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池淵家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

池淵家(いけぶちけ)は、日本の医家である。鳥取県境港市を拠点としている。

藩政時代から明治にかけて、境港地方に三軒の「池淵(いけぶち)」という医家があった[1]境町池淵玄達上道村池淵令寿、上道村分家で境町の池淵碩庵の三医家である[1]。もとは中野村の出身で、中野から上道に出た池淵令寿家が中心という[1]。いずれも中野村正福寺の檀家である[1]

系譜

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池淵家

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境港市上道町
三代目の三右衛門学問にすぐれ、仏門に帰依し大坂高野山に屢々往来し、苗字帯刀を許されていたという[1]
五代・勘兵衛は医師をしていたか明らかでない[2]
六代・恕軒は多くの医師、文士と交友があり思想家頼山陽とも親交があった[2]。文政8年、68歳で没した[2]
七代・令寿も医師となった。この頃池淵家は富裕であったのか、天保7年の飢饉の折に施を行い、その施粥帳が残されている[2]。令寿は慶応2年、73歳で没した[2]。令寿の長男令治は医術を学ぶため大坂に出て、中之島儒者安藤太郎家に滞在したが、修行中にコレラで病死したため弟・彦平が跡を継いだ[2]。彦平は医師であったかどうか明らかでない[2]
九代・麗寿弘化元年(1844年)に彦平の長男として生まれ、万延元年(1860年)から文久2年(1862年)まで中野村景山立碩の門に漢方医術を学び、更に松江の錦織春象について漢蘭折衷医術を学んだ[2]元治元年(1864年上道村で開業した。明治年間、この地方の名医として評判であった[2]。大正3年(1914年)71歳で病没した[2]
境港市朝日町
上道分家の初代の俗名は不明だが、戒名は「大医如水居士」とあって天保14年(1843年)に没しているので、本家六代目の恕軒の弟が分家したものと思われる[3]
二代目の如仙は境・朝日町で開業した[3]
三代目の碩庵も朝日町で開業した。また、同地で安政2年から明治4年(1871年)まで寺子屋を開いた[3]
(境港市栄町
中野村出身であり、玄造の代になって境に移ったという[4]
二代・玄達は玄造の。若くして中野村の景山粛に医術を教えられた[4]の娘・りんを嫁にもらい、境村栄町で開業。大いに繁盛した[4]
竹治郎の長男明治40年(1907年)、東京慈恵医院医学専門学校(現・東京慈恵会医科大学)を卒業。アメリカに渡り、カリフォルニア州をはじめ各州の病院で研修した後、大正2年(1913年)に帰国。境町栄町で開業した[4]
貢の長男正賢昭和14年(1939年)、京都帝国大学医学部を卒業し陸軍軍医となった。戦後帰国し、米子医学専門学校(現・鳥取大学医学部)の外科教室に勤めた[3]昭和23年(1948年)に上道村で開業したが、翌年栄町に戻って開業した[3]
正賢の長男滋雄鳥取大学医学部を卒業し、鳥取大学医学部附属病院第一内科に勤務[3]したが、栄町に戻り開業している。

関連人物

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脚注

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  1. ^ a b c d e 森納著『続 因伯の医師たち』 29頁
  2. ^ a b c d e f g h i j 森納著『続 因伯の医師たち』30頁
  3. ^ a b c d e f 森納著『続 因伯の医師たち』32頁
  4. ^ a b c d 森納著『続 因伯の医師たち』31頁

外部リンク

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