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牧野忠貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
牧野忠貴
時代 江戸時代中期
生誕 寛文2年(1662年
死没 宝永3年9月15日1706年10月21日
改名 忠英(初名)→忠貴
別名 半之助、半左衛門(通称
墓所 新潟県新潟市西蒲区福井の一山寺
官位 従五位下、伊予
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
氏族 三河牧野氏
父母 父:牧野忠清
正室:松浦鎮信の娘
継室:大田原高清の養女
大久保常春正室、牧野忠列正室
養子:忠列
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牧野 忠貴(まきの ただたか)は、江戸時代中期の旗本。第3代三根山領主。

生涯

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天和2年(1682年)5月29日、父忠清の隠居により家督を相続する。翌年小姓組番頭となり、12月に従五位下・伊予守に叙任される。元禄元年(1688年)9月12日から11月13日まで側用人を務めたが、将軍徳川綱吉より逼塞を申しつけられた。元禄3年(1682年)に赦された。秋月種封の子を娘婿とし、忠列と名乗らせた。没後、忠列が家督を継いだ。