伊達村茂
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳6年4月7日(1716年5月27日) |
死没 | 寛延2年8月5日(1749年9月16日) |
改名 | 伊達喜世之助、片倉村信、伊達村茂 |
別名 | 通称:小十郎、助三郎、肥前 |
戒名 | 本有院殿金山崇真大居士 |
墓所 | 宮城県黒川郡大和町の覚照寺 |
主君 | 伊達吉村→宗村 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 宮床伊達家→片倉氏→宮床伊達家 |
父母 |
伊達村興、三沢宗直娘 片倉村休 |
兄弟 | 村胤、岩城隆韶、村茂、白河村祐 |
妻 | 伊達村望娘 |
子 |
村嘉、村頼 片倉村定 |
伊達 村茂(だて むらしげ)は、江戸時代中期の仙台藩士。始め白石城主片倉家6代当主となり、片倉 村信(かたくら むらのぶ)と称す。のち実家に戻り仙台藩一門第七席・宮床伊達家4代当主。
生涯
[編集]正徳6年(1716年)4月7日、宮床伊達家3代当主・伊達村興の子として誕生。幼名は喜世之助。
享保5年(1720年)に跡取りのいなかった白石城主・片倉村休が危篤状態に陥ると、伯父である藩主・伊達吉村の命によって村休の末期養子となり片倉家6代当主となる。ただし喜世之助は幼少のため、古内義長が後見人となって家政を総監し、片倉領には目付が派遣されて統治にあたった。
享保8年(1723年)3月21日、元服し、吉村より偏諱を授かって片倉小十郎村信と名乗る。ところが、享保16年(1731年)3月に宮床伊達家を継ぐはずであった兄・村胤が急死すると、吉村は村信に村興の跡目を継ぐよう命じたため、村信は一族・遠藤定利(3代片倉景長の三男)に片倉家の家督を譲った。
同月、実家に戻った村信は村興から家督を譲られて宮床伊達家4代当主となり、伊達助三郎村茂と名を改めた。
寛延2年(1749年)8月5日死去。享年34。嫡男・村嘉が家督を相続した。
系譜
[編集]伊達宗房 ┏伊達吉村 ┣━━━┫ ┏まつ ┗伊達村興━━伊達村茂(片倉村信) ┃ 片倉景長━╋片倉村定(遠藤定利) ┃ ┗片倉村長━━片倉村休
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『白石市史』1(宮城県白石市、1979年)
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