有村町
有村町 | |
---|---|
有村溶岩展望所から望む桜島 | |
北緯31度33分16.4秒 東経130度39分52.6秒 / 北緯31.554556度 東経130.664611度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 鹿児島県 |
市町村 | 鹿児島市 |
地域 | 桜島地域 |
地区 | 東桜島地区 |
人口 (2020年(令和2年)4月1日現在) | |
• 合計 | 13人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
891-1545 |
市外局番 | 099 |
ナンバープレート | 鹿児島 |
運輸局住所コード | 46500-0697[1] |
有村町(ありむらちょう[2])は、鹿児島県鹿児島市の町[3]。旧大隅国大隅郡桜島郷有村、鹿児島郡東桜島村大字有村。郵便番号は891-1545[4]。人口は13人、世帯数は11世帯(2020年4月1日現在)[5]。
鹿児島市の東部、活火山である桜島の南東部に位置する[6]。有村は安永・大正・昭和に発生した桜島の噴火により噴出した溶岩流によって集落が埋没するなど甚大な被害を受けている[7][8][9]。また、1889年(明治22年)の町村制施行から1914年(大正3年)の桜島の大正大噴火によって有村が埋没するまで東桜島村の役場や郵便局、巡査駐在所、小学校が置かれており、東桜島村の中心地であった[10]。大正大噴火後に多くの住民が集団移住したほか[11]、噴火によって飛来する噴石による被害が多発した昭和60年代にも多くの住民が星ヶ峯などの他の地域へ集団移住した[12]。
有村町は1950年(昭和25年)10月1日に東桜島村が鹿児島市に編入された際、それまでの大字有村及び大字脇の全域を以て新たに鹿児島市の町として設置された[3][13]。本項では有村町の一部となっている大字「脇」(わき)についても述べる。
地理
桜島の南東部に位置する[6]。町域の北方から東方にかけては黒神町、西方には古里町及び東桜島町に接しており、南方は鹿児島湾に面している。町域の南端を国道224号が海岸線に沿って東西に通っている[6]。町域の中央部に有村溶岩展望所があり、有村溶岩展望所からは鹿児島湾や開聞岳を一望することが出来る[6]。
町域のほぼ半分は1914年(大正3年)に発生した大正大噴火の溶岩流が固化して形成された溶岩(大正溶岩)及び昭和噴火によって流出し固化した溶岩(昭和溶岩)に覆われている。有村溶岩展望所付近の昭和溶岩上ではニセアカシアの群落が形成されており、道路の周辺にはアカメガシワ-カラスザンショウ群落を構成する種であるネムノキも点々と分布している[14]。また、有村海岸では干潮時に砂浜を掘ると温泉が湧き出る[15]。
また、有村町は高濃度の二酸化炭素を含む温泉水が地下にあることから土壌からの二酸化炭素拡散放出量が多いとされている[16]。
自然公園・自然保護地区
有村町の全域が国立公園である霧島錦江湾国立公園の区域に指定されており[17]、特別区域特別保護地区(桜島山頂、桜島東溶岩原)・第1種特別地域(桜島南斜面、瀬戸崎)・第2種特別地域(桜島南斜面、有村)・第3種特別地域(有村)・普通地域から構成される[17][18]。
河川
- 有村川
- 第一古里川
町名の由来
有村町という町名は、平家の一族がこの地に流れ着いて住み着いたことを発見した武士がこの地に村が有ることを知ったということから「有村」と名付けたという説と、江戸時代よりこの地は温泉が湧くため別荘地となっており、島津氏の別荘である御仮屋が置かれ有名な地であったことから名づけられたという説がある[19]。
歴史
中世の有村
有村という地名は室町時代より見える地名であり、大隅国向島のうちであった[13]。嘉吉2年(1442年)の島津持久宛行状に「嶋津庄大隅方溝辺六町・同城并向嶋内有村事」とあり、有村は本田氏に宛がわれた[13][20][21]。
近代の有村と脇
江戸時代の有村は大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった[13][22]。村高は「天保郷帳」では66石余[13]、「郡村高辻帳」では66石余[20]、「三州御治世要覧」では118石余[20]、「旧高旧領取調帳」では31石余であった[13]。有村には薩摩藩主島津氏の別荘である御仮屋が置かれていた[20][23]。
また、脇村は江戸時代より見える地名であり、有村と同じく大隅国大隅郡桜島郷のうちであった[24][22]。脇村の石高は「天保郷帳」では155石余[24]、「郡村高辻帳」では155石余[20]、「三州御治世要覧」では133石余[20]、「旧高旧領取調帳」では34石余であった[24]。薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」によればかつては脇村には瀬戸村(現在の黒神町の一部)が含まれていたとされている[25]。
安永8年(1779年)に発生した桜島の安永大噴火では有村と脇村に被害があり[13][24]、古里村(現在の古里町)と高免村(現在の高免町)を結ぶ線上に火口が発達し、その火口から噴出した溶岩は有村を覆い[7]、飛来した火山弾によって村の家々が燃上した[26]。有村の住民らは垂水に避難した[27]。旧南林寺(南林寺町)にある「桜島燃亡霊等の碑」によれば有村の死者は57名、脇村の死者は34名であった[20][23]。また有村には温泉があったが溶岩によって埋没した[20][23]。
1879年(明治12年)頃には有村温泉が開設された[28]。
1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、有村及び脇村は北大隅郡の所属となった[29][13][24]。
東桜島村の発足から明治時代末期まで
1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い桜島の東半分の区域にあたる湯之村、野尻村、古里村、有村、黒神村、高免村、瀬戸村、脇村の区域より北大隅郡東桜島村が成立した[30]。それに伴いそれまでの有村は東桜島村の大字「有村」となり[13]、それまでの脇村は東桜島村の大字「脇」となった[24]。
1897年(明治30年)4月1日には「 鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律」(明治29年法律第55号)によって北大隅郡が鹿児島郡に統合され、東桜島村は鹿児島郡のうちとなった[31]。
大正大噴火による埋没と移住
1914年(大正3年)1月12日に桜島が爆発し、噴煙は高さ約1万メートルに及んだ(大正大噴火)[32][33]。同時に有村の海岸線では湯が沸きだして、温泉の浴槽には泥水が噴出した[34]。爆発時点で有村の住民は975名(128戸)、脇の住民は450名(60戸)であった[35]。当時の有村には東桜島村の役場が設置されていたほか、郵便局や巡査駐在所、尋常小学校が設置されており、東桜島村の中心地であった[10]。
前年の9月17日には火山ガスによって母子が死亡したほか[9]、1月9日には有村にあった小学校である川原尋常小学校の校長は「有村温泉場の方でも九日の夜から地震を何回も感じた」と記録している[36]。爆発の前日となる1月11日には有村の海岸でエビが死亡しているのが多数見られた[37]。また同日には「列車のレール上を通過するやうな」ものすごい音が聞こえてきたと記録されている[38]。また、村長や小学校長・巡査などが郵便局に集合して鹿児島測候所に状況を報告し状況の問い合わせを行っていた[39]。爆発直前の12日午前7時には有村にあった有村温泉では温泉が沸騰する前兆が見られた[40][41]。
脇村の住民らは爆発の前日となる11日から避難を開始したが、避難船不足のために爆発時点では30名程度の残存者があったが、先に海潟に避難していた脇の青年らの救助船によって救助された[35]。有村は役場所在地であり知識階層が多く住んでいたことから鹿児島測候所の「桜島には異変なし」の判断を信用し避難を最後まで踏みとどまっていた[42]。11日の夕方に避難が始まったが、爆発時点での残存者は対岸の大隅半島にある海潟青年会の漁船によって救助されたほか、大日本帝国陸軍の御用船である大阪商船の大信丸によって救出された[35]。12日の午後1時から午後2時の間には有村温泉や脇集落は火に包まれ全焼した[43]。
鹿児島県が発刊した「桜島大正噴火誌」ではこの噴火によって被害を受けた有村について以下のように記している[43]。
午後三時頃より時の進むに従ひ噴火爆発の度は次第に強烈となり温泉、に有名なりし有村風景絶佳にて俗謡に、『瀬戸をちょいと出て有村見れば、有村お假屋の景色のよさ』と歌ひし有村も大正三年一月十二日を限りに溶岩下に埋没され桑田空しく荒廃に帰したりとは天の悪戯も亦甚しと云うべし
—桜島大正噴火誌
有村にあった東桜島村役場から避難した村長らは村役場に置かれた公金を帆柱に浮かべて脇の海岸から垂水へ向けて泳いで避難しようとしたが、収入役は途中で溺死し、村長らは瀬戸の漁船によって救助された[44]。また、駐在所に勤務していた巡査や郵便局長、尋常小学校の校長は最後まで島にとどまり、残留者の救護にあたった[45]。
桜島の北東にある鍋山から流れ出した溶岩は有村や脇の集落を埋め尽くし[46]、同年の5月21日には溶岩が有村海岸に到達した[47]。有村及び脇は溶岩によって完全に埋没し全滅した[8][9][48]。有村では1名が死亡し、脇では4名が死亡した[35]。
溶岩に埋没した有村集落の川原尋常小学校は再開することなく廃校となった[49]。また、東桜島村役場が有村集落と共に埋没していることから、湯之集落(現在の東桜島町)に役場を移転することとなった[50]。集落と共に墓地も埋没したため集落跡を見渡す高台に「有村一同祖先歴代之総塔」が建立された[51]。
避難した有村及び脇の住民のうち移住希望者は国有地の無償提供が行われた種子島[52]、肝属郡佐多村(現在の南大隅町)の大中尾[53]、花岡村(現在の鹿屋市)の花里[54]などにそれぞれ移住し、東桜島村の資料によれば上記の国有地(官有指定地)への移住者とその他の移住地(任意移住地)への移住者とを併せて最終的には202戸(脇集落:124戸、有村集落:78戸)が他の地域へ移住した[11]。移住先のうち官有指定地への移住戸数の一覧は以下のとおりである[11]。
移住先 | 脇集落 | 有村集落 |
---|---|---|
熊毛郡北種子村 | 0 | 7 |
肝属郡田代町 | 42 | 0 |
肝属郡花岡村 | 17 | 51 |
肝属郡佐多村 | 2 | 0 |
昭和噴火の溶岩流出
1946年(昭和21年)1月30日に桜島が爆発し、噴火口から流出した溶岩流は黒神(現在の黒神町)方面に流れ、分流した溶岩が有村に流れ込んだ[55]。3月31日には有村海岸まで溶岩が到達し[55]、溶岩は約1,000メートル程度海中に突入した[48]。これによって有村は半滅の被害を受けた[48]。また、この噴火によって送電線が切断され桜島全域が数か月にわたって停電した[56]。
鹿児島市編入以降
1950年(昭和25年)10月1日には東桜島村が鹿児島郡伊敷村とともに鹿児島市に編入された[57]。同年10月18日に鹿児島県公報に掲載された鹿児島県の告示である「 鹿兒島市の一部大字の變更」により、東桜島村が鹿児島市に編入された10月1日に大字有村及び大字脇の区域より新たに鹿児島市の町「有村町」が設置された[3][58]。
昭和60年頃に南岳の活動が激しくなったことにより、有村町では民家に噴石が落下する被害が多数あった[59]。1984年(昭和59年)7月21日には人身大の噴石が有村町に落下し、粉砕した噴石が13世帯に直撃した[60]。大量の火山灰が有村町に降り注ぎ、1984年(昭和59年)の年間の降灰量は1平方メートルあたり59キログラムであった[61]。このことから住民の安全確保のため大正大噴火以来となる集団移住が行われることとなり、1987年(昭和62年)3月より星ヶ峯団地(現在の星ヶ峯)に集団移住が行われ、22世帯51人が移住した[62][60]。また1992年(平成4年)には3世帯5人が移転し、他にも隣接する古里町や紫原への移住も行われた[12]。
1990年(平成2年)4月3日には有村溶岩展望所の溶岩遊歩道(200メートル改修、800メートル新設)や四阿、避難壕として活用されるトンネルが整備された[63]。同年には南岳の噴火が活発となり、11月30日には20台の自動車のガラスが割れるなどの被害を受けた[64]。
2005年(平成17年)には国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所によって南岳の斜面に総延長300メートルの有村観測坑道が建設され、観測機器が設置され地盤変動などの観測が行われるようになった[65]。
町域の変遷
変更後 | 変更年 | 変更前 |
---|---|---|
有村町(新設) | 1950年(昭和25年) | 大字有村(全域) |
大字脇(全域) |
人口
以下の表は、鹿児島市史第5巻記載の人口及び、国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
有村町では前述のとおり桜島の噴火による噴石の落下などの危険性があることから、1987年(昭和62年)より星ヶ峯や紫原、古里町などの地区外への移転が行われており人口が年々減少している[12]。
統計年 | 人口 | ||
---|---|---|---|
1986年(昭和61年) | [12] | 94 | |
1995年(平成7年) | [66] | 37 | |
2000年(平成12年) | [67] | 24 | |
2005年(平成17年) | [68] | 21 | |
2010年(平成22年) | [69] | 17 | |
2015年(平成27年) | [70] | 14 |
施設
公共
寺社
- 若宮神社[6]
教育
かつては東桜島村唯一である高等科を併設した川原尋常小学校が設置されていたが[10]、1914年(大正3年)の大正大噴火によって集落全体が埋没したことにより廃校となった[49]。以降は有村町には学校施設は設置されていない。
小・中学校の学区
市立小・中学校の学区(校区)は以下の通りである[73]。
町丁 | 番・番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
有村町 | 全域 | 鹿児島市立東桜島小学校 | 鹿児島市立東桜島中学校 |
交通
道路
路線バス
港湾
脚注
- ^ “自動車登録関係コード検索システム”. 国土交通省. 2021年4月26日閲覧。
- ^ “鹿児島市の町名”. 鹿児島市. 2020年10月2日閲覧。
- ^ a b c 鹿兒島市の一部大字の變更(昭和25年鹿児島県告示第412号、昭和25年10月1日付鹿児島県公報第3305号所収、 原文)
- ^ “鹿児島県鹿児島市有村町の郵便番号”. 日本郵便. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)”. 鹿児島市 (2020年4月1日). 2020年5月8日閲覧。
- ^ a b c d e 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 679.
- ^ a b 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 3.
- ^ a b 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 576.
- ^ a b c 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012a, p. 35.
- ^ a b c 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012a, p. 37.
- ^ a b c 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012b, p. 107.
- ^ a b c d 南日本新聞 2015, p. 884.
- ^ a b c d e f g h i 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 80.
- ^ 寺田仁志 & 川西基博 2015, p. 36.
- ^ “桜島地域”. 鹿児島市. 2021年7月22日閲覧。
- ^ 井口正人 & 中道治久 2019, p. 307.
- ^ a b “霧島錦江湾国立公園(錦江湾地域)指定書、公園計画書及び公園計画変更書(平成30年8月)”. 環境省. 2021年4月12日閲覧。
- ^ “錦江湾地区 50,000(桜島・奥錦江湾地区A1 2013.4.4)”. 環境省. 2021年4月12日閲覧。
- ^ 木脇栄 1976, p. 117.
- ^ a b c d e f g h 芳即正 & 五味克夫 1998, p. 194.
- ^ 鹿児島市史編さん委員会 1969, p. 226.
- ^ a b 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 6.
- ^ a b c 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 123.
- ^ a b c d e f 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 666.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 119.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 160.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 161.
- ^ 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 473.
- ^ 鹿兒島縣下分郡ノ件(明治20年勅令第7号、明治20年4月2日付官報所収、 原文)
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 535.
- ^ 鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律(明治29年法律第55号、明治29年3月29日付官報所収、 原文)
- ^ 桜島大爆震記編纂事務所 1927, p. 15.
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012a, p. 40.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 530.
- ^ a b c d 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012a, p. 50.
- ^ 山科健一郎 1998, p. 386.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 520.
- ^ 山科健一郎 1998, p. 388.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 535.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 518.
- ^ 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 774.
- ^ 井口正人 & 中道治久 2019, p. 300.
- ^ a b 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 531.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 537.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 537-538.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 534.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 5.
- ^ a b c 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 775.
- ^ a b 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012b, p. 104.
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012b, p. 102.
- ^ 井口正人 & 中道治久 2019, p. 292.
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012b, p. 114.
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012b, p. 117.
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012b, p. 119.
- ^ a b 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 589.
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 193.
- ^ 市村の廃置分合(昭和25年総理府告示第301号、昭和25年10月17日付官報所収、 原文)
- ^ “かごしま市政だより(昭和25年10月号)”. 鹿児島市 (1950年10月20日). 2021年4月16日閲覧。
- ^ 南日本新聞 1990, p. 12.
- ^ a b 南日本新聞 1990, p. 801.
- ^ 南日本新聞 1990, p. 802.
- ^ 南日本新聞開発センター 1993, p. 123.
- ^ 南日本新聞 2015, p. 490.
- ^ 南日本新聞 2015, p. 878.
- ^ 南日本新聞 2015, p. 885.
- ^ “国勢調査 / 平成7年国勢調査 小地域集計 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成12年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成17年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成22年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成27年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “有村溶岩展望所(鹿児島市)”. 鹿児島県. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “(避難所)有村退避舎”. 鹿児島市. 2021年7月18日閲覧。
- ^ “小・中学校の校区(学区)表”. 鹿児島市役所. 2020年9月26日閲覧。
- ^ “鹿児島市港湾管理条例”. 鹿児島市 (1993年3月25日). 2021年4月29日閲覧。
- ^ “鹿児島市の港湾位置図”. 鹿児島市. 2021年7月1日閲覧。
- ^ “鹿児島市ではどの港を管理しているのか。”. 鹿児島市. 2021年4月12日閲覧。
参考文献
- 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史 第一巻』鹿児島市、1969年 。
- 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史 第二巻』鹿児島市長 末吉利雄、1970年 。
- 木脇栄『かごしま市史こばなし』南日本新聞開発センター、1976年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店、1983年。ISBN 978-4040014609。
- 桜島町郷土誌編さん委員会『桜島町郷土誌』桜島町長 横山金盛、1988年 。
- 南日本新聞開発センター『鹿児島開発事業団史 二十八年のあゆみ』鹿児島開発事業団、1993年。
- 芳即正、五味克夫『日本歴史地名大系47巻 鹿児島県の地名』平凡社、1998年。ISBN 978-4582910544。
- 山科健一郎、1998、「資料からみた1914年桜島大正噴火の開始と噴火に先立つ過程」、『火山』43巻5号、日本火山学会、doi:10.18940/kazan.43.5_385、NAID 110003041144
- 南日本新聞『鹿児島市史 第四巻』鹿児島市長 赤崎義則、1990年 。
- 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会、2012、「第2章 大正噴火の経過と災害」 (pdf)(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1914 桜島噴火)、内閣府
- 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会、2012、「第3章 救済・復旧・復興の状況」 (pdf)(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1914 桜島噴火)、内閣府
- 寺田仁志,川西基博、2015、「大正噴火後100年を経過した桜島の植生について」 (pdf) 、『鹿児島県立博物館研究報告』34巻、鹿児島県立博物館、NAID 40020494228
- 南日本新聞『鹿児島市史 第五巻』鹿児島市長 森博幸、2015年 。
- 井口正人, 中道治久, 小林哲夫, 岩松暉, 幸福崇, 田嶋祐哉, 黒岩賢彦, 上林嵩弘, 三田和朗, 竹林幹雄, 福島大輔、2019、「桜島の大規模噴火を考える」、『自然災害科学』38巻3号、日本自然災害学会、doi:10.24762/jndsj.38.3_279、NAID 130007866142
関連項目
黒神町 | 黒神町 | 黒神町 | ||
古里町 | 垂水市海潟 | |||
有村町 | ||||
鹿児島湾 | 鹿児島湾 | 鹿児島湾 |
座標: 北緯31度33分16.4秒 東経130度39分52.6秒 / 北緯31.554556度 東経130.664611度