめられたスイッチ類、疲労軽減を図った運転士座席など人間工学を駆使したものに改められた。
  • 運転台下部正面中央にも外気導入口を追加した。
  • 主電動機および電動発電機冷却風取入口は、電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用した。
  • 正面行先表示器を拡大した。
  • 電動空気圧縮機を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約した。電動発電機は主抵抗器冷却送風機兼用形とはせずに独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'(モハ102形)に搭載した。
  • ドアエンジンを変更し、1台のドアエンジン(TK4形)と連動ベルトで構成される、西武建設所沢工場が西武451系電車用として開発したST式戸閉装置を採用した。

形式

写真は#車両塗装の節も参照。 本系列は電動車にユニット方式を採用しており、モハもしくはクモハの103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。なお、車両の方向は東海道本線基準で奇数は東、偶数は西を表す。

クモハ103形(Mc)

モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器など、主回路を構成する機器群を中心に搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期に限られた。103系は編成の半数以上が電動車でなければならないことから、3両または5両を組成する場合にはこの形式が必要となる(製造初年度:1965年)。

クモハ102形(Mc')

モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機空気圧縮機など、補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。国鉄が車種が増えることを嫌ったために1200番台の5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性からJR化後に一部のモハ102形がこれに改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となっている(製造初年度:1970年)。

モハ103形(M)

クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様に、パンタグラフと主制御器を搭載する(製造初年度:1962年)。

モハ102形(M')

クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に、電動発電機と空気圧縮機を搭載する(製造初年度:1962年)。

クハ103形(Tc)

103系の制御車。75~91および線区の事情で方向転換した車両を除く0番台、900番台、1000番台、1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される(製造初年度:1962年)。

サハ103形(T)

運転台のない付随車である(製造初年度:1964年

車種分類

103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や後述する番号の重複を避けるために番号区分が行われた。そのため、車番によりおよその仕様の判別が可能である。

0番台

0番台
鶴見線で運用されていた初期車
主要諸元
起動加速度 2.0 km/h/s
保安装置 ATS-SW.P.Ps
ATC-6(1974年以降製造の一部、すでに消滅)
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1964年から1984年まで製造された[6]、103系の基本形式である。非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。

1964年~1967年製造車

クハ103-6
  • 最初の量産車グループである。山手線向けを皮切に、順次首都圏各線区へ導入された。
  • クモハ103-1~133、モハ103-1~159、モハ102-1~292、クハ103-1~114・501~616、サハ103-1~225がこれに該当し、試作編成に存在しなかったクモハ103形サハ103形が追加されている。
  • 山手線に先行投入されていた試作車は、後にこのグループに合わせた仕様に改造されている。
  • 1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」では、客用ドアがステンレス製になり、それ以前に製造された鋼製ドアの車両も一部を除いてステンレス製のものに交換されている。また、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用された車両も存在した。


1967年~1970年製造車

サハ103-279
  • 上記に続いて製造された量産車グループである。1967年に「昭和42年度本予算追加車」として常磐線に、そして続く「昭和42年度第3次債務車」として阪和線に、と高速運転中心の路線への投入が開始され、103系の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループである。
  • クモハ103-134~155、モハ103-160~278、モハ102-293~433、クハ103-115~177・617~638、サハ103-226~305がこれに該当する。クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、このグループで製造が打切られた。
  • 高速運転対策として、クハとサハの付随台車がそれまでの踏面ブレーキ装備のTR201形からディスクブレーキ装備のTR212形に変更された。
  • 地下鉄直通用の1000番台・1200番台を除く1970年までに製造された先頭車(クハ103-1~179・500番台・900番台全車、クモハ103-1~155)の前照灯は、101系と同じく250Wの白熱灯1灯装備で製造されたが、1975年大井工場で事故復旧工事を施工されたクハ103-544、同じく1977年に大井工場で事故復旧工事を施工されたクハ103-4を始め、1979年からは本格的にシールドビーム2灯に改造されるようになった。2000年11月6日に廃車された、京葉電車区のクハ103-562が、未改造のまま白熱灯で残された最後の車両であった。


試作冷房車(1970年製造)

床下にMGがある試作冷房車のクハ103-178
  • 1959年名鉄5500系電車を皮切りに私鉄において冷房を取付けた通勤型電車が登場したのに呼応し、私鉄とのサービス格差の改善する目的で試作冷房装置を搭載して、山手線に10両編成1本が試験投入されたグループである。
  • 冷房方式の比較・検討のため、異なるメーカーが製作した3種の試作冷房装置が取付けられ、冷房電源用のMGは別途、編成両端のクハ103形に210kVAのものが各1台ずつ取付けられ、それぞれ5両給電とした。
  • 編成は、クハ103-179-モハ103-279-モハ102-434(以上三菱電機製「AU75X形」搭載)-サハ103-306-モハ103-280-モハ102-435-サハ103-307(以上日立製作所製「AU74X形」搭載)-モハ103-281-モハ102-436-クハ103-178(以上東芝製「AU73X形」搭載)となった。番号は従来車の続番である。これらは同じ冷房装置を搭載する車両でも各車で送風ダクトの本数、室内通風口の位置といった風道構造や扇風機の有無などの差が付けられていた。なお、冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」(eXperimental)を意味するサフィクスである。
  • AU73X形とAU74X形は1つの冷房装置の内部に3つの小型ユニットクーラーを集約し、AU75X形は1つの冷房装置の内部に2つの大型ユニットクーラーを集約するという構造の相違があり、1ユニット故障時の冷却能力低下が少ないという点では前2者の方が有利であったが、製造・保守コストの点ではAU75X形の方が有利であった。後に東芝と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を製作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定され、AU75X形を基本に冷房装置と扇風機を併用したAU75系として翌年以降これら3社の手で量産が開始された。
  • このグループは冷房搭載の他、客室窓が製造工数低減と気密性向上のためにユニットサッシに変更され、運転席下の通風口は省略されていた点も特徴である。また、103系としては最後の白熱灯式前照灯を採用したグループでもある。本グループは試験の終了後、1978年に量産冷房車と同じ仕様に改造された。
  • 本グループから客室座席が人間工学に配慮した新型になり、背もたれの角度が増大するとともに座面も低く奥行きのあるものに変更された。あわせて座席下にある客室ヒーターとその設置方法も改良され、従来7人掛け中央に1基のみ設置されていたものが、U字型の取り付け幅の広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置する形に変更され、暖房放射面積の増大と暖房能力の強化が行われた。
  • 当初は上記の編成として池袋電車区に配置されていたが、山手線のATC化に伴う転配により、1979年以降は各車がばらばらに転属を繰返すようになった。2000年4月3日に当時習志野電車区に配置されていた4両より廃車が始まり、2005年11月22日に当時京葉電車区に配置されていたサハ103-307をもって全車廃車となった。


1971年~1972年製造車

クハ103-184
  • 発注の時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたグループである。
  • モハ103-282~330、モハ102-437~486、クハ103-180~212、サハ103-308~323がこれに該当する。
  • 客室窓がユニットサッシに、先頭車の前照灯が新造時から1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯にそれぞれ変更されており、また主制御器がCS20A形からCS20D形に改良されるなど、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が見られることから、俗に「1次改良車[7]」とも言われる。冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口は復活した。
  • 冷房化に際してはグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されてはおらず、軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する。冷房改造時に通風口は埋込まれており、現存車両は全て後述の1973年製造車と同一の前面形状となっている。
  • 京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が明石電車区に新製配置されており、特に先頭車はクハ103-188が松戸電車区に新製配置された以外は全て関西に配属・JR西日本に承継されたのも特徴である。


1973年製造車

クハ103-239
  • 前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載[8]して製造されたグループである。
  • モハ103-331~413・モハ102-487~569、クハ103-213~268、サハ103-324~359がこれに該当する。
  • 上述の通り冷房装置としてはAU75系が採用されたが、これに電力を供給する電動発電機はモハ102形に制御・補助回路兼用としつつ、冷房電源として自車を含め4両まで給電可能な大容量品(160kVA)を搭載して、一括給電するように変更された。これは本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮して決定されたものである。これに併せて、車体2・4位側[9]にも、電動発電機用冷却風取入口を設置した。
  • 室内も座面拡張、蛍光灯の増設が行われ、居住性の改善が図られている。先頭車前面窓下の通風口は再び廃止された。
  • 後位側面に電動行先表示器を設置し、その下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更した。また、これに併せて前面の行先表示器を電動化し、位置も若干変更している。この行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓が埋められている。客室内3位側妻窓上部には配電盤が設置され、その下の妻窓上段が固定化された。
  • 終端駅での折返しによる長時間停車を考慮し、半閉回路[10]を新設した。
  • 当初山手線・中央線快速および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して、関東配属の先頭車の多くは1年足らずの間に1974年新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は高槻電車区)に転属している。よって、「低運転台+新造時からシールドビーム」の形態の車両は関東地区では極めて少数派となった。
  • 中央線快速に残った先頭車は、後に中央・総武緩行線に転用されて津田沼(→習志野)電車区に転属し、さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→宮城野電車区)に転属した。


1974年~1981年製造車

クハ103-347
乗務員室後部に戸袋窓がある非ATC高運転台のクハ103形(クハ103-831)
  • 踏切事故対策や視認性向上のために先頭車が高運転台構造に変更され、窓下の面が間延びしないように運転室窓下にはステンレスの飾帯が設けられるなど、前面デザインが大きく変化したグループである。
  • モハ103-414~786、モハ102-570~899・2001~2043、クハ103-269~499・701~844・846・848・850[11]、サハ103-360~503がこれに該当する。この内、クハ103-797・799~808・810~815・817~844・846・848・850がATC非装備で製造された。クハ・サハの製造はこの製造分をもって終了した。
  • 山手線と京浜東北線ATC化のため、運転台後部にATC装置(ATC-6形)の設置スペースが設けられ、同部分の戸袋窓が廃止された。機構的には、運転台のブレーキ弁がME40A形からATC対応として非常抜き取り化されたME48形に変更されたのが特徴である。
  • 後に中央線快速や福知山線などのATC非設置線区にも投入され、該当車両のうちクハ103形についてはATCの省略と戸袋窓の復活、旧式のME40形ブレーキ弁装備という5次車以前との折衷仕様で製造[12]されている。
  • このグループ以降、北陸トンネル列車火災事故の教訓を受けて火災対策が強化され、後述の1000番台等地下鉄乗入車と同じA-A基準に準拠しているのも特徴である。これに伴い、妻扉のガラスが網入になり、消火器置場が1両につき2か所となった。ただし地下線の走行は考慮しないため、前面に貫通扉は設置されていない。
  • 1973年製造車で設置が開始された半閉回路は、有効に使われないまま本グループの途中(クハ103-317他以降)から廃止されている。


1983年~1984年製造車

モハ102-2050
  • 赤羽線の10連化及び山手線輸送改善の件名で新製された、103系の最終新製車グループである。
  • モハ103-787~793、モハ102-2044~2050の計14両がこれに該当する。なお、これらの車両をもって103系の新製が終了した。
  • これらの車両は、5ユニット(モハ103-787~791とモハ102-2044~2048)がカナリヤ色で埼京線開業前の赤羽線用として、2ユニットが(モハ103-792・793とモハ102-2049・2050)ウグイス色で205系投入直前の山手線用として、それぞれ池袋電車区に配属された。
  • 201系の製造が開始されてからのリピートオーダーであったため、これに準じて以下の変更が実施された。
  1. 屋根のゴム布張りから塗屋根への変更
  2. クーラーとパンタグラフの横のランボードの形状を201系と同一に
  3. 各窓支持ゴムを白Hゴムから黒Hゴムに
  4. 側扉開口部周囲を完全溶接化
  • その後カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、1985年9月末の埼京線開業(赤羽線の延長)による受持区所の変更のため川越電車区に転属し、そのまま埼京線で運用された。
  • JR化後205系の増備に伴い1988年度に山手線用だった2ユニットが、1989年にモハ103-791・モハ102-2048を除く4ユニットがそれぞれ浦和電車区へ、1990年にモハ103-791・モハ102-2048が豊田電車区へ転属した。
  • 1996年3月の八高線の電化に伴い、浦和電車区に所属していたモハ103-790・モハ102-2047は1995年12月に3500番台に改造され古巣の川越電車区に戻った。
  • 1996年8月~9月に3500番台に改造されたユニットを除く10両が豊田電車区へ転属となり、ここでそれを除く12両が揃ったが2002年にモハ103-792・793とモハ102-2049・2050が廃車となった。この4両の使用期間は、廃車前の休車期を除くと実質17年半であった。
  • さらに2004年に残った8両が京葉車両センターへと各区所への転配属を繰り返し、最後にJR東日本の103系全廃計画により2005年、新造から21年で全車廃車されている。

500番台

クハ103-580
  • 1965年に京浜東北線に103系が投入されることになったが、京浜東北線では当初基本編成と付属編成に分けて運転を考えていた事と、当時の車両基地の構内有効長などの関係で3+7(当初2+6)の分割編成とする必要があった。そこで新たに奇数向き先頭車のクモハ103形が設計され、その反対側にはクハ103形の0番台車が連結された。[13]しかし、クモハ103と対になるクハ103形は基本的に偶数向きに固定され方向転換する必要が無い事からクハ103形0番台を片渡りとし偶数向き専用とした500番台が設計された。なおクモハ103形と対をなすことから、製造はクモハ103形と同じく1968年までしか行われていない。0番台クハとの外見上の違いは、前面ジャンパ栓納めの有無である。617以降では、台車がディスクブレーキのTR212に変更されている。


試作車

900番台

モハ103-902
  • 1963年に山手線に先行試作車として新造された車両である。4両編成2本が製造された。当初は1~を名乗っていたが、量産車とは台車の構造が異なる(電動台車 DT26C形 付随台車 TR62X形を採用)、引き通し線もジャンパ栓(19芯のKE58形×2本)も異なるため混結ができない、などの理由から、1964年3月31日付で番号を901~に変更して区別された。製造当時の車両番号はウグイス色の地に白文字(以降の車両は黒文字)で書かれていた。引き通しや台車など量産車と異なる仕様については、1967年2月に量産車に合わせる改造が施された。
  • 晩年はクハが青梅・五日市線、モハが埼京線に転じ、他の量産車と混用されていたが、老朽化により、最後まで冷房化されることなく1992年までに全車廃車された。
  • 車番の対応は以下の通り
モハ103・102-1・2→モハ103・102-901・902
クハ103-1~4→クハ103-901~904
  • 上記のため、現存しているクハ103-1・2、すでに廃車されているクハ103-3・4・モハ103・102-1・2は「2代目」の車両である。

910番台

  • 空転防止の観点から1967年に制御段数を力行55段、ブレーキ51段と大幅に増やした超多段バーニア式制御器の試作車として製造された車両である。試作されたCS30形制御器を搭載するモハ103-911~913と、これらとユニットを組むために引通線の一部を変更したモハ102-911~913の中間車のみ合計3ユニット6両が製造された。
  • これらを用いた試験の結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用されたが、精密なバーニア機構は製造コストが高く、保守にも手間がかかることから、結局1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。
  • 山手線が10両運転を開始した後、910番台は1つの編成に集約されて使用されていたが、205系化により他線区に転出させる際、冷房改造され冷房用MGを搭載したモハ102-911・913以外については電装解除の上サハ103形800番台に改造された。また、このとき相方を失ったモハ102-911は浦和電車区に、モハ102-913が豊田電車区に転属となり、ほぼ同時期に保全工事を施工されていた両区のモハ103非冷房車(モハ103-107、モハ103-62)とユニットを組み直し、捻出されたモハ102-172、62は後述のサハ103-800番台に改造された。1994年に913が、1995年に911が廃車となり、現在は区分台消滅している。

地下鉄対応車両

地下鉄乗入用として、以下の車両が0番台と平行して製造された。乗入先各線は全て保安設備が異なるため、投入路線ごとに仕様を変え、新たな番台が起こされているのが特徴である。

1000番台

1000番台
1000番台の登場時の塗色(1985年撮影)
常磐快速線を走る1000番台。前面には貫通扉を装備(2003年4月撮影)
起動加速度 3.3km/h/s
重量 29.1t(クハ103)

~37.2t(クモハ102)

保安装置 ATS-B.P
ATC-4(1000番台)
常磐線・営団地下鉄千代田線直通用
  • 1970年より10両編成16本160両が製造され松戸電車区に配置された。A-A基準に準拠して設計されたため、車体には不燃・難燃素材が使用されているほか、主回路ヒューズ箱は屋上へ移され、先頭車前面に貫通扉が設けられているのが特徴である。
  • 千代田線用ATC機器を搭載したため、乗務員室後部の戸袋窓はない。
  • 営団から要求された加速性能を実現するため、編成中両先頭車以外の全車を電動車(MT比8:2)とした上でモーターの限流値を上げ、制御器は910番台の項で記述した改良型のCS40形を搭載している。
  • 乗入協定に従い、前照灯はシールドビーム2灯化され、前面窓下へは警戒の意味で太帯が配された[14]
  • 塗装については灰色8号地に窓の上下に青緑1号の帯が入れられた。前面の運行番号表示器上方と車両上方側面には青21号の国鉄マーク(JNRマーク)が掲げられた。
  • 登場から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。
  • 騒音防止の観点から、主抵抗器は自然通風式が採用された。しかし、営団が新造したチョッパ制御車の6000系より電力消費量が格段に多いことや、トンネル内において抵抗器からの排熱によってトンネル温度が上昇するという問題が起こったことから、203系への置換えが開始され、これは1986年3月までに完了した。詳細は常磐緩行線#複々線化の沿革と問題を参照。
  • 余剰となった車両のうち、56両は105系に改造され奈良線桜井線和歌山線和歌山列車区)と可部線広島運転所)へ転属した。残った車両は常磐快速線と成田線に転用され、のちにATC機器を撤去し青緑1号一色に塗色変更された。さらに、1990年には10両編成1本が営団東西線用のATC-3形(色灯式信号用ATC)およびデッドマン装置付マスコンハンドルを取付け、塗色変更を実施した上で東西線乗入用(三鷹電車区、詳細は国鉄301系電車を参照)に転用された。
  • 廃車は2002年からで、松戸区の車両は常磐快速線へのE231系0番台の投入によって2004年3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台への投入によって2003年5月30日に、それぞれ運行を終了し、全車廃車となった。



1200番台

総武線・営団地下鉄東西線直通用

国鉄301系電車を参照。


1500番台

1500番台
ファイル:JNR EC Tc103-1513.jpg
クハ103-1513(製造当初)
クハ103-1514 車内
起動加速度 3.3km/h/s
重量 34.1t(クハ103)

~42.2t(クモハ102)

保安装置 ATS-SK
ATC-9
唐津線筑肥線福岡市営地下鉄直通用
  • 全車が6両編成として9編成54両が製造された。ただし編成番号は3両ずつに分かれており、小倉工場に回送する際も3両ずつに分割される。後に4編成が先頭車化改造により2分割されて3連化されたので、現在は13編成54両となっている。唐津鉄道事業部唐津運輸センター所属。
  • 製造当時、常磐緩行線用として203系電車が製作されていたが、筑肥線は筑前前原以西の列車密度が低く駅間距離も長いため、チョッパ制御車を導入してもブレーキ頻度や回生負荷の有無の面から回生効果が期待できないことから、経済性の高い103系が一部モデルチェンジのうえ導入された[15]
  • 機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、主制御器は0番台で広く使用されているCS20D形を基本に、自冷式主抵抗器を使用するために手直ししたCS20D-G3形を搭載。電動発電機や空気圧縮機についても、コスト削減のため急行形と同型を採用している。車体や内装は201系を基本としており、本系列で唯一、新造時から戸袋窓がない。A-A基準準拠のため、先頭車両は105系に類似した貫通扉を有する前面デザインを採用[16]
  • 塗装もスカイブルーにクリーム色の帯というオリジナルのものが用意された。国鉄車を示すJNRマークが正面に入っていた。
  • 3両編成は限定運用、6両編成は303系の代走としての運用も持つ。乗入先の地下鉄空港線内でのワンマン運転には対応しておらず、同線内のホームドアとの連動もできない。このため、地下鉄線内で運転されるときは車掌が乗務し、ドア扱いの際は車掌スイッチ操作と共にホームドア開閉リモコンを手動で操作している。
  • 折返時等の長時間停車での車内保温のため4ドアのうち3ドアを締切る機能を装備している[16]
  • クハ103-1504は1998年3月今宿駅付近で強風により脱線し破損したが、復旧された。

国鉄時代の改造

国鉄は1970年代になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、一度投入した車両を改造して別の用途に振り向けた。

101系サハ101形編入(750番台)

1970年大阪環状線103系の8両編成化にあたり、不足した付随車の補充として森ノ宮電車区101系サハ100形サハ100-55・58、サハ101形サハ101-55・58の計4両が、両形式で形状が異なっていたジャンパ連結器(KE57形からKE70形へ)や貫通幌などが103系と同一のものに交換されて組み込まれた。

この4両は吹田工場の独自工事で、番号不変のまま1979年まで使用された後、全車通常形態に復元の上で片町線の101系編成の5→6連化用に転用された。

1972年より、国鉄全体の工事としてサハ101形の編入工事が実施された。こちらは改造後、正式に103系のサハ103形750番台として区分された。なお、サハ100形も同様に改造して「700番台」とする計画も存在したが、こちらは実現しなかった。

車体そのものにはほとんど手を加えられていないものの、元々103系が101系の構造を基本に設計されている関係で、連結時の外観上の違和感は少ない。ただし、細部では101系の車高は103系よりやや低く、台車形式も異なる(DT21T形またはTR64形)という若干の差異が見られた。

新番号は連番で付されているが、改造時期、種車の形態、改造の内容によって以下の5種に細分できる。

  • タイプI:サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751~767
非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による冷房化改造と側面行先表示器の設置がなされた。
  • タイプII:サハ101-123・124・126→サハ103-768~770
改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形から改造されたグループ。側面行先表示器は設置されなかった。
  • タイプIII:サハ101-282・299→サハ103-771・772
改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形200番台から改造されたグループ。200番台はMG・CPを搭載する車両であったが、改造時に撤去されている。側面行先表示器は設置されなかった。また、この2両は試作冷房改造車で、冷房装置が車体中心からずれた位置に設置されている。
  • タイプIV:サハ101-115・116・127・128→サハ103-773~776
非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房、側面行先表示器共に設置されなかった。後年、JR東日本に継承された-775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車されている。
また、同じくJR東日本に継承された-774は豊田中原松戸電車区(全て当時の名称)と転用され、松戸電車区ではエメラルドグリーンに塗装された(→#車両塗装)。オリジナルの101系も含め、エメラルドグリーンの101車体はこれが唯一の例である。
  • タイプV:サハ101-119・120・121・122→サハ103-777~780
改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形から改造されたグループ。改造時に側面行先表示器が設置された。また、779以外の3両はJR西日本継承後の1993年に台車が103系と同一のTR212形に交換された。

JR化後はJR東日本とJR西日本に継承された。一部は延命工事が実施された車両も存在したが、車齢の高い車両が多かった事から早期に廃車対象となり、2002年にJR西日本でサハ103-765が廃車となったのを最後に全廃となった。

仙石線投入

クモハ103-9 ドアを手で開けるための取っ手が追加された

1979年より、仙石線の旧型車(主に72系)の置き換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車(1974年~1981年製造)の投入で余剰となった、0番台初期車が投入された。この関係から、山手線京浜東北線横浜線青梅五日市線と様々な出自の車両が集まったが、塗装はスカイブルーに統一(→#車両塗装)されていた。

首都圏とは異なる仙石線の事情から、出入り口の半自動ドア化・客室ヒーターの増設など寒地向け改造が実施されていた。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#103系前期車参照。全車JR東日本に継承された。

名古屋地区投入

クモハ103-36

仙石線(→#仙石線投入)と同様に、ATC対応車の投入で余剰となった0番台初期車が神領電車区に投入された。こちらは初期投入分が京浜東北線と横浜線、後期投入分が青梅・五日市線からの転用と、比較的統一されていた。塗装は仙石線同様にスカイブルーに統一されており、同線と異なり浸透しなかった(→#塗色変更)ものの、国鉄が名古屋地区のラインカラーもスカイブルーにしようとしていたと取れる。

転入に当たって運転席前面ガラスの霜取り用にデフロスターを取り付けた他、ワイパーの増設、サボ受けの設置等が行われている。サボを使う関係で冷房車でも方向幕の表示は行っていない。また、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などの固定表示としていた。

ラッシュ時10両編成で運転していたが、投入当初は首都圏でよく見られた3+7両編成ではなく6+4両編成で運転されていた。これは置き換えた国鉄72系電車が5+5両編成であり、それに近い両数としたためである。1986年11月1日国鉄ダイヤ改正からは日中の輸送力適正化のため、日中運転用の付属編成を3両とするため、7+3両編成となった。

クハ103形0番台の1000番台併結対応化改造

クハ103-188 番号下に白線が見える

1983年常磐線で車両需給上、クハ103形0番台2両+1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じ、該当編成に組まれるクハ103形0番台4両(クハ103-93・188・627・636)に対して1000番台併結対応改造が施工された。

内容は乗務員室に非常用ブザーの取付、非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付で、-188のみ車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)が併せて行われている。この工事の施工車は、一般車との識別のために外部の車両番号下部に白線が追加された。

3000番台(川越線電化など)

3000番台(拝島駅)

国鉄は1974年以降、仙石線に72系4両編成5本計20両、車体を当時製造されていた103系0番台と同一のものに載替える改造を行った車両を投入した(→国鉄72系電車#モハ72形970番台・クハ79形600番台)。

この72系20両は車体だけは103系とほぼ同一であったことから、103系の投入(#仙石線投入)によって1980年までに同線の未更新の旧型車両が置換えられた後も使用されていたが、1985年に同線の車両を103系に統一するために追加投入された103系により置換えられ、運用を失った。

一方首都圏では、この時期国鉄は川越線の電化を行っており、大宮駅川越駅高麗川駅間の区間運転のために電車が必要となった。モハ72形970番台・クハ79形600番台の車体は製造後年数が浅かったため、これらの転用によって必要分を賄う事になり、1985年に集中台検[17]の廃止および工場の予備品見直しにより捻出した103系のMT55形主電動機とDT33形動力台車、101系の廃車で発生したDT21T形付随台車をこれらの車体と組み合わせて新性能化[18]した上で川越電車区(→川越車両センター)に投入した。

これにより、これらの車両は103系に編入されることになったが、以下の理由により一般の103系とは様々な差異が生じており、3000番台と区分された。なお、車端部につけられた製造銘版には改造種車の製造年である昭和27年あるいは昭和29年製造と記載されており、オリジナル103系よりも10年も早くから存在していた事になっている。

  • 仙石線時代の編成はクハ-モハ-モハ-クハであったのに対し、当時3両編成で使用する計画であったために、クハ-モハ-クモハの編成に変更された。一般的な103系の3両編成は制御電動車がパンタグラフ・制御器を搭載するクモハ103形、中間電動車が補器類を搭載するモハ102形となるが、中間車にパンタグラフが取付けられていた種車の車体構造を極力活かす目的で、制御電動車が補器類を搭載するクモハ102形、中間電動車がパンタグラフ・主制御器を搭載するモハ103形に改造された。この車種の違いと車両の向きにより、通常ユニット相手の電動車側に設置されるモハ103形のパンタグラフが、反対側のユニットの外側に設置された。
  • クハ103形の台車は101系発生品のDT21T形が装着されたが、これは#101系サハ101形編入(750番台)の項でも触れた通り、103系のTR212形とは異なる形状であった。さらに費用の問題から冷房化は見送られ、クモハの存在と共に通常の103系0番台1974年度以降製造車には見られない、大きな特徴となった。
  • 103系やモハ72形970番台は主電動機の冷却風を車体側面に設置された風道から採風していたが、元々主電動機を持たなかったクハ79形600番台はその設備を持たず、新たに車体に風道を設置するのでは工事が大掛りとなるので実施されなかった。そこで、モハ72形970番台から改造されるモハ103形と共に、主電動機にフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用され、モハ72形970番台の風道と取入口は1両を除いて改造時に埋め込まれている。また、クモハ102形に搭載のMGについても同様の方式とされた。なお、このMGはモハ72形970番台が装備していたものが流用されている。
  • 川越線も仙石線同様に冬季寒冷となるため、72系時代からの半自動扉機能[19]が残された。このため、戸閉装置は72系時代からの半自動扱の容易なTK8形が引き継がれ、103系とは異なったものとなった。
  • 仙石線時代、タブレットが使用されていたため、タブレットがぶつかる事を考慮して運転台直後の戸袋部には窓は設けられず、その場所には保護板が設置されていた。一部の車両は改造時に保護板が撤去され、同時期のATC車然とした外観となった。
編成構成は以下の通り。
大宮
  • クハ103形3000番台
  • モハ103形3000番台
  • クモハ102形3000番台
サハ103-3004

上記の改造に漏れたモハ72形5両は電装解除されてサハ103形3000番台となった。機器類は他3車種と同様、流用品である。これらは1986年11月のダイヤ改正青梅線の3両編成を4両化するのに使用された。これらはかつて電動車であった関係から、屋根上にパンタグラフ設置跡が残るなどの特徴がある。

編成構成は以下の通り。
立川
  • クモハ103形0番台
  • モハ102形0番台
  • サハ103形3000番台
  • クハ103形500番台・900番台
この書体は組み込み先の編成。

JR化後は路線の関係で全車がJR東日本に継承され、AU712形冷房装置を搭載して冷房化がなされた。1996年には八高線の電化に伴い同線でも使用されるようになると共に、輸送力増強でサハ103形3000番台が川越線の他の3000番台編成に組込まれ、仙石線時代と同じ4両編成となった。また、0番台を改造した3500番台の4両編成1本が増備された(→#八高線 八王子~高麗川間電化関連(3500番台))。

しかし、老朽化により205系等と交代で廃車が進められ、2005年10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運行を終了した。その後もハエ53編成(クハ103-3003以下4両)が予備車扱いで残存し、実際に車両故障で運行に入ったこともあった(これが本当の最終運用となった)が、同年11月中旬までに全車が廃車・解体されて消滅した。

※旧番号との対照は、72系の該当項目を参照。

関西方面編成数増加関連(2000・2050番台)

1986年関西本線(大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加政策[20]に伴い先頭車が不足したため、余剰となっていた101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の2形式が設定された。

  • クハ103形2000番台:クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001~2004
非冷房のクハ100形から改造された車両。奈良電車区に投入され、主に関西本線で使用された。
  • クハ103形2050番台:クハ101-78・83→クハ103-2051・2052
非冷房のクハ101形から改造された車両。日根野電車区に投入され、主に阪和線で使用された。

同様の存在であるサハ103形750番台同様、車体にはほとんど手が加えられていない。101系と103系では前面の窓形状が異なっているため、サハ103形750番台より差異が目立つ車両となった。また、全車とも冷房や側面行先表示器の設置はなされなかった。

JR化後は、両線と共に全車がJR西日本に継承された。やはり、経年や事故で早期に廃車対象となり、1991年にクハ103-2052が阪和線のATS-P形化に際し、対応工事をなされないまま京阪神緩行線に転用される動き(京阪神緩行線#分割民営化前後(1983~1994年)参照)があったものの、1992年までに全車廃車・解体されて消滅した。

冷房化改造

103系では0番台1973年製造車以降、一部を除き冷房装置が標準搭載されるようになり、在来車についても、1975年以降冷房化改造が実施された。

主な改造施工内容は、構体を補強のうえで冷房装置および側面行先表示器取付、モハ102形の電動発電機を制御電源用の20kVAから制御・冷房電源兼用の160kVAに交換等、新製冷房車に準じたものになっている。

一方、1975年夏に関西地区で両端のみ非冷房の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように各区で施工している。

その後関東地区にも同様の事例が発生したが、より本格的に両端の乗務員室内に冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を工場施工で取付けた。また1981年度からは中京地区でも冷房改造が始まり、非冷房先頭車全車に冷房制御スイッチの取付が施工された。

105系への改造

103系の中には改造によって105系となったものがある。それについては国鉄105系電車#改造編入車グループを参照のこと。

JR分社後の状況と各社ごとの改造

103系は元々通勤形電車という大量輸送に特化した形態や国鉄の「標準型」とされていたため、性能・設備面では陳腐化が目立ったが、1983年3月に201系に置換えた中央線快速1986年4月に203系に置換えた常磐緩行線以外、置換えが進まなかった。

しかし、JR化後は各社で新車の投入が進み、急速に廃車が進行していった。特に、JR東海では103系の定期運用が完全に消滅している。その一方で国鉄時代より柔軟かつ徹底した改造が加えられた例も多く、様々な新区分番台も発生している。

JR東日本

初期型(左)と後期型(右)の並び。初期型の前面運行番号表示窓が埋込まれている(南浦和駅

東日本旅客鉄道(JR東日本)管内では、民営化当初2,418両という一大勢力を誇っており、ATSのATS-P形化に際しては、ME40形搭載車の大半についてブレーキ弁のME48形への交換工事が実施されるなど、アップデートが図られてきた。また、南武線、鶴見線用全車両および京浜東北線、常磐快速線用車両の一部は外幌取付に伴う妻窓閉鎖が行われた。また、京葉線用車両は先頭車にスカートが取付けられた。常磐快速線用車両は運行番号表示器がLED式に変更された。

しかし、1990年代からは205系209系E231系などの量産とこれらへの置換えが進んだことにより急速に廃車が進んだ。2006年3月18日のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱し、同年4月8日の常磐快速線でのさよなら運転と、その翌日の車両展示会を最後に、JR東日本の首都圏における103系の営業運転が完全に終了した。

AU712形による冷房化

数多くの非冷房車は、当初は新造車と同じAU75系冷房装置によっての冷房改造であったが、非冷房車は冷房搭載を前提とした設計ではなかったため搭載には構体の補強及び電源用三相交流引き通し増設の工事が伴い、多額の費用と時間を要した。

そこで1987年から屋根上に複数の冷房装置を搭載し、重量を分散することで補強を不要とする集約分散式冷房装置を使用しての冷房改造に移行した。最初に先行改造されたサハ103-128は後述するJR東海のC-AU711系冷房装置に類似したもの(メーカー形式日立FTUR-300-102形)が設置されたが、その他の車両は独自開発のAU712形での改造となった。

冷房電源は当初はモハ102形のMG交換による容量増強で対応していたが、1988年後期からは工期・費用をさらに削減するために屋上別取付のSC24形補助電源装置(SIV)も同時に取付けたタイプも登場した。しかし、これらの車両は元々車齢が高い上にAU712形の冷却能力が低く、またAU75系の車両と混結した場合に冷房電源の関係から冷房が使用できないケースも発生する[21]など編成組成上の制約があり、2005年のモハ103-185・モハ102-340(武蔵野線)の廃車により、営業運転を行う車両では消滅した。

自動分併装置を取り付けたクハ103-574

クハ103形への自動分併装置(電気連結器)の取付

1989年から分割併合運用の多い京葉電車区(→京葉車両センター)の基本編成の下り方Tc車と付属編成の上り方Tc車、豊田電車区の青梅・五日市線用4両編成Tc車、松戸電車区(→松戸車両センター)の基本編成の下り方Tc車と付属編成の上り方Tc車に自動分併装置取付工事を施工している。このうち松戸車では、従来の編成では基本編成の下り方先頭車の一部にMc車が入っていたが、Mc車に同工事を施工すると工事が煩雑となってしまうので、他区からの転用車を組合せて基本編成からMc車を外してTc、Tc'車だけの工事とした。

車両更新改造

国鉄時代から施工されていた特別保全工事に代わる、より一層徹底した施工内容による延命工事で、1988年から行われた。

対象は、施工当初は1967年1972年製の車両とされていたが、のちに1972年以降に製造された車両に対しても施工されている。

主な施工項目は

  • 屋根鋼板の補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化
  • 雨樋取替
  • 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺など)
  • 側窓枠取替
  • 外板塗装更新
  • 空気配管取替と除湿装置取付
  • 主回路配線引替
  • ジャンパ連結器の引替と片栓車の両栓化
  • 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)
  • 室内化粧板とカーテン取替
  • 腰掛脚台、け込板とモケット取替(フットライン入り)
  • 握り棒、荷物棚のステンレス化吊手の取替
  • 各ゴム類の黒ゴム化(戸先、戸当り、Hゴム、押えゴム)
  • 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式:一部車両はドア自体を金属押え方式のものに交換)

これらの工事は多くの工場が担当しており、化粧板の柄や腰掛モケットが微妙に異なるなど、いくつか仕様に差異が見られる。また、大井工場施工車の一部には袖仕切の設置が施工されている。

訓練車

モヤ102-3(浦和区所属)
  • 予備車の削減で一般営業用車両を現車訓練に用いることが難しくなっていることなどから、JR東日本は余剰車両を現車訓練専用車両(訓練車)に改造して各地に配属した。103系においては、1990年度末に非冷房車の3連3編成を用意し、豊田電車区、浦和電車区、松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。
  • 浦和電車区と豊田電車区のモハ102形については、一部のドアの締め切りや荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため営業用車両から事業用車両に変更となり、新形式のモヤ102形となった。
    • 豊田電車区 クモハ103-44+モヤ102-1(←モハ102-138)+クハ103-522
    • 浦和電車区 クモハ103-45+モヤ102-2(←モハ102-140)+クハ103-540
    • 松戸電車区 クモハ103-64+モハ102-168+クハ103-54
  • その後、改造種車が非冷房だったことや、ATCやATS-S形およびP形が未搭載で本線運転に制約があったことから、1994年度末に冷房車の4連3編成と交代となった。豊田電車区と浦和電車区への配置編成は、同様にモハ102形をモヤ102形に改造した。
    • 豊田電車区 クハ103-341+モハ103-363+モヤ102-4(←モハ102-519)+クハ103-342
    • 浦和電車区 クハ103-399+モハ103-352+モヤ102-3(←モハ102-508)+クハ103-400
    • 松戸電車区 クハ103-335+モハ103-274+モハ102-429+クハ103-336
  • 浦和電車区の車両は同区の営業用車両が209系に統一された後も使用されていたが、旧仕様の103系では訓練に対して実用性が低くなることもあり、2000年に廃車となった。また、豊田電車区の車両については、201系四季彩編成が訓練車を兼ねる存在になることから、やはり2001年に廃車となった。松戸電車区のモハは、同区我孫子派出の車輪転削装置の改修に伴う予備車確保のため、晩年、白帯や「訓練車」の文字を消して営業に復帰した時期もあったが、首都圏に最後まで残った同区の103系が営業から離脱するのに合わせて2006年に廃車となり、103系の訓練車編成は消滅した。
サハ103-803
一時期見られた非冷房のモハ103-107と冷房車のモハ102-911のユニット

910番台転用関連

  • 山手線の同一編成内に連結されていた910番台が、他線に転属するのにともない電装解除されたグループである。910番台の全6両のうちモハ102-911・913以外の4両と、それら2両と交換でユニット解除された0番台モハ102形2両が改造を受けた。
  • 改造点は電装関係機器の撤去、旧モハ103形のパンタグラフの撤去とベンチレータの設置、および台車のTR201形への交換などで、床下機器配置などに一般のサハ103形と異なる部分があった。全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載する。
  • 改造後は全車が常磐快速線に投入された。廃車は2段階に分けて行われ、国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が1993年に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が2003年に廃車され消滅した。
  • 車番の対応は以下の通り。
    • モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→順にサハ103-801~806

前面強化工事

成田線踏切事故運転士殉職したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事を1995年3月末までに行った。113系などでは電車区で施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、当系列では主に検査入場の際に工場にて鋼板を取り付ける工事を行った。なお、1974年以降に製造された高運転台の先頭車は製造当初から前面が強化されているため改造対象にはなっていない。また、1993年12月までに大宮工場(当時)にて施工された車両は標識灯上部の足掛けが外側にズレて設置されているが、インドネシアに渡った初期先頭車は全車がこの形態となっている。

八高線 八王子~高麗川間電化関連(3500番台)

1996年(平成8年)3月の八高線八王子駅高麗川駅間の電化に伴い川越線用の103系が同線でも使用されるようになったが、運用区間の延長で既存の車両では必要編成数が賄えなかった。

そこで、#0番台4両編成1本が寒冷地走行用に半自動扉機能設置の上で川越電車区(現・川越車両センター)に投入された。両先頭車は元京葉線京葉電車区)の車両で、1974年以降の「高運転台」系状の前面の車両。中間モハユニットは元京浜東北線浦和電車区)の車両で、1983年~1984年製造の最末期の製造車だった。

これらは改造により、新たに3500番台と区分された。既存の3000番台の半自動扉は手動で開閉する方式であったのに対し、こちらは押ボタンで開閉する方式とされた。

編成構成は以下の通り。

  • クハ103形3500番台:クハ103-725→クハ103-3501
  • モハ103形3500番台:モハ103-790→モハ103-3501
  • モハ102形3500番台:モハ102-2047→モハ102-3501
  • クハ103形3500番台:クハ103-738→クハ103-3502

3000番台同様に使用され、2005年3月に運行終了。のちに解体されて消滅した。なお、JR西日本には播但線用に「3500番台」に区分された車両が存在する(→#播但線投入(3500番台))が関連性は全く無く、設定形式も重複していない。

仙石線への車両更新車の投入

復活に向け試運転中の仙石線103系(陸前赤井駅にて)

1989年以降、在来形の103系置換え用として仙石線に入線した車両には、車両更新工事が施工されたが、通常の更新車と異なり、窓を上段下降・下段固定のユニット窓に交換、ドアを窓が大きいものに交換、前面窓を2枚窓化、運行番号表示器を列車愛称表示器化などの工事が施工された。ただし、車両更新を終えてから転入した3編成は窓とドアの交換が省略されている。後に扇風機やベンチレーターの撤去も実施された。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両を参照。

各線からの撤退

201系・205系・209系・E231系等の投入・転用により下記の通り撤退した。時期は運用離脱時で撤退後にイベント運転されたケースもある。

現存車・保存車

現在、東日本には以下の車両が存在する。

  • 仙石線用の4両編成1本は2004年7月の運用終了後も廃車されず東北本線郡山駅構内に留置されていたが、2006年11月にトイレ設置・床下機器のグレー塗装化や103系で初となるシングルアームパンタグラフ設置といった追加改造が施工された。これは同線多賀城駅付近の立体交差化事業により、本来多賀城まで運転されていた列車を東塩釜まで延長運転することになったため、編成不足を予測しての予備編成確保のためである。仙台への回送後試運転を重ねていたが、2007年4月現在、平日のみ特定の運用に限って営業運転に復帰している。
  • 埼玉県さいたま市の某運動場には、1990年5月まで京浜東北線で使用されていたクハ103-560が保存されていた。ただし、盗難や落書などの被害にあったり、戸袋部の外板の腐食が進むなど、状態はかなり悪くなっていて、2007年の夏頃に姿を消した。なお、この運動場は私有地につき関係者以外立入禁止である。
  • 東芝の府中工場内には、同社がJR東日本から譲受したクモハ103-58+クハ103-525が機器をインバータ制御対応のものに改造された状態で留置されている。車体は前面窓以外に田園風景が描かれ、クーラーはAU720形に交換されている。また、クハ103形には走行のためにモハ102形相当の機器が増設されていると見られる。
  • 常磐線で使用されていたクモハ103-147は廃車とともに個人に売却された。
  • 鉄道博物館内には元京葉線のクハ103-713の運転台側半分が置かれ、館内のラーニングゾーン1Fの「駅構内ラボ」にて駅構内の業務を体験する為に使用されている[22]。館内搬入前は大宮総合車両センターで保管され、2006年5月の車両センター一般公開時には、同所を表す「宮オオ」の配置表記が書き込まれていた[23]。なお、後位側は2007年2月中旬に解体された。
東大宮センターの訓練車(2008年撮影)
  • 東大宮操車場(大宮総合車両センター東大宮センター)内にあるJR東日本の乗務員訓練所には、元豊田電車区のクモハ103-100+モハ102-224に元浦和電車区のクハ103-332の先頭部を接合した2両編成が配置されている。無車籍の訓練車で、クハ103-332が装備していたATC機器も模擬ATCとして稼動している。外観では山手線時代の205系をイメージしたオリジナルの塗装の他、閉鎖されたクモハ103形の運行番号表示窓、改造クモハ102形の、新造車には存在しない非ユニット窓+高運転台の組合せ、AU712形冷房装置が特徴である。なお、2008年現在209系を改造した訓練車が同操車場に留置されているが、こちらの導入によって本系列の訓練車が置き換えられるかどうかは不明である。

JR東海

JR東海は国鉄時代から配置されていた70両を承継したが、初期車両が多かった事から冷房車を含む20両を更新工事など一切行わずに廃車し、残った50両には以下の改良工事を実施した。なお、JR東海にはクハ103形の高運転台車(=1974年以降製造車)は存在しなかった。

塗色変更

JR東海が引継いだ車両は全てスカイブルー一色であったが、後述のリフレッシュ工事が施工された車両は、同社のイメージカラーであるクリームにオレンジと緑の帯に塗替えられた。#車両塗装の項も参照。

C-AU711A形による冷房化

C-AU711Aによる冷改車。写真の車両は床下にSIVを搭載している。また、リフレッシュ工事のため側窓等に変化が見られる。

国鉄時代はAU75形冷房装置にて改造されたが、民営化後は冷房装置を2個にして冷房改造時の車体補強等の関連工事を簡略化した集約分散式のC-AU711A形を用いて改造された。また冷房用の電源としてモハ102に補助電源装置(SIV)が取り付けられた。

リフレッシュ工事

JR化後は室内のアコモ関係で他の車両との格差が目立つようになった。そこで、特別保全工事に室内のリフレッシュ工事を併施することになった。211系5000番台の水準をベースとしており、側窓の上段下降・下段固定のユニット窓化、側扉・妻扉取替、握り棒・荷物棚のステンレス化、腰掛袖仕切取付、腰掛のバケットシート化、塗色変更などが施工された。但し、全車同様ではなく、車両により改造メニューは異なっており、結果側扉、側窓、冷房等に差異が発生した。

これらの改造が行われた車両は、朝夕を中心に中央西線(名古屋瑞浪間)で3両+7両の10両編成を組みラッシュ時の輸送を行ったほか、関西本線でも3両編成が単独で運用された。しかし、老朽化とともに他形式が高速化するにつれてダイヤ上の足枷となり、313系の導入に伴い1999年に定期運用から離脱し、2001年までに全車が廃車された。

クモハ103-18

現在はクモハ103-18の1両のみが美濃太田車両区に保管されているが、屋外に置かれているため腐食や褪色が見られる。モハ102形は既に解体されているためユニットが組めず、また補機類もないことから自走できない。

JR西日本

894両を国鉄から承継した西日本旅客鉄道(JR西日本)は、初期~中期型の車両が多く在籍していたことから、積極的に延命を図っている。また、JR化後に新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。

羽衣線クモハ123併結用クハおよびワンマン運転対応編成

ファイル:JRW Hanwa-Hagoromo-103.jpg
羽衣線で運転される103系。写真は2500番台(後述)唯一の体質改善車が含まれる編成でもある。

羽衣線には1987年荷物電車クモニ143形改造のクモハ123形、クモハ123-5および6が投入されたが、同時に日根野電車区のクハ103-194がラッシュ時の3両運転用増結車として指定を受け、1995年に阪神大震災後の応援車両として貸し出されるまでの間専属で使用された。

1989年秋から羽衣線はワンマン運転を行うことになり、クハ103-194、クモハ123形2両および予備車として103系3両にワンマン運転対応改造が施工された。また、クハ103-194は1991年にWAU102形による冷房化と延命N工事を受けた。なお、クハ103-194転出後は、大阪環状線で使用されていたサハ103-758が朱色のままワンマン運転対応改造が施工され、クモハ123形2両で挟んだ3両編成で運転された。

なお、阪神大震災後の応援運用を終えたクハ103-194は、事故廃車となったクハ103-839の補充として福知山線に転用、あわせて塗装もカナリア色に変更されたが、前面行先表示機が手動であるなど異端な存在であったことから、3500番台への運転台部品供出のため1997年に廃車となり、福知山線での運用期間は短かった。

1995年以降は、新たにワンマン運転対応改造を受けた103系の3両編成(クモハ103-23+モハ102-105+クハ103-26)が追加投入され、クモハ123形2両はクモハ84形置き換えのため岡山電車区に転出した。

また、2007年には2編成6両にワンマン運転対応改造が施工される一方、1989年と1995年にワンマン化改造された2編成は廃車となった。なお、ワンマン運転対応編成のうちの1編成は、通常は一般のサハ103形を挟んだ4両編成にて阪和線で使用されている。

WAU102形による冷房化

ファイル:P1000148.JPG
WAU102搭載車

JR西日本の冷房改造は、当初他の2社同様、国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、1988年より改造コスト削減と早期の改造進展のために車体にかかる重量が分散され、ダクト設置の必要もない、分散式のWAU102形を1両あたり3基搭載する方法に改められた。

冷房電源は通常のモハ102形へのMG増強ではなく、1編成あたりクハ103形1両(大阪環状線用8両編成のみ両端のクハ103形2両)に冷房用静止形インバータ(SIV)設置でまかなうこととされた。また、製造会社による形状の違いも認められており、東芝製と三菱電機製では外部ルーパー形状などに差異がある。性能には大差はないため、混載する車両も存在する。

WAU102形が設置された車両は各地に広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから、特に関西地区では優先的に廃車が進められ、2007年7月、日根野区に配置されていた羽衣予備編成4連1本の廃車をもって関西からは消滅。2007年10月現在で残存しているのは広島運転所の3両編成3本(順にクモハ103-48・2501・2502+モハ102-145・403・404+クハ103-86・171・170)計9両のみとなっている。なお、廃車時に取外された冷房装置や電源用SIVは105系の体質改善工事の際に一部が再利用されている。

関西本線関連(2500・2550番台)

大和路線の愛称もつけられた関西本線では、国鉄時代(→#関西方面向け改造車(2000・2050番台))に引き続いて編成短縮と編成数増加が行われた。国鉄時代とは異なり、不足した先頭車は余剰となった中間車(0番台1971年~1972年製造車)の改造でまかなわれることになり、1988年に以下の2形式7両が改造された。

  • クハ103形2500番台:モハ102-387・388・397・398→クハ103-2501~2504
  • クハ103形2550番台:モハ103-233・242・243→クハ103-2551~2553

2500番台はモハ102形からの改造車で、種車の前位に運転台を設置して方転し、偶数向き専用。2550番台はモハ103形からの改造車で奇数向き専用とされた。2500番台の方が1両多いのは、羽衣線に転用されたクハ103-194(→#羽衣線投入)の分を補充する必要があったためである。

JR西日本の方針により、新設された運転台は、1974年から103系基本番台の最終製造まで採用された高運転台型ではなく、より古い低運転台・シールドビームの「1次改良型(1971~73年)」とされた点が特徴である。

前面以外の改造は電装解除と旧モハ103形のパンタグラフの撤去にとどめられ、パンタグラフ脇の歩み板や、一部の車両は側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口も存置された。台車も、種車のDT33形を小改造(改造後の形式はWDT33T形)したのみで継続使用している。

その一方、2551・2552はパンタグラフ撤去跡に通風器が増設された。改造時は全車非冷房であったが、後に全車とも分散式WAU102形による冷房化を受けている。しかし、種車の車齢が高く、冷房能力も劣ることから早期に廃車対象となり、2500番台は3500番台への運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は大阪環状線で余剰となった、状態の良い他の103系に置換えられて2006年3月1日に全廃されている。

片町線 長尾~木津間電化関連(5000・2500番台)

1989年3月11日に片町線(学研都市線)が全線電化されたが、その際に開設された松井山手駅以西は7両編成で運行できたものの、以東の各駅はホームなどが短く、そのままでは入線できなかった。そこで、松井山手駅以西から来た電車は松井山手駅で京橋方4両を切離し、木津方3両のみが木津方面に入線するという運用が行われることになり、同線の車両に連結・解放に備えた整備・改造が実施された。

具体的には、京橋側からクハ103-モハ103-モハ102-サハ102+クモハ103-モハ102-クハ103という編成であった。

1990年には木津乗り入れ編成を4両編成とする組成変更が行われ、

クハ103-モハ103-モハ102+クモハ103-モハ102-サハ102またはサハ103-クハ103と構成が変化した。
なお、「+」は電気連結器この書体は以下で説明する、改造を受けた車両である。
クモハ103-5003 連結器下の機器が電気連結器
  • クモハ103形5000番台:クモハ103-48、モハ103-248・249・241・295・304・427・435・480・485・499・727・729・770・772・780→クモハ103-5001、5002~5016
上記の分割・併合の迅速化のため、電気連結器と電気空気開閉器を搭載する制御電動車である。5001はクモハ103形の改造車であるが、後の15両はモハ103形に運転台が設置されてまかなわれた。新番号は5004を除いて古い順に振り直されている。
新設された運転台は、上記のクハ103形2500・2550番台と同様に1次改良型タイプとされたが、5001番を含め、奥行きがやや広く取られており、運転台直後の戸袋窓が改造時からない。また、種車が多岐に渡るため、前面以外の形態は各車毎に異なっている。
クモハ103-2507
1993年~1995年に新造の207系投入により、順次電気連結器関連の装備を撤去の上で他線に転用された。その際、5001は原番復帰、5002以降は5000番台時の車号-2501され、新たにクモハ103形2500番台と区分された。
さらに、1997年~1998年にかけて9両が3500番台に改造され、2007年10月現在では広島運転所に48・2501・2502、日根野電車区に2503・2504・2505・2507の計2か所7両の配置となっている。2504はユニットを組むモハ102-451とともに体質改善40Nが、2503と2504は羽衣線用ワンマン運転対応工事が施工されている。


サハ102-2 電気連結器等撤去後の姿
  • サハ102形5000番台:サハ103-385・277・280・281・286・290・320・323・366・383・386・390・416→サハ102-5001~5013
上記クモハ103形5000番台の分割・併合相手として、サハ103形0番台から改造された付随車である。運用時、松井山手駅に残される関係で尾灯掛のみが設置され、運用範囲が狭いことからクモハ103形5000番台より3両少ない(4両編成そのものが3本少なかった)。
電気連結器等の装備の設置の際、既存の床下機器と干渉したために車両が方向転換され、逆側の車端部に設置された。このため通常のサハ103形と前後逆になっており、取り扱いが異なることから、区分番台ではなく別形式が起こされた。やはり、5001を除いて新番号は古い順に振り直され、車両毎に形態に差異がある。
編成構成の変更により1年足らずで改造の意義が失われ、装備撤去と番号の-5000が行われてサハ102形0番台となった。ただし車両の向きは戻されず、側面方向幕の設置位置[24]など、向きの違いによる差異はその後も残っている。1993年からはクモハ103形5000番台と共に他線に転用され、1と9~13には延命N40も施工されたが、2006年から廃車が始まり、2008年に最後の1両となっていたサハ102-9が廃車となって、サハ102形は消滅した。
  • モハ102形5000番台:モハ102-395・450・459・590・635・638・640・654・882・884・2026・2028・2041→モハ102-5001~5013
編成組成の変更に伴い、新たにクモハ103形5000番台の分割・併合相手として電気連結器、電気空気開閉器、尾灯掛が設置された、モハ102形0番台からの改造車である。内容はサハ102形5000番台に準じているが、方向転換はなされていない。
上記2形式同様、順次片町線から撤退して他線に転用された。その際などに電気連結器を撤去した車両もあったが、元の番号への復帰は、電気空気開閉器を撤去した段階で行われている。現在では体質改善工事を受けた車両もあるが、尾灯掛は残されているため妻面の形状が一般のモハ102形と異なっている。
  • サハ103形2500番台:モハ103-232→サハ103-2501
編成組成の変更に伴い、モハ103形0番台から改造された付随車である。
4両編成のサハ102形は木津乗り入れの3両編成の増結に使われることとなったが、先述の通り乗り入れ編成に対して4両編成は3本少なかったために車両不足が生じた。この際、2両は一般のサハ103形が用意されたが、残りの1両にはユニット相手のモハ102-387がクハ103形2500番台に改造されたために余剰となっていた、モハ103-232が活用された。
クハ103形2550番台から運転台設置を省いた形態をもつ。片町線からの撤退時に余剰となり、改造時にWAU102形による冷房化および延命N工事を施工されていたが、僅か2年で廃車となった。

ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換

ATS-P形の導入に伴い、JR西日本でも対象線区で運用される本系列について、その運転台に装備されているブレーキ弁の改修が実施されている。ただし、電源投入方式がJR東日本のそれと異なるため非常抜取対応のME48形は導入されず、従来のME40形の電気接点部分の改造で対処されたほか、その後117系などに採用されたME49系への交換が開始されている。

座席モケット交換

イメージアップの一環として、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分が入ったものに交換された。その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。優先席も青地にピクトグラムの入ったものに交換されており、こちらは現存する全車が施工済みである。なお、JR東日本から売却された8両のうち、広島運転所に投入された先頭車2両は現在もJR東日本仕様のままで残っている。

腐食対策

延命の一環として、腐食の原因を取り除く、各種の改造がなされた。

  • 窓閉塞

雨水の浸入を防いで車体の腐食を遅らせたり、窓の清掃を簡略化するため、1990年より戸袋窓の閉鎖工事が、1997年からは妻面窓の閉鎖工事が行われた。2007年7月現在で戸袋窓が残存しているのは日根野電車区、岡山電車区、広島運転所に4両編成1本ずつ、計12両のみである。また、妻面窓については閉鎖ではなく、オリジナルの2段開閉式から、一枚固定ガラスに交換された車両も存在する。

  • 扉交換

腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製からステンレス製に交換した車両がある。新しい扉は車両によって窓の支持方法が異なっているほか、貫通扉はオリジナルより窓が下方に長いものとなった。これらは現存するほぼ全車が施工済みである。扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、側扉への施工はごく少数に限られて、大部分の車両では金属地むき出しとなっている。

  • 前面金属板設置

窓を支持するHゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆った車両がある。この工事は金属枠支持の体質改善車、広島運転所所属車[25]#広島支社投入)、和田岬線専属車(→#和田岬線投入)およびクモハ103形2500番台は対象外となっている。


広島支社投入

下関運転所115系非冷房車置き換えのため、山陽本線下関地区に103系が投入されることになり、その転入整備が吹田工場鷹取工場で施工された。主な整備内容は同線用ATS-S形列車無線の取付、同線標準の瀬戸内色への塗装変更、方向幕不使用のため行先表示板(サボ)受けの設置などである。なお、サボ受け設置位置に弱冷車表記があり、干渉したために移設された。ただし、弱冷車表記は移設前にも後にも使用されていない。

1992年5月から順次運行を開始したが、トイレを持たなかったことが不評であったため、115系などのトイレ付き近郊型電車に置き換えられる形で下関地区から撤退し、同線広島地区に順次転用、広島運転所に配属された。後に方向幕の使用が開始され、現在では行先表示板は使用されていないが、サボ受けの撤去はされていない。また、広島支社に配置されている他形式と同様に前面方向幕は使用されず、運行表示機には編成番号が掲出されている。

行先表示板使用停止後に転入した4両編成1本はサボ受けを持たない。車両需給の関係で広島地区から関西地区に再転属した車両も存在し、一部はサボ受けが使用される機会はないものの存置されているため、サボ受けがついた車両が関西地区でも見られる。

2008年になり、3本のみ配置されている3両編成のクハ103形にトイレの設置が行われた。該当車ではトイレ部分にあった方向幕が移設されている。

岡山支社投入

当初投入分の内の一両。塗装が独自のものだった。

下関地区と同様に115系非冷房車を置き換えるため、1994年より、広島支社(→#広島支社投入)に続いて岡山支社にも103系が投入された。こちらは岡山電車区に4両編成5本20両の比較的少数の配置で、山陽本線岡山地区や宇野線など用である。入線に際し、独自の「マスカット色(→#JR設定色)」に塗装された。

これらは全て0番台のクハ103形-モハ103形-モハ102形-クハ103形(→#形式)という編成構成であり、先頭車は1971~73年製造の「1次改良型」の前面形状、中間車は1971年以降のユニット窓装備車で揃えられていた。さらに、冷房装置は全車一般的なAU75形1機搭載で、中間モハユニット3組が延命N40、それ以外の14両がNの延命工事戸袋窓閉塞が実施済みであるなど、編成ごとの差異は少なかった。

長らくこの20両で推移していたが、2004年213系の「マリンライナー」からの転用を受けて運用を離脱。3編成が広島支社に、N40モハユニット1組が奈良電車区にそれぞれ転用され、このモハユニットと編成を組んでいた先頭車2両は廃車された。残った1編成は予備として岡山に残されたが2006年に廃車され、当初投入の車両は全車撤退となった。

しかし、前後してアーバンネットワークでの車両置き換えにともなって奈良電車区や日根野電車区で発生した余剰車の転入があり、再び103系の運用が設定された。この時の投入車両は1994年投入分と同じ0番台であるものの、全てクモハ103形-モハ102形-サハ103形-クハ103形の編成構成で、かつ初期車の率が高く1本は戸袋窓が存置されているなど、比較的状態が悪いものだった。現在までに数度の入れ替えがあり、クハ103形-モハ103形-モハ102形-クハ103形の構成の編成も在籍するようになっている。ただ、塗装は、元の配置場所(→#車両塗装)のままで統一されていない。

スカート設置

201系などと共に、衝撃への耐久性を高める目的で設置された。すべての先頭車が施工済みである。

延命工事

国鉄時代の「特別保全工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。試験的なものを除くと、内容によって以下の4種に分かれる。

  • 延命N
製造から30年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換および内壁の張替が行われた工事で。1972年までに製造された車両の大半が該当している。
  • 延命NA
国鉄時代に特別保全工事を受けた車両に内壁の張替など前述の延命N工事と同様の工事が追加された工事。重複する部分は省略された。
  • 延命NB
初期車(窓がユニットサッシでない1970年以前の車両)が延命N工事と同時にWAU102形による冷房改造と、側窓の延命N40工事(後述)で使用されるものと同様の黒サッシへの交換が行われた工事。この工事を受けた車両は11両にとどまり、2006年4月までに全車が運用を終了し廃車となっている。
  • 延命N40
製造から40年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換・内壁の張替および窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など、上記3種よりも徹底した内容の工事が行われた工事である。主に1973年~1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも実施された。なお、この工事で採用された黒色サッシは取り付け部の枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少している。


体質改善工事

体質改善工事試作車

1996年以降、後継車両の207系との落差改善と延命N40工事以上の徹底した延命を目的とした、リニューアル工事が実施された。これらの工事を受けた車両の車両番号標記は、国鉄時代の丸ゴシック体から、JR西日本独特の書体に変更されている(ただし、森ノ宮区所属車に見られる制御車前面の車番表記は国鉄書体である)。

体質改善40N

老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため、屋根の張上化、一部外板のステンレス化、屋根上通風器の撤去、側面ルーバー形状の変更、方向幕形状の変更、運転台の整備、運転台・ドア窓支持の変更(私鉄のような金属枠)、窓サッシの交換(ドア間は下段固定・上段上昇の3分割バス風逆T字サッシ、車端部は固定1枚)、運行番号表示器・行先表示器・前灯部分の内支持化(初期は金属枠)、内壁・床の張替、座席クッションの更新、荷棚のパイプ化、照明へのカバー取付、扇風機のラインデリアへの交換、冷房風道のラインフロー化が実施された。

この改造を最初に受けた8両編成1本(改造試作車)は、ドアエンジンが戸袋下部に設置された旧形国電以来のTK4形からドア上部設置の直動式に交換され、座席は全交換(207系と同一の、下部が空洞の片持ち式座席)、前灯は原形のまま、妻窓も残されたままなど、やや特殊な内容となっている。これらの工事内容は次第に簡略化が進み(冷房風道のラインフロー化をやめ従来風道の再用に、ラインデリア化をやめ扇風機の改造に変更など)、2002年からは後述の30N工事に移行した。

体質改善30N

2002年以降新車投入ペースが速まり、種車となる103系の車齢も高まっていたことから、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小されたものである。特に直接保守面、接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡素化され、体質改善40Nに比べてドア・側窓・屋根樋等が原形のままとされている。1973年以降に製造された車両のうち、上記の5種類の更新工事を全く受けずに残っていたクハとモハが対象とされ、2005年までにそれに該当するクハ全車と1ユニット(M405-M'561)を除くすべてのモハが実施されて終了した。


播但線投入(3500番台)

3500番台
クモハ103形3500番台

クモハ102形3500番台
起動加速度 2.5km/h/s
重量 42.0t(クモハ103)

~42.6t(クモハ102)

保安装置 ATS-SW

1998年3月14日の播但線姫路駅寺前駅間の電化により、同区間で本系列が使用されることになった。車両は需要とワンマン運転の利便性から、営業用としては本系列初の2両編成となり、改造費抑制のために既に片側に運転台を持つ2500(←5000)番台クモハユニットから9本が1997年~1998年にかけて改造され、網干総合車両所に投入された。

この改造により、新たに3500番台と区分された。JR東日本に同じ番台区分が存在した(→#八高線 八王子~高麗川間電化関連(3500番台))が、関連性は全くなく、設定形式も重複していない。改造には状態の良い車両が選ばれたため、種車が新しいユニットが中心となっている。

編成構成は以下の通り。
↑寺前
  • クモハ103形3500番台:クモハ103-2506・2508~2515→クモハ103-3501~3509
クモハ103形2500番台から改造された車両。
  • クモハ102形3500番台:モハ102-583・636・641・655・883・885・2027・2029・2037→クモハ102-3501~3509
モハ102形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ102形となった[26]。運転台形状はクモハ103形2500番台に合わせ、1971~73年製造の先頭車に準じた低運転台の「1次改良型」とされている。なお、一部に廃車車両から流用された部品が使用されており、機器捻出のために廃車された車両も存在する。

全車とも改造と同時に体質改善40N工事が施行された。一部、既に延命N40工事が施工されている車両が存在し、該当車は重複施工となっている。内容は基本的に同時期の一般の体質改善車に準じているが、ワンマン運転時の運転席からの視認性向上のために運転台仕切りと妻面貫通扉の窓が拡大されているのが特徴となっている。また、車内で運賃収受が行われることから、運転台仕切りにバスタイプの運賃表示器と非ワンマン時は運転台背面に格納できる運賃箱が設置されている。

車外では、ワンマン運転時に一部扉が閉め切られる事から、客用扉付近に出入口を明示するLED表示器が設置され、クモハ103-3503と-3509には運転台上部に冬季の架線取用パンタグラフの増設準備がなされている。2005年から2007年にかけてクモハ102形に後述の3550番台と同型のトイレが設置され、該当部分の窓が埋め込まれた。塗装も独自のもの(→#JR設定色)である。

応援編成。投入当初で、比較的綺麗な状態。

これらに加え、2006年3月には日根野電車区から旧阪和線用の0番台6両編成1本[27]が投入された。これは、姫路駅の高架化工事の進展によって山陽本線の線路と播但線の線路との間を構内入換で転線することが一時的に不可能となり、221系電車による朝ラッシュ時の応援運用ができなくなったためである[28]

この6両はラッシュ時以外に使用されないことから、3500番台に実施された各種の改造はなされず、塗装も阪和線のスカイブルーから変更されなかった。同年11月に検査期限が近づき、かつ同時期に223系2000番台4次車投入で113系に余裕が発生したのを受けて同系列の6両編成と交換された。全車最初期の1964年製造で老朽化が進んでいたため、同年12月15日付けで全車廃車されている。

和田岬線投入

和田岬線の103系

2001年の同線の電化に伴い、スカイブルーに塗られた延命N40工事車統一の6両編成1本が網干総合車両所明石品質管理センターに投入された。1本だけの配置のため、検査等で運用に就けない時には同区の207系等が代走する。

また、同線に電車が無い日中時間帯に乗務員訓練に使用されるため、前面にワイパーが3本取り付けられているなどの特徴がある。

加古川線投入(3550番台)

3550番台
クモハ103形3550番台「2パンタ」車
クモハ102形3550番台。後部の窓が無い部分がトイレ。
起動加速度 2.5km/h/s
重量 42.0t(クモハ103)

42.3t(クモハ103 2パンタ車)
~42.6t(クモハ102)

保安装置 ATS-SW

2004年12月19日の加古川線全線電化に際し、播但線と同様(→#播但線投入(3500番台))と同様にワンマン運転対応の2両編成が投入されることになった。加古川鉄道部厄神基地に8本が配置されたが、これらは様々な変更が加えられており、新たに3550番台と区分されている。

編成構成は以下の通り。
谷川
  • クモハ103形3550番台:モハ103-659・660・714・715・726・728・730・731→クモハ103-3551~3558
モハ103形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ103形となった。
  • クモハ102形3550番台:モハ102-815・816・870・871・882・884・886・887→クモハ102-3551~3558
モハ102形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ102形となった。

3500番台はクモハ103形ユニットの反対側のモハ102形に運転台が設置されて組成されたが、このグループは体質改善40N工事施工済みの中間モハユニットから改造された。これは、この時期体質改善工事は簡略化した体質改善30N工事に移行していた上、3500番台に改造されずに残っていたクモハ103形ユニットは年齢が高い車両が多く[29]、さらに、後述の通り前面形状に変更があるため、既存の運転台がそのまま使えないという事情があったためである。

よって、種車捻出のために森ノ宮電車区奈良電車区の103系編成から中間モハユニットが抜き取られ、両端に運転台が設置された。運転台形状はそれまでの改造車から大幅に変更されて、前照灯が窓下に配され、2編成連結時に乗客の通行ができるよう貫通扉が設置された、1500番台に近いものとなった。この措置は同時期に改造されたクモハ115形1600番台との共通点が見られる。

また、クモハ102形にJR西日本の103系で初めてトイレが設置された。これは洋式であるが、車椅子対応ではない。さらに、クモハ103形の一部は冬季の架線取用に、運転台上部にパンタグラフが増設(以下2パンタ車と表記)されている。

吹田工場で改造された車両と下関車両センターで改造された車両では、床面ビニールクロスの色や妻面部分化粧板の固定方法など細かい部分での仕様差がある。また、完成が電化より早く、登場からしばらくは網干駅などに留置されていた。

3500番台と共に比較的分割・併合が多い路線に配置されるが、どちらも電気連結器などは未装備である。

福知山線脱線事故関連

戸袋窓閉塞後のモハ102-841の車内。この車両は壁材が2色になっている。

2005年4月25日の福知山線脱線事故により被災した207系の一部廃車および既存車両の帯色変更工事、117系ATS-P形非装備による同線からの撤退などの事象が重なり、車両が不足するようになった。この頃は新車投入による網干総合車両所113系宮原総合運転所の103系の廃車・転出がほぼ完了していて一時的に代替車の都合が付かない状態にあったため、必要車両をJR東日本から購入して賄う事となり、武蔵野線で使用されていた8両編成1本を同年7月28日付で譲り受けた。なお、到着までの間は森ノ宮電車区が貸し出した大阪環状線の車両が不足分を補っていた。

これらの車両は既存の西日本車と編成を組み替えられ、先頭2両が広島地区、残りの中間車6両が関西地区に配備され、現在までバラバラに使用されている。車両不足が解消されてくると順次戸袋窓閉塞工事が行われたが、貫通扉は窓の小さいものを装備し続けており、深度の延命工事は行われていない。

現状

以上のような改造を受けつつ多くの車両が今も運用を続けているが、置換えも進んでおり、短編成化で余剰となったサハをはじめWAU102形搭載車や老朽化した初期車、さらにはユニット窓の1971~1972年製造車の一部にも廃車が発生している。

片町線(学研都市線)、東海道・山陽本線(JR京都・神戸線)福知山線(JR宝塚線)は、JR東西線への入線対応や高速化のために207系に置き換えられて既に消滅している。山陽本線岡山地区もロングシートである点やトイレがない点が不評であったために、213系などに置き換えられて一旦は消滅したが、2006年に入ってから日根野電車区および奈良電車区の余剰車(すべて4両編成)がそれぞれそのままの塗装で、行先表示幕を変更のうえで転属、岡山支社管内の電化区間で運行を再開している。

2006年~2007年には、JR京都・神戸・宝塚線系統に新型通勤形電車の321系が投入され、201系大阪環状線桜島線(JRゆめ咲線)・関西本線大和路線)に、205系阪和線に転用された関係で、西日本全域で大規模な103系の転属と廃車が行われた。JR東日本の場合と異なり、JR西日本では今後もしばらく103系を使用する方針のため、編成替えにより延命工事施工車や後期製造車で状態不良車を置き換えるという103系同士の置き換えも多々見られた。これによって以前より数が減ったが、現在でも初期製造車、延命工事未施工車も在籍し営業運転が続けられている。

JR九州

編成分割

ファイル:Electric car type 103-1500 kyushu 1.jpg
2代目九州色
3+3の6両編成で運行中の様子
  • 以下の2形式が改造された。
    • クモハ103形1500番台
    • クモハ102形1500番台

筑肥線の日中の電車の一部が3両編成での運転とされることになり、元々6両編成であった編成を2分割して中間運転台を取付ける改造を実施した。元の先頭車の向きにより「クハ103形-モハ103形-改造クモハ102形(奇数編成)」「改造クモハ103形-モハ102形-クハ103形(偶数編成)」の2通りの編成パターンが存在する。クハの前面貫通路が非常用なのに対し、改造先頭車は併結時に通路となるため105系仕様の前面が取付けられた。また、自動幌や電気連結器が取付けられている点とATCが設置されていない点に相違点がある。6両編成9本のうち4本が改造され、3両編成8本となっているが、ATCを搭載した先頭車(クハ)の向きの違いにより運用は二種類に分けられている。

現在、駅収受式ワンマン運転を行っている。また、ワンマン対応編成には車外スピーカーが追設されているほか、ドア開閉の際の安全確認対策として液晶モニターが取り付けられ、駅ホーム設置のカメラからの映像を確認して運転士がドアの開閉を行っている。先述のATCの関係から、西唐津筑前前原間でワンマンの3両編成として運行し、地下鉄空港線に乗入れる際は筑前前原でクモハを中間に封じ込めるように奇数編成+偶数編成で6両編成を組んでから入線するという運行形態になっている。

その他の改造と現状

九州旅客鉄道(JR九州)では国鉄時代に踏切事故対策として一部の先頭車にスカートを取付けたが、JR化後に全車取付を完了した。また2002年度下期より103系としては初めてとなるトイレ設置を行った。全編成の唐津側先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部の海側に身体障害者対応の大型洋式トイレを設置し、トイレ設置部分の側窓・妻窓は埋込まれ、車椅子スペースとされたトイレ向いも側窓が4分の1ほどに縮小されている。この改造でJR九州の電車編成のトイレ設置率100%が達成された。

現状だが、腐食対策も他番台より徹底されていて車両の状態は良いものの、ATOに対応しない点などから本来の製造目的であった地下鉄区間への乗入は1日18往復と減少している。しかし、VVVFインバータ制御の303系に比べて、抵抗制御で回生ブレーキを持たない103系は停止・起動を繰返さない方がエネルギー効率の点で有利という理由で、快速列車には303系ではなく本形式が充当されている。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。また、3両のワンマン運転も本形式のみが対応しており、しばらくは置換えとはならない模様である。

その他

JR分社後共通して行われた改造

特殊用途・試験改造車両

103系には、特殊な用途に使用されたり、車両試験を行うために改造された車両がある。

北海道へ渡った103系

北海道旅客鉄道(JR北海道)では元々、電化区間札幌近郊の交流電化区間のみで、かつ札幌都市圏における国鉄の輸送シェアも本州に比べ著しく低かったことや、車両自体も耐寒・耐雪構造ではないため、国鉄時代から1両も103系が配置されていなかったが、1998年8月にJR東日本の廃車体が8両入線している。電動車はなく、クハとサハのみでスカイブルーとエメラルドグリーンの混成編成を機関車牽引で北海道まで運び入れている。

ただし、この譲渡に関する情報は一般には全く公表されたことはなく、この北海道への移動自体、偶然列車を目撃した複数の者がネット上の掲示板および交友社『鉄道ファン』の1998年11月号 No.451のP120に掲載された「103系が北海道へ」に津軽海峡線ED79形50番台に牽引された被験車8両編成の写真レポートが投稿されたため明らかになった。これらの車両が何の目的で北海道に集められたのかも分からないが、8両すべてが鉄道総研の所有物であったらしい。

『鉄道ファン』誌掲載の写真を見ると、大半の車両が窓、扉等の大幅な埋込、車体の延長または各部の欠取、クーラーの撤去、車番のRTRI-××への変更、密連から自連への換装などが行われている。また、この改造は東急車輛で行われた。

その後は苗穂工場内に留置されていた。工場内を移動することはあったが、関係者以外には一切非公開で、使用目的も明かされず、同年末までにすべて姿がなくなった。その後、同時期に廃車され、運転席などの窓が鉄板で塞がれた状態に改造された711系3両編成2本と実験で衝突させたとの話であるが、これらの車両から集められたデータが何の役に立ったのかも公にはされていない。

参考:北海道へ渡った車両(所属は廃車直前のもの)
  • クハ103-396・454・481・482・719・724
  • サハ103-230・417

クハ103-396とサハ2両は松戸電車区所属でエメラルドグリーン塗装、他の5両は浦和電車区所属でスカイブルー塗装。

その他の試験
  • VVVF試験:JR東日本のクモハ103-87が東芝府中工場でVVVFインバータ装置を搭載する改造を行い、JR大船工場で試験が行われた。また、JR東海でも自社でクモハ103-4を改造してVVVF試験を行った。
  • DDM試験(モハ103-502):JR東日本が開発中だったダイレクトドライブ・モーターの試験搭載車。同期電動機駆動用制御装置としてIGBT素子のVVVFインバータ化され、ACトレイン(E993系)との比較実験に用いられたが、実験の終了にともない廃車されている。また、同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。


インドネシアへの売却

2006年現在、本系列の国内私鉄各社への売却実績はないが、2004年にJR東日本の下記の16両がインドネシア鉄道会社(PT. Kereta Api)に売却された。

  • クハ103-815-モハ103-752-モハ102-2009-クハ103-822
  • クモハ103-105-モハ102-231-サハ103-246-クハ103-597
  • クハ103-359-モハ103-654-モハ102-810-クハ103-384
  • クモハ103-153-モハ102-321-サハ103-210-クハ103-632

これらの譲渡車両は現地での長期使用を考慮し、すべて後期製造車もしくは車両更新工事施工車が選ばれた。その他の編成にも譲渡の計画があったが、その後103系より状態が良く、保守面において有利なオールステンレス車である東急8000系に変更されたため、103系の売却は16両で打切となった。

現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート(排障器)が設置され、元東急8000系や元都営6000形とともに日本のODA・政府開発援助で建設されたジャカルタ首都圏通勤電車で、有料の急行(Ekspres)および準急(Semi Ekspres)用として使用されている。

当初、塗装は武蔵野線のオレンジのまま使用されていたが、その後窓周りが黄色のツートンに塗られた。現在はさらに新たな塗装に変更されている。また、現地でもJR 103と呼ばれており、車番は日本での製造時から付番されていたものをステンシルで記入している模様である。ただし「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。

また、行先表示は元都営・東急車と同様に前面窓内に方向板を掲出し、本来の行先表示器は使用しない。またJR時代の行先表示幕を掲げたまま走行していることもある。この他、車内には東京・首都圏の路線図がそのまま掲出されているなど、JR当時の装備が至るところで散見できる。また、前面窓に投石対策として金網が取り付けられた。現在では主にジャカルタコタ - タンゲラン(Tangerang)方面のEkspresおよびブカシ線のSemi Ekspresに使用されている。

車両塗装

101系と同様に、103系では車両塗色にラインカラーが制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は修正マンセル記号である。また、JR設定色は塗料も含め全て公式な呼称が存在しないため最も一般的と思われる呼称で紹介している。

この書体(一部のブラウザ(ieなど)では斜体)はすでに定期運用から撤退、もしくはすでに当該路線用の車両配置のなくなったことにより当該塗色の車両が見られなくなった路線・所属区。すでに撤退した所属区に関しては撤退時の名称を示す。

  • なお、一部に車両の転属などで各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。
    • この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。

国鉄設定色

地下鉄対応車両
  • シルバーグレー(灰色8号 N7)+エメラルドグリーン(青緑1号 2BG5/8)
  • シルバーグレー(灰色8号 N7)+カナリアイエロー(黄5号 2.5Y7.5/8.8)
  • シルバーグレー(灰色8号 N7)+スカイブルー(青22号 3.2B5/8)
直通運転開始当初の帯色はカナリアイエローだったが、1989年(平成元年)より帯色をスカイブルーに変更した(直通する営団東西線のラインカラーに合わせた)。

JR設定色

  • 九州色
    • 筑肥線(唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター)
1995年10月からシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)というカラーリングに変更された。また2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという303系に準じたカラーリングの車両も登場している。
  • 仙石色
    • 仙石線(陸前原ノ町電車区→宮城野電車区)
塗装が2回変わっている。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両を参照。
  • 東海色
    • 中央西線・関西線(最終配置:神領電車区)
リフレッシュ工事(後述)施工車に塗られた塗装。それまでの青22号から変更された。クリーム色をベースに、窓下にオレンジと緑色(「湘南色」、または「JR東海色」ともいう)の帯が入る。床下機器もグレー一色に塗装された。
  • マスカット色
    • 山陽本線岡山地区
薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というものだった。薄緑はマスカット岡山県の名産品の1つであることに由来している。
前面行先表示器は撤去。側面行先表示器も入線当初は使用せず、サボを使用していた。現在は行先表示器を使用している。
クリーム地(クリーム1号)に青帯(青20号)が1本入る。
ワインレッドに客用扉上部と運転台直後にダークグレー(DIC N-958)のアクセントが入る。運転台直後の戸袋のグレー部分には「JR WEST JAPAN BANTAN103」の文字が入る。
エメラルドグリーンに播但色同様のアクセントが入る。前面貫通扉下部と運転室直後の戸袋のグレー部分には「JR WEST JAPAN KAKOGAWA103」の文字が入る。前面窓周りは黒色で塗装。

ラッピング・イベント塗装

  • USJ用
    • 桜島線(JRゆめ咲線)(森ノ宮電車区)
沿線にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパンの広告車。同線専用の4本がそれぞれ違ったテーマのラッピングを施されている。ラッピングは時折変更がある。ユニバーサルグローブ編成は改装時に車体が白1色に塗られており、セサミストリート編成になった現在でも妻面は白1色である。
  • 加古川線用
    • 加古川線(加古川鉄道部)
横尾忠則デザインで3551(M1)編成は2004年12月の運用開始時から「目のある電車」としてチェックに目玉の(題名は「見る見る早い」)、3552(M2)編成は2005年12月から宇宙の(題名は「銀河の旅」)、3555(M5)編成は2006年3月からマーブル模様(題名は「滝の音、電車の音」)のラッピングが施されている。
  • アニメ・ドリームトレイン1999用
イベントに合わせて車体を旧型客車を模したぶどう色2号に塗装した。
  • 関門・海峡物語

関連商品

Nゲージ鉄道模型として関水金属(KATO)から、低運初期車(生産休止・基本5色+東海色)・高運非ATC車・高運ATC車(基本5色+仙石線色)、低運量産冷房車(大阪環状線8両セット・京阪神緩行線7両セット)、およびTOMIXトミーテック)から後期型の基本5色が、グリーンマックスから中期型と後期型および体質改善車のキット(大阪環状線・阪和線・大和路線)がそれぞれ発売されている。マイクロエースからは常磐線や鶴見線など年代や路線を特定した商品が数タイプ製品化されている。しなのマイクロからは地下鉄乗入用1000番台(但し、ユニットサッシで実車と異なる形態)・1200番台が製品化されていた。また、Bトレインショーティーでも数タイプ製品化されている。プラレールでも主に限定セットによる商品化もなされており、単品3両の販売は大阪環状線バージョンの限定発売があった。

16番ゲージ鉄道模型としてはカワイモデルエンドウ、中村精密、リマ(Lima)から製品化されていた。

Oゲージ鉄道模型としてカツミからショーティーの完成品及びスケールモデルの車体キットが製品化されていた。

参考文献

通史

  • 福原俊一・永尾信幸・前納浩一『103系・301系通勤形直流電車』(車両史編さん会、2000年)
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年5月号 No.447 特集:103系通勤形電車
  • 交友社『鉄道ファン』1993年4月号・5月号 No.384・385 特集:103系通勤形電車(1・2)
  • 「103系が北海道へ」(読者投稿)/交友社『鉄道ファン』1998年11月号 No.451 p120
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年4月号 No.745 特集:103系電車
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年8月号 No.764 特集:惜別 JR東日本103系
  • 斎藤幹雄「インドネシアへ行った日本の電車」/電気社研究会『鉄道ビクトリアル』2006年12月号 No.783 p107~p112
  • 交友社『鉄道ファン』2005年3月号 No.527 特集:101系 その顔の世界
  • 大熊孝夫「103系通勤形電車 誕生までのはなし」/交友社『鉄道ファン』2006年4月号 No.540 p83~p105
  • 交友社『鉄道ファン』2006年5月号 No.541 特集:究極の標準形通勤電車103系
  • 特集:究極の標準形通勤電車103系〔訂正・補遺〕/交友社『鉄道ファン』2006年7月号 No.543 p152~p153
  • 来住憲司「JR西日本 103系現況」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 p32~p49
  • 岡本祐次「JR西日本・延命工事の概要」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 p50~p53
  • 編集部「アーバンネットワーク2006年3月改正通勤・近郊形電車の現状」/鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2006年8月号 No.478 p52~p61

地下鉄対応・他形式からの改造番台

  • 中村新一・野元 浩「103系3000番代通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 p65~p67
  • 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 p96~p103
当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。
  • 久保 敏「旧形国電から103系に変身したウグイス色電車 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 p105~p109

脚注部

  1. ^ 試験の結果、4M4T編成では力行時における主電動機の電機子および界磁の温度上昇が著しく、4M3Tが上限と判断され、実用上は4M2Tが望ましいとされた。
  2. ^ ブレーキ初速度が高い常磐線向けにこの台車を作ったのではなく、メンテナンスフリー・経済性の高い台車として、たまたまこの時期に開発が終わっただけで、そのデビューがたまたま常磐線の投入車になっただけである
  3. ^ 交友社「電車」1973年7月号に明石区と吹田工場の方の記事があります
  4. ^ 1000・1200・1500番台を除く
  5. ^ 廃車第1号は1971年のモハ102-169・クハ103-548。
  6. ^ 1982年は製造なし
  7. ^ これ以降の製造分が「○次改良車」と呼ばれることはない。
  8. ^ 京浜東北線に配置されたモハ103-373~382・モハ102-529~538は、既存の非冷房車編成に組み込まれることから例外的に非冷房車として製造された。
  9. ^ 東海道本線基準で山側
  10. ^ 各車両の両端2ヵ所の側引戸を閉、中央2ヵ所を開とする
  11. ^ クハ103形とモハ102形の車番がそれぞれ701~、2001~と途中から飛番号になっている。これは、それまでに製造されていた500・900・1000番台などとの干渉を防ぐための措置であり、飛番に伴う仕様変更はない。
  12. ^ クハ103-811・818は1984年2月のダイヤ改正に伴う山手線増発用としてATC設置工事を施工、池袋電車区へ転属している。
  13. ^ 最初の17編成は500番台ではなく0番台のクハ103が製造された
  14. ^ 帝都高速度交通営団『東京地下鉄道千代田線建設史』(1983年刊)より
  15. ^ 『鉄道ファン』交友社、1982年11月。 
  16. ^ a b 『電気車の科学』電気車研究会、1982年11月。 
  17. ^ 予備品の台車をあらかじめ整備しておき、台車検査を受ける車両の台車を整備済品と交換してすぐさま検査を終了させる方法。検査を受ける車両から抜取られた台車は整備の後、次に検査を受ける車両の交換等としてストックしておく。検査期間が短くなるという利点があるが、常時各形式の予備台車をストックしておかなければならないという欠点がある。
  18. ^ 機器改造の理由として、足回りの老朽化が進んでいたこと、車体は新形であるが下回りは旧性能電車と同じで検査周期が短く費用がかさむことの他に、当時埼京線が開通する際に投入予定であった元山手線の103系が同じ路線を走行する際に、機器が旧性能のままではダイヤ編成上の障害となる恐れがあったためとされる。
  19. ^ 停車中、乗客が客用扉を1枚単位で自由に開閉できるようにする機能。主に冬季の車内保温の目的で装備される。3000番台の場合はドアに取手が付いており、手動で開閉するものを装備。なお、取手には2種類の形状が存在し、共に装備する車両も存在した。
  20. ^ 国鉄では1980年代より1列車あたりの編成両数を減らし、代わりに運転本数を増やすことでサービス改善をする政策(広島シティ電車方式)を実行していた。具体的には長編成からモハユニットを抜取り、そこに新たに先頭車を連結するという方法が取られたので、この時期、全国的に先頭車が不足する傾向にあった。1984年2月1日国鉄ダイヤ改正1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照。
  21. ^ SC24形補助電源装置は自車の冷房装置に供給するだけの容量しか持っていないため、混結したAU75系の他車両に冷房電源を供給することが出来ない
  22. ^ 駅名は「てっぱく」。駅構内には自動改札機プラットホーム等が設置されている。因みに自動改札機は、旧式のJR型のものが置かれている
  23. ^ ただし、廃車済みであるので意味をなさない
  24. ^ 向きが反転しているため、通常は編成内で偶数向きクハを除き揃っている側面方向幕の位置が逆側になる。
  25. ^ 2003年から2005年の間、関西地区で金属板設置工事を施工されていた福知山線用の車両が転用され、2両のみ存在していたことがある。これらは現在阪和線に再転用されている。
  26. ^ モハ102形の番号が2500台でないのは、クモハ103形と異なり片町線 長尾~木津間電化に際して改造対象とならなかったためで、改造時に編成変更が行われたわけではない。
  27. ^ 寺前方からクハ103-15+モハ103-15+モハ102-15+モハ103-16+モハ102-16+クハ103-16。元は中間に延命N40工事を受けたサハ102形サハ102-10および13が挟まれていたが、転入時に廃車された。
  28. ^ この間、車庫からの回送は一旦東へ走り、宝殿駅で折り返していた。
  29. ^ 3500番台となった車両と同世代のクモハ103形ユニットは1組が残るのみである。

外部リンク(abc順)

関連項目