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[[1940年]](昭和15年)、[[短期現役士官|短期現役海軍主計科士官]](4期)に志願。同年5月、[[海軍経理学校]]に入校して[[大日本帝国海軍|海軍]]主計[[中尉]]に任官。同年9月に卒業。重巡「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」庶務主任などを務めた。[[1945年]](昭和20年)5月、海軍主計[[少佐]]に進級して[[終戦の日|終戦]]を迎えた<ref name="kai">『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』48、375頁。</ref>。


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[[日本銀行|日銀]]勤務を経て、頭取だった父・清吉の死去に伴い、七十七銀行に副頭取として入行<ref name="nikkei20021227" />。[[1970年]](昭和45年)には、頭取に昇格する<ref name=nikkin />。


トップ在任時においては、経営の近代化に努め、[[1972年]](昭和47年)の東証2部上場(翌年1部に指定替え)、現本店ビルの竣工等を実現。また、日銀時代に人事課長を経験したことから、その経験を生かして、七十七銀行に移ってからも人事部から行員の写真帳を借り出し、全行員の顔と名前、略歴を記憶して驚かせた<ref name="nikkei20021227”>「元七十七銀行頭取氏家栄一氏 拡大路線で東北一の地銀に(追想録)」『日本経済新聞』夕刊 2002年12月27日 3頁</ref>。
トップ在任時においては、経営の近代化に努め、[[1972年]](昭和47年)の東証2部上場(翌年1部に指定替え)、現本店ビルの竣工等を実現。また、日銀時代に人事課長を経験したことから、その経験を生かして、七十七銀行に移ってからも人事部から行員の写真帳を借り出し、全行員の顔と名前、略歴を記憶して驚かせた<ref name="nikkei20021227">「元七十七銀行頭取氏家栄一氏 拡大路線で東北一の地銀に(追想録)」『日本経済新聞』夕刊 2002年12月27日 3頁</ref>。


このほか数多くの役職を務め、[[1985年]](昭和60年)からは、10年間にわたって仙台[[商工会議所]]会頭を務めたほか、[[東北経済連合会]]副会長、東北商工会議所連合会会長などを歴任<ref name="nikkin">『ニッキン縮刷版 39版 2002年』日本金融通信社、 2003年</ref>。[[仙台市]]の[[政令指定都市]]への昇格や<ref name="nikkei20021227”/>、[[仙台空港]]の滑走路3000メートル化など、県勢の発展に尽力をした。
このほか数多くの役職を務め、[[1985年]](昭和60年)からは、10年間にわたって仙台[[商工会議所]]会頭を務めたほか、[[東北経済連合会]]副会長、東北商工会議所連合会会長などを歴任<ref name="nikkin">『ニッキン縮刷版 39版 2002年』日本金融通信社、 2003年</ref>。[[仙台市]]の[[政令指定都市]]への昇格や<ref name="nikkei20021227" />、[[仙台空港]]の滑走路3000メートル化など、県勢の発展に尽力をした。


== 家族・親族 ==
== 家族・親族 ==

2024年12月29日 (日) 00:03時点における最新版

うじいえ えいいち

氏家 榮一
生誕 1915年12月12日
日本の旗 日本 宮城県角田市
死没 (2002-12-06) 2002年12月6日(86歳没)
出身校 東京帝国大学法学部
職業 銀行家
配偶者 氏家茂子
子供 氏家照彦(長男)
氏家清吉
親戚 氏家卓也(弟)
栄誉 紫綬褒章(1977年)
勲二等瑞宝章(1987年)
従四位 (2002年)
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氏家 栄一[1](うじいえ えいいち[1]1915年大正4年)12月12日[2] - 2002年平成14年)12月6日)は、日本の銀行家七十七銀行会長、頭取

来歴

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四代目氏家清吉(七十七銀行頭取)の長男として、宮城県伊具郡角田町(現・角田市)に生まれる[3]

1940年(昭和15年)、短期現役海軍主計科士官(4期)に志願。同年5月、海軍経理学校に入校して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。重巡「摩耶」庶務主任などを務めた。1945年(昭和20年)5月、海軍主計少佐に進級して終戦を迎えた[4]

日銀勤務を経て、頭取だった父・清吉の死去に伴い、七十七銀行に副頭取として入行[5]1970年(昭和45年)には、頭取に昇格する[6]

トップ在任時においては、経営の近代化に努め、1972年(昭和47年)の東証2部上場(翌年1部に指定替え)、現本店ビルの竣工等を実現。また、日銀時代に人事課長を経験したことから、その経験を生かして、七十七銀行に移ってからも人事部から行員の写真帳を借り出し、全行員の顔と名前、略歴を記憶して驚かせた[5]

このほか数多くの役職を務め、1985年(昭和60年)からは、10年間にわたって仙台商工会議所会頭を務めたほか、東北経済連合会副会長、東北商工会議所連合会会長などを歴任[6]仙台市政令指定都市への昇格や[5]仙台空港の滑走路3000メートル化など、県勢の発展に尽力をした。

家族・親族

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氏家家
  • 父・清吉1892年 - 1956年、貴族院議員、七十七銀行頭取)[1]
  • 母・愛子1893年 - ?、宮城、岡昱太郎の長女、資生堂仙台販売社長)[1]
  • 妻・茂子1918年 - ?、吉田善吾の三女)[1]
  • 長男・照彦[1][6](七十七銀行取締役会長、1946年 - )
  • 長女(佐々木元の妻)[1]
  • 二女[1]
親戚

略歴

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第25版 上』う72頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月30日閲覧。
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、185頁。
  3. ^ 『豪閥 地方豪族のネットワーク』
  4. ^ a b 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』48、375頁。
  5. ^ a b c 「元七十七銀行頭取氏家栄一氏 拡大路線で東北一の地銀に(追想録)」『日本経済新聞』夕刊 2002年12月27日 3頁
  6. ^ a b c d 『ニッキン縮刷版 39版 2002年』日本金融通信社、 2003年
  7. ^ a b c d e f 日本金融名鑑1993年版 上巻 1992, p. 382.
  8. ^ “氏家栄一氏死去 元七十七銀行頭取”. 共同通信. (2002年12月6日). https://web.archive.org/web/20140531105733/http://www.47news.jp/CN/200212/CN2002120601000443.html 2013年10月30日閲覧。 

参考文献

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  • 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』浴恩出版会、1968年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第25版 上』人事興信所、1969年。
  • 『日本金融名鑑1993年版 上巻』日本金融通信社、1992年9月。 
  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク立風書房、2001年7月。ISBN 978-4651700793 
  • 『現代物故者事典 総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ、2012年10月。ISBN 4816923837