東条琴台
東条琴台(とうじょう きんだい、寛政7年6月7日〈1795年7月22日〉 - 明治11年〈1878年〉9月26日)は江戸時代後期から明治にかけての儒学者。幼名は義蔵または幸蔵。名は信耕。字は子臧。通称は文左衛門、後に源右衛門。別号に無得斎、呑海堂、掃葉山房。
江戸の医家に生まれ、大田錦城、亀田鵬斎等に学び、越後高田藩に仕えた。嘉永年間、海防論を説いた『伊豆七島図考』で筆禍に遭い、江戸を離れて高田城下で修道館[要曖昧さ回避]教授を務めた。明治には東京に戻り、新政府下で神官を歴任した。
『先哲叢談後編』『続編』の編者として知られる。兄に花笠文京、孫に下田歌子がいる。
生涯
[編集]江戸時代
[編集]寛政7年6月7日(1795年)、江戸芝宇田川町[1]に生まれた。父に四書五経を習い、文化6年(1809年)頃から伊東藍田、倉成竜渚、尾藤二洲、山本北山、大田錦城、亀田鵬斎等に師事し、多彩な学派に接触した[2]。
文化14年(1817年)、数え23歳のとき、大田錦城の弟子であった美濃岩村藩士平尾信従(他山)に跡継ぎがなかったため、錦城の周旋により婿養子に入り、一子鍒蔵をもうけた[3]。しかし江戸幕府では林述斎が異学の禁を唱え、述斎の出身である岩村藩でも異学への風当たりが強くなったため、平尾家は折衷学に傾いていた琴台に跡を継がせることを憂慮し、文政2年(1819年)離縁に至った[4]。
文政7年(1824年)、遂に折衷学を棄て、昌平坂学問所で林家に朱子学を学んだ[5]。文政10年(1827年)、越後高田藩榊原政令に登用され、また3年間幕府賄方小吏も勤めた[5]。
天保3年(1832年)春、柳橋の酒楼で戯作者や浮世絵師等500人余りを会した盛大な書画会を催したところ、華美に過ぎるとして林家から破門されたが、琴台は開き直って湯島の酒楼で除門会を催した[6]。
高田時代
[編集]嘉永3年(1850年)、海防論を説いた『伊豆七島図考』が幕府に咎められ、高田藩邸に幽閉となった。嘉永4年5月(1851年)解除され、夏榊原政愛の命で越後国高田城下江戸長屋[7]に移り[8]、 嘉永6年(1853年)西之辻通外堀際幸橋長屋[9]に移った[8]。
慶応2年11月(1866年)、高田岡島町に藩校修道館(新潟県立高田高等学校)が開館すると、琴台はその教官筆頭に就任した[11]。慶応3年7月16日(1867年)、藩命により長岡、三条を経て会津藩の情勢を偵察した[12]。
東京時代
[編集]明治元年8月(1868年)、鎮将府より召命が下り、9月8日東京へ上った[13]。大学で書を講じ、間もなく高田に戻った[14]。
明治2年11月18日(1869年)、一家で東京に上り、明治3年9月(1870年)徴命により宣教使に出仕、閏10月20日宣教少博士に任命された[15]。宣教使内では攘夷論の国学者等と対立した[16]。明治4年3月(1871年)、前年刊行した『聖世紹胤録』が「不都合之廉不少」として発行差止となる[17]。
明治5年3月(1872年)、神祇省廃止により宣教使は廃官となり、8月30日亀戸天神社祠官、次いで9月24日権中講義に任ぜられた[18]。
新暦明治7年(1874年)5月5日に教部省十等出仕、考証掛となったが、眼病に罹り、明治8年(1875年)7月辞職、間もなく失明した[19]。
明治11年(1878年)9月26日、浅草西鳥越町旧忍藩邸[20]にて死去[21]。辞世は「勧学志無伸。終身臥草莽。蓋棺微百事。同人誰感賞。」「くちぬ名を問ふ人あらはかねてよりなき世の友をまつとこたへよ」[21]。9月27日神葬祭の後、忍藩の菩提寺谷中天眼寺に葬られた[22]。後に江東区東向島蓮花寺に改葬された。
雅号の由来
[編集]「琴台」は琴を据える台の意で[24]、愛読書、明梁橋撰『氷川詩式』にも採られる杜甫の詩「琴台」に拠ると見られる[25]。
茂陵多病後 茂陵(司馬相如)多病の後 尚愛卓文君 尚ほ愛す卓文君 酒肆人間世 酒肆・人間の世 琴臺日暮雲 琴台・日暮の雲 野花留寶靨 野花宝靨を留め 蔓草見羅裙 蔓草羅裙を見る 歸鳳求凰意 帰鳳求凰(『鳳求凰』)の意 寥寥不復聞 寥寥として復た聞かず
転居歴
[編集]- 芝宇田川町
- 神田門内邸舎[10]
- 文政10年(1827年)2月 - 住吉町[10]
- 同年3月 - 浅草誓願寺門前[10]
- 同年10月 - 下谷三味線堀[10]
- 天保3年(1832年)12月 - 浅草阿部川町[10]
- 天保4年(1833年)10月 - 通油町大丸新道[10]
- 天保5年(1834年)5月 - 畑銀鶏宅[10]
- 同年 - 根岸石田醒斎別邸[10]
- 入谷[10]
- 天保7年(1836年) - 下谷三味線堀星野邸門房[10]
- 高田藩邸
- 嘉永4年(1851年) - 越後国高田城下
- 明治2年(1869年) - 池之端高田藩邸[10]
- 明治5年(1872年) - 鳥越町忍藩邸[10]
主な著書
[編集]- 『先哲叢談後編』
- 『先哲叢談続編』
- 『幼学詩韻』
- 天保13年(1842年)1月刊。漢詩初学者のため、95の詩題別に適当な詩句を集成[27]。
- 『近代著述目録後編』
- 堤朝風『近世名家著述目録』に倣い、江戸時代の名家917名の著書を列挙[28]。写本として伝わり、里見敦愿に補校された。正宗敦夫の編纂校訂により『日本古典全集』に収録。
- 『日本古典全集第六期之内 近代著述目録後編』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新編幼学詩韻』
- 天保15年(1844年)春刊。105の詩題別に古人の詩659首を集成[29]。
- 『新定詩語砕金』
- 弘化5年(1848年)1月刊。155の詩題別に詩語を集成[30]。
- 『続聯珠詩格』
- 嘉永4・5年(1850・1851年)頃刊。元于済撰、蔡正孫補正『唐宋千家聯珠詩格』に倣い、549家1408首を収める。政治とは無関係な書ではあるが、謹慎のため幕府の目を憚り、息子の鍈二郎名義で大坂で出版[31]。
- 『聖世紹胤録』
- 明治3年(1870年)3月刊(翌年3月に発禁)。洞院満季『本朝皇胤紹運録』に倣い、歴代の天皇について詳述[33]。
- 『聖世紹胤録 乾』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『聖世紹胤録 坤』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
人物
[編集]- 6尺(約1.8m)の長身に赤ら顔で、顔を弄ったり長い耳朶を引っ張ることを癖にしており、このために血行が保たれ風邪にも罹らないなどと自慢した[34]。
- ところ構わず松かさや落ち葉、渋柿を拾い集め、燃料とした[34]。
- 酒を好んだが、一回の量は極めて少量で、菜を茹でた浸し物を肴とした[35]。潤筆料は酒1升を以ってし、数枚に渡ると2升かなどと戯れた[36]。
- 机の引き出しに色紙、糸、針等を蓄え、門下生の書籍に破損があれば自ら補綴した[35]。
- 小さい横帳を持ち歩き、誰の言であっても意に適うことがあれば書き留めた[36]。
- 高田城下を訪れた当時、高田地方には荷車が普及していなかったので、大八車の作り方を伝え、坂を登る時には「エンヤラホイ」と掛け声を出すよう教えた[37]。
東条氏
[編集]先祖
[編集]東条家に伝わる系図によれば、同家の遠祖は清和源氏武田氏支流甲斐一条氏で、一条時信の子武川太郎義行が甲斐国東条に土着し、東条次郎義信を名乗ったのが始まりという[38]。
- 東条次郎義信
- 東条次郎(掃部助)頼行[38]
- 東条次郎太郎(八郎左衛門)隆信[38]
- 東条太郎左衛門隆庸 - 村上義清に仕え、信濃国埴科郡尼巌城主[38]。
- 東条一郎信庸 - 川中島の戦いで討死[38]。
- 東条太郎庸行 - 天正10年(1582年)3月武田勝頼没落後、河尻秀長に仕える[38]。
- 東条太郎大夫庸言[38]
- 東条源左衛門庸元[38]
- 東条源大夫元胤[38]
- 東条八郎左衛門信名(元禄3年(1690年)1月18日没)[38]
- 東条信友(元文5年(1740年)8月23日没) - 友庵、橘井堂、三益と号す[38]。
- 東条庸胤(明和5年(1768年)2月22日没) - 通庵、三省堂、杏翁と号す[38]。
- 東条庸貞(文化14年(1817年)9月6日没) - 高徹、高哲と号す[38]。
家族
[編集]- 実父:東条黙斎 - 享伯[39]。
- 養父:平尾鍬蔵信従 - 号は他山。美濃岩村藩士[40]。
- 妻:貞(寛政8年(1796年) - 明治17年(1884年)) - 信従三女[40]。
- 妻:某(寛政10年(1798年) - 天保5年(1834年)10月17日)[39]
- 妻:てつ(天保13年(1842年) - 明治元年(1898年)5月21日) - 一橋徳川家附幕臣娘[39]。
脚注
[編集]- ^ 東京都港区新橋六丁目23番、東新橋二丁目12番、芝大門一丁目3番、浜松町一丁目1番、 10番、すなわち第一京浜浜松町一丁目交差点四方
- ^ 西尾(1918) p.12
- ^ 西尾(1918) p.23
- ^ 西尾(1918) p.24
- ^ a b 西尾(1918) p.34
- ^ 西尾(1918) p.59
- ^ 後・岡島町、現・新潟県上越市大手町
- ^ a b 西尾(1918) p.123
- ^ 後・幸橋町
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「東条琴台年譜」西尾(1918)
- ^ 西尾(1918) p.144
- ^ 西尾(1918) p.147
- ^ 西尾(1918) p.153
- ^ 西尾(1918) p.156
- ^ 西尾(1918) p.161-162
- ^ 西尾(1918) p.163
- ^ 梶原虎三郎編刊『官令全書 第一編 太政官』1880年、明治四年三月十五日達。
- ^ 西尾(1918) p.194
- ^ 西尾(1918) p.197
- ^ 台東区鳥越一丁目西部
- ^ a b 西尾(1918) p.199
- ^ 西尾(1918) p.200
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.57
- ^ 諸橋轍次『大漢和辭典』巻七 p.939
- ^ 西尾(1918) p.8
- ^ 西尾(1918) p.4
- ^ 西尾(1918) p.79-80
- ^ 西尾(1918) p.82
- ^ 西尾(1918) p.89
- ^ 西尾(1918) p.91
- ^ 西尾(1918) p.93-94
- ^ 西尾(1918) p.99
- ^ 西尾(1918) p.164
- ^ a b 西尾(1918) p.206
- ^ a b 西尾(1918) p.207
- ^ a b 西尾(1918) p.208
- ^ 西尾(1918) p.209
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「東条家家譜」キャンベル(1988)
- ^ a b c d e f g 「東条氏略系」西尾(1918)
- ^ a b c d 「平尾氏略系」西尾(1918)
参考文献
[編集]- ロバート・キャンベル「調査報告 二十三 東條琴台伝記資料攷(上)―岩村藩平尾家入夫の前後―」『年報』第7号、実践女子大学文芸資料研究所、1988年
- 西尾豊作『東条琴台』西尾豊作、1918年