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== スタッフ ==
== スタッフ ==
[[ファイル:『ペン偽らず』(1949年)書影.jpg|thumb|120px|原作となった『ペン偽らず』</br>(花人社、1949年4月15日発行)]]
[[ファイル:『ペン偽らず』(1949年)書影.jpg|thumb|120px|原作となった『ペン偽らず』<br />(花人社、1949年4月15日発行)]]
* 製作企画:日本映画演劇労働組合および日本映画人同盟
* 製作企画:日本映画演劇労働組合および日本映画人同盟
** 代表:[[伊藤武郎]]、松本酉三
** 代表:[[伊藤武郎]]、松本酉三

2024年4月29日 (月) 00:02時点における最新版

暴力の街
監督 山本薩夫
脚本 八木保太郎
山形雄策
原作 朝日新聞浦和支局同人
出演者 池部良原保美宇野重吉三島雅夫三條美紀岸旗江志村喬原保美
撮影 植松永吉
製作会社 ペン偽らず共同製作委員会
配給 大映
公開 1950年2月26日
上映時間 111分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
製作費 1500万円
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暴力の街』(ぼうりょくのまち)は、1950年昭和25年)にペン偽らず共同製作委員会が製作し、大映配給した日本映画埼玉県本庄町(現在の本庄市)で、第二次世界大戦直後に起きた本庄事件を追及した朝日新聞取材陣が前年に刊行した『ペン偽らず 本庄事件』の映画化である。

キネマ旬報ベストテン第8位。

概要

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本庄事件の舞台となった本庄町の住民も製作に協力し、本庄をロケ地とした数々の映画の先駆けとなった[1]。ロケは、暴力団による妨害を跳ね返して敢行された[2]

東宝争議の妥結条件として日本映画演劇労働組合東宝支部が受け取った1500万円を資金としたとされる(DVDパッケージによる)。日本映画人同盟と日本映画演劇労働組合の共同製作委員会による製作企画作品であり、組合旗が風に翻る映像がタイトルバックに使われている。配給の大映は、1500万円の製作費の最低保障を条件とする歩合制興業を認めたといわれる。

1949年11月15日、映画専門誌『映画季刊』第4集に「シナリオ ペン偽らず」(八木保太郎山形雄策)が掲載された。当初、原作の単行本である朝日新聞浦和支局同人著『ペン偽らず 本庄事件』に倣って、『ペン偽らず』のタイトルで製作が進行していた。しかし、最終的に『暴力の街』と改題して完成された[3]1950年2月26日、大映系映画館で封切りされた[3]。この後、日本映画界のレッドパージが敢行された。

2008年12月21日、本庄・街なか映画館実行委員会によって本庄市内で上映された[1]

あらすじ

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織物の街「東条町」では、ヤミ取引が横行していた。全国紙『東朝新報』の地元通信部に駐在する北記者は、織物の闇流通を本気で取り締まろうとしない警察検察庁の怠惰な姿勢を批判し、報道する。

これに憤慨した町会副議長で警察後援組織の役員を務める地域ボスの大西は、検事警察署長が臨席する検察庁の新庁舎落成の祝賀会で北記者を殴打する。『東朝新報』の通信部を統括する支局長は、川崎記者を東条町に派遣。続いて、支局の記者をかき集めて、東条町内に詰め所を設置する。

やがて若者たちと町内の婦人団体が連絡を取り合い、町政刷新期成会が結成され、町民大会が開催された。

スタッフ

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原作となった『ペン偽らず』
(花人社、1949年4月15日発行)

出演者

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三條美紀と岸旗江

所属会社別、アイウエオ順でクレジットされた
東宝

大映

松竹

フリー

第一協団

新協劇団

俳優座

演技協社

現代劇場

国会答弁

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本作は国会の法務委員会などで3度引き合いに出された。

1950年3月14日の参議院地方行政委員会で、本作を見た日本社会党吉川末次郎議員の紹介として、緑風会岡本愛祐委員長が3月16日に警視庁の映写室での映画上映の案内をしている[4]

1950年4月11日の参議院法務委員会では『暴力の街』の内容について答弁がなされている。革新系無所属の羽仁五郎議員が「警察官は大体いわゆる有力者と親しくなり、そして人民に対してはお威張りになるという風はまあ昔からあつたのです。例えば総監は最近市中で上映された『暴力の街』という映画を御覧になりましたか」と当時の田中栄一警視総監に質問したところ、これに対して、警視総監は「あれは映画で……非常に誇張化して(あり)……あの映面は非常に今の日本の警察を侮辱したものだという感じを持つております(。)……少くとも全国の警察はああいつた『暴力の街』のような警察ではないと思つております(。)……ああした映画を見せて貰うということは、警察に対する国民の認識を非常に誤まらしめるものだという私は考えをもつておりますから、もう少し映画も正しく警察を見て頂きたい。……ああいつた映画は、本当に警察の職務を正しく認識して下さる方があつたならば、あの映画は実に警察官の士気を非常に低下させるものだとして、非常に残念に考えております。まあ、委員は非常にあの映画について感心されておりますが、私共といたしましては、本当に正しく警察を認識して頂くような立派な文化を作つて頂きたいと、こういうふうに思つております。」と答えた[5]

1951年1月31日の衆議院決算委員会で、民主自由党渕通義議員は「私は実は本日の決算委員会に出まして、特に警察問題自治警察、こういつた問題にからむところの……問題をいろいろ聽取しておりますと、非常に重大な問題でありまして、これは特に……責任ある方の出席を求めて……質問しなければ、日本の今日の警察が、これじやボス的政治の道具に使われるということは、共産党の諸君が申すのみならず、私自身もそれを深く考えている一人でございまして、各地方をまわりますと、『暴力の街』という映画もあつたごとく、この問題がすべてを不明朗にしている根本原因であると思いますので、特に警察の問題につきまして深く掘り下げて質問をいたしたいと思います」と、『暴力の街』に言及した[6]

出典

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外部リンク

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