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湯川直光

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湯川 直光
湯川直光像
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄5年5月20日1562年6月21日
別名 畠山宮内大輔
墓所 法林寺
官位 宮内大輔[1]
幕府 室町幕府 奉公衆
氏族 湯河氏(湯川氏)
父母 父:湯河光春
兄弟 直光帯刀宗慶[注釈 1]
直春信春
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湯川 直光(ゆかわ なおみつ)は、戦国時代武将紀伊国亀山城主。名は湯河 直光とも書かれる[2]

出自

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湯河氏(湯川氏)は甲斐源氏武田氏の支流の出という[3]。湯河氏の祖・武田三郎忠長(または武田悪三郎信忠)が熊野湯川(現在の和歌山県田辺市中辺路町道湯川[4])に来住したことに始まり、南北朝時代の3代当主・湯河光春の頃に牟婁郡有田郡日高郡を領して、亀山城(御坊市湯川町丸山[5])を築いたとされる[3]。その後、室町幕府奉公衆となり、小松原(御坊市湯川町小松原[6])を本拠とした[7]

略歴

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湯河氏の当主・光春の子として生まれる[2][注釈 2]

直光は当時の交通の要衝であった小松原館[注釈 3]を築城して平時の居館としたという[9]

紀伊続風土記』などによると、摂津国江口の戦い三好長慶の軍勢に敗れたが、大坂本願寺証如の助力もあり小松原館に帰還[10][11][12]天文年間に感謝の意を込めて一堂(後の本願寺日高別院)を建立し、次男・信春を出家させて住職にしたとされる[10][11][12]

永禄元年(1558年)、河内・紀伊守護畠山高政が重臣の安見宗房と対立し、河内国高屋城から紀伊へと逃れてくる[13]。翌永禄2年(1559年)に三好長慶や直光の協力で河内に返り咲いた高政は、畠山氏の庶家で奉公衆である畠山中務少輔家の家督を直光に与えた[14][15][注釈 4]。ところが、永禄3年(1560年)に高政は宗房を復帰させ、これが長慶の河内侵攻を招き、高政・宗房は河内を奪われ紀伊へ亡命した[18]。この際、直光は将軍足利義輝より御内書を下されたため、高政からの出陣要請を断っている[14][19]

永禄5年(1562年)3月、河内奪還を狙う高政の行軍に従い、和泉国久米田で長慶の弟・実休が率いる三好軍を撃破した(久米田の戦い[20]。以前将軍により参陣を停止されていた直光が反三好の戦いに協力したのは、三好氏に所領を押領されていた[14]ためともいわれる[21]。また、この時は高政に味方するよう将軍側から働きかけがあったとも考えられる[22]

同年5月20日、三好軍の反攻を受けて河内国教興寺に布陣していた直光は戦死し、紀伊勢は総崩れとなった(教興寺の戦い[23]。この時、直光の弟の帯刀や一族の右衛門大夫兄弟や甚太夫など、多くの者が討死したという[24]

跡は長男・直春が継いだ[25]

脚注

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注釈

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  1. ^ 和歌山県日高郡 (1923, p. 1420) 記載の系図より。同系図にある安芸守の名が宗慶であることについては1444頁「35、湯川右近」(宗慶の子)参照。
  2. ^ 政春の子とする説もある[8]
  3. ^ 現・和歌山県立紀央館高等学校湯川神社
  4. ^ この時直光が河内守護代に任じられたとする話があるが、これは『 足利季世記』などの後世の軍記にしか見られず、事実ではない[16]。安見宗房が河内守護代だったという話についても同様[17]

出典

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  1. ^ 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 514; 弓倉 2006, p. 225.
  2. ^ a b 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 514.
  3. ^ a b 和歌山県日高郡 1923, pp. 1418–1419.
  4. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, pp. 701, 1054.
  5. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, p. 306.
  6. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, pp. 469–470.
  7. ^ 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 中世』和歌山県、1994年、380頁。全国書誌番号:94039163 
  8. ^ 和歌山県日高郡 1923, p. 1420.
  9. ^ 和歌山県高等学校社会科研究協会 編「紀中の海岸を行く」『和歌山県の歴史散歩』山川出版社〈歴史散歩30〉、2009年、188頁。ISBN 978-4-634-24630-0 
  10. ^ a b 仁井田好古ほか 編『紀伊続風土記 第二輯 伊都 有田 日高 牟婁』帝国地方行政会出版部、1910年、499頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765518/322 
  11. ^ a b 美浜町史編集委員会 編『美浜町史 上巻』美浜町、1988年、638-639頁。全国書誌番号:88030353 
  12. ^ a b 和歌山県日高郡 1923, p. 1166.
  13. ^ 弓倉 2006, p. 222; 福島 2009, p. 118.
  14. ^ a b c 9月13日付大館晴光宛湯河直光書状(「尊経閣文庫文書」)。
  15. ^ 弓倉 2006, pp. 222–224, 389–390.
  16. ^ 弓倉 2006, pp. 336–338.
  17. ^ 弓倉 2006, p. 335.
  18. ^ 弓倉 2006, p. 222; 福島 2009, p. 119.
  19. ^ 弓倉 2006, pp. 223–224.
  20. ^ 弓倉 2006, pp. 222, 226; 福島 2009, p. 125.
  21. ^ 弓倉 2006, p. 225.
  22. ^ 弓倉 2006, p. 226.
  23. ^ 弓倉 2006, pp. 354, 358–360.
  24. ^ 御坊市史編さん委員会 編『御坊市史 第三巻 史料編I』御坊市、1981年。全国書誌番号:82011938 104頁「湯川記」、112頁「湯河氏代々系図」。
  25. ^ 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 513.

参考文献

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