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永川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永川の戦い
戦争:朝鮮戦争
年月日1950年9月2日 - 13日
場所大韓民国慶尚北道永川市
結果:国連軍の勝利
交戦勢力
国際連合の旗 国連軍
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
指導者・指揮官
劉載興准将
李成佳准将
武亭中将
朴成哲少将
趙烈光少将
戦力
15,000名[1] 推定12,000名[1]

永川の戦い日本語:ヨンチョンのたたかい、ようせんのたたかい、韓国語:永川戰鬪、영천 전투)は、朝鮮戦争中の1950年9月に起きた大韓民国陸軍(以下韓国軍)及び朝鮮人民軍(以下人民軍)による戦闘。

経緯

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永川大邱慶州のほぼ中間にあり、中央線大邱線の分岐点である[2]。永川を押さえて東に向かえば韓国軍第1軍団、西に向かえば韓国軍第2軍団の後方を遮断できるので8月末から永川が重視されていた[2]。この正面には第1軍団左翼の第8師団が担当していた。第8師団は正面18キロの戦線を、西から第21連隊、第3連隊第1大隊(大隊長:鄭震少領)、第16連隊、第5連隊を配備して防御していた。隷下の第10連隊は浦項正面に転用されていた[3]

編制

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国連軍

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人民軍

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  • 第2軍団 軍団長:武亭中将
    • 第15師団 師団長:朴成哲少将(9月5日から趙烈光少将[4]
      • 第48連隊 連隊長:金致九大佐
      • 第49連隊 連隊長:李鉄英総佐
      • 第50連隊 連隊長:李乙雪総佐
      • 砲兵連隊 連隊長:李連燮大佐
    • 第73独立連隊 連隊長:李周容中佐
    • 第103連隊 連隊長:李鍾萬大佐

戦闘

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第8師団の正面には、遊鶴山から転進してきた人民軍第15師団が9月2日からこの正面に攻撃を開始していた[3]。しかし9月4日、朴成哲少将は武亭中将から「崔仁斗同志の率いる第12師団は安康里の線を突破して慶州を占領した。それなのに朴同志の師団はなぜ永川を占領できないのか?」と激しく叱責された[3]

9月5日午前1時、第15師団は3個連隊を並列して、第73独立連隊と第103連隊を予備とし、各種砲166門の支援をもとに攻勢を開始した[3]。この日は豪雨により第8師団は航空支援を受けられず、さらに混戦状態になったため砲兵支援もできなかった[5]。第8師団の中央は突破され、永川に危機が迫った。

この事態に陸軍本部は、永川から慶州に転進中の第18連隊から第2大隊を抽出して第8師団に配属した[5]。そして第8師団は第2軍団に隷属させて、劉載興軍団長に事態の収拾を命じた[5]。劉載興軍団長は第1師団(師団長:白善燁准将)から第11連隊、第6師団(師団長:金鐘五准将)から第19連隊を抽出して第8師団に配属した。またウォーカー中将に戦車1個小隊(M46パットン5両)の支援を要請した[6]

9月6日早朝、第15師団が永川を占領した。この時、韓国軍は永川西側を雑多な部隊が防御していたに過ぎず、第15師団が永川から西西南15キロにある河陽に突進すれば第2軍団は崩壊する可能性があった[7]。ところが第15師団は慶州方面に南下した[7]。このため第8師団長・李成佳准将は第9工兵大隊(大隊長:金黙少領)に永川を奪還させた[7]。やがて人民軍が反撃してきたが、来援した米軍戦車小隊の支援を受けてこれらを撃退した[8]。9月7日から韓国軍の反撃が開始された。13日まで戦闘が続き、第15師団は殲滅された。韓国軍の戦果は射殺3,999名、捕虜309名、戦車5両、装甲車2両、トラック85両、各種砲14門、火器2,327丁を破壊または鹵獲した[1]

出典

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参考文献

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  • 白善燁『指揮官の条件 朝鮮戦争を戦い抜いた軍人は語る』草思社〈草思社文庫〉、2002年。ISBN 978-4-79-421966-4 
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 下巻 漢江線から休戦まで』原書房、1977年。 
  • 韓國戰爭史第3巻 洛東江防禦作戰期(1950.8.1~9.30)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2018年10月28日閲覧。