林幹
はやし かん 林 幹 | |
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1919年の写真、満25歳。 | |
本名 | 海上 晴帆 (うながみ せいはん) |
生年月日 | 1894年4月3日 |
没年月日 | 1965年4月23日(71歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草) |
死没地 | 日本 埼玉県大宮市(現在のさいたま市) |
職業 | 俳優、宗教家 |
ジャンル | 新劇、劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1914年 - 1965年 |
配偶者 | 海上美乃 |
著名な家族 | 山口瑞雨(義父) |
主な作品 | |
『朝日さす前』 |
林 幹(はやし かん、1894年4月3日 - 1965年4月23日[1][2])は、日本の俳優、宗教家である[1][2][3][4]。宗教法人天崇教初代教主[1][2][3][4]。本名海上 晴帆(うながみ せいはん)[1][2][3][4]。
人物・来歴
[編集]1894年(明治27年)4月3日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる[1][2][3][4]。
京華商業学校(現在の京華中学高等学校)を経て、旧制早稲田実業学校(現在の早稲田大学系属早稲田実業学校高等部)を中退し、独学で坪内逍遥について文学を学ぶ[3][4]。その後、実際に早稲田大学の坪内逍遥の助手として働いていたが、坪内士行、島村抱月、澤田正二郎ら演劇人と親交を結び、やがて新劇の世界に入る[1][3][4]。1914年(大正3年)、土肥春曙、東儀鉄笛らによって組織された新劇団無名会に加わり、「林 幹」を名乗って初舞台を踏む[5]。1917年(大正6年)5月没落後は、芸術座に加入して宮島啓夫らと共演した後、加藤精一、横川唯治、森英治郎ら率いる舞台協会に加入する[5][6][7]。1919年(大正8年)8月、独立して飯塚友一郎、村田実、音羽かね子らと創作劇場を組織し、倉田百三が演出した有楽座公演『出家とその弟子』に親鸞上人役で出演したが、翌1920年(大正9年)6月に解散[1][3][4][6][8][9]。再び舞台協会に戻ったが、その傍らで坪内逍遥、東儀鉄笛らによって提携された新文芸協会にも加わり、南座などに出演している[6]。同年10月、日活向島撮影所第三部の革新運動に新井淳、中山歌子、酒井米子らと共に参加、特に同年12月31日に公開された田中栄三監督映画『朝日さす前』では主演を務めた[6][10]。
1922年(大正11年)8月、第三部消滅後は再び舞台に戻り、同時期に松竹キネマ研究所を退所した村田実と新興劇団丹青座(のち国民劇と改称)を組織、牛込会館、国民講堂などに出演したが、不評のうち関東大震災直後の1924年(大正13年)6月に解散[6][9][11]。その後、再び舞台協会、同志座を経て、同年11月に森英治郎、初代村田正雄、川村花菱らと人間座を組織、牛込会館などに出演[7][11][12]。1925年(大正14年)、同志座に戻り、兵庫県西宮市にあった東亜キネマ甲陽撮影所に森英治郎、宮島啓夫、夏川静江、出雲美樹子らと共に入社、同年9月29日に公開された賀古残夢監督映画『潮』など、数本の作品に脇役出演した[6][7][10]。1926年(大正15年)9月、自ら創生劇(創生劇ペーゼント)を組織し、日比谷野外音楽堂、三越劇場などに出演するが、間も無く解散[6][9][13]。1928年(昭和3年)6月には、加藤精一、佐々木積と共に帝国劇場専属俳優となる[12][14][15][16]。以後、明治座、日本劇場など地方各座に出演したほか、戦後にかけて築地小劇場、俳優座の舞台にも特別出演した[12][14][15]。
この間、フリーランサーとして主に東京発声映画製作所の作品にも脇役出演しており、第二次世界大戦終結後は1950年(昭和25年)に設立された日本総合芸術社と契約を結び、1952年(昭和27年)10月9日に公開された黒澤明監督映画『生きる』をはじめ、東宝、新東宝、日活、松竹の各作品に出演[10][17]。後年は1959年(昭和34年)1月15日に公開された映画『暗黒街の顔役』など、初期の岡本喜八監督作品の常連として活躍、体格がよく貫禄のある役を得意とした。
また、本名の「海上 晴帆」名義で戦前から宗教家としても活動しており、はじめ仏教に関心を持ち、宗教家田中智學らに教えを受ける[2][3][4]。1936年(昭和11年)、天夷鳥命からのお告げを受け、神道の再興を志し、日本大学皇道学院、皇典講究所で神道を研究する傍ら、神理教の清水英範について教えを受ける[2][3][4][18][19]。1941年(昭和16年)4月、神理教宣教師となり、東京府東京市四谷区四谷伝馬町(現在の東京都新宿区四谷あたり)に宗教結社光徳教会を設立したが、1945年(昭和20年)に戦災で本部が焼失[2][3][4][18][19]。翌1946年(昭和21年)、神理教の内部分裂に伴い扶桑教に転属するも馴染めず、間も無く脱退[3][4][18][19]。1948年(昭和23年)10月、妻であり、明治・大正期に活躍した日本画家山口瑞雨(米庵)の次女にあたる元新劇女優の海上美乃(旧芸名山口真瑳子、1896年 - 没年不詳)と共に宗教法人天崇教を立ち上げ、同教の管長(のち教主)となる[1][2][3][4][18][19]。1953年(昭和28年)10月には、文部大臣の認証を受け、東京都新宿区西大久保(現在の同区大久保あたり)に本部を設置[2][3][4][18][19]。その後、1961年(昭和36年)9月に埼玉県大宮市大字内野本郷(現在のさいたま市西区)へ本部を移設し、活動を続けた[1][2]。
1965年(昭和40年)4月23日、埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の自宅で病没した[1][2]。満71歳没。
フィルモグラフィ
[編集]日活向島撮影所
[編集]全て製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画である。
- 『朝日さす前』:監督田中栄三、1920年12月31日公開 - 株式仲買店主岡田徳太郎、同番頭志村浅吉(二役)[20]
- 『白百合のかほり』(『白ゆりのかほり』):監督田中栄三、1921年1月14日公開 - その息子・篤也
- 『流れ行く女』(『流れゆく女』):監督田中栄三、1921年3月4日公開
- 『浮き沈み』:監督田中栄三、1921年8月29日公開
- 『闇のかほり』(『闇の香り』):監督不明、1922年6月11日公開
- 『響』:監督不明、1922年10月5日公開 - 穂積克澄
東亜キネマ甲陽撮影所
[編集]全て製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、全てサイレント映画である。
- 『潮』:監督賀古残夢、1925年9月29日公開 - 野々山岩五郎
- 『運命の十字路』:監督阪田重則、1925年10月6日公開 - 剛田猪吉
- 『お艶殺し』:監督阪田重則、1925年10月15日公開 - 砂村の徳兵衛
- 『怒濤の叫び』:監督阪田重則、1925年11月14日公開 - 網主・龍吉
フリーランス(戦前)
[編集]特筆以外、全て製作は「東京発声映画製作所」、配給は「東宝映画」、以降全てトーキーである。
- 『小島の春』:監督重宗和伸、1940年7月31日公開 - 堀口
- 『大日向村』:監督豊田四郎、1940年10月30日公開 - 水原藤太
- 『わが愛の記』:監督豊田四郎、1941年11月7日公開 - 山田の伯父
- 『将軍と参謀と兵』:監督田口哲、製作日活多摩川撮影所、配給日活、1942年3月7日公開 - 参謀長大佐
フリーランス(戦後)
[編集]特筆以外、全て製作・配給は「東宝」である。
- 『東京の門』:監督杉江敏男、1950年11月3日公開
- 『愛と憎しみの彼方へ』:監督谷口千吉、製作映画芸術協会、1951年1月11日公開
- 『風にそよぐ葦 前篇』:監督春原政久、製作東横映画、1951年1月19日公開 - 堀内中将
- 『風にそよぐ葦 愛の最終篇』:監督春原政久、製作東横映画、1951年3月10日公開 - 堀内元中将
- 『「高田馬場」より 中山安兵衛』:監督佐伯清、製作・配給新東宝、共作綜芸プロダクション、1951年3月31日公開
- 『その人の名は言えない』:監督杉江敏男、1951年5月11日公開
- 『終戦秘話 黎明八月十五日』:監督関川秀雄、製作東映東京撮影所、配給東映、1952年5月1日公開 - 陸軍大臣
- 『霧の夜の兇弾』:監督杉江敏男、製作東映東京撮影所、配給東映、1952年6月12日公開
- 『思春期』:監督丸山誠治、1952年8月28日公開 - 校長
- 『生きる』:監督黒澤明、1952年10月9日公開 - 土木課長
- 『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』:監督マキノ雅弘、1953年1月9日公開 - 赤鬼の金平
- 『人生劇場 第二部 残侠風雲篇』:監督佐分利信、製作東映東京撮影所、配給東映、1953年2月19日公開 - 白根良吉
- 『安五郎出世』:監督滝沢英輔、1953年4月22日公開 - 村長
- 『鉄二郎の片腕』:監督青柳信雄、製作・配給新東宝、共作協和プロダクション、1953年5月13日公開 - 房州
- 『続 思春期』:監督本多猪四郎、1953年7月1日公開 - 矢田
- 『蟹工船』:監督山村聡、製作現代ぷろだくしょん、配給北星、1953年9月10日公開 - 重役・右橋
- 『廣場の孤獨』:監督佐分利信、製作・配給新東宝、共作俳優座、1953年9月15日公開 - 汪栄文
- 『早稲田大学』:監督佐伯清、製作東映東京撮影所、配給東映、1953年10月27日公開 - 白根良吉
- 『北海の虎』:監督田中重雄、1953年11月17日公開 - 顔役
- 『叛乱』:監督佐分利信、製作・配給新東宝、1954年1月3日公開 - 阿部大将
- 『今宵誓いぬ』:監督田中重雄、製作・配給新東宝、1954年1月21日公開
- 『花と龍 第二部 愛憎流転』:監督佐伯清、製作東映東京撮影所、配給東映、1954年3月24日公開
- 『七人の侍』:監督黒澤明、1954年4月26日公開 - 弱い浪人
- 『沓掛時次郎』:監督佐伯清、製作・配給日活、1954年7月27日公開 - 水車小屋の親父
- 『日本敗れず』:監督阿部豊、製作・配給新東宝、1954年10日5日公開 - 永松陸軍次官
- 『ゴジラ』:監督本多猪四郎、1954年11月3日公開 - 国会委員長[20]
- 『浮雲』:監督成瀬巳喜男、1955年1月15日公開 - 大日向教教主
- 『天下泰平』:監督杉江敏男、1955年1月29日公開 - 鬼山
- 『続 姿三四郎』(『姿三四郎 第二部』):監督田中重雄、製作東映東京撮影所、配給東映、1955年2月1日公開 - 大垣哲介
日活
[編集]特筆以外、全て製作・配給は「日活」である。
- 『警察日記』:監督久松静児、1955年2月3日公開
- 『台風の眼』:監督シュウ・タグチ、製作シュウ・タグチプロダクション、配給東宝、1955年8月21日公開
- 『青春の仲間』:監督堀池清、1955年8月2日公開 - お春の父・庄平
- 『続 警察日記』:監督久松静児、1955年11月16日公開 - 議長
- 『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』:監督中川信夫、製作・配給新東宝、1955年11月29日公開
- 『驟雨』:監督成瀬巳喜男、製作・配給東宝、1956年1月14日公開 - 鬼越
- 『赤ちゃん特急』:監督西河克己、1956年1月29日公開 - 警官C
- 『駈出し社員とチャッチャ娘』:監督毛利正樹、製作・配給新東宝、1956年3月20日公開
- 『名寄岩 涙の敢斗賞』:監督小杉勇、1956年6月7日公開 - 立浪親方
- 『しあわせはどこに』:監督西河克己、1956年7月19日公開 - 北関東刑務所所長
- 『ニコヨン物語』:監督井上梅次、1956年9月12日公開 - 将軍
- 『最後の戦斗機』(『泣け!日本国民 最後の戦斗機』『最後の戦闘機』):監督野口博志、1956年10月17日公開 - 渡辺中将
- 『壁あつき部屋』:監督小林正樹、製作新鋭プロダクション、配給松竹、1956年10月31日公開 - A級戦犯
東宝
[編集]特筆以外、全て製作・配給は「東宝」である。
- 『あらくれ』:監督成瀬巳喜男、1957年5月28日公開 - 植源の隠居
- 『わが胸に虹は消えず 第一部・第二部』:監督本多猪四郎、1957年7月9日公開 - 矢口
- 『杏っ子』:監督成瀬巳喜男、1958年5月13日公開 - 佐藤博士
- 『美女と液体人間』:監督本多猪四郎、1958年6月24日公開 - 警視庁幹部A[20]
- 『旅姿鼠小僧』:監督稲垣浩、1958年7月22日公開 - 医者・禺庵
- 『奴が殺人者だ』:監督丸林久信、1958年7月29日公開 - 結城甚蔵
- 『女探偵物語 女性SOS』:監督丸林久信、1958年10月7日公開 - 西条有正
- 『裸の大将』:監督堀川弘通、1958年10月28日公開 - 加藤清正
- 『暗黒街の顔役』:監督岡本喜八、1959年1月15日公開 - 板金工業社長
- 『手錠をかけろ』:監督日高繁明、1959年2月17日公開 - 浅草署署長
- 『雷電』:監督中川信夫、製作・配給新東宝、1959年11月23日公開 - 浦風
- 『続 雷電』:監督中川信夫、製作・配給新東宝、1959年11月28日公開 - 浦風
- 『暗黒街の対決』:監督岡本喜八、1960年1月3日公開 - 市会議員・沼田
- 『珍品堂主人』:監督豊田四郎、1960年3月13日公開 - 佐々
- 『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』:監督松林宗恵、1960年4月26日公開 - 村長[20]
- 『娘・妻・母』:監督成瀬巳喜男、1960年5月28日公開 - 養老院の老人
- 『青い野獣』:監督堀川弘通、1960年6月26日公開 - 重役・津田
- 『独立愚連隊西へ』:監督岡本喜八、1960年10月30日公開 - 八路軍高級将校
- 『暗黒街の弾痕』:監督岡本喜八、1961年1月3日公開 - 靴の男
- 『顔役暁に死す』:監督岡本喜八、1961年4月16日公開 - 佐伯大三
- 『地獄の饗宴』:監督岡本喜八、製作東京映画、1961年9月29日公開 - 東光住宅副社長・工藤
- 『どぶ鼠作戦』:監督岡本喜八、1962年6月1日公開 - 高級将校
- 『月給泥棒』:監督岡本喜八、1962年12月8日公開 - オリバーカメラ重役
- 『江分利満氏の優雅な生活』:監督岡本喜八、1963年11月16日公開 - 陸軍大佐
- 『女の歴史』:監督成瀬巳喜男、1963年11月16日公開 - 寺の住職
- 『ああ爆弾』:監督岡本喜八、1964年4月18日公開 - 肥った市会議員
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『宗務時報 No.7』文化庁、1965年、53頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『愛知学院大学宗教法制研究所紀要』愛知学院大学宗教法制研究所、1991年、261頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『宗教年報 昭和25年版』文教協会、1951年、115頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『宗教便覧』法政大学出版局、1954年、5・6・156-157頁。
- ^ a b 『帝國劇場專屬俳優列傳』杉浦善三、1919年、24頁。
- ^ a b c d e f g 『新劇その昔』文芸春秋新社、1957年、240-245頁。
- ^ a b c 『ちゃんばら芸術史』実業之日本社、1959年、97-98頁。
- ^ 『早稲田文学 十月號』早稲田文学社、1919年、161頁。
- ^ a b c 『明治大正新劇史資料』演劇出版社、1964年、202-203頁。
- ^ a b c 林幹、日本映画データベース、2023年8月11日閲覧。
- ^ a b 『演劇年鑑 1925年版』岩波書店、1925年、11・16頁。
- ^ a b c 『日本新劇史 下巻』理想社、1956年、292-293頁。
- ^ 『名古屋新劇史』門書店、1960年、21頁。
- ^ a b 『帝劇 七月號』帝国劇場文芸部、1928年、39頁。
- ^ a b 『帝劇 八月號』帝国劇場文芸部、1928年、66-67頁。
- ^ 『近代歌舞伎年表 京都篇』八木書店、2002年、689頁。
- ^ 『映画年鑑 1953年版』時事通信社、1953年、113頁。
- ^ a b c d e 『宗教年報 昭和30年版』文部省、1955年、68-69頁。
- ^ a b c d e 『宗教年報 昭和34年版』文部省、1960年、62-63頁。
- ^ a b c d 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–536, 「主要特撮作品配役リスト」
参考文献
[編集]- 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Kan Hayashi - IMDb
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