安東貞美
安東 貞美 | |
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安東貞美 | |
生誕 |
1853年9月21日 日本 信濃国伊那郡飯田 (現:長野県飯田市追手町) |
死没 |
1932年8月29日(78歳没) 日本 東京府東京市牛込区市ケ谷加賀町 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1872 - 1918 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
台湾総督 第12師団長 第10師団長 |
戦闘 |
西南戦争 日露戦争 |
墓所 | 青山霊園 |
安東 貞美(あんどう さだよし[1]/ていび[2]/さだみ[3]、嘉永6年8月19日(1853年9月21日) - 昭和7年(1932年)8月29日)は、日本の陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功三級。勲功により男爵に叙爵された。
経歴
[編集]信濃国伊那郡南部の信濃飯田藩の槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は同国松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚した。志記との間に長男欽一郎を儲けるが、志記が早くに亡くなった為、島地菊子を娶った。これが貞美の生母で、貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(1849-1932、柳田家に養子・柳田國男義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。
1870年(明治3年)12月、大阪陸軍兵学寮に入った貞美は1872年(明治5年)6月にこれを卒業し、陸軍少尉心得に任じられる。翌年5月には陸軍少尉に進み、1874年(明治7年)11月、陸軍中尉に進む。1876年(明治9年)8月、東京鎮台歩兵第1連隊中隊長心得を命ぜられ、1877年(明治10年)3月、征討別働第2旅団に編入され西南戦争に出征する。この戦役で負傷し、同年5月には大尉に進む。1878年(明治11年)4月の陸軍士官学校附の後、1883年(明治16年)2月には歩兵少佐に進級し歩兵第2連隊第3大隊長を命ぜられる。1884年(明治17年)2月に陸軍士官学校教官、1886年(明治19年)4月に参謀総長伝令使となり、1887年(明治20年)3月に参謀本部の第3局第1課長に就任する。翌年5月には第1局員に移り、1889年(明治22年)8月に再び陸軍士官学校教官となる。1891年(明治24年)4月、歩兵中佐に進み1893年(明治26年)8月7日には陸軍戸山学校長に就任する。1894年(明治27年)8月30日、鉄道線区司令官に移り、同年12月1日には歩兵大佐進級を経て1896年(明治29年)9月28日には陸軍士官学校長に就任する。後に専ら中将が補された陸軍士官学校長であるが、この頃は大佐が充てられることが続いていた。
1897年(明治30年)9月28日、歩兵第6連隊長に移り、1898年(明治31年)10月1日には陸軍少将に任じられ、台湾守備混成第2旅団長に就任する。1899年(明治32年)8月26日、歩兵第19旅団長に移り、1904年(明治37年)3月の動員下令を以って日露戦争に出征する。1905年(明治38年)1月15日、陸軍中将に進級し第10師団長に親補される。日露戦争の功により1906年(明治39年)4月12日には功三級金鵄勲章を受章する。1907年(明治40年)9月12日には男爵の爵位を授けられ、華族に列せられる。1910年(明治43年)8月26日、第12師団長に移り、1912年(明治45年)2月14日には朝鮮駐剳軍司令官に親補される[4]。
1915年(大正4年)1月25日、陸軍大将進級と共に待命となるが、同年5月1日には佐久間左馬太の後を受け台湾総督に就任する。就任早々、日本人95人が殺害される西来庵事件がおこった。1918年(大正7年)6月6日には待命となり、同年8月19日には後備役編入、1923年(大正12年)4月には退役となった。1932年(昭和7年)8月29日、薨去。同日付で勲一等旭日桐花大綬章を受章する。
栄典
[編集]- 位階
- 1875年(明治8年)4月22日 - 従七位
- 1880年(明治13年)1月28日 - 正七位
- 1883年(明治16年)4月18日 - 従六位
- 1891年(明治24年)12月28日 - 正六位[5]
- 1895年(明治28年)1月21日 - 従五位[6]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 正五位[7]
- 1903年(明治36年)12月11日 - 従四位[8]
- 1905年(明治38年)12月15日 - 正四位[9]
- 1909年(明治42年)2月1日 - 従三位[10]
- 1914年(大正3年)2月20日 - 正三位[11]
- 1918年(大正7年)9月18日 - 従二位[12]
- 勲章等
- 1878年(明治11年)6月22日 - 勲五等旭日双光章
- 1884年(明治17年)11月13日 - 勲四等旭日小綬章[13]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[14]
- 1895年(明治28年)
- 1902年(明治35年)11月29日 - 勲二等瑞宝章[17]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章・明治三十七八年従軍記章[18]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵[19]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[20]
- 1932年(昭和7年)1月14日 - 御紋付銀杯[21]
- 1932年(昭和7年)8月29日 - 旭日桐花大綬章[22]
親族
[編集]- 父・安東辰武 - 飯田藩槍術師[23]
- 兄・柳田直平(1849–1932) - 飯田藩士、大審院判事[23]
- 長男 貞雄(1894–1979) - 陸軍士官学校を29期で卒業し陸軍大佐に進む。
- 娘婿 服部兵次郎(陸軍少将)・本郷義夫(陸軍中将)・桑木厳翼(東京帝国大学教授)・太田喜平(外交官)・笠原太郎(外交官)
- 義甥 柳田國男、矢田部良吉、木越安綱 - 兄の娘婿
脚注
[編集]- ^ “安東貞美 (初版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2024年4月4日閲覧。
- ^ “安東貞美関係文書 | 憲政資料(憲政資料室) | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館 (2023年11月27日). 2024年4月4日閲覧。
- ^ “官僚の経歴を見る|公文書に見る外地と内地 -旧植民地・占領地をめぐる人的還流-”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2024年4月4日閲覧。
- ^ 『官報』第8594号、明治45年2月15日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3467号「叙任及辞令」1895年1月22日。
- ^ 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第6135号「敍任及辞令」1903年12月12日。
- ^ 『官報』第6742号「敍任及辞令」1905年12月19日。
- ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
- ^ 『官報』第468号「叙任及辞令」1914年2月21日。
- ^ 『官報』第1840号「叙任及辞令」1918年9月19日。
- ^ 『官報』第420号「賞勲叙任」1884年11月20日。
- ^ 『官報』第3127号「叙任及辞令」1893年11月30日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
- ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1510号「宮廷録事-恩賜」1932年1月15日。
- ^ 『官報』第7272号「敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ a b 柳田直平(やなぎだなおひら) 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 安東(貞美)家初代 1907年 - 1932年 |
次代 安東貞雄 |