武元登々庵
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武元 登々庵(たけもと とうとうあん、1767年3月14日(明和4年2月15日)- 1818年3月29日(文化15年2月23日))は、江戸時代中期から後期の漢詩人、書家である。名は質または正質。字は景文、通称は周平。登々庵は号で、別号に行庵・泛庵がある。
略歴
[編集]備前国和気郡北方村(現在の岡山県備前市吉永町)の名主・武元和七郎の長男として生まれた。弟の君立と一緒に備前岡山藩閑谷学校で学び、諸国を遊歴して崎陽(長崎)で蘭学を修めた。のち京坂地方で頼山陽・菅茶山・田能村竹田・浦上春琴らと交流した、笑社(のちに真社と改名)[1]の社友でもある。
寛政11年(1799年)より翌年にかけて大西圭斎とともに奥州行に出て、寛政12年6月、圭斎が仙台で「登々庵肖像」(吉永町美術館蔵)を描いている[2]。
享和元年(1801年)、34歳のとき、儒学者・菅茶山によって備後国(現在の広島県福山市神辺町)に開かれた私塾「廉塾」(黄葉夕陽村舎)を訪れる。その後、文化3年(1806年)と翌文化4年(1807年)にも訪れている。
文化8年(1811年)頃より平安(京都)に移り、御池室町西に在住した[3]。
文化15年(1818年)2月23日歿。52歳。
代表書画作品
[編集]著作
[編集]参考文献
[編集]- 『平安人物志』(文化10年(1813年)版)
- 竹谷長二郎著『「行庵詩草」研究と評釈』(笠間書院、1995年)
- 柳川真由美「大森家・武元家と絵師」(『閑谷学校研究』16号、2012年)
- 許永晝・森田聖子・小林詔子・市川尚編『笑社論集』(文人画研究会、2021年)ISBN 978-4-7629-9572-9
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 『笑社論集』(文人画研究会、2021年)参照。
- ^ a b 伊藤紫織「真景図を写す―武元登々庵をめぐる画家 大西圭斎と大原東野―」(尚美学園大学芸術情報研究第26号)参照。
- ^ 『平安人物志』(文化10年版)に拠る。
- ^ 文人画研究会蔵。古詩の押韻法を、逐解転韻格・逐段転韻格・二句一転格・三句一転格・換韻句数長短不定格・起二句一転格・起四句一転格・結二句換韻格・結四句換韻格・用単句格・毎句用韻格・一韻到底格という十二格に分類し、『古今韻略』『文体明弁』『古詩源』等に依拠して解説した詩論書。頼山陽も本書を詩学の指南書の一つに掲げ、多くの社中に薦めている。『笑社論集』(文人画研究会、2021年)参照。
- ^ 竹谷長二郎著『「行庵詩草」研究と評釈』 (笠間書院、1995年)
外部リンク
[編集]- 文人画研究会 公式サイト - 文人画研究会
- 武元登々庵 - 備前市ホームページ
- 『武元登々庵』- コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)