コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

保田隆芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。遼東半島 (会話 | 投稿記録) による 2014年2月15日 (土) 06:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (外部リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

保田隆芳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京府東京市神田区
(現・東京都千代田区
生年月日 1920年3月18日
死没 2009年7月1日(満89歳没)
騎手情報
所属団体 東京競馬倶楽部
日本競馬会
国営競馬
日本中央競馬会
所属厩舎 尾形藤吉東京(1936年 - 1970年)
初免許年 1936年
騎手引退日 1970年
重賞勝利 114勝
通算勝利 6143戦1295勝
調教師情報
初免許年 1970年
調教師引退日 1997年2月29日(定年)
重賞勝利 17勝
通算勝利 通算3485戦334勝
経歴
所属 東京競馬場(1970年 - 1978年)
美浦T.C.(1978年 - 1997年)
テンプレートを表示

保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 2009年7月1日)は日本騎手東京競馬倶楽部日本競馬会国営競馬日本中央競馬会〈JRA〉)、調教師(日本中央競馬会)。

名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手であり蛯名武五郎野平祐二と並ぶ戦後の中央競馬における騎手の第一人者でもあった。またアメリカ遠征の手土産として新たな騎乗フォーム(モンキー乗り)を持ち帰り、騎乗法に革命的な変革をもたらした。2004年騎手顕彰者に選出。

経歴

1920年3月18日、当時の東京府東京市神田区出身。実家は下町の果物問屋で競馬とはまったく無縁な家庭環境に育つが、都内の乗馬クラブに通い始めたことをきっかけに乗馬のとりこになり、騎手を志す。

1934年、東京競馬場にて尾形藤吉厩舎見習騎手となる。当時の慣習に従い千葉県御料牧場で修行を積み、1936年に騎手免許を取得。以後尾形厩舎の主戦騎手として1938年にアステリモアで阪神優駿牝馬を優勝、翌1939年テツモン帝室御賞典(現在の天皇賞〈秋〉)、タイレイで中山4歳牝馬特別を優勝するなど、尾形厩舎の発展とともに当時の若手騎手としては異例の活躍をした。

アステリモアで阪神優駿牝馬を優勝したとき、隆芳は18歳8か月であり、これは現在でも史上最年少でのクラシック競走制覇となっている(日本中央競馬会〈JRA〉設立以降は武豊1989年菊花賞を優勝したときの19歳8か月が最年少)。

なお隆芳が次に優駿牝馬を制するのは29年後の1967年優勝馬のヤマピットであり、47歳2か月で制した優駿牝馬は当時の最年長記録で、2006年カワカミプリンセスで優勝した当時47歳4か月の本田優に破られるまで30年の長きにわたって同記録のレコードホルダーとなっていた(現在では安藤勝己の49歳2か月が最年長記録)。

1940年に徴兵を受けて兵役に就くことになり、以降1945年の終戦後に復員するまではホースマンとしての活動の停止を余儀なくされた。終戦直後の一時は日本競馬会の盛岡育成場で働き、1946年に競馬界に復帰した。この兵役がなければ、1943年東京優駿などを制した歴史的名牝・クリフジにも騎乗していたであろうともいわれている。

戦後の隆芳の代表騎乗馬としてはハクチカラが挙げられる。日本国内では東京優駿、天皇賞・秋、有馬記念を制したハクチカラは1958年に国外遠征を行うことになり、それに同行する形でアメリカへ渡った。アメリカでの実戦ではいいところがなく日本での騎乗もあって数か月での帰国を余儀なくされたが、現地でモンキー乗りと呼ばれる騎乗フォームを習得する機会に恵まれたことが隆芳にとって大きな転機となる。

帰国後の日本においてこの騎乗フォームの先駆者となった隆芳はリーディング争いを席巻、ついには自身初のリーディングジョッキーの座を獲得する。それまで日本ではモンキー乗りは一部の騎手が取り入れていたに過ぎなかったが、これを契機に一気にほかの騎手にも波及し、中央競馬では数年も経たぬうちに従来の騎乗フォーム(天神乗り)に取って代わった。またアメリカの騎手が課していた食生活などの厳しい生活管理を自ら取り入れたことも、その後の日本の騎手に大きな影響を与えた。

1963年メイズイの三冠をかけた菊花賞では保田が騎乗したグレートヨルカが優勝しているが、このときメイズイに騎乗し6着に敗れた弟弟子の森安重勝に対して「バカヤロー!!」と怒鳴りつけ、表彰式では笑顔が一切出なかったことは有名である。

1968年にはマーチスに騎乗して皐月賞を勝ち、史上初の八大競走全勝利騎手となった(その後、1998年に武豊が達成)。なおこのとき保田は48歳2か月であり、当時の史上最年長のクラシック勝利騎手となった(1986年増沢末夫ダイナガリバーで東京優駿を48歳7か月で勝利するまで破られなかった)。

また武豊以前に「盾男」と称された人物である。隆芳は騎手時代に天皇賞通算10勝(春3勝、秋7勝)を挙げ2008年に武豊が秋の天皇賞を勝利(優勝馬:ウオッカ)して11勝目(武の場合は2008年現在春6勝、秋5勝)を挙げるまで長らくに渡り中央競馬最多勝を保持していた。しかしながら隆芳が挙げた秋の天皇賞7勝は今も歴代最多勝記録である。

1970年に50歳で騎手を引退し、調教師に転向した。現役引退レースは同年2月22日京王杯スプリングハンデキャップであり、このレースでミノルに騎乗して最後の重賞制覇となり引退に花を添えた。

騎手引退とともに厩舎を開業する。尾形厩舎から譲られたメジロアサマメジロマックイーンの祖父)が活躍し、開業1年目で安田記念(当時はGI競走ではなかった)、函館記念、天皇賞(秋)に勝利した。

1976年から1977年にかけては天馬・トウショウボーイを管理し、皐月賞・有馬記念宝塚記念に優勝した。

1995年5月、競馬関係者として初めて勲四等瑞宝章を受章。温厚篤実な人柄で知られ、競馬サークル内部の人間のみならず多くの競馬マスコミ関係者からも敬慕を受けた。競馬ブームが起き競馬雑誌が数多く創刊されるなど競馬がカルチャーとして飛躍的な発展を遂げた1990年代前半には、戦前からの名門尾形厩舎の主戦騎手として尾形やその厩舎、さらにはトップジョッキーとして戦前競馬・国営競馬・JRA初期の姿をその身で知りまた語ることができる、貴重な大ベテランのホースマンであった。

1997年、JRAの調教師の定年制度の導入進捗により、当時の定年引退の対象となる年齢に達したことに伴い、調教師を引退した。なお、厩舎は前年に調教師免許を取得した子息の保田一隆が父の厩舎を引き継ぐ形で開業となった。一隆は1998年セイウンスカイで皐月賞を勝って父子2代の皐月賞馬トレーナーとなる。

2004年、騎手顕彰者として競馬殿堂入りを果たした。

2009年7月1日老衰のため死去。89歳没。

日本国政府は保田隆芳の功績を讃え、死去日の2009年(平成21年)7月1日付で正六位を追叙した。

成績

騎手成績

通算6143戦1295勝

おもな勝ち鞍

(旧八大競走のみ)

受賞

調教師成績

通算3485戦334勝、重賞17勝

主な勝ち鞍

受賞

  • 調教技術賞(関東)(1974年

賞詞

おもな厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

参考文献

  • 中央競馬ピーアール・センター(編)『調教師の本6』 日本中央競馬会、1998年

関連項目

外部リンク