片倉村典
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片倉 村典(かたくら むらつね、宝暦8年(1758年) - 文政5年3月12日(1822年5月3日))は、江戸時代後期の伊達家重臣。白石片倉家第9代当主。
父は片倉村廉。母は側室。子は片倉景貞、伊達宗充室。幼名は繁五郎。通称は勇之助、小十郎。初名は景仲。俳号に鬼子。
略歴
[編集]宝暦8年(1758年)、白石片倉家第8代当主片倉村廉の三男として生まれる。宝暦10年(1760年)、兄景義の死去により、父の嗣子となる。明和5年(1768年)、村廉の死去により家督相続し、白石城主となる。寛政9年(1797年)、奉行職(家老)を拝命する。19年間奉行職を務め、天明3年(1786年)の天明の大飢饉、文化5年(1808年)幕命による蝦夷地警護の派兵、文化6年(1809年)藩主伊達周宗の早世による藩主不在などの問題に対処した。文化12年(1815年)、病のため奉行職を辞職する。文化14年(1817年)、隠居して家督を嫡男の景貞に譲る。文政5年(1822年)3月12日没。享年65。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。文政10年(1827年)、登米伊達宗充に嫁いだ四女常の子伊達斉邦は、仙台藩第12代藩主となる。
俳人松窓乙二(岩間乙二)に師事し、俳号を鬼子と名乗った。また横綱谷風は片倉家のお抱え力士であった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「仙台人名大辞書」[要文献特定詳細情報]