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ノーム・ラーカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノーム・ラーカー
Norm Larker
ロサンゼルス・ドジャース時代
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ペンシルベニア州カーボン郡ビーバーメドウズ英語版
生年月日 (1930-12-27) 1930年12月27日
没年月日 (2007-03-12) 2007年3月12日(76歳没)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
プロ入り 1949年
初出場 MLB / 1958年4月15日
NPB / 1965年4月10日
最終出場 MLB / 1963年9月28日
NPB / 1966年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ノーマン・ハワード・ジョン・ラーカーNorman Howard John Larker, 1930年12月27日 - 2007年3月12日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州カーボン郡ビーバーメドウズ英語版出身のプロ野球選手内野手)。

来歴・人物

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ヘイズルトン高校を卒業後、1949年マイナーリーグでプロとしてのキャリアをスタートさせた。8年間のマイナーリーグ生活の後、1958年4月15日にロサンゼルス・ドジャースメジャーデビューを果たした。間もなくギル・ホッジスから一塁手のポジションを奪い、レギュラーに定着。翌1959年には108試合に出場し、打率.289と活躍。同年のワールドシリーズにも出場し、チームの世界一に貢献した。そして1960年にはオールスターゲームにも出場。最終的に打率.323を記録し、首位打者争いで2厘差でディック・グロートピッツバーグ・パイレーツ。打率.325)に敗れるも、リーグ2位の好成績を残した。1961年シーズン終了後、エクスパンションドラフトによりヒューストン・コルト45'sに移籍。その後、1963年にはミルウォーキー・ブレーブスおよびサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした。

1964年オフに日本プロ野球(NPB)の東映フライヤーズから勧誘を受ける。入団交渉に際して、ラーカーは他のメジャー出身者同様の高年俸や特典を要求したが、東映側は「日本でプレーするなら、日本の環境に順応してもらわなければ困る」としてこれを拒絶。ラーカーは折れて年俸15,000ドル(推定)で入団した。これについて、これまで「日本の球団は外国人選手に対して弱腰過ぎる」と批判していた日刊スポーツは、「元メジャーリーガーの至福の日々は終わった」と記事を書いている[1]。前年まで在籍したジャック・ラドラを上回る長打力を期待されての入団だった。

1年目の1965年は打率.280と意地を見せたが、1966年は.253と成績を落としてしまい、また本塁打も2年間で14本と期待に応えることはできなかった。また、1966年のある試合で平凡な打球の処理を誤って走者を刺し損ない、監督水原茂から罰金と出場停止処分を受ける。ラーカーは痛む右足を庇おうとしただけと弁解するが、水原からはチームのやる気を挫く行為として反省を命ぜられた。仲裁人から謝った方がいいと忠告を受けて、ラーカーは早速水原の元へ行き「後悔している。今後はもっと態度に気をつけたい」と約束。これに喜んだ水原はすぐにラーカーを復帰させ、さらに後年には雑誌の『私の好きなガイジン』と題するコラムでラーカーを取り上げている[2]。同年限りで現役引退。なお、ドジャースでチームメイトだったドン・ジマー(彼も1959年の世界一メンバーである)とは、1966年の1シーズンだけ東映でもチームメイトだった。

2007年3月12日カリフォルニア州ロングビーチ死去。76歳没。

人物

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穏やかでチームに溶け込んだラドラと違い、気性が荒く喧嘩っ早かったことから「ケンカ屋ラーカー」の異名を取る[3]。1965年には1シーズンでヘルメットを8個も壊すなど、興奮癖は当時よく知られており、ある雑誌に足でヘルメットを砕き、手でバットをへし折っているラーカーの風刺画が書かれたこともあった。これに対してラーカーは「ヘルメットを壊したりバットをへし折る方が、三振したのにニコニコしながらベンチに引き上げるよりよっぽどまし」とコメントしている[4]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1958 LAD 99 291 253 32 70 16 5 4 108 29 1 1 1 5 29 0 3 21 8 .277 .352 .427 .779
1959 108 351 311 37 90 14 1 8 130 49 0 1 8 4 26 1 2 25 12 .289 .344 .418 .762
1960 133 493 440 56 142 26 3 5 189 78 1 0 7 9 36 2 1 24 9 .323 .368 .430 .798
1961 97 312 282 29 76 16 1 5 109 38 0 0 2 3 24 7 22 11 3 .270 .326 .387 .713
1962 HOU 147 590 506 58 133 19 5 9 189 63 1 1 4 3 70 7 7 47 10 .263 .358 .374 .732
1963 MLN 64 177 147 15 26 6 0 1 35 14 0 2 1 2 24 2 2 24 2 .177 .297 .238 .535
SF 19 16 14 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 0 2 1 .071 .188 .071 .259
'63計 83 193 161 15 27 6 0 1 35 14 0 2 1 2 26 2 2 26 3 .168 .288 .224 .512
1965 東映 103 417 368 46 103 16 1 8 145 46 2 3 1 2 43 1 3 37 10 .280 .358 .394 .752
1966 121 397 359 24 91 12 1 6 123 39 0 0 5 2 29 2 2 31 11 .253 .311 .343 .654
MLB:6年 667 2229 1953 227 538 97 15 32 761 271 3 5 23 26 211 19 16 165 53 .275 .347 .390 .736
NPB:2年 224 814 727 70 194 28 2 14 268 85 2 3 6 4 72 3 5 68 21 .267 .335 .369 .704

記録

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MLB
NPB

背番号

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  • 5 (1958年 - 1961年、1966年)
  • 10 (1962年)
  • 9 (1963年 - 同年途中)
  • 18 (1963年途中 - 同年終了)
  • 4 (1965年)

脚注

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  1. ^ 『菊とバット』242-243頁
  2. ^ 『菊とバット』284頁
  3. ^ 『決定版日本プロ野球外国人選手大鑑』137頁
  4. ^ 『菊とバット』261頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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