コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「浄土宗」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Backflip (会話 | 投稿記録)
日常勤行の項を、他のページに移動。そのページに、改めて記述。
52行目: 52行目:
一方、西山派は現在も浄土宗とは別個に西山浄土宗・西山禅林寺派・西山深草派の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派の勢力も存在する。
一方、西山派は現在も浄土宗とは別個に西山浄土宗・西山禅林寺派・西山深草派の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派の勢力も存在する。


==浄土宗[[寺院]]特徴==
==浄土宗寺院特徴==
* [[本尊]]:[[阿弥陀仏]]、
* [[本尊]]:[[阿弥陀仏]]、
* 本尊左:[[勢至菩薩]]、
* 本尊左:[[勢至菩薩]]、
74行目: 74行目:
*「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」
*「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」
この[[宗歌]]は[[法然二十五霊場]]、[[十八番]][[月輪寺]]の[[詠歌]]からとったものである。
この[[宗歌]]は[[法然二十五霊場]]、[[十八番]][[月輪寺]]の[[詠歌]]からとったものである。

==浄土宗(鎮西派)[[日常勤行]]式==
# [[香偈]](こうげ)
# [[三宝礼]](さんぼうらい)
# [[四奉請]](しぶじょう)←[[関西]]ではこちらを使う
## [[三奉請]](さんぶじょう)←[[関東]]ではこちら
# [[歎仏偈]](たんぶつげ)
# [[懺悔偈]](さんげげ)
# [[十念]](じゅうねん)
# [[開経偈]](かいきょうげ)
# [[読誦]](大経の中から[[四誓偈]]、観経中から[[真身観文]]、小経、[[般若心経]]など)
# [[聞名得益偈]](もんみょうとくやくげ)、[[本誓偈]](ほんげいげ)など
# [[一枚起請文]]、[[一紙小消息]]など
# [[摂益文]](しょうやくもん)←関東は[[和文]]で読む事もある
# [[念仏一会]](ねんぶついちえ)
# [[総回向偈]](そうえこうげ)
# 十念
# [[総願偈]](そうがんげ)
# [[三唱礼]](さんしょうらい)←[[節]]が付く
## [[三身礼]](さんじんらい)
## [[三キ礼]](さんきらい)←節が付く
# [[送仏偈]](そうぶつげ)
# 十念


==総本山==
==総本山==
126行目: 103行目:
== 関係学校 ==
== 関係学校 ==
=== 大学 ===
=== 大学 ===
*[[佛教大学]](京都)
* [[佛教大学]](京都)
*[[東海学園大学]]([[名古屋市]]・[[三好町]]) - [[学校法人東海学園|旧浄土宗学愛知支校]]/東海中学校・高等学校を母体とする
* [[東海学園大学]]([[名古屋市]]・[[三好町]]) - [[学校法人東海学園|旧浄土宗学愛知支校]]/東海中学校・高等学校を母体とする


=== 中学校・高等学校 ===
=== 中学校・高等学校 ===
*[[芝中学校・高等学校]]([[東京都]]) - 旧浄土宗学東京支校
* [[芝中学校・高等学校]]([[東京都]]) - 旧浄土宗学東京支校
*[[東海中学校・高等学校]]([[名古屋市]]) - 旧浄土宗学愛知支校
* [[東海中学校・高等学校]]([[名古屋市]]) - 旧浄土宗学愛知支校
:*[[東海学園高等学校]]([[名古屋市]]) - 東海中学校・高等学校姉妹校
:*[[東海学園高等学校]]([[名古屋市]]) - 東海中学校・高等学校姉妹校
*[[東山高等学校|東山中学校・高等学校]]([[京都市]]) - 旧浄土宗学京都支校
* [[東山高等学校|東山中学校・高等学校]]([[京都市]]) - 旧浄土宗学京都支校
*[[上宮中学校・高等学校]]([[大阪市]]) - 旧浄土宗学大阪支校
* [[上宮中学校・高等学校]]([[大阪市]]) - 旧浄土宗学大阪支校
*[[上宮太子中学校・高等学校]]([[太子町 (大阪府)|太子町]]) - 旧浄土宗学大阪支校
* [[上宮太子中学校・高等学校]]([[太子町 (大阪府)|太子町]]) - 旧浄土宗学大阪支校
*[[鎮西高等学校|鎮西中学校・高等学校]]([[熊本市]]) - 旧浄土宗学九州支校
* [[鎮西高等学校|鎮西中学校・高等学校]]([[熊本市]]) - 旧浄土宗学九州支校


==関連項目==
==関連項目==
*[[浄土教]]
* [[浄土教]]
*[[浄土真宗]]
* [[浄土真宗]]
*[[融通念仏宗]]
* [[融通念仏宗]]
*[[お十夜]]
* [[お十夜]]
*[[お会式]](浄土宗にもあり)
* [[お会式]](浄土宗にもあり)
* [[勤行(浄土宗)]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2008年2月21日 (木) 14:11時点における版


浄土宗じょうどしゅう)は、法然上人が開祖である、浄土教専修念仏を宗旨とする日本仏教宗派の一つ。本尊阿弥陀如来(舟後光立弥陀)。


概要

勢至丸(後の法然)は父の漆間時国遺言通り僧侶になる事を誓う。

比叡山に登る前、叔父の菩提寺という寺院に行った。そこの住職観覚上人の下で勉学に励んだ。

しかし、4年の歳月が過ぎ師僧の観覚上人から「お前に教える事はもう何もない、比叡山に行ってはどうか」と言われ、勢至丸は比叡山へわずか13歳(1145年)で行く事となる。

その後、叡山根本中堂に於いて源光上人より学ぶ。また、源光上人が勉学を教えられなくなり、皇円阿闍梨の下で学ぶ。ここで勢至丸・15歳(1147年)、正式に得度する。

勢至丸・18歳(1150年)の時、黒谷の別所に移り慈眼房叡空上人に師事して法然房源空(源光・叡空より一字ずつ名を貰った)と名のる。

承安5年(1175年)43歳の時、善導大師の観無量寿経疏(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを弘めた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。

その観経疏にある立教に至った文字は、

一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。
一心専念弥陀名号
行住坐臥不問時節久近
念念不捨者是名正定之業
順彼佛願故

「南無阿弥陀仏」=阿弥陀仏帰依します。弥陀佛の選択によって、浄土宗における念仏はここから始まったと言っても良い、。

選択本願念仏集』が浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。

また、浄土宗の立教と共に旧来の仏教である天台宗奈良興福寺から批判の声が上がり、承元元年(1207年)、法然は讃岐流罪にさせられる(承元の法難)が、その地においても布教をした。

その後、法然は赦免されたものの、京都への入京を禁じられたために、摂津国勝尾寺を拠点に布教を続けた。法然は建暦元年(1211年)に京都への復帰を許されたものの、翌年に80歳の生涯を閉じている。

 歴史 

法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空弁長幸西長西隆寛親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で微妙な違いが生じていた。

嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を蒙り、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。

その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗の主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して所業本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも親鸞の教団はその没後に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院湛空知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。

一方、鎌倉においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。一方、鎮西派を開いた弁長の弟子であった良忠も鎌倉の悟真寺(現在の鎌倉・光明寺)を中心とした関東各地に勢力を伸ばしていった。鎌倉にある極楽寺真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、鎮西派も良忠の死後に白旗派・名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。

その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観良栄、白旗派の聖冏聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。特に聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。

応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。更に松平親忠の末裔である徳川家康江戸幕府を開いた事によって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けた。元和元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。なお、この際西山派に対しては別個に「浄土西山派法度」を出されている。だが、これによって浄土宗は徳川将軍家、ひいては幕藩体制の保護に依存するようになり、宗門全体が惰性的になった。これに対する改革運動も起きたものの、この状況は明治維新廃仏毀釈まで変わらなかった。

廃仏毀釈の混乱の中から養鸕徹定福田行誡らによって近代化が図られて白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一されて現在の浄土宗の原型が成立する。第2次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする本派浄土宗(浄土宗本派)が分立するが、昭和36年(1961年)の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、16年後に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。

一方、西山派は現在も浄土宗とは別個に西山浄土宗・西山禅林寺派・西山深草派の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派の勢力も存在する。

浄土宗寺院特徴

浄土宗教典

浄土宗宗歌

  • 「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」

この宗歌法然二十五霊場十八番月輪寺詠歌からとったものである。

総本山

鎮西七大本山

関係学校

大学

中学校・高等学校

関連項目

外部リンク