三井高弘
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三井 高弘(みつい たかひろ、1849年4月29日(嘉永2年4月7日) - 1919年(大正8年)9月30日)は、日本の実業家、男爵。茶人。三井物産社長や、三井合名業務執行社員、日本美術協会副会頭等を務めた。三井南家8代当主・三井八郎次郎[1]。別名に宗光,寿之助,子毅,子業,維石,静養,真清水,真清水能舎,寿香菴有芳,松堂,如竹,蘭室,猗蘭室,謙斎,松籟,清芬館,松風,松風菴,長生荘,香恵斎,香恵書屋,逢積庵,昨非庵,無味庵,秋日庵,南楼[2]。
人物・経歴
[編集]京都出身[3][4]。三井高福の四男。のち三井高愛の養子となり[3][4]、1872年に三井八郎次郎を襲名[3][4]。1879年第一国立銀行取締役[5]。1894年三井鉱山理事[3][4]。1901年三井物産社長[6]。1909年三井合名業務執行社員[7]。1911年8月25日に男爵を叙爵[8]。1914年シーメンス事件を受けて引責辞任した[9][4][3]。
茶の湯・美術愛好家としても知られ、松籟と号した。1898年(明治31年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・石黒忠悳(况翁)・伊藤雋吉(宗幽)・伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)・東胤城(素雲)・東久世通禧(古帆)・久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)、高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。
1919年には日本美術協会副会頭に就任したが、同年死去した[10][3][4]。
親族
[編集]- 三井高尚は弟[3][4]。
- 前妻レンは三井高満の娘。高満は三井高祐(三井北家6代、10代三井八郎右衛門)の子で[11]、三井新町家6代当主となり、12代三井八郎右衛門を襲名した。別名に宗温,五十松,源右衛門,金蔵,元之助,八郎兵衛,則兵衛がある[2]。
- 長男は三井高徳。
- 後妻照子は伯爵・伊達宗城の娘で子爵・水野忠弘の元妻[5]。
脚注
[編集]- ^ 三井八郎次郎(読み)みつい はちろうじろうコトバンク
- ^ a b 三井家文化人名録国立国会図書館リサーチナビ
- ^ a b c d e f g 「三井八郎次郎(読み)みつい はちろうじろう」デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ a b c d e f g 「三井 八郎次郎(読み)ミツイ ハチロウジロウ」20世紀日本人名事典の解説
- ^ a b 「三井八郞次郞 (男性)」『人事興信録』データベース(名古屋大学)
- ^ 「井物産(株)『挑戦と創造 : 三井物産一〇〇年のあゆみ』(1976.07)」渋沢社史データベース
- ^ 「三井『三井事業史. 本篇 第3巻 上』(1980.09)」渋沢社史データベース
- ^ 『官報』第8455号、明治44年8月26日。
- ^ 「高棟・團の名コンビ誕生」三井広報委員会
- ^ (財)日本美術協会『日本美術協会年表 : 創立50年記念』(1928.04)渋沢社史データベース
- ^ 三井家(三井新町家)みんなの系図
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