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金益烈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金益烈
生誕 1921年
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮慶尚南道河東郡
死没 1988年
大韓民国の旗 大韓民国
所属組織 大日本帝国陸軍
大韓民国陸軍
最終階級 少尉(日本陸軍)
中将(韓国陸軍)
墓所 国立ソウル顕忠院将軍墓域
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金 益烈(キム・インニョル、김익렬)は大韓民国軍人済州島四・三事件の関係者。

経歴

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1921年、慶尚南道河東に生まれる。学徒出陣して陸軍予備士官学校に入校。卒業して日本軍少尉。

1946年2月11日付で軍事英語学校を卒業、任少尉(軍番10047番)[1]。第5連隊の創設に参加し、同連隊A中隊(中隊長:白善燁中尉)副官[2]。1947年、第4連隊作戦主任[3]。同年9月、第9連隊副連隊長。同年12月1日、第9連隊長[4]

1948年4月、済州島で島人の蜂起が起こると、首謀者の金達三と会談して72時間以内に戦闘を中断することを協議した。しかし米軍政庁趙炳玉警務部長などの強硬策によって交渉は決裂。鎮圧に反対したため、5月に連隊長を解任された。6月18日、第14連隊長[5]

1948年8月14日、第13連隊長[6]。1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると臨津江で勇戦した。7月、アメリカ空軍の誤爆で重傷を負い後送される。1950年8月、大邱訓練所長。1950年8月21日、第6師団第19連隊長[7]。北進作戦に参加。1950年10月、第11師団副師団長。1951年4月25日、第5師団第35連隊長[8]。同年、第5師団副師団長[9]。1952年5月、第8師団長

1954年6月、アメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。1955年7月、第7師団長

1957年から1958年まで国防大学院に在学して卒業後、陸軍本部輸送監に就任。

1960年、第1管区司令官。

1961年5月、全羅北道地区戒厳事務所長。

1962年に第1軍団長第2軍団長を歴任。

1963年、任中将。

1965年、戦闘兵科教育司令官。

1967年5月、国防大学院院長兼合同参謀大学総長。

1969年1月、予備役編入。2月、韓国セメント工業協会理事長。

1972年、仁川製鉄常任理事。

1979年5月、韓国自動車工業協同組合理事長。

出典

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  1. ^ 佐々木 1976, p. 87.
  2. ^ 佐々木 1976, p. 149.
  3. ^ 佐々木 1976, p. 142.
  4. ^ 佐々木 1976, p. 197.
  5. ^ 佐々木 1976, p. 200.
  6. ^ 佐々木 1976, p. 199.
  7. ^ 洛東江戦 防御作戦” (PDF) (韓国語). 漆谷護国平和祈念館. pp. 350. 2016年8月17日閲覧。
  8. ^ 韓國戰爭史第6巻 制限戰線의 激動期(1951.5.1~1951.8.31)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 28. 2018年9月22日閲覧。
  9. ^ “(276)적의 춘계공세(5)” (朝鮮語). 中央日報. (1972年1月12日). http://news.joins.com/article/1311221 2018年7月11日閲覧。 

参考文献

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