畠山高政
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 大永7年(1527年)または享禄4年(1531年) |
死没 | 天正4年10月15日(1576年11月5日) |
別名 | 通称:次郎四郎[1] |
戒名 | 一空[2][注釈 1] |
墓所 | 観心寺(大阪府河内長野市)[4] |
官位 | 尾張守[2] |
幕府 | 室町幕府紀伊・河内守護 |
氏族 | 畠山氏(畠山尾州家) |
父母 | 父:畠山政国、母:不明 |
兄弟 | 高政、政尚、秋高 |
子 | 養子:秋高 (実弟)[4]、貞政 (甥)[3]、之照 (細川真之の子)[要出典] |
畠山 高政(はたけやま たかまさ)は、戦国時代の紀伊・河内国の守護大名・戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。
生涯
大永7年(1527年)[3][4]、または享禄4年(1531年)[注釈 2]、畠山政国の嫡男として生まれた[3][4]。
高政が若年の頃の畠山氏は、細川氏綱を奉じて細川晴元に対抗するなどしていたが[6]、河内国における実権はほぼ守護代の遊佐長教に握られており、そのこともあってか高政の父・政国は出家し紀伊に遁世していた[7]。その遊佐長教は天文20年(1551年)5月に暗殺されている[8]。
天文21年(1552年)9月29日、高政は家督を継いだ[9]。天文22年(1553年)3月6日までに、次郎四郎から尾張守へ名乗りを改める[10]。同年の将軍・足利義輝と三好長慶の争いでは長慶に丹下盛知・安見宗房を援軍に送るなど[11]、遊佐長教が長慶と結んで以来の同盟関係を維持している[12]。
永禄元年(1558年)11月30日、安見宗房との対立が表面化し、高政は居城の河内高屋城から堺に逃れ、その後紀伊へと移った[13][14]。永禄2年(1559年)8月、三好氏が兵を出したことにより高屋城に復帰するも[15]、高政は安見宗房と和睦し、永禄3年(1560年)6月、三好氏による河内侵攻を受けた[16]。同年10月、高政と宗房は三好長慶に降伏し、堺へ退去した[17]。
永禄4年(1561年)7月、和泉岸和田城にいる三好長慶の弟・十河一存が死去したのに合わせ、高政は根来衆らとともに紀伊から和泉に進軍した[18]。この時、近江の六角義賢が高政の動きに呼応し、細川晴元の次男・晴之を擁して京へと軍を進めた[19]。
永禄5年(1562年)3月5日[20]、和泉久米田の戦いにおいて、長慶の弟である三好実休を討ち取るという戦果を収めて、高屋城を奪還する[21]。しかし、続く5月20日の河内教興寺の戦いに敗れ、高政は高屋城から大和宇智郡に逃れ、紀伊へと退いた[22]。この敗戦により畠山氏は河内の大部分を失うことになったが[23]、永禄6年(1563年)9月には遊佐長教の子の河内守護代・遊佐信教が南河内の金剛寺に判物を発給するなどしており、河内における影響力は一部維持していた[24]。
永禄8年(1565年)5月、将軍・足利義輝が三好三人衆らに討たれる永禄の変が起きると、高政は家督を弟の政頼(後の秋高)に譲った[25][注釈 3]。なお、遊佐信教・安見宗房が秋高を当主に擁立し高政を追放したとの話が『足利季世記』に記載されるが、信憑性の高い史料には見られず、内容も永禄元年(1558年)の安見宗房と高政の争いの焼き直しであり、事実ではないとされる[26]。
永禄11年(1568年)9月、足利義昭が織田信長とともに上洛し室町幕府が再興されると、同年10月、高政は秋高とともに幕府に出仕した[27][28]。高政は高屋城に在城する秋高の後見人として在京して、幕府や織田信長との交渉に当たったとみられ、永禄13年(元亀元年、1570年)3月および5月に在京していることが確認できる[29][30]。また同年10月に三好三人衆が河内に侵攻した際は、河内に下向して戦った[31][32]。
天正元年(1573年)に弟・秋高が遊佐信教に殺害されると、高政はしばしば再興を画策するも果たせなかったという[3]。天正3年(1575年)には、信長により高屋城が破却された[33]。
天正4年(1576年)10月15日、高政は死去した[3][4]。『両畠山系図』などによると享年50という[3][4]。晩年の高政はキリスト教の洗礼を受けており[20][34]、池田丹後守や伊智地文太夫(畠山氏内衆[35])らと関わりがあったことから、彼らからキリスト教を紹介されたのではないかと推測されている[34]。観心寺で没したとも[3]、貞政が在城する[4]紀伊岩室城で死去したともいう[3]。
脚注
注釈
出典
- ^ 弓倉 2006, pp. 19, 49.
- ^ a b 弓倉 2006, p. 19.
- ^ a b c d e f g h i j 『両畠山系図』(「両畠山系図」、塙保己一編『続群書類従 巻115-116』)。
- ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第九十八(『寛政重脩諸家譜 第一輯』國民圖書、1922年、561頁)。
- ^ 東京帝国大学文科大学史料編纂掛編『大日本古文書 家わけ第六 観心寺文書』東京帝国大学、1917年、199頁。
- ^ 福島 2009, pp. 98–105; 天野 2020, pp. 49–51, 54–58.
- ^ 弓倉 2006, p. 328.
- ^ 弓倉 2006, pp. 264, 327; 福島 2009, p. 110; 天野 2020, p. 59.
- ^ 弓倉 2006, pp. 49, 246, 333.
- ^ 弓倉 2006, p. 246.
- ^ 弓倉 2006, pp. 248–249, 336.
- ^ 天野 2020, p. 65.
- ^ 『細川両家記』永禄元年11月30日条(塙保己一編『群書類従 第拾參輯』経済雑誌社、1894年、628頁)。
- ^ 弓倉 2006, p. 334; 福島 2009, p. 118; 谷口 2010, p. 362.
- ^ 弓倉 2006, p. 336.
- ^ 弓倉 2006, p. 338; 福島 2009, p. 119.
- ^ 福島 2009, p. 119; 谷口 2010, pp. 362, 506.
- ^ 福島 2009, p. 124.
- ^ 福島 2009, pp. 124–125.
- ^ a b 谷口 2010, p. 362.
- ^ 福島 2009, p. 125; 谷口 2010, p. 362.
- ^ 弓倉 2006, pp. 359–360.
- ^ 弓倉 2006, p. 338.
- ^ 弓倉 2006, pp. 341, 362.
- ^ 弓倉 2006, pp. 50–52.
- ^ 弓倉 2006, pp. 50–53, 339–340.
- ^ 『言継卿記』永禄11年10月4日条 (山科 1915, p. 275)。
- ^ 弓倉 2006, pp. 52–53.
- ^ 『言継卿記』永禄13年3月1日・3日条、元亀元年5月3日・5日条 (山科 1915, pp. 393–395, 412–413)。
- ^ 弓倉 2006, p. 339.
- ^ 『言継卿記』元亀元年10月22日条 (山科 1915, p. 453)。
- ^ 弓倉 2006, p. 340.
- ^ 弓倉 2006, p. 377.
- ^ a b 結城了悟『キリシタンになった大名』聖母の騎士社〈聖母文庫〉、1999年、192頁。
- ^ 弓倉 2006, pp. 377–378.
参考文献
- 天野忠幸『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』吉川弘文館〈列島の戦国史4〉、2020年。ISBN 978-4-642-06851-2。
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-01457-1。
- 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年。ISBN 978-4-642-06321-0。
- 山科言継『言継卿記 第四』国書刊行会、1915年 。
- 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1。
関連項目
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