松殿良嗣
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元仁元年(1224年) |
死没 | 正応4年1月29日(1291年3月1日) |
改名 | 良嗣→円信(法名) |
官位 | 正二位、右近衛中将 |
主君 | 四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 松殿家 |
父母 | 父:松殿忠房、母:持明院保家の娘 |
兄弟 | 良嗣、兼嗣、兼教、行仁、良基、源忠、承教 |
妻 | 一条頼氏の娘、岩蔵宮女房按察使局 |
子 | 鷹司伊氏、頼房、冬房、持明院保藤、隆弁、禅弁、亀山院女房新大納言 |
松殿 良嗣(まつどの よしつぐ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。大納言・松殿忠房の長男。官位は正二位・右近衛中将。松殿家4代当主。
経歴
[編集]貞永元年(1232年)従五位下・侍従に叙任。その後、嘉禎2年(1236年)従五位上、嘉禎4年(1238年)正五位下、延応元年(1239年)従四位下と昇進する。仁治3年(1242年)には従四位上・正四位下と続けて昇叙され、寛元元年(1243年)に従三位に叙せられ公卿に列す。またこの間の嘉禎3年(1237年)右近衛少将、仁治元年(1240年)右近衛中将と武官を務めると共に、因幡介・土佐介・美濃権守と地方官も兼ねた。
しかし、この間に大納言となっていた父・忠房は、三条実親や大炊御門家嗣等の清華家当主達が次々と大臣に進む中で昇進が止まっており、宝治元年(1247年)には出家してしまう。その後、良嗣は宝治2年(1248年)正三位、建長7年(1255年)従二位、正元元年(1259年)正二位に叙せられるなど位階の上では父・忠房に並ぶ。しかし、参議任官は叶わないまま、弘長3年(1263年)に出家し法名は円信と号した。
系譜
[編集]参考文献
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