岩城隆韶
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永5年(1708年)[1] |
死没 | 延享2年8月29日(1745年9月24日)[1] |
改名 | 小梁川久之助(幼名[1])→岩城清隆(初名)[2]→隆韶 |
別名 | 左京[2] |
戒名 | 真正院挙山道揚[1] |
墓所 | 秋田県由利本荘市の龍門寺[1] |
官位 | 従五位下・但馬守[2]、河内守[2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 伊達吉村→徳川吉宗 |
藩 | 陸奥仙台藩→出羽亀田藩主 |
氏族 | 宮床伊達家→小梁川氏→岩城氏 |
父母 |
伊達村興[1][2]、三沢宗直娘[1][2] 小梁川宗永、岩城秀隆 |
兄弟 | 伊達村胤、隆韶、伊達村茂、白河村祐 |
妻 | 津軽信寿娘・負正院[1] |
子 |
男子 隆恭 |
岩城 隆韶(いわき たかつぐ)は、江戸時代中期の大名。出羽国亀田藩5代藩主。
生涯
[編集]宝永5年(1708年)、陸奥国仙台藩一門第七席宮床伊達家3代当主・伊達村興(仙台藩5代藩主・伊達吉村の弟)の次男として生まれる。
享保3年(1718年)12月7日、出羽亀田藩4代藩主・岩城秀隆の末期養子として家督を継ぎ、12月15日には江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に御目見する[1][2]。享保6年(1721年)12月18日、従五位下・但馬守に叙位・任官する[1][2]。享保9年(1724年)2月16日、河内守に遷任した[1][2]。享保13年(1728年)、公家衆御馳走役を務める[1]。享保15年(1730年)、駿府加番に任じられる[1]。元文3年(1738年)7月15日、隆韶に改名する[1]。
隆韶は朱子学を室鳩巣に学び、山宮維深(雪楼)を侍講として招いた。また文化人として国学や和歌、書道に優れ、亀田藩学の基礎を作り上げた。
延享2年(1745年)8月29日、亀田で死去した。享年38。伊達家一門の岩谷堂伊達家出身の隆恭が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 負正院寿法栄心 - 津軽信寿の娘
子女
- 男子
養子
脚注
[編集]出典
[編集]- 『亀田岩城家譜』
- 『寛政重修諸家譜』