敷州
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(東秦州から転送)
敷州(ふしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から隋代にかけて、現在の陝西省延安市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
[編集]491年(太和15年)、北魏により設置された東秦州を前身とする。521年(正光2年)に東秦州は北華州と改称された。北華州は中部郡・敷城郡の2郡7県を管轄した。その州治は杏城に置かれた[1]。
554年(廃帝3年)、西魏により北華州は敷州と改称された[2]。
隋代
[編集]隋初には敷州は2郡4県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、敷州の属郡の内部郡と敷城郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、敷州は上郡と改称され、下部に5県を管轄した[3]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||||||||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||||||||
州 | 敷州 | 郡 | 上郡 | ||||||||
郡 | 内部郡 | 敷城郡 | 県 | 内部県 三川県 鄜城県 洛川県 洛交県 | |||||||
県 | 内部県 三川県 |
敷城県 洛川県 |
唐代
[編集]618年(武徳元年)、唐により上郡は鄜州と改められた。742年(天宝元年)、鄜州は洛交郡と改称された。758年(乾元元年)、洛交郡は鄜州の称にもどされた。鄜州は関内道に属し、洛交・洛川・三川・直羅・甘泉の5県を管轄した[4]。