片倉景長
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永7年4月3日(1630年5月14日) |
死没 | 延宝9年5月24日(1681年7月9日) |
改名 | 三之助(幼名)→景長 |
別名 | 通称:小十郎 |
戒名 | 鳳徳院忠山玄怒居士。のち忠山を逸山と改める |
墓所 | 宮城県白石市の愛宕山廟所 |
主君 | 伊達政宗 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 片倉氏 |
父母 |
松前安広、喜佐 養父母: 片倉重長、阿梅[注 1] |
兄弟 | 景長、松前広国、長、夏、鶴、六、吉長、古内義憲、松前為広 |
妻 |
久(古内重広娘) 側室:蘭、種、藤 |
子 |
松子、弥佐エ門、村長、於彦、於玉、村定 茂庭定元 |
片倉 景長(かたくら かげなが)は、江戸時代前期の仙台藩の国家老、白石城主。伊達吉村の外祖父。
生涯
[編集]寛永7年(1630年)、仙台藩士・松前安広の子として誕生。母は片倉重長の長女・喜佐。
外祖父の重長に男子がいなかったため養子となり、重長の死後に家督を継いで国家老となった。
仙台藩のお家騒動である伊達騒動では、国元で幼主・亀千代(伊達綱村)を補佐した。ところが、江戸幕府大老・酒井忠清邸で仙台藩家老・原田宗輔が刃傷に及ぶとの報が入ると、景長は直ちに領内に厳戒体制を敷いて領内での混乱を食い止めた。この働きが評価されて、仙台藩は改易を免れることとなった。しかし、病弱であったため、事後処理を終えると間もなく国家老を辞した。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 重長は景長の実の外祖父だが、景長の生母は重長と前妻の娘であるため、阿梅は実の祖母ではない。
- ^ 下衣川遠藤家(岩手県胆沢郡)。定富の実父は古内重広。