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野中到 (気象学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野中到
妻・千代子

野中 到(のなか いたる、1867年9月19日慶応3年8月22日) - 1955年昭和30年)2月28日)は、日本気象学者。妻・千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。

多くの場合、野中と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームである。墓所は妻・千代子と共に東京都文京区護国寺にある。

略歴

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筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる[1]。富士山観測所の設立を思い立ち[2]、1889年に大学予備門(現・東京大学)を中退。この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始している[3]。当時はまだ高地測候所信州にしかなく[4]、高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した。

1895年2月16日に富士山冬季初登頂を果たし[5]、富士山頂での越冬が可能であることを確信、同年夏に再び登頂して私財を投じて測候用の小屋(約6坪)を剣ヶ峰 (富士山)に新設、中央気象台の技師らも合流した[6]。剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と語っている[6]。9月末に食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、閉山後の10月に再び登頂[7]。妻・千代子も10月半ばに合流[1]高山病と栄養失調で歩行不能になる[1]。12月に慰問に訪れた弟の野中清らによって夫妻の体調不良がわかり[8]、中央気象台の和田雄治技師らの救援で月末に両者とも下山し、山麓の滝河原に逗留、村人の手厚い保護を受けたのち[9]、小石川原町の自邸に戻る。

野中夫妻のこの決死の冒険は評判をよび、小説や劇になった[1]。越冬断念により十分な結果が得られなかったことから、1899年(明治32年)本格的な観測所の建設を目指し、富士観象会を設立[10]、富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけた[11]。その後も絶えず登山し観測を続け、野中の事業はのちに中央気象台に引き継がれた[1]

妻の千代子は、福岡藩黒田家のお抱え能楽師、喜多流シテ方梅津只円の娘である。

年譜

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野中夫妻を題材とした作品

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挫折したものの夫婦による富士越冬観測の試みは当時大きな反響を呼び、翌1896年(明治29年)には早くも伊井蓉峰により劇化され上演された。同年9月には落合直文により登山記録をもとにした実録小説『高嶺の雪』が刊行された(生前の至はこの作品を事実に近いものとして推奨していた)。1948年(昭和23年)の橋本英吉著「富士山頂」は同年、映画化されている。野中夫妻を題材とした作品で最も知られているのは新田次郎の小説『芙蓉の人』(1971年(昭和46年)刊)であり、テレビドラマ化されている。

映画化

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テレビドラマ化

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著書

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参考文献

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脚注

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  1. ^ a b c d e 朝日日本歴史人物事典
  2. ^ 野中至の再計画『新聞集成明治編年史. 第10卷』明治31年2月18日
  3. ^ 富士山測候所年表
  4. ^ 野中至、富士山頂に測候所を建設『新聞集成明治編年史. 第九卷』
  5. ^ 山と溪谷社「目で見る日本登山史」の日本登山史年表
  6. ^ a b 野中至、富士山頂の観測を語る『新聞集成明治編年史. 第九卷』明治28年9月29日
  7. ^ 野中至の観測始まる『新聞集成明治編年史. 第九卷』明治28年10月19日
  8. ^ 慰問隊野中至の重体を隠蔽『新聞集成明治編年史. 第九卷』明治28年12月19日
  9. ^ 野中至、無事下山『新聞集成明治編年史. 第九卷』明治28年12月25日
  10. ^ 富士観象会 高層観測完成への準備事業『新聞集成明治編年史. 第10卷』明治32年7月25日
  11. ^ 富士観象会主旨野中到『富士案内』春陽堂、1901年
  12. ^ 野中到慰問の為雪中富士登山敢行 明治28年12月17日東京朝日新聞、慰問隊野中到の重体を隠蔽 明治28年12月19日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 林[2011:229]
  14. ^ 『鉄道院年報. 明治41年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)

関連項目

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外部リンク

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