鴨田利太郎
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鴨田利太郎 かもだ としたろう | |
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生年月日 | 1930年1月17日 |
出生地 | 日本 埼玉県熊谷市 |
没年月日 | 1985年1月16日(54歳没) |
出身校 |
拓殖大学政経学部卒業 早稲田大学教育学部卒業 |
前職 | 熊谷商工信用組合理事長 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正五位 勲三等瑞宝章 |
親族 | 父・鴨田宗一(衆議院議員) |
選挙区 | 旧埼玉3区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1979年10月8日 - 1983年11月28日 |
鴨田 利太郎(かもだ としたろう、1930年(昭和5年)1月17日[1] - 1985年(昭和60年)1月16日[2])は、日本の政治家、衆議院議員(2期、自由民主党)。
来歴
[編集]埼玉県熊谷市出身[3]。父は熊谷市長と衆議院議員を務めた鴨田宗一。1950年(昭和25年)3月、拓殖大学政経学部卒業[4]。1952年(昭和27年)3月、早稲田大学教育学部卒業[4]。1979年(昭和54年)2月、熊谷商工信用組合理事長となった[4]。同年、宗一の後継者として第35回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から自民党で立候補し当選した[5][6]。1980年(昭和55年)、第36回衆議院議員総選挙でも再選した[7][8]。しかし、1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙には3回目の立候補したものの、加藤卓二と糸山英太郎(無所属)と議席を争ったが落選した[9][10]。再選を目指したものの婚約不履行で訴えられるなどして政界復帰を断念。1985年1月16日に肝不全のため54歳で死去した[2]。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される[11]。
その他
[編集]自民党史に残る「四十日抗争」の際は無派閥だったが、浜田幸一らとともに大平正芳に一票を投じた。1982年(昭和57年)に英霊にこたえる会が実施した内閣総理大臣鈴木善幸に靖国神社への公式参拝を求める要望書に松永光らとともに署名した。
脚注
[編集]- ^ 『埼玉年鑑 昭和55年版 別冊 33コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『バンガード 6(3)(63) 51コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『事業所名鑑 埼玉県版 1980 670コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『埼玉を演出する男たち 政治編 107コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『国民政治年鑑 1979年版 615コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『国民政治年鑑 1979年版 616コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『国民政治年鑑 1980年版 567コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『国民政治年鑑 1980年版 570コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『国民政治年鑑 1984年版 216コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『国民政治年鑑 1984年版 217コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報』第17391号13-15頁 昭和60年1月30日号
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。