遠藤胤城
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保9年6月5日(1838年7月25日) |
死没 | 明治42年(1909年)11月9日 |
改名 | 遠藤胤城→東胤城 |
墓所 |
長敬寺(東京都台東区西浅草) 青山霊園 |
官位 | 従五位下・美濃守、備前守、但馬守、贈正三位 |
幕府 | 江戸幕府: 大坂城青屋口加番、講武所奉行、陸軍奉行並 |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 近江三上藩主→和泉吉見藩主 |
氏族 | 遠藤氏→東氏 |
父母 |
父:遠藤胤統、母:小谷氏 養父:遠藤胤昌 |
兄弟 | 亀若、胤城 |
妻 | 教子(堀親寚女) |
子 | 東胤禄、東常任、酒井鍈子(酒井忠宝室)、居初富貴子(居初富三郎室)、山田昭子(山田軍太郎室) |
遠藤 胤城(えんどう たねき)は、近江三上藩の第6代藩主、和泉吉見藩主、三上藩遠藤家11代。茶人。明治11年(1878年)正月、遠藤氏の旧姓である東(とう)胤城を名乗った[1]。第5代藩主・遠藤胤統の三男。母は小谷氏。正室は堀親寚六女・教子[1]。子に東胤禄(長男)、東常任(次男)、娘・鍈子(酒井忠宝正室)、娘・富貴子(居初富三郎室)、娘・昭子(山田軍太郎室)[1]。官位は従五位下、美濃守、備前守、但馬守。死後に正三位。
生涯
[編集]摂津国大坂城玉造口(現・大阪府大阪市中央区玉造)にて生まれる。弘化2年(1845年)12月19日、父の養嗣子になっていた胤昌の養嗣子となる。しかし胤昌が家督相続せずに早世したため、安政3年(1856年)10月23日、実父・胤統の嫡孫となる。同年11月15日、将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・美濃守に叙任する。文久3年(1863年)10月7日、胤統の隠居にともない跡を継ぐこととなった。
幕末の動乱の中で、大坂城青屋口加番や講武所奉行を務めた。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では講武所の軍勢を率いて出陣している。慶応2年11月26日、陸軍奉行並に就任する。慶応3年(1867年)3月1日、奏者番に就任する。慶応4年(1868年)1月27日、恭順の姿勢を示さず、新政府に領地を没収される。同年5月29日、領地を返還される。
明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となるが、翌明治3年(1870年)4月14日、藩庁を和泉吉見に移して吉見藩を新たに立藩した。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官となる。
明治11年(1878年)正月、遠藤氏の旧姓・東氏に改姓。明治17年(1884年)の華族令により同年7月8日、子爵を叙爵した[2]。
茶人としても知られ、素雲と号した。明治31年(1898年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士らと設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・石黒忠悳(况翁)・伊藤雋吉(宗幽)・伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)・東久世通禧(古帆)・久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)・安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)、高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。
明治42年(1909年)11月9日に72歳で死去した。
墓所
[編集]家族
[編集]父母
妻
- 教子 - 堀親寚の娘
子女
- 三男・東胤禄 (1875年生) ‐ 陸軍步兵中尉。岳父は子爵小出英尚。[3]
- 東常任 (1884年生) ‐ 逓信局技師。[4]
- 鍈子 - 伯爵酒井忠宝の妻
- 富貴子 - 居初富三郎室
- 昭子 - 山田軍太郎室
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (三上)東家初代 1884年 - 1909年 |
次代 東胤禄 |