松浦政 (相神浦松浦家)
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明9年(1477年) |
死没 | 明応7年11月2日(1498年12月14日) |
戒名 | 日翁 |
官位 | 丹後守(受領名) |
氏族 | 松浦氏 |
父母 | 父:松浦定 |
兄弟 | 政、佐世保諌 |
妻 | 南殿(川内殿、少弐政資娘) |
子 | 親 |
松浦 政(まつら まさし)は、戦国時代の武将。肥前国大智庵城主。
父・松浦定が延徳4年/明応元年(1492年)に没すると、15歳で松浦氏嫡流である相神浦松浦氏の家督を継ぎ、相神浦、有田、今福、黒島、鷹島、佐世保を領有した。明応3年(1494年)に嫡男・親が誕生した。
明応7年(1498年)、政は狩猟の際の諍いから、家臣の山田四郎右衛門から怨まれることとなり、出奔した四郎右衛門・文左衛門兄弟は、平戸の松浦弘定の元へ行き、自分達が案内者となる代わりに政の討伐を依頼した。一度、定によって自領を追われた弘定にとっても、恨みを晴らす好機であり、この申し出を了承し大智庵城攻めを決定した。
同年11月2日、弘定と松浦興信父子は弘定の弟・大野定久に軍を率いらせ、四郎左衛門の案内で間道から大智庵城を急襲。城は一夜で落城し、政は脱出を図るも叶わず自刃。妻と子の幸松丸(後の親)も平戸へ人質として連行され幽閉された[1]。
脚注
[編集]- ^ 『史料綜覧』第8編之909 72頁
出典
[編集]- 『大曲記』
- 『肥前松浦一族』(外山幹夫著 新人物往来社)
- 『松浦家世伝』
- 『印山記』