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牧野成貞

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牧野 成貞
牧野成貞像(笠間稲荷神社蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永11年11月29日1635年1月17日
死没 正徳2年6月5日1712年7月8日
改名 成恒(初名)→成貞→大夢(法号)
別名 蔵人、兵部(通称
戒名 長威虎雪東光院
墓所 東京都墨田区千歳の要津寺
官位 従四位下備後侍従
幕府 江戸幕府側用人
主君 徳川綱吉
上野館林藩士→下総関宿藩
氏族 三河牧野氏
父母 父:牧野儀成、母:朝倉宣正の娘(朝倉在重の娘とも)
正室:大戸阿久里大戸玄蕃吉勝の娘)
側室:藤田氏
松子(永井貞清室)、牧野成時室)、亀、貞通
養子:成時成春、初姫(戸田氏成室)、女(六郷政晴室)、女(屋代忠知室)
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牧野 成貞(まきの なりさだ)は、江戸時代前期の譜代大名上野館林藩の家老、のち江戸幕府第5代将軍徳川綱吉側用人[1]下総関宿藩主。成恒とも。越後長岡藩主・牧野氏の支族、成貞系牧野家初代。

年譜

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苦悩

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以下の説がある。

  • 異例の出世を遂げた成貞であったが、妻の阿久里と娘の安は徳川綱吉のお手つきにされた。
  • 綱吉の傍若無人に耐えかね、「牧野家は自分一代限りにしたい」と漏らした。
  • 綱吉の寵愛が柳沢吉保に移りつつあった頃は、苦悩を深めた。

系譜

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父母

正室

側室

  • 藤田氏

子女

  • 牧野貞通(長男) 生母は藤田氏。幼名は幸之助、貞倶。成貞74歳の時の子。
  • 松子(長女) - 永井貞清(十郎左衛門)室。院号は玉心院。墓所は全勝寺。また、元禄4年(1691年)9月に阿久里の建てた石碑がある。
  • (次女) - 牧野成時(成貞の養子)室
  • 亀(三女)

養子女

  • 牧野成時 - 黒田用綱の四男。生母は都築為次の養女。幼名は直逵、惣右衛門、兵部。天和元年(1681年)12月に成貞の次女の安と結婚。天和2年(1682年)12月14日従五位下、同年に美濃守になる。安が大奥に入った夜に切腹したとも、貞享4年(1687年)9月27日に食傷で死亡した(戸田茂睡「御当代記」)ともいわれる。
  • 牧野成春 - 大戸吉房(阿久里の父方の伯父)の子。母は大戸吉勝の娘。幼名は秀寿丸、式部。元禄6年(1693年)4月18日に徳川綱吉の指示で養子となる。
  • 初姫 - 戸田氏成室、瑞春院の姉。
  • 六郷政晴室 - 大戸吉勝の娘、阿久里の妹(瑞春院の妹と旗本白須才兵衛政休の娘で、遠藤胤親の姉妹とも[2]
  • 屋代忠知室 - 大戸半弥某の娘

関連作品

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小説
映画
テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、館林藩主の綱吉は江戸に在府しており、館林には将軍家綱に付して日光に参拝した帰り、生涯ただ1度のみである。
  2. ^ ただし、江戸時代初期には徳川家康に5000石級の旗本である秋元泰朝松平正綱が近侍しており『藩翰譜』では「御近習出頭役」と呼ばれていた。(笹間良彦『江戸幕府役職集成』雄山閣出版、1999年11月)

出典

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  1. ^ a b 松平 1919, p. 354.
  2. ^ 三田村鳶魚「「朝妻船」に描ける五の丸殿」『三田村鳶魚全集 第一巻』中央公論社、1976年、p.97

参考文献

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関連項目

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  • 三井高利 - 三井家の祖。江戸において同業者から商売の妨害を受けた際、これに同情した成貞の計らいで幕府御用達に抜擢されたという。
  • 本因坊道悦 - 囲碁本因坊家3世家元。囲碁を趣味としていた成貞は、道悦に入門の手続きをして正式に本因坊家門下となっている。
  • 安井算知 - 囲碁安井家2世家元。成貞が自分の実力に疑問を感じて他流試合を申し込んだ相手。成貞が二子置いて2目勝ちを収める。もっともこれには、師匠である道悦の面目をつぶさないようにという算知の配慮もあった。

外部リンク

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