ロサンゼルス・ドジャース
ロサンゼルス・ドジャース Los Angeles Dodgers | |||||||||
1883年創設 | |||||||||
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所属リーグ | |||||||||
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チーム名 | |||||||||
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本拠地 | |||||||||
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永久欠番 | |||||||||
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獲得タイトル(獲得年) | |||||||||
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球団組織 | |||||||||
オーナー | グッゲンハイム・ベースボール・マネジメント | ||||||||
GM | ファラハーン・ザイディ | ||||||||
監督 | デーブ・ロバーツ |
ロサンゼルス・ドジャース(英語: Los Angeles Dodgers、略称:LAD)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州ロサンゼルスにあるドジャー・スタジアム。チームカラーの青はドジャーブルーとして知られている。
概要
1884年に創設以来、ニューヨーク(ブルックリン区)を本拠地としていたが、1958年に現在のロサンゼルスに本拠地を移した(同じ年にニューヨーク・ジャイアンツも西海岸のサンフランシスコに本拠地を移している)。1947年にアフリカ系アメリカ人として初のメジャーリーガージャッキー・ロビンソンがデビューした球団として知られ、1995年に野茂英雄がメジャーリーガーとしてデビューした球団としても知られている。また戦後1956年に日本を訪ねて日米親善試合を行って以来、メジャーリーグ球団の中でも早くから日本との関係が深いことでも有名で、ON時代の読売ジャイアンツがドジャースのキャンプ地ベロビーチを訪ねている。
リーグ優勝21回はジャイアンツに次ぐナショナルリーグ2位(MLB全体ではニューヨーク・ヤンキースが1位)、ワールドシリーズ優勝は6回を数える。ワールドシリーズ初優勝を遂げる1955年までに10回のリーグ優勝をしているが、ワールドシリーズではことごとく敗れ続けた。特に当時本拠地を同じとしていたヤンキースとの対戦が多く、1955年に6回目の挑戦で初めてヤンキースを破っている。ロサンゼルス移転後のワールドシリーズ優勝は、ロビンソンが活躍した1950年代、ロサンゼルスに本拠地を移した後サンディ・コーファックス、ドン・サットンら名投手が在籍した1960年代、ウォルター・オルストンの後を継ぎ、20年に渡って監督を務めたトミー・ラソーダの下、1980年代に各2回ずつ成し遂げている。2009年にMLB3球団目[1]となる通算1万勝に到達した。
2012年シーズン終了時点で、優勝決定プレイオフ進出回数が30球団の中で最多である。ナショナルリーグが同率1位の際に2戦先取制のプレイオフを実施していた時代、ドジャースは実施された4回すべてに出場しており、ワンゲームプレイオフ移行後も合わせると計5回出場している。
サンフランシスコ・ジャイアンツとは前身のニューヨーク時代からの宿敵として、現在に至るまで激しい優勝争いを繰り広げている。通算の対戦成績ではほぼ五分だが、ワールドシリーズ制覇に関しては、1958年に同時に西海岸に移転して以降、ドジャースが1988年までに5回優勝に対して、ジャイアンツは2010年代に入ってから3回優勝している。1990年以降はジャイアンツが5度ワールドシリーズ進出を果たしている一方で、ドジャースは1988年の優勝を最後にワールドシリーズ進出はない。両チームの対戦は、「ニューヨーク・ヤンキース対ボストン・レッドソックス」及び「セントルイス・カージナルス対シカゴ・カブス」などと並ぶMLB屈指の人気カードである。
現在本拠地とするドジャー・スタジアム周辺がユダヤ系アメリカ人の多い土地柄で、ユダヤ系アメリカ人選手を好んで獲得する傾向がある。他にも他人種、他地域からの選手の発掘、西海岸への本拠地の移転など、他球団に先駆けた改革を行い、大きな成功を収めた。これらは長年オーナーを務めたウォルター・オマリー、ピーター・オマリーらオマリー一族の影響が大きく、ドジャースは「働きやすい全米企業ベスト100」に何度も名を連ねるなど、球団経営の質を高めた(その後FOXグループに売却)。
伝統的に名投手を多く擁してきており、初代サイヤング賞受賞者であるドン・ニューカム(1956年)以来、2014年に至るまで、最多の延べ12回(8人)受賞者を出している。ドジャースのスカウト・教育係を長年務めたアル・キャンパニスがチームで採用されている当時最先端の作戦や練習方法などを一般に公表した著書『ドジャースの戦法』はスモールボール(スモールベースボール)の礎となり、日本プロ野球にも大きな影響を与えた。
2011年4月、当時MLBコミッショナーであったバド・セリグは、経営状態悪化の懸念から球団を監視下に置いたドジャースの管理責任者にジョン・トーマス・シーファー(前駐日大使)を選任したが、当時オーナーのフランク・マッコート(en)は、「送り込まれた誰かがドジャースを奪うことは明らかに間違っている」と異を唱えている[2]。翌2012年3月、投資グループのグッゲンハイム・ベースボール・マネジメントへの売却が発表された。買収額は20億ドルで同投資グループには、元NBA選手のマジック・ジョンソンも名を連ねている[3]。
2013年、タイム・ワーナー・ケーブル(TWC)社と、向こう25年間で総額70億~80億ドルの放映権契約を結んだ。ドジャースは自前の放送局を立ち上げ、そこがTWCと契約を結ぶ。[4]
球団の歴史
球団創設
ブルックリンはプロ球団が登場する以前の1850年代から、いくつかの有名な野球クラブがしのぎを削っていた。1860年代には周囲が塀で囲まれ、入場料の取れる野球場が開かれるなど、野球がプロ化する環境が早くから整っていた。当時強さを誇ったクラブのいくつかは1870年代にプロ球団化したが、優秀な選手が激しい引き抜きにあって弱体化し、ナショナルリーグの発足前に破綻してしまった。
現在のドジャースに繋がる球団は1883年に創設された。当時ニューヨークの不動産業者だったチャーリー・バーン、ニューヨークヘラルド誌の編集者ジョン・J・テイラーとジョセフ・ドイル(バーンの義弟)、ロードアイランドのカジノの経営者ファーディナンド・エイベルらが投資グループを組み、ブルックリン地区(当時はブルックリン市)を本拠地とするプロ野球の球団の設立と、新球場「ワシントン・パーク」の建設をすすめた。 1年のマイナーリーグ活動の後、翌年の1884年チームはアメリカン・アソシエーションに加盟した。当初から興行的にも成功したチームは個々に選手を集めるだけでなく、破綻した他球団を買収しながらチームを強化していった。1888年には破綻したニューヨーク・メトロポリタンズを吸収し、セントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)の主力投手だったボブ・カラザーズを獲得、チームの生え抜きで2度のノーヒットノーランを記録したアドニス・テリーとの二枚看板で、1889年にリーグ優勝を成し遂げた。翌1890年にはプレイヤーズ・リーグ創設の混乱の中でナショナルリーグに鞍替えし、ナショナルリーグ優勝を果たしただけでなく、破綻したプレイヤーズ・リーグのブルックリン・ワンダーズを吸収、リーグの創始者だったジョン・ウォードを監督に招き入れている。
チームが次にリーグ優勝を果たすのは1899年と1900年のことだが、この時は当時ナショナルリーグの常勝チームだったボルチモア・オリオールズ(現存球団とは別)のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホーストが、ブルックリンの経営に参画してオリオールズと球団経営を掛け持ちし、監督のネッド・ハンロンをはじめ、ジョー・ケリーやウィリー・キーラー、ジェイ・ヒューズといったオリオールズの主力選手たちを、ごっそりブルックリンに移したことで成し遂げられたものである。
アンクル・ロビーの時代~低迷期
20世紀に入ってからは成績が低迷し、チームは1904年から11年連続で負け越しを続けた。1913年に本拠地をワシントン・パークからエベッツ・フィールドへ移し、1914年にチーム名も「ロビンズ」に変え、「アンクル・ロビー」ことウィルバート・ロビンソンが監督に就任したことで、ようやくチームは再建された。ロビンソンは前述のボルチモア・オリオールズの出身者で、世紀の変わり目にチームをリーグ優勝に導いたネッド・ハンロンの愛弟子とでも呼ぶべき人物だった。チームはロビンソンの下で1916年と1920年にリーグ優勝を果たす。当時活躍した選手としては、殿堂入りした外野手のザック・ウィート、1913年と1914年に首位打者となったジェイク・ドーバート、投手では1916年に25勝をあげたジェフ・フェファー、殿堂入り投手となったルーブ・マーカード、バーリー・グライムスらの名前が挙げられる。1920年には初めて1試合当たりの観客動員が1万人を超えた。しかし良い時期は長く続かず、1920年代には再び成績が低迷する。経営陣のチャーリー・エベッツとエド・マッキーバーが1925年に相次いで亡くなり、ロビンソンが経営に参画して試合に集中できなくなったことも一因だった。この頃のチームは"Daffiness Boys"(愚か者たち)と愛情も込めて呼ばれていて、外野手ベーブ・ハーマンは、この頃の低迷するチームの代表的な選手と言えるだろう。またロビンソンの育て上げた選手の一人ダジー・ヴァンスは、1920年代に7年連続のリーグ奪三振王となり、後年野球殿堂入りを果たしている。
次のリーグ優勝は第二次世界大戦下の1941年、レオ・ドローチャーの監督就任を待たねばならなかった。1938年から球団経営に加わったラリー・マクフェイルのチーム作りが3年越しで成果を挙げたものだった。他方でマクフェイルはブルックリンの試合のメディアでの中継放送を積極的に進め、1939年8月26日のドジャース対レッズ戦が、MLB史上初のテレビ中継された試合となった。またドジャースは、1941年に他球団に先駆けてバッティング用ヘルメットを導入している。
人種の壁を打破
マクフェイルは1942年に徴兵され、球団経営の実権はマクフェイルの友人だったブランチ・リッキーに移っていたが、リッキーは戦争終結後、それまで誰も手を出そうとしなかったアフリカ系アメリカ人選手の獲得によるチームの強化へ向けて動き始めていた。後述のロビンソン獲得の前から、自身の傘下にマイナーリーグを組織し、有望なアフリカ系アメリカ人選手を入団させその力量を見極めていた。
そして1947年に、スカウトのジョージ・シスラーが推薦したジャッキー・ロビンソンとメジャー契約を結び、その後に続く黒人選手の道を開いた。ロビンソンはこの年に制定された新人王を受賞し、彼の活躍によって他球団も次々と黒人選手を採用して、MLBの人種差別はなくなった。このリッキーの黒人選手の抜擢によるチーム強化策でロビンソン登場以降チームは躍進し、1947年から1956年の10年間でリーグ優勝6度、2位が3度という常勝チームに生まれ変わる。投手ではドン・ニューカムやプリーチャー・ロー、捕手はロイ・キャンパネラ、内野はジャッキー・ロビンソン二塁手、ピー・ウィー・リース遊撃手、ギル・ホッジス一塁手、外野はデューク・スナイダー中堅手らが中心となった。
悲願のワールドシリーズ制覇
しかしワールドシリーズにおいては、アメリカンリーグのニューヨーク・ヤンキースが名将ケーシー・ステンゲル監督(かつてはドジャースの選手でその後監督も務めた)の下でジョー・ディマジオ外野手、後継のミッキー・マントル、ヨギ・ベラ捕手、ホワイティ・フォード投手らを擁してワールドシリーズ5連覇など常勝軍団の時代で、1941年以降5度の敗退を繰り返し、ファンの間では、"Wait 'til next year"(次の年こそ)という言葉が暗黙のスローガンになっていたほどだった[5]。
ドジャースの監督契約は伝統的に1年だったが、チャック・ドレッセンは複数年契約を申し入れたためウォルター・オマリーに解任され、ウォルター・オルストンが就任[5]。「ドジャースの監督が務まるのか?」という声もあったが[5]、チームは1955年のワールドシリーズで、ヤンキースへの6度目挑戦で悲願のワールドチャンピオンとなる。優勝決定後のニューヨーク・デイリー・ニューズ誌の見出しは、前述のスローガンにあてて、"This is Next Year!"(「次の年」がついにきた)であった。
翌1956年のワールドシリーズもヤンキースとの対戦となったが、第5戦でドン・ラーセンに完全試合で敗れ、最終第7戦でも敗れてシリーズ連覇は成らなかった。
本拠地移転
1950年代にブルックリン地区では黒人とプエルトリコ系の住民が増え、白人の富裕層の流出が進み、治安が悪化していった。球場は街中にあるため改装や駐車場の増設が思うようにできず、観客動員も1947年の1,807,526人をピークにその後は100万人前後で推移した。球団はブルックリン地区内に新球場を建設することを希望していたが、ニューヨーク市側はフラッシング・メドウズへの移転を勧め(その土地には最終的にはメッツの本拠地、シェイ・スタジアムが建設された)、球団がブルックリンで新たな土地を取得することを認めなかった。このため球団は1957年5月、ナリーグのオーナー会議で移転の了承を得て、1958年に西海岸のロサンゼルスへ移転した。因みに同じニューヨーク(マンハッタン)に本拠を構えていたジャイアンツが、ドジャースと同時にサンフランシスコへ移転している。
移転当初はドジャー・スタジアムが完成するまでの間、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを本拠地とした。スタジアムはその卵形の形状ゆえ野球場に適さず、本塁から左翼席までの距離も250フィート(約76.2m)しか取れなかった。このためレフト方向に高さ40フィート(約12.2m)にもなるスクリーン(ネット)を立てて本塁打の量産を防ごうとしていた。このような悪い環境にもかかわらず、ドジャースは多くの観客を動員した。こんな極端な球場の形に上手く適応した選手の一人が、ドジャースの外野手だったウォーリー・ムーンであろう。彼は1959年シーズンにリーグ最多の三塁打を記録したが、その多くはこのスタジアムでレフト方向にふらふらとあがった打球で、それが左翼の高いスクリーン(ネット)に当たって三塁打になったものだった。ファンの間ではこのムーンの三塁打が、彼の名前に引っ掛けて「ムーン・ショット」(月ロケット発射の意)と呼ばれていた。ドジャースは移転2年目の1959年にリーグを制覇し、1959年のワールドシリーズを"ゴーゴー・ソックス"と呼ばれたシカゴ・ホワイトソックスとこのスタジアムで戦い優勝した。シリーズの第5戦ではMLB最多記録となる92706人の観客を動員している。またこの年1959年シーズン途中の5月7日に行われたヤンキースとのエキシビジョン・ゲーム(非公式試合)で、前年の交通事故で半身不随となり引退を余儀なくされたロイ・キャンパネラ捕手の引退セレモニーが行なわれた時には93,103人もの観客が来場した。
ドジャー・スタジアムは1962年に完成して1978年にはMLB史上初めて年間観客動員300万人を達成している。メジャーリーグで最も美しい球場と言われている。
オルストンのスモールボール
ドジャー・スタジアム完成の頃、ドジャースは長打力がないためウォルター・オルストン監督の下で、投手力・守備力・機動力を重視したチームを作り上げていた[5]。攻撃力は今ひとつだったが、チームの中心にはサンディ・コーファックスとドン・ドライスデールの絶対的な投手の二枚看板がいた。コーファックスは1960年代にサイ・ヤング賞を3度獲得し、ドライスデールも1962年のサイ・ヤング賞をはじめオールスターゲームに8度出場、1968年には当時のMLB記録となる58回2/3イニング無失点記録を樹立するなど輝かしい実績を残している。当時のドジャースは、「足の速いモーリー・ウィリスが出塁して盗塁、内野ゴロと犠牲フライで彼を迎え入れた後は、コーファックスかドライスデールが相手を完封して1-0で勝利」という勝ちパターンがまことしやかに語られていた程だった。
特にコーファックスは1963年のワールドシリーズで、ヤンキースを相手に1試合15奪三振を記録するなど、1960年代のドジャースのワールドシリーズ制覇に幾度も貢献したが、左肘の故障を理由に1966年に30歳の若さでユニフォームを脱いだ。オルストンは1976年まで通算23年間ドジャースを率い、通算7度のリーグ制覇をドジャースにもたらした。
ラソーダ監督以降
1977年にトミー・ラソーダが監督に就任し、以後1996年途中まで指揮をとった。1981年にメキシコ人のフェルナンド・バレンズエラがデビュー。 "フェルナンドマニア"を生み出し、 新人投手としては初のサイ・ヤング賞を獲得、同年のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。
1988年には"ブルドッグ"ことオーレル・ハーシュハイザーが59イニング連続無失点の記録を達成する。リーグ優勝しワールドシリーズに進んだドジャースには、もう一つ大きなドラマが待っていた。この年FAで獲得した主砲カーク・ギブソンはリーグチャンピオンシップで足を怪我し、ワールドシリーズへの出場は絶望と思われていた。しかし1988年のワールドシリーズ第1戦、1点リードされた9回裏に、出場できないはずのギブソンが足を引きずりながら代打で登場する。ギブソンはアスレチックスの守護神デニス・エカーズリーから7球目をライトスタンドに放り込み、この劇的なサヨナラ勝ちで勢いづいたドジャースが、NBCのボブ・コスタスから「これほどの貧打線がシリーズに出てきたのは見たことがない」と言われるなど下馬評を覆し、このシリーズを4勝1敗で制した[5]。
1994年には朴賛浩が韓国人として初のメジャーデビューを果たし、1995年に野茂英雄投手と契約。 NOMO旋風を巻き起こし、日本人のメジャー進出の先鞭をつけた。1992年から1996年までエリック・キャロス、マイク・ピアッツァ、ラウル・モンデシー、野茂英雄、トッド・ホランズワースと5年連続で新人王を輩出した。1997年には日本出身の野茂を含め、ドミニカ共和国出身のラモン・マルティネス、ペドロ・アスタシオ、韓国出身の朴賛浩、メキシコ出身のイスマエル・バルデスと先発ローテーションからアメリカ人が消えた[5]。
ラソーダは1996年シーズン途中で辞任し、翌1997年にはオマリー会長が球団をフォックスグループへ売却した。1998年にはピアザや野茂を放出し、1999年開幕前にはFAとなっていたケビン・ブラウンと史上最高額となる1億ドル500万ドルの大型契約を結び、デーブ・ジョンソンが監督に就任したが、77勝85敗と負け越した。
2006年はワイルドカードでポストシーズンに進出し、2007年は開幕前にジェイソン・シュミットやフアン・ピエールの獲得など的確な補強や若手選手が多く地区優勝候補筆頭だった[6]。7月までは地区優勝を争っていたが、8月に6連敗と4連敗、9月に7連敗を喫し地区4位に終わった。チーム本塁打数が前年と同じリーグ15位だったが、153本から129本へ減少し、この長打力不足が得点力不足となり後半の失速となった[6]。
2007年11月1日にジョー・トーリが3年契約で監督に就任。2008年は前半戦はノマー・ガルシアパーラ、ラファエル・ファーカルの故障やアンドリュー・ジョーンズの不振などでアリゾナ・ダイヤモンドバックスに次ぐ地区2位だったが、7月31日にトレードでマニー・ラミレスを獲得。ラミレスは移籍後53試合で打率.396、17本塁打、53打点を記録。打線の中心的役割を担い、若手に好影響を与え、補強は大成功[7]。4年ぶりに地区優勝を果たしたが、リーグチャンピオンシップシリーズでフィラデルフィア・フィリーズに敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。
2009年、5月6日に対ワシントン・ナショナルズ戦に10−3で快勝し、シーズン開幕からのホーム戦連勝を13に伸ばし、近代MLBの新記録を樹立した。この試合までドジャースは1911年にデトロイト・タイガースが記録した12連勝に並んでいた。しかし翌日の対ナショナルズ戦で敗北し、開幕からのホーム試合の連勝は、近代MLB新記録の13で止まった。 この年も地区優勝したものの、リーグチャンピオンシップシリーズで前年同様フィリーズに1勝4敗で敗れ、1988年以来となるワールドシリーズ進出を逃した。
2010年3月13日・14日、スプリングトレーニング期間中を利用し、台湾プロ野球のファン投票で選ばれた選手らと2日間試合を行った[8][9]。オフに新監督としてドン・マッティングリーが就任した。
2011年にMVP級の活躍をしたマット・ケンプと、オフに球団史上最高額となる8年1億6000万ドルで契約を延長した。
金満球団として
先述のとおり2012年3月にオーナーがグッゲンハイム・グループに替わったことで、選手補強に莫大な資金を充てられるようになった。それまでのチーム総年俸が最高で1億1000万ドル程度(全30球団中5位前後)だったものが、2013年に2億1000万ドル(ニューヨーク・ヤンキースに次ぐ2位)まで上がり、その後も2億ドルを下回ることはなく、2014年以降は全30球団中1位の総年俸を維持している。
2012年のシーズン中にキューバから亡命したヤシエル・プイグを獲得し、他球団からジョシュ・ベケット、エイドリアン・ゴンザレス、カール・クロフォード、ハンリー・ラミレスなどをトレードで獲得した。トレードで獲得した彼らは将来にわたって高額な契約を残しており、資金力によって戦力補強を行った。オフには投手として史上2番目の大型契約でザック・グレインキーを獲得し、韓国プロ野球からポスティングシステムを申請した柳賢振に入札し獲得した。
2013年は前年からの補強が実を結び、4年ぶりに地区優勝を果たした。また、クレイトン・カーショウが2年ぶりにサイ・ヤング賞を受賞し、グレインキー、柳賢振も期待どおりの活躍、前年の後半からクローザーに定着したケンリー・ジャンセンが防御率1点台で28セーブを挙げた。これら戦力充実も影響し、観客動員数がリーグ1位に返り咲いた。オフにはキューバから亡命したアレックス・ゲレーロとエリスベル・アルエバルエナを獲得した。先発ローテーションの強化でダン・ヘイレンを獲得し、リリーフにポール・マホーム、ジェイミー・ライト、クリス・ペレスを獲得した。また、大活躍を続けているカーショウと投手史上最高額となる7年2億1500万ドルで契約を延長した。
2014年は、MLB史上初となるオーストラリアでの公式戦が、開幕2連戦として3月22日と23日にシドニー・クリケット・グラウンドで開催された。この2試合にはカーショウと柳賢振が先発登板し、2連勝した。北米本土開幕戦でも他球団に先駆けて、敵地ペトコ・パークでサンディエゴ・パドレスと対戦し、この試合でも柳賢振が先発登板したが敗れた。この年はカーショウが2年連続3度目のサイ・ヤング賞を受賞し、二塁手のディー・ゴードンが盗塁王を獲得したり、三塁手のジャスティン・ターナーがブレイクするなど新戦力が台頭した。2年連続で地区優勝を果たしたものの、ディビジョンシリーズでエースに君臨したカーショーが一人で2敗を喫し、シリーズ敗退となった。オフにブレット・アンダーソン、ブランドン・マッカーシーなどの投手を獲得し、ハウィー・ケンドリック、ジミー・ロリンズ、ヤズマニ・グランダルをトレードで獲得して野手を的確に補強した。
2015年、補強した選手の活躍と中堅手のジョク・ピーダーソンがブレイクなどがあり、3年連続で地区優勝を果たした。前年、前々年とワールドシリーズに進出することなく敗退していたポストシーズンに備えて、8月には経験豊富なチェイス・アトリーを獲得したり、9月にデビューしたばかりで好調を維持していたコーリー・シーガーをロースターに登録するなどの手を打ったが、前年に続きディビジョンシリーズで敗退した。オフにはスコット・カズミアー、前田健太などを獲得したが、それまで3年間大活躍を続けていたグレインキーが契約条項の選択により退団した。新監督としてデーブ・ロバーツが就任した。
2016年、MLB史上53年ぶりとなる開幕3試合連続で無失点勝利を記録した。一時はジャイアンツに最大8ゲーム差をつけられていたもののジャイアンツの失速により逆転で4年連続の地区優勝を果たした。プレーオフはリーグチャンピオンシップシリーズで敗退した。
チーム名
チーム名の由来は、ニューヨークのブルックリン地区に本拠地を置いていた時代に、路面電車が極めて多かったブルックリンの住人の呼び名 「路面電車をよける (dodge) 人たち」 を表す 「トローリー・ドジャース」 から名付けられたといわれている。
なお、地元 L.A. の通なファンは日常や大声で応援する時など、親しみを込めてチームを 「ダーヤーズ 【ˈdɒyíərz】/Doyers」 と呼ぶ[1]。
選手名鑑
現役選手・監督・コーチ
歴代監督はロサンゼルス・ドジャースの歴代監督一覧を参照。
アメリカ野球殿堂表彰者
- デイブ・バンクロフト (Dave Bancroft)
- ダン・ブローザース (Dan Brouthers)
- ジム・バニング (Jim Bunning)
- ロイ・キャンパネラ (Roy Campanella)
- マックス・キャリー (Max Carey)
- ドン・ドライスデール (Don Drysdale)
- レオ・ドローチャー (Leo Durocher)
- バーリー・グライムス (Burleigh Grimes)
- ビリー・ハーマン (Billy Herman)
- ウェイト・ホイト (Waite Hoyt)
- ヒューイー・ジェニングス (Hughie Jennings)
- ウィリー・キーラー (Willie Keeler)
- ジョー・ケリー (Joe Kelley)
- ジョージ・ケリー (George Kelly)
- サンディ・コーファックス (Sandy Koufax)
- トミー・ラソーダ (Tommy Lasorda)
- トニー・ラゼリ (Tony Lazzeri)
- フレディ・リンドストロム (Freddie Lindstrom)
- アーニー・ロンバルディ (Ernie Lombardi)
- アル・ロペス (Al Lopez)
- グレッグ・マダックス (Greg Maddux)
- ヘイニー・マナシュ (Heinie Manush)
- ラビット・モランビル (Rabbit Maranville)
- フアン・マリシャル (Juan Marichal)
- ルーブ・マーカード (Rube Marquard)
- ペドロ・マルティネス (Pedro Martinez)
- トミー・マッカーシー (Tommy McCarthy)
- ジョー・マクギニティ (Joe McGinnity)
- ジョー・メドウィック (Joe Medwick)
- ピー・ウィー・リース (Pee Wee Reese)
- ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson)
- フランク・ロビンソン (Frank Robinson)
- デューク・スナイダー (Duke Snider)
- ケーシー・ステンゲル (Casey Stengel)
- ドン・サットン (Don Sutton)
- ダジー・ヴァンス (Dazzy Vance)
- アーキー・ヴォーン (Arky Vaughan)
- ポール・ウェイナー (Paul Waner)
- ロイド・ウェイナー (Lloyd Waner)
- モンテ・ウォード (Monte Ward)
- ザック・ウィート (Zack Wheat)
- ホイト・ウィルヘルム (Hoyt Wilhelm)
- ハック・ウィルソン (Hack Wilson)
歴代所属日本人選手
- 野茂英雄(1995 - 1998、2002 - 2004年)
- 石井一久(2002 - 2005年)
- 木田優夫(2003 - 2004年)
- 中村紀洋(2005年)
- 斎藤隆(2006 - 2008年)
- 黒田博樹(2008 - 2011年)
- 前田健太(2016年 - )
永久欠番
ドジャースには永久欠番の制定に関する基準が存在する。
- 米国野球殿堂入り
例外として、コーチ在籍中に逝去したジム・ギリアムの19番が存在する。
- 1 ピー・ウィー・リース (Pee Wee Reese)
- 2 トミー・ラソーダ (Tommy Lasorda)
- 4 デューク・スナイダー (Duke Snider)
- 19 ジム・ギリアム (Jim Gilliam)
- 20 ドン・サットン (Don Sutton)
- 24 ウォルター・オルストン (Walter Alston)
- 32 サンディー・コーファックス (Sandy Koufax)
- 39 ロイ・キャンパネラ (Roy Campanella)
- 42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson)
- 53 ドン・ドライスデール (Don Drysdale)
傘下マイナーチーム
脚注
- ^ サンフランシスコ・ジャイアンツ、シカゴ・カブスに次ぐ
- ^ “【MLB】経営難ドジャースのオーナー、管理責任者に前駐日大使就任で異論”. 産経新聞. (2011年4月28日) 2011年6月29日閲覧。
- ^ “マジック・ジョンソン氏の投資グループ、ドジャースを買収”. フランス通信社. (2012年3月28日) 2012年5月10日閲覧。
- ^ http://www.jsports.co.jp/press/article/N2013021316475901.html
- ^ a b c d e f 伊東一雄「大リーグ球団史1 ロサンゼルス・ドジャース」『月刊メジャー・リーグ』1997年8月号、ベースボールマガジン社、1997年、雑誌 08625-8、64項 - 68項
- ^ a b 「ロサンゼルス・ドジャース [的確な補強で優勝街道進むも得点力不足響きこうはんせんに大失速]」『月刊メジャー・リーグ』2007年11月号、ベースボールマガジン社、2007年、雑誌 08625-11、29項。
- ^ 「ロサンゼルス・ドジャース [ラミレス獲得が起爆剤に。トーリ監督は13年連続のプレーオフ]」『メジャー・リーグ記録集計号 ザ・スタッツブック 2008』、ベースボールマガジン社、2008年、雑誌 20449-11/20、57項。
- ^ 3月13、14日 中華職棒與美國職棒道奇隊友誼賽CPBL公式HP 2010年1月22日付
- ^ Dodgers to play pair of exhibitions in Taiwan ロサンゼルス・ドジャース公式HP 2010年1月23日付
関連項目
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- Franchise Info (Retrosheet)
- チームの通算成績と情報 MLB, or ESPN, or Baseball-Reference , or The Baseball Cube
- Los Angeles Dodgers (Dodgers) - Facebook
- Los Angeles Dodgers (@dodgers) - Instagram
- Los Angeles Dodgers (@Dodgers) - X(旧Twitter)