三井高堅
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三井 高堅(みつい たかかた、1867年6月24日(慶應3年5月22日) - 1945年(昭和20年)5月31日)は、日本の実業家。三井呉服店社長や、三井物産社長、三井銀行社長、三井合名副社長等を歴任した。別名に、宗堅,堅三郎,源右衛門,子鑽,小佶庵,聴氷,聴氷閣,不朽,靖屋,風蛤,辛田,双鹿,双鹿閣,砌梧,日本人,戴星。
人物・経歴
[編集]三井松坂家7代当主三井高敏(則右衛門)と母クガ(久賀)との三男堅三郎(賢三郎)として生まれ、1883年に三井高朗の養子にとなり、その2日後に三井新町家の三井高辰の長女いその婿養子となった[1]。1893年に三井源右衛門に改称し[2]、1894年三井呉服店社長に就任。1909年三井合名監査役。1912年三井合名監査部長[3][4][5]、東神倉庫社長[6]。1913年三井鉱山代表取締役[4][3]。1914年三井物産社長[7]。1920年から三井銀行社長を務め[8]、1932年には三井合名副社長にも就任したが[9]、池田成彬三井合名理事による改革で1934年に退任させられた[10]。美術品の収集家としても知られ[3]、収集した中国古拓本は三井記念美術館に収蔵されている[11]。
家族
[編集]- 養弟の辰之助(1873年生、高辰の子)は、代々金融業を営む大阪の素封家・殿村家の養子となり、殿村平右衛門を名乗る。その長男の妻・敏子は高堅の三女。[12]
- 養弟の高隣(1890年生)は、大阪屈指の資産家で金物商の和田久左衛門の養子となり、襲名。その妻の久子は伯爵で東本願寺管長の大谷光瑩の娘(庶子)。先代久左衛門の妻あゐは鴻池幸富(10代目鴻池善右衛門)の長女。[13]
- 長男・高遂
- 二男・高寔
脚注
[編集]- ^ 三井源右衛門(読み)みつい・げんえもんコトバンク
- ^ 三井源右衛門『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b c 三井 高堅(読み)ミツイ タカカタ20世紀日本人名事典の解説
- ^ a b 「三井高堅(読み)みつい たかかた」デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ 「三井源右衛門(読み)みつい げんえもん」デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ 「三井倉庫(株)『三井倉庫八十年史』(1989.12)」渋沢社史データベース
- ^ 「三井物産(株)『挑戦と創造 : 三井物産一〇〇年のあゆみ』(1976.07)」渋沢社史データベース
- ^ (株)三井銀行『三井銀行八十年史』(1957.11)渋沢社史データベース
- ^ (株)三井銀行『三井銀行八十年史』(1957.11)渋沢社史データベース
- ^ 宇田川勝 財閥の改革者―結城豊太郎と池田成彬法政大学
- ^ 館蔵品の概要三井美術館
- ^ 殿村平右衛門『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『人事興信録』6版、和田久左衛門の項
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