コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

梅津只圓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梅津只円から転送)
うめづ しえん

梅津 只圓
生誕 政之進
文化14年4月17日1817年6月1日
筑前国那珂郡福岡城薬院中庄
死没 明治43年(1910年7月3日
福岡県福岡市薬院
死因 老衰
墓地 順正寺(祇園町)
記念碑 梅津只圓翁像(大濠公園能楽堂)、梅津只圓先生之碑(今泉二丁目)
住居 薬院
国籍 日本の旗 日本
別名 通称:源蔵、諱:利春
職業 能楽師
活動期間 嘉永5年(1852年) - 明治43年(1910年)
流派 喜多流シテ方
影響を受けたもの 喜多六平太 (12世)
影響を与えたもの 喜多六平太 (14世)夢野久作
配偶者 野中いと
子供 梅津健介
梅津正武
親戚 婿:野中到
テンプレートを表示

梅津 只圓(うめづ しえん、文化14年4月17日1817年6月1日) - 明治43年(1910年7月3日)は幕末明治喜多流シテ方能楽師福岡市出身。通称は源蔵、諱は利春。夢野久作『梅津只圓翁伝』の題材となった。

生涯

[編集]

江戸時代

[編集]

文化14年(1817年)4月17日、福岡藩召抱能楽師シテ方、梅津源蔵正武の長男として薬院中庄に生まれた[1]。幼名は政之進、栄で、藩主黒田長溥の命で利春と改名した[1]

天保3年(1832年)春、喜多六平太能静と師弟関係を結び、「」の允可を受けた[1]弘化元年(1844年)春と嘉永元年(1848年)春の2度上京し、喜多六平太能静に直接指導を受けた[2]。弘化3年(1846年)3月家督を継ぐ[2]

嘉永5年(1852年)3月自宅舞台で「翁」を初披露し、藩主黒田斉溥に御装束預を命じられた[1]。嘉永7年(1854年)3月、菅公を祀る水鏡天満宮250年に能を披露した[2]文久元年(1861年)9月28日から1月1日まで5日間、黒田長知栄進祝として能を披露し、10月15日御納戸組馬廻格となった[1]。文久3年(1863年)1月1日松囃子の際、長知より袴や面を賜った[2]

明治時代

[編集]

明治元年(1868年)長知の上京に同行し、京都の黒田家菩提寺、大徳寺龍光院の宿陣で来客に囃子仕舞を披露した[2]。明治2年(1869年)4月4日環瀛丸に同船して13日東京に到着し、隔日で勤番した[2]。非番の日は根岸の喜多家宅に通い、「道成寺」「卒塔婆小町」「望月」「石橋」の相伝を受け、5月24日能静の最期を看取った[2]。明治4年(1871年)10月長男栄に家督を讓り、只圓と号したが[2]、明治12年(1879年)1月先立たれ、復帰した[1]

明治13年(1880年)3月30日、当主・黒田長知の機嫌伺いのため、門人・鈴木六郎、河原田平助と共に上京し、度々長知の実兄、藤堂高潔宅で能を披露した[1]。明治25年(1892年)10月9日能静追善能のため上京したところ[2]池田茂政前田利鬯皇太后宮亮林直康等に、喜多家次代千代造の補導を依頼され、婿野中到宅に滞在して稽古を行い、また斎藤五郎蔵に装束附方を伝習し[1]、明治26年(1893年)11月28日帰郷した[2]

明治38年(1905年)義兄の次男健介を養子とし、10月家督を讓った[1]。明治41年(1908年)頃身体が不自由となり、梅津朔造に「隅田川」を稽古中卒倒し、病臥の身となった[1]。明治43年(1910年)7月2日柴藤精蔵に謡曲を稽古中急変し、7月3日死去した[1]。墓所は福岡市博多区祇園町、順正寺[1]

記念碑

[編集]

昭和8年(1933年)墓が累代墓に合葬されたため、旧門下佐藤文次郎、古賀得四郎、柴藤精蔵、夢野久作により銅像建造が計画され、昭和9年(1934年)10月14日旧宅庭前に津上昌平による像が除幕された[1]第二次世界大戦金属類回収令により供出され、昭和63年(1988年)大濠公園能楽堂中庭に再建された。

現在、今泉二丁目大神月極駐車場内に「梅津只圓先生之碑」がある。

家族

[編集]

梅津家は山城国葛野郡梅津で代々芸事を行い、梅若家も輩出した家柄といい、江戸時代博多に移住して町役者となり、櫛田神社の神事能を司った[1]。その一分家が薬院中庄に移り、黒田氏御抱として士分に列せられた[1]

  • 父:梅津源蔵正武、後に一朗[1]
  • 母:判(半) - 阿多田の旧家一木家娘。身分が異なるため、向い隣の無足組児玉藤五郎の養女として入嫁した[3]
    • 姉:せき - 弘化4年(1847年)6月1日生。明治5年(1872年)佐々木啓次郎に嫁ぐ[1]
    • 弟:梅津九郎助 - 荒巻軍平養子となり、伊右衛門と称し、軍治、行度と改む。明治9年(1876年)3月20日没[1]
  • 先妻 - 大老黒田家臣梅津羽左衛門娘。弘化3年(1846年)縁組、元治元年(1864年)11月没[1]
    • 嫡子:梅津栄重利 - 嘉永3年(1850年)2月16日生、明治12年(1879年)1月18日没。号は無涯[1]
    • 娘:まさ - 嘉永5年(1852年)11月6日生。明治2年(1869年)牟田口重蔵に嫁ぐ。明治25年(1892年)8月10日没[1]
  • 後妻:いと - 野中勝良姉。明治3年(1870年)縁組[1]
    • 娘:千代 - 明治4年(1871年)9月30日生。明治24年(1891年)野中到に嫁ぐ[1]
    • 養子:梅津利彦 - 牟田口重蔵三男。明治15年(1882年)10月25日生。明治24年(1891年)6月養子、明治30年(1897年)4月改名。明治37年(1904年)12月事故にて死去[1]
    • 養子:梅津健介 - 佐々木啓次郎次男。明治11年(1878年)6月16日生。明治38年(1905年)養子、10月家督相続[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 夢野久作『梅津只圓翁伝』:新字新仮名 - 青空文庫
  2. ^ a b c d e f g h i j 「能仙梅津只円翁」『能楽』第3巻第1号、1905年
  3. ^ 長崎市許斐凡仙投稿文(『福岡日日新聞』5月3日号、西原和海「[解題]夢野久作における神と乞食」『梅津只圓翁伝 夢野久作著作集4』1979年 p.332)