吉見輝
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吉見 輝(よしみ あきら[1][2] / てる[3]、1856年 6月17日(安政3年5月15日)[4] - 1936年(昭和11年)10月11日[5])は、日本の内務・警察官僚。官選群馬県知事。旧姓・川辺。
経歴
[編集]常陸国水戸出身[1]。水戸藩士・川辺重左衛門の三男として生まれ、吉見治郎左衛門の養子となる[4]。
警視庁に奉職し[4]、警部補として西南戦争に参加した。その後、山形県警部、福島県警部、福島県河沼郡長、同県北会津郡長、富山県警部長、熊本県警部長、広島県警部長、長崎県警部長、大阪府警部長、千葉県書記官、警視庁警視・第一部長、同消防署長などを歴任[1]。
1902年10月、群馬県知事に就任。教育、産業の振興などに尽力。1906年7月、知事を休職[3]。1908年7月27日、休職満期となり退官した[6]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
親族
[編集]- 長男 吉見静一(1883年生。東京帝国大学工科大学電気科卒、東京電燈を経て、のち理研工業社長)[1]。妻のキンは安永義章の次女[11]。安永(1855-1918)は陸軍省技師から兵器製造技術のため欧州に留学し、八幡製鉄所を経ての大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)校長に就任、ダイハツの前身「発動機製造」の設立者のひとりとして知られる[12][13]。
- 長女 兼田梅(衆議院議員兼田秀雄の妻)[2]
- 次女 篠原竹(検事篠原三郎の妻)[14]
- 輝の兄弟に、水戸家家令、久慈郡・多賀郡郡長を務めた川辺善固、大洗磯前神社宮司の小松崎吉郎、ウラジオストックで貿易商となった川辺虎(たけき)がいる[15]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『群馬県人名大事典』573頁。
- ^ a b c 『茨城人名辞書』ヨ19-20頁。
- ^ a b 『新編日本の歴代知事』288頁。
- ^ a b c 『人事興信録』初版、440頁。
- ^ 『日本人名選』442頁。
- ^ 『官報』第7528号、明治41年7月30日。
- ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
- ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7606号・付録「辞令」1908年10月31日。
- ^ 吉見静一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 安永義章 デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 会社概況・役員 ダイハツ
- ^ 篠原三郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 川辺家家系図 ロシア語通訳協会