熊野英
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熊野英 くまの えい | |
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生年月日 | 1889年8月3日 |
出生地 | 島根県 |
没年月日 | 1963年2月3日(73歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治学科(現東京大学法学部) |
公選松江市長 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1951年4月26日 - 1963年2月3日 |
在任期間 | 1945年9月10日 - 1947年4月 |
官選第32代 群馬県知事 | |
在任期間 | 1939年4月17日 - 1940年8月6日 |
熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日[1] - 1963年〈昭和38年〉2月3日[2])は、日本の内務官僚、政治家。官選群馬県知事、松江市長。旧姓・石倉。
経歴
[編集]島根県出身。石倉家に生まれ、熊野家の養子となる[3]。松江中学校を経て、第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年、内務省に入省し鹿児島県属となる[4][5]。
以後、鹿児島県警視、同県日置郡長、同薩摩郡長、同県理事官、和歌山県理事官、同農林課長、同地方課長、帝都復興院書記官、復興局書記官・整地部庶務課長、同用地課長、愛知県書記官・学務部長、大阪府書記官・学務部長、岐阜県書記官・内務部長、三重県書記官・総務部長などを歴任[3][4]。
1939年4月、群馬県知事に就任[6]。1940年8月6日、依願免本官となり退官した[5][7]。その後、大政翼賛会中央協力会議員、産業組合中央会常務理事を務めた[3][4]。
戦後、松江市長を1945年9月から1947年4月まで務め、第1回公選島根県知事選挙に出馬のため辞職した[8]。その後、公職追放となる[9]。1951年4月、松江市長に当選し市長を三期務めて、死去するまで在任した[4][10]。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
[編集]- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、90頁。
- ^ 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』183頁。
- ^ a b c 『人事興信録』第13版 上、ク47頁。
- ^ a b c d 『群馬県人名大事典』176頁。
- ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』207頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』297頁。
- ^ 『官報』第4076号、昭和15年8月7日。
- ^ 『日本の歴代市長』第3巻、253頁。
- ^ 公職追放の該当事項は「産業組合中央会常務理事」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、295頁。NDLJP:1276156。 )
- ^ 『日本の歴代市長』第3巻、254頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』日外アソシエーツ、1983年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 人事興信所編『人事興信録』第13版 上、1941年。