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趙烈光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
趙烈光
各種表記
ハングル 조렬광
조열광
漢字 趙烈光
発音: チョ・リョルグァン
チョ・ヨルグァン
日本語読み: ちょう・れつこう
M-R式

2000年式
Cho Ryŏlgwang
Cho Yŏlgwang
Jo Yeolgwang
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趙烈光1913年 - 没年不詳)は、朝鮮半島独立運動家朝鮮民主主義人民共和国軍人

略歴

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京畿道出身[1]広島県の中学校に留学し、卒業後に中国へ渡った[1]1933年9月、義烈団系の朝鮮革命幹部学校に入学し、1934年4月に卒業[1]。同年9月、南京の中央陸軍軍官学校に予備班員として入学し、11期砲兵科を卒業した[1][2]。朝鮮民族革命党員として活動し、1937年12月から1938年5月まで中央陸軍軍官学校星子・江陵分校で見習い士官を務めた[1]

1938年10月、朝鮮義勇隊に入隊し、第1区隊第2分隊長に任命される[1]1939年春、第2遊撃隊長[1]1941年初、第3支隊員[1]。同年夏、華北支隊第2隊第1分隊長[1]。同年12月12日、河北省元氏県胡家荘の戦闘で重傷を負った[1][3]1942年6月頃、延安に赴き、1943年8月、華北朝鮮独立同盟の同盟員になった[1]1945年2月、朝鮮革命軍政学校教官・第1区隊長[1]。日本の降伏に伴って東北部の延辺へ赴き、朝鮮義勇軍第5支隊参謀長となる[1]

1946年前半、38度線以北に帰国した[1]。その後、朝鮮戦争に参戦。1950年9月5日朴成哲に代わって朝鮮人民軍第15師団長(少将)に任命され、永川の戦いを指揮した[4]。1951年、第6軍団砲兵司令官[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 강만길 & 성대경 1996.
  2. ^ 国史編纂委員会, ed. (2000), “白贊基 訊問調書(第四回)”, 韓民族獨立運動史資料集 43 中國地域獨立運動 裁判記錄 1, http://db.history.go.kr/id/hd_043_0040_0010_0070 
    趙烈光, 當二十四, 五年位京城ノ者ダソーデスガ本名ハ不詳デス. 日本ニ行ッテ角帽ヲ冠ッテ勉强シテ居タガ父ガ死ンダノデ歸國シ, 暫ラク家ニ居テ南京ニ來タト申シ蹴球ハ上手デシタ. 本年三月頃女學校ニ通ッテ居ル妹カラ, 刑事ガ嗅ギ付ケテ來テ困ルカラ死ンデモ歸ッテ來ルナト云フ手紙カ來タト聞キマシタ.
  3. ^ 国史編纂委員会, ed. (2005), “우리 通訊”, 대한민국임시정부자료집 3 임시의정원 Ⅱ, http://db.history.go.kr/id/ij_003_0010_00030_0020 
  4. ^ 6.25戦争史 5, pp. 456–457.
  5. ^ 김선호 (2018). “한국전쟁기 조선인민군의 재편과 북한・중국・소련의 이견과 조율 - 국경 이동과 군단 창설을 중심으로”. 한국사연구 (한국사연구회) 180: 199-234. 

参考資料

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  • 강만길; 성대경 編「조열광」『한국사회주의운동인명사전』창작과비평사、1996年、457-458頁。ISBN 8936470302 
  • 6・25전쟁사 5 낙동강선 방어작전(6.25戦争史 5 洛東江線 防御作戦), 大韓民国国防部軍史編纂研究所, (2008), http://chppm.chilgok.go.kr/open_content/main_page/%EB%82%99%EB%8F%99%EA%B0%95%EC%84%A0%20%EB%B0%A9%EC%96%B4%EC%9E%91%EC%A0%84.pdf