コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

伊達村茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達村茂
時代 江戸時代中期
生誕 正徳6年4月7日1716年5月27日
死没 寛延2年8月5日1749年9月16日
改名 伊達喜世之助、片倉村信、伊達村茂
別名 通称:小十郎、助三郎、肥前
戒名 本有院殿金山崇真大居士
墓所 宮城県黒川郡大和町の覚照寺
主君 伊達吉村宗村
陸奥仙台藩
氏族 宮床伊達家片倉氏→宮床伊達家
父母 伊達村興三沢宗直
片倉村休
兄弟 村胤岩城隆韶村茂白河村祐
伊達村望
村嘉村頼
片倉村定
テンプレートを表示

伊達 村茂(だて むらしげ)は、江戸時代中期の仙台藩士。始め白石城片倉家6代当主となり、片倉 村信(かたくら むらのぶ)と称す。のち実家に戻り仙台藩一門第七席・宮床伊達家4代当主。

生涯

[編集]

正徳6年(1716年)4月7日、宮床伊達家3代当主・伊達村興の子として誕生。幼名は喜世之助

享保5年(1720年)に跡取りのいなかった白石城主・片倉村休が危篤状態に陥ると、伯父である藩主・伊達吉村の命によって村休の末期養子となり片倉家6代当主となる。ただし喜世之助は幼少のため、古内義長が後見人となって家政を総監し、片倉領には目付が派遣されて統治にあたった。

享保8年(1723年)3月21日、元服し、吉村より偏諱を授かって片倉小十郎村信と名乗る。ところが、享保16年(1731年)3月に宮床伊達家を継ぐはずであった兄・村胤が急死すると、吉村は村信に村興の跡目を継ぐよう命じたため、村信は一族・遠藤定利(3代片倉景長の三男)に片倉家の家督を譲った。

同月、実家に戻った村信は村興から家督を譲られて宮床伊達家4代当主となり、伊達助三郎村茂と名を改めた。

寛延2年(1749年)8月5日死去。享年34。嫡男・村嘉が家督を相続した。

系譜

[編集]
      伊達宗房 ┏伊達吉村
       ┣━━━┫
     ┏まつ   ┗伊達村興━━伊達村茂(片倉村信)
     ┃
片倉景長━╋片倉村定(遠藤定利)
     ┃
     ┗片倉村長━━片倉村休

脚注

[編集]

参考文献

[編集]
  • 『白石市史』1(宮城県白石市、1979年)
先代
伊達村興
宮床伊達家
4代:1731年 - 1749年
次代
伊達村嘉