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東条琴台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明治元年(1868年)鈴木鵞湖筆「東条琴台肖像」実践女子大学図書館蔵

東条琴台(とうじょう きんだい、寛政7年6月7日1795年7月22日〉 - 明治11年〈1878年9月26日)は江戸時代後期から明治にかけての儒学者。幼名は義蔵または幸蔵。名は信耕。字は子臧。通称は文左衛門、後に源右衛門。別号に無得斎、呑海堂、掃葉山房。

江戸の医家に生まれ、大田錦城亀田鵬斎等に学び、越後高田藩に仕えた。嘉永年間、海防論を説いた『伊豆七島図考』で筆禍に遭い、江戸を離れて高田城下で修道館[要曖昧さ回避]教授を務めた。明治には東京に戻り、新政府下で神官を歴任した。

先哲叢談後編』『続編』の編者として知られる。兄に花笠文京、孫に下田歌子がいる。

生涯

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江戸時代

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寛政7年6月7日(1795年)、江戸宇田川町[1]に生まれた。父に四書五経を習い、文化6年(1809年)頃から伊東藍田倉成竜渚尾藤二洲山本北山大田錦城亀田鵬斎等に師事し、多彩な学派に接触した[2]

文化14年(1817年)、数え23歳のとき、大田錦城の弟子であった美濃岩村藩平尾信従(他山)に跡継ぎがなかったため、錦城の周旋により婿養子に入り、一子鍒蔵をもうけた[3]。しかし江戸幕府では林述斎が異学の禁を唱え、述斎の出身である岩村藩でも異学への風当たりが強くなったため、平尾家は折衷学に傾いていた琴台に跡を継がせることを憂慮し、文政2年(1819年)離縁に至った[4]

文政7年(1824年)、遂に折衷学を棄て、昌平坂学問所で林家に朱子学を学んだ[5]。文政10年(1827年)、越後高田藩榊原政令に登用され、また3年間幕府賄方小吏も勤めた[5]

天保3年(1832年)春、柳橋の酒楼で戯作者浮世絵師等500人余りを会した盛大な書画会を催したところ、華美に過ぎるとして林家から破門されたが、琴台は開き直って湯島の酒楼で除門会を催した[6]

高田時代

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嘉永3年(1850年)、海防論を説いた『伊豆七島図考』が幕府に咎められ、高田藩邸に幽閉となった。嘉永4年5月(1851年)解除され、夏榊原政愛の命で越後国高田城下江戸長屋[7]に移り[8]、 嘉永6年(1853年)西之辻通外堀際幸橋長屋[9]に移った[8]

文久初年には信濃国松代越中国高岡へ旅に出た[10]

慶応2年11月(1866年)、高田岡島町に藩校修道館新潟県立高田高等学校)が開館すると、琴台はその教官筆頭に就任した[11]。慶応3年7月16日(1867年)、藩命により長岡三条を経て会津藩の情勢を偵察した[12]

東京時代

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明治元年8月(1868年)、鎮将府より召命が下り、9月8日東京へ上った[13]大学で書を講じ、間もなく高田に戻った[14]

明治2年11月18日(1869年)、一家で東京に上り、明治3年9月(1870年)徴命により宣教使に出仕、閏10月20日宣教少博士に任命された[15]。宣教使内では攘夷論国学者等と対立した[16]。明治4年3月(1871年)、前年刊行した『聖世紹胤録』が「不都合之廉不少」として発行差止となる[17]

明治5年3月(1872年)、神祇省廃止により宣教使は廃官となり、8月30日亀戸天神社祠官、次いで9月24日権中講義に任ぜられた[18]

新暦明治7年(1874年)5月5日に教部省十等出仕、考証掛となったが、眼病に罹り、明治8年(1875年)7月辞職、間もなく失明した[19]

明治11年(1878年)9月26日、浅草西鳥越町旧忍藩[20]にて死去[21]辞世は「勧学志無伸。終身臥草莽。蓋棺微百事。同人誰感賞。」「くちぬ名を問ふ人あらはかねてよりなき世の友をまつとこたへよ」[21]。9月27日神葬祭の後、忍藩の菩提寺谷中天眼寺に葬られた[22]。後に江東区東向島蓮花寺に改葬された。

昭和3年(1928年)、従五位を追贈された[23]

雅号の由来

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「琴台」は琴を据える台の意で[24]、愛読書、梁橋撰『氷川詩式』にも採られる杜甫の詩「琴台」に拠ると見られる[25]

茂陵多病後 茂陵(司馬相如)多病の後
尚愛卓文君 尚ほ愛す卓文君
酒肆人間世 酒肆・人間の世
琴臺日暮雲 琴台・日暮の雲
野花留寶靨 野花宝靨を留め
蔓草見羅裙 蔓草羅裙を見る
歸鳳求凰意 帰鳳求凰(『鳳求凰中国語版』)の意
寥寥不復聞 寥寥として復た聞かず

文左衛門は師亀田鵬斎の通称に倣った[26]

転居歴

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  • 芝宇田川町
  • 神田門内邸舎[10]
  • 文政10年(1827年)2月 - 住吉町[10]
  • 同年3月 - 浅草誓願寺門前[10]
  • 同年10月 - 下谷三味線堀[10]
  • 天保3年(1832年)12月 - 浅草阿部川町[10]
  • 天保4年(1833年)10月 - 通油町大丸新道[10]
  • 天保5年(1834年)5月 - 畑銀鶏[10]
  • 同年 - 根岸石田醒斎別邸[10]
  • 入谷[10]
  • 天保7年(1836年) - 下谷三味線堀星野邸門房[10]
  • 高田藩邸
  • 嘉永4年(1851年) - 越後国高田城下
  • 明治2年(1869年) - 池之端高田藩邸[10]
  • 明治5年(1872年) - 鳥越町忍藩邸[10]

主な著書

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先哲叢談後編』
『先哲叢談続編』
『幼学詩韻』
天保13年(1842年)1月刊。漢詩初学者のため、95の詩題別に適当な詩句を集成[27]
『近代著述目録後編』
堤朝風『近世名家著述目録』に倣い、江戸時代の名家917名の著書を列挙[28]。写本として伝わり、里見敦愿に補校された。正宗敦夫の編纂校訂により『日本古典全集』に収録。
日本古典全集第六期之内 近代著述目録後編』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『新編幼学詩韻』
天保15年(1844年)春刊。105の詩題別に古人の詩659首を集成[29]
『新定詩語砕金』
弘化5年(1848年)1月刊。155の詩題別に詩語を集成[30]
『続聯珠詩格
嘉永4・5年(1850・1851年)頃刊。于済撰、蔡正孫補正『唐宋千家聯珠詩格』に倣い、549家1408首を収める。政治とは無関係な書ではあるが、謹慎のため幕府の目を憚り、息子の鍈二郎名義で大坂で出版[31]
『伊豆七島図考』
嘉永元年(1848年)8月刊。伊豆諸島小笠原諸島について著し、海防論を説いた。嘉永3年9月幕府に咎められ、高田藩邸に幽閉された[32]
『清二京十八省輿地全図』
嘉永3年(1850年)9月刊。の盛京(瀋陽)、北京及び内地全十八の地理を解説。
清二京十八省輿地全図』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『聖世紹胤録』
明治3年(1870年)3月刊(翌年3月に発禁)。洞院満季本朝皇胤紹運録』に倣い、歴代の天皇について詳述[33]
聖世紹胤録 乾』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
聖世紹胤録 坤』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『尺牘新裁』
明治6年(1873年)刊。書簡の書き方を示す。
尺牘新裁 上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
尺牘新裁 下』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『小学必読 女三字経』
明治6年(1873年)8月刊。『三字経』に倣い、女子の道徳を説く。
小学必読 女三字経』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『頭書類語 作文訓蒙』
明治12年(1879年)11月刊。書簡の文例を示した往来物
頭書類語 作文訓蒙』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『補饑新書』
農書。死後の明治18年(1885年)5月、織田完之により刊行された。『近世地方経済史料』第7巻収録。
補饑新書』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

人物

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  • 6尺(約1.8m)の長身に赤ら顔で、顔を弄ったり長い耳朶を引っ張ることを癖にしており、このために血行が保たれ風邪にも罹らないなどと自慢した[34]
  • ところ構わず松かさや落ち葉、渋柿を拾い集め、燃料とした[34]
  • 酒を好んだが、一回の量は極めて少量で、菜を茹でた浸し物を肴とした[35]。潤筆料は酒1升を以ってし、数枚に渡ると2升かなどと戯れた[36]
  • 机の引き出しに色紙、糸、針等を蓄え、門下生の書籍に破損があれば自ら補綴した[35]
  • 小さい横帳を持ち歩き、誰の言であっても意に適うことがあれば書き留めた[36]
  • 高田城下を訪れた当時、高田地方には荷車が普及していなかったので、大八車の作り方を伝え、坂を登る時には「エンヤラホイ」と掛け声を出すよう教えた[37]

東条氏

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先祖

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東条家に伝わる系図によれば、同家の遠祖は清和源氏武田氏支流甲斐一条氏で、一条時信の子武川太郎義行が甲斐国東条に土着し、東条次郎義信を名乗ったのが始まりという[38]

  1. 東条次郎義信
  2. 東条次郎(掃部助)頼行[38]
  3. 東条次郎太郎(八郎左衛門)隆信[38]
  4. 東条太郎左衛門隆庸 - 村上義清に仕え、信濃国埴科郡尼巌城[38]
  5. 東条一郎信庸 - 川中島の戦いで討死[38]
  6. 東条太郎庸行 - 天正10年(1582年)3月武田勝頼没落後、河尻秀長に仕える[38]
  7. 東条太郎大夫庸言[38]
  8. 東条源左衛門庸元[38]
  9. 東条源大夫元胤[38]
  10. 東条八郎左衛門信名元禄3年(1690年)1月18日没)[38]
  11. 東条信友元文5年(1740年)8月23日没) - 友庵、橘井堂、三益と号す[38]
  12. 東条庸胤明和5年(1768年)2月22日没) - 通庵、三省堂、杏翁と号す[38]
  13. 東条庸貞文化14年(1817年)9月6日没) - 高徹、高哲と号す[38]

家族

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脚注

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  1. ^ 東京都港区新橋六丁目23番、東新橋二丁目12番、芝大門一丁目3番、浜松町一丁目1番、 10番、すなわち第一京浜浜松町一丁目交差点四方
  2. ^ 西尾(1918) p.12
  3. ^ 西尾(1918) p.23
  4. ^ 西尾(1918) p.24
  5. ^ a b 西尾(1918) p.34
  6. ^ 西尾(1918) p.59
  7. ^ 後・岡島町、現・新潟県上越市大手町
  8. ^ a b 西尾(1918) p.123
  9. ^ 後・幸橋町
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m 「東条琴台年譜」西尾(1918)
  11. ^ 西尾(1918) p.144
  12. ^ 西尾(1918) p.147
  13. ^ 西尾(1918) p.153
  14. ^ 西尾(1918) p.156
  15. ^ 西尾(1918) p.161-162
  16. ^ 西尾(1918) p.163
  17. ^ 梶原虎三郎編刊『官令全書 第一編 太政官』1880年、明治四年三月十五日達。
  18. ^ 西尾(1918) p.194
  19. ^ 西尾(1918) p.197
  20. ^ 台東区鳥越一丁目西部
  21. ^ a b 西尾(1918) p.199
  22. ^ 西尾(1918) p.200
  23. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.57
  24. ^ 諸橋轍次大漢和辭典』巻七 p.939
  25. ^ 西尾(1918) p.8
  26. ^ 西尾(1918) p.4
  27. ^ 西尾(1918) p.79-80
  28. ^ 西尾(1918) p.82
  29. ^ 西尾(1918) p.89
  30. ^ 西尾(1918) p.91
  31. ^ 西尾(1918) p.93-94
  32. ^ 西尾(1918) p.99
  33. ^ 西尾(1918) p.164
  34. ^ a b 西尾(1918) p.206
  35. ^ a b 西尾(1918) p.207
  36. ^ a b 西尾(1918) p.208
  37. ^ 西尾(1918) p.209
  38. ^ a b c d e f g h i j k l m 「東条家家譜」キャンベル(1988)
  39. ^ a b c d e f g 「東条氏略系」西尾(1918)
  40. ^ a b c d 「平尾氏略系」西尾(1918)

参考文献

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外部リンク

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