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松下竜一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松下 竜一まつした りゅういち
誕生 (1937-02-15) 1937年2月15日
大分県中津市
死没 (2004-06-17) 2004年6月17日(67歳没)
大分県中津市
職業 作家歌人小説家
言語 日本語
最終学歴 大分県立中津北高等学校卒業
活動期間 1969年 - 2004年
ジャンル 短歌記録文学
代表作豆腐屋の四季』(1969年)
『砦に拠る』(1977年)
『ルイズ 父に貰いし名は』(1982年)
『狼煙を見よ』(1987年)
主な受賞歴 講談社ノンフィクション賞(1982年)
デビュー作豆腐屋の四季』(1969年)
配偶者 三原洋子
署名
ウィキポータル 文学
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松下竜一(まつした りゅういち、1937年2月15日 - 2004年6月17日)は、日本の作家。自然保護、平和などの運動に関わり続け、短歌小説随筆から記録文学に及ぶ作品を残した。

経歴

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1937年2月15日、大分県中津市で誕生[1]。生後まもなく肺炎で危篤状態になる。高熱により右目を失明。 1956年3月、療養[注 1]のため四年かかって大分県立中津北高等学校を卒業。 1956年5月8日、母が45歳で急逝した[注 2]ため進学を断念し、父親の豆腐屋を手伝い始める。豆腐の配達で小さな雑貨店の女主人とその娘(のちの義母と妻)と知り合う。 梶井基次郎を愛読、中でも『城のある町にて』が好きであった[2]

1966年、三原洋子と結婚。歌集『相聞』を作る[1]

朝日新聞の短歌欄に投稿、1968年12月に歌集『豆腐屋の四季』を自費出版した[1]。地方の青年のやるせない気持ちを綴った歌集は評判を呼び、翌年1969年4月に公刊され[注 3]、テレビドラマ化された[注 4]。しかし、松下は「豆腐屋としての分際を守り、黙々と耐えて働いている大人しい」模範青年としてもてはやされることに居心地の悪さを抱き始め、その理由が「あらゆる権威を否定してゲバ棒で武装し叛乱に立ち上がったヘルメットの学生」と違って誰もが安心できたせいではないかと気付く[3]1970年7月9日に、豆腐屋を廃業してペン一本の生活へと転じる[1]

1971年、大分新産業都市によって起きている公害問題についての取材、報告の依頼を西日本新聞から受け、同紙に連載する[4]。取材の中で、臼杵湾の風成でセメント工場誘致に反対する人々がいることを知り、初のルポルタージュ作品である『風成の女たち』(1972年)を執筆する。しかし、セメント工場誘致に反対する女性たちの活躍に力点を置いたために、反対運動の中心的人物だったという男性から絶版要求を受け懊悩する。しかし、キッパリと絶版要求と対決する[注 5]ことで、やがては風成の人々の理解をも得るに至った。

1972年7月、「中津の自然を守る会」を結成し[1]、事務局長として行動を始める。 1973年3月、環境権訴訟をすすめる会結成[1]豊前火力発電所建設反対運動によって九州電力に反旗を翻した。しかし「お前の家の電気を止めてから反対しろ」などという嫌がらせの声を浴びせられ、共に闘うはずの革新組織からは排斥され、同志の中からは逮捕者が出た[注 6]。そのような状況の中、上野英信に相談するが、「君ねえ、本当に苦しい闘いというのはだね、仲間内に自殺者の一人や二人は出る闘いのことなんだよ」と一蹴され、覚悟を定めた[5]。弁護士のつかない建設差し止め請求を起こす[注 7]が敗訴し、その際に「アハハハ……敗けた、敗けた」という垂れ幕を掲げ、裁判所の「権威」を笑い飛ばした[注 8]。その後高裁に控訴、そこでも敗れると最高裁に上告、1985年に原告敗訴が確定するまで12年たたかった[注 9]

自らの反公害・反開発運動を基にした『暗闇の思想を』(1974年)、『明神の小さな海岸にて』(1975年)、『五分の虫、一寸の魂』(1975年)を発表[注 10]。「豊前火力絶対阻止・環境権訴訟をすすめる会」の機関誌として創刊した「草の根通信」[注 11]を発行。

隔離されたハンセン病患者の詩人・伊藤保の評伝『檜の山のうたびと』(1974年)、山林地主・室原知幸を中心に下筌ダム反対運動を書いた『砦に拠る』(1977年)など、ノンフィクション作品を発表。その一方で、自らの息子に読ませるつもりで『5000匹のホタル』(1974年)などの児童文学も手がけた。

1980年、豊前火力闘争のビデオ上映会に来た伊藤ルイと出会う。彼女が甘粕事件によって殺害された大杉栄伊藤野枝の娘であることを知り、その半生をたどる『ルイズ - 父に貰いし名は』を執筆。この作品によって1982年に第4回講談社ノンフィクション賞を受賞。 1983年には、大杉栄の同志、和田久太郎の評伝『久さん伝 - あるアナキストの生涯』を発表。東京拘置所に在監していた大道寺将司は、この本をきっかけに『豆腐屋の四季』も読み、その感想を松下に送った。松下は「全共闘世代の中で爆弾闘争にまで走った彼が、なぜ小さく閉じ籠もって生きた者の記録に心惹かれるのか」と不思議に思った。しかし、その時から大道寺と正面から向き合うことになり[6]、『狼煙を見よ ー東アジア反日武装戦線”狼”部隊』(1987年)を発表するに至る。

1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故発生。同年6月、小出裕章を中津市に招いて講演会「チェルノブイリ原発で何が起きたのか」を開催[7]1988年1月、四国電力伊方原子力発電所出力調整実験反対行動に参加。同月29日、日本赤軍メンバー泉水博の旅券法違反容疑との関連という名目で、警視庁による家宅捜索を受ける[1][注 12]。それに対し同年9月に国家賠償請求を提訴する。1996年一部勝訴、控訴。2000年勝訴[1]。松下は「この過激派シンパというのは捜索の口実で、市民運動・反原発運動潰しではないか」と記している[注 13]1993年ダッカ日航機ハイジャック事件で一般受刑者ながら出国し、日本赤軍の活動に参加した泉水博を書いた『怒りていう、逃亡には非ず』を発表。

1996年、自らが発行人の「草の根通信」掲載のエッセイをまとめた『底ぬけビンボー暮らし』を刊行。毎年確定申告で戻ってくる原稿料の源泉徴収がボーナス代わりであろうとも、風や草や川面のきらめきにうっとりする、ささやかでひっそりとしたビンボー暮らしを語る。

1998年には、全集『松下竜一 その仕事』の刊行が開始された[1]

1999年1月以降、アメリカ海兵隊実弾演習に抗議して陸上自衛隊の日出生台演習場に、毎年通う[1]

2003年6月、小脳出血で倒れる。リハビリに励む[1]

2004年6月17日、中津市の病院で死去、67歳。 2004年7月、30年以上に渡り発行された「草の根通信」が380号で終刊となる[1]

『豆腐屋の四季』の舞台となった船場町の自宅[注 14]は、2016年12月に市道の拡幅工事に伴い取り壊され、約4000冊の蔵書のうち612冊と直筆原稿などの資料が中津市立小幡記念図書館に寄贈された[8][9]

作品

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全集

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作品提供

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テレビドラマ

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舞台

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脚注

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注釈

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  1. ^ 18歳で肺浸潤と診断されたが、41歳の時に多発性肺嚢胞症であることがわかった。ひんぱんな入院を繰り返さなければならない状況の中で著述を続けた。『松下竜一 未刊行著作集 2』p.357。
  2. ^ 「まだ機械化されない頃の豆腐屋は過酷な肉体労働で、真夜中の2時から母は働いていた。母は仕事場で昏倒し、一昼夜眠って息を引き取った。六人の子らのために、働きに働いて死んでいったのだ」『松下竜一 未刊行著作集 2』p.382。
  3. ^ 岡部伊都子は、それを読んで励ましの手紙を松下に送った。のちに松下は、文庫本の解説を岡部に依頼した。(松下竜一未刊行著作集2、p.127)
  4. ^ 主演は、当時売り出し中の若手俳優緒形拳であった(放映は1969年 - 1970年)。1969年6月13日、主役を演じると決まった直後、緒形は単身で松下を訪れた。松下が手揚げしたあぶらげを「演技も手作りなんだ。こんなものは東京にないよ」と喜んで持ち帰った。こののち、緒形との交友は最後まで続いた。緒形は『砦に拠る』の映画化を構想しており、「わたしもそろそろ室原知幸さんを演じられる年齢になったのでは」と便りに書いていた。『松下竜一 未刊行著作集 2』pp.307 - 311。
  5. ^ この時に松下を叱責し励ましたのが上野英信である。『松下竜一 未刊行著作集 2』pp.174 - 175。
  6. ^ 梶原得三郎氏(未刊行著作集編者)等が、火力発電所建設のための埋め立て工事を妨害したとして逮捕され起訴された。『松下竜一 未刊行著作集 2』p.297。
  7. ^ このことは、1975年に箕面忠魂碑違憲訴訟を弁護士なしで起こす後押しにもなった。田中伸尚『反忠 神坂哲の72万字』(一葉社、1996年) pp.146-147、『松下竜一 未刊行著作集 2』p.246。
  8. ^ このことは佐高信も紹介している。『佐高信の新・筆刀両断』 講談社文庫[さ-33-29] ISBN 978-4062753449、pp.26-27。佐高は松下を高く評価しており、自著で複数回取り上げている。
  9. ^ 豊前火力発電所は建設されたが、周防灘開発は三木内閣に至って凍結された。『松下竜一 未刊行著作集 2』p.260。
  10. ^ これら三冊について松下は以下のように述べている。「前の二者のトーンとなった悲愴さが豊前火力反対闘争の主調音には違いなかったが、しかし同時に本書『五分の虫、一寸の魂』の如き楽天的な笑いもまた、現実の悲愴さによっても消されぬもう一つの旋律であったのは事実なのだ」『松下竜一 その仕事』13巻、p.206。
  11. ^ 「草の根通信」の編集に関して、松下は以下のように書いている。「掲載原稿の選択基準は、ただ一つである。どれだけホンネが書かれているかということに尽きる。口先だけのタテマエを声高に論じた原稿には、お引取りを願っている。不安げなくぐもり声でもいい、本当に自分を賭けた原稿、その人が丸ごと見えてくる原稿、それらだけで「草の根通信」は作られる」『松下竜一 その仕事4』ウドンゲの花、p.113。
  12. ^ 佐高信 『佐高信の筆刀両断』 現代教養文庫 1417(D-276) ISBN 4390114174、p.94。佐高は「不当なガサ入れ」という表現を用いている。
  13. ^ 「それにもかかわらず嵐のような家宅捜索を展開しているのは、日本赤軍手配をいいことに、この際市民運動に徹底的なゆさぶりをかけようとしているのだ。たとえば私を日本赤軍の関係者の如く印象づけることで、高まっている伊方の出力調整試験の反対運動から分断しようとしているのだ。同時に全国的市民運動のネットワークを調べ上げたいという意図もあると思わねばならない(各種名簿があちこちで押収されている)。」『平和・反原発の方向 (松下竜一未刊行著作集 5)』pp.221-222。
  14. ^ 隣の留守居町には福沢諭吉の旧居があった。『松下竜一 未刊行著作集 2』p.320。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『松下竜一 未刊行著作集 2』p.394。年譜。
  2. ^ 『そっと生きていたい』p.49。
  3. ^ 『松下竜一 その仕事22巻』狼煙を見よ, pp.10 - 11。
  4. ^ 巻末の記 2002, p. 122.
  5. ^ 『松下竜一 未刊行著作集 2』p.166。
  6. ^ 『松下竜一 その仕事22巻』狼煙を見よ, pp.11 - 12。
  7. ^ 小出裕章『今こそ<暗闇の思想>を』(一葉社、2013年) まえがき。この本は、2012年6月に開催された「第8回 竜一忌」における、福島第1原発事故に関する小出の講演をまとめたものである。未刊行であった松下の文も収録されている。
  8. ^ 「豆腐屋の四季」舞台消える 自宅取り壊し毎日新聞 2017年3月9日
  9. ^ 中津ゆかりの人中津市立図書館

関連書籍

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  • 新木安利著『松下竜一の青春』(海鳥社、2005年、ISBN 4-87415-531-6
  • 埼玉大学共生社会研究センター監修『復刻「草の根通信」1 - 戦後日本住民運動資料集成 1』(単行本、すいれん舎、2006年、ISBN 978-4-902871-45-6
  • 埼玉大学共生社会研究センター監修『復刻「草の根通信」2 - 戦後日本住民運動資料集成 4』(単行本、すいれん舎、2008年、ISBN 978-4-903763-73-6
  • 下嶋哲朗著『いま、松下竜一を読む —やさしさは強靱な抵抗力となりうるか』(岩波書店、2015年、ISBN 978-4-00-061031-5