ガセネタ (バンド)
ガセネタ | |
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バンドの名目上リーダーであった大里俊晴(1980年撮影) | |
基本情報 | |
別名 | ガセネタの荒野 |
出身地 | 東京都・明治大学 |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
事務所 |
明治大学現代の音楽ゼミナール →吉祥寺マイナー |
共同作業者 | |
公式サイト | ガセネタ公式サイト |
メンバー | |
旧メンバー |
概要
[編集]ガセネタは園田佐登志主宰の明治大学現代の音楽ゼミナールに出入りしていた山崎春美(Vo/後にタコ)、浜野純(g/後に不失者)、大里俊晴(b/後にタコ他)の3人によって1977年9月に結成された。ドラムスには村田龍美、高野勉、乾純(後にザ・スターリン)、佐藤隆史(吉祥寺マイナー店主/ピナコテカレコード主宰)らが入れ替わるように加わっている。自称「最後のハードロックバンド」「非治産階級のバンド」。音楽評論家の間章は晩年「このバンドの為なら何でもする」と語った[1]。
同メンバー(山崎+浜野+大里+他)による別名義バンドとしては「ガセネタの荒野」「かつお」「て」「こたつで吠えろ」「しゃけ」「テテ」「世界の果てにつれてって」「アナルキス」「がせねた」などがある。「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」以上たった4曲のレパートリーで、大学構内や学園祭、吉祥寺マイナーなどのライブハウスでゲリラ的に活動を行った。1979年3月30日解散[2]。
活動当時は音源を一切リリースせず、解散から13年後の1992年に大里俊晴が発表したガセネタの伝記的小説『ガセネタの荒野』に対抗して山崎春美が1stアルバム『SOONER OR LATER』(遅かれ早かれ)をPSFレコードから1993年にリリース、これがガセネタの初音源となる[3]。
2015年には大里俊晴の7回忌にあわせて36年ぶりに再結成されるが、新録アルバム発売直前の2018年10月23日に山崎春美がTwitterを通じてメンバーや関係者に相談せず、ガセネタを独断で解散したと発表した[4]。
メンバー
[編集]- 山崎春美(ヴォーカル/→タコ)
- 解散時20才[5]。タコの主宰者。ガセネタではヴォーカル、痙攣、作詞を全4曲ともに担当。高杉弾が創刊した伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』編集部に在籍し、雑誌『宝島』周辺で一躍時の人となる。ガセネタ結成以前は阿木譲の『ロック・マガジン』に美文を執筆し、天才少年として注目された[6]。しかし、その散文詩的で叙情的な美しい歌詞とは裏腹に、山崎のパフォーマンスはひたすら全身を震わせ、手足をばたつかせ、もんどり打って倒れ、その場で痙攣しながら歌ならぬ歌を機関銃のような早口で喚き散らすといった余りに過剰なもので[6]、この痙攣タコダンスは山崎の代名詞となる。元タコ・東京理科大学教授の後飯塚遼は山崎のダンスやタコのステージについて「痙攣とかひきつりとか失神とかだよね。音も、ステージも。ちっちゃい子供がかんのむしを起こす感じ」と回想している[7]。
- ガセネタ解散後は不定形即興音楽集団のタコ(TACO)を1980年頃に結成。ステージ上で自傷する「自殺未遂ライブ」や日比谷野外音楽堂のアンダーグラウンドイベント「天国注射の昼」などを首謀し、当時の自主制作音楽業界に多大な影響を及ぼした。
- タコの解散後、長らく表舞台から退いていたが、2010年代に入り活動を本格的に再開し、2015年11月に行われた大里俊晴の7回忌ライブ「SHINDACO~死んだ子の齢だけは数えておかねばならない」よりバンド編成で36年ぶりにガセネタの活動を再開する[8]。なお山崎は後年、自身のバンド活動を振り返り「“タコ”はバンドではない。自分が参加したバンドは“ガセネタ”だけだ」と述懐している[9][10]。
- 2018年10月23日、ライブ後に更新した自身のTwitterで「諸事情も含め今後の見通しについても、そして人間として何もかもアホらしくなった」のを理由にガセネタの解散を突然表明して活動休止に入る[4]。奇しくも最後のライブを行った10月21日は蛭子能収の誕生日にして山崎春美やPhewをデビューさせた阿木譲(雑誌『ロック・マガジン』編集長)の命日であった。
解散時に在籍していたメンバー
[編集]- 浜野純(ギター/→不失者)
- 解散時18才[5]。元連続射殺魔、後に灰野敬二の不失者にベーシストとして参加。
- 本人曰く「生傷が耐えなかった」という性急で凶暴なギター演奏は「クスリ臭いギター」と評され、吉祥寺マイナーに出入りしていた非常階段のJOJO広重など当時のアンダーグラウンドなミュージシャンにも多大な影響を与えた[11]。また不失者では大音響のベースを弾いてライブハウスの壁を倒壊させたという伝説もある[12]。こうした浜野の演奏について後に現代音楽研究家となる大里俊晴も「どうして一本のギターから、六本しかない弦から、十本しかない指で、彼があんな音を引き出すことが出来たのか今でも不思議で堪らない」と評している[6]。ちなみに大里俊晴著『ガセネタの荒野』によれば、浜野はギターの弦では一番太いものを張っており、さらに六弦にはベース用の弦を張っていたといわれている[6]。また浜野はプリンスが愛用していたマッドキャットというギターを使っており、基本的にテレキャスター・モデルしか使わなかった。前掲書によれば「フェンダーの中でも、最も“遊び”の少ないギターだったから」とのこと[6]。当然、浜野の両手が過激な演奏で血に染まるのは日常茶飯事であった[6][11]。後期ドラムスで吉祥寺マイナー店長の佐藤隆史は次のように証言している[13]。ガセネタの練習ってすごいきびしくてね。やっぱ、許してくれないの。果てるまでやらなきゃ、許してくれない。気を抜くとねぇ、みんなに罵倒される。うまいかどうかじゃなくてもう、全力疾走で、できなくなるまでやれ!って感じで。
必ず血だらけになってたよ。浜野も手が血だらけになるし、大里も椎間板ヘルニアになっちゃったし、俺もヘトヘトになって手からやっぱ血出すまでやるって感じ。そこまでやらないと、許してくれない。山崎とか、その辺ヘラヘラしてるけど、浜野はきびしかったな。それはそれはストイックでしたよ。 - 大里いわく、浜野はたいへん早熟な天才美青年であったようで、わずか10代半ばにして「削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ」と語ったことでも知られる[6]。これは過剰と速度で1970年代末を駆け抜けたガセネタの精神性を象徴する言葉となった。なお浜野は後にガセネタ時代を振り返って「アングラってさ、伝説になりやすいんだよ」「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか」と自嘲気味な皮肉まじりの回想を行っている[12]。
- 1992年、ガセネタの1stアルバム『SOONER OR LATER』のリリースにあたって明治大学現代音楽ゼミを主宰していた園田佐登志が浜野に音源化の許諾を求めたところ、遠い過去の話でしかなかったのか「(ガセネタに)自分が関わっていたとは最早、思えなくなっている」として印税の受け取りを辞退する旨の手紙を園田に出している[14]。
- 大里俊晴(ベース/→タコ)
- 解散時21才[5]。ガセネタの伝記的小説『ガセネタの荒野』著者。ガセネタ解散後、タコにギタリストとして参加。
- 早稲田大学文学部卒業後、パリ第8大学で現代音楽の美学を学び、ダニエル・シャルルに師事する。芸術研究科修士課程および研究課程修了後、1998年から横浜国立大学教育人間科学部助教授に就任。2009年に他界するまで「ガセネタ」「タコ」の音源を30年間所蔵した[7]。
- 1992年『ガセネタの荒野』の上梓にあたってガセネタ結成のきっかけを作った園田佐登志に「この本は、園田さんへの僕からの最終返答だと思って下さい。僕の言うべきことはこれで総てです。僕はもう二度とガセネタについて発言することはないでしょう」という旨の手紙[15]を送ったのち沈黙を貫き通し、2009年に死去。同書が生前唯一の単著となった。生前最後の言葉は「ガセネタは凄いバンドだった。あんなバンド、ない」「ジミ・ヘンはここで死なない」[16]。
- 生前は大変シャイな性格[17]だったとされ、いつも黒いサングラスにチューリップハットをかぶり、観客の背後を向いて演奏を行っていた。
- 2005年に横浜国大が行ったインタビューでは「ガセネタ」「タコ」の名前こそ出さなかったものの、当時の音楽活動について「ハードロックを極限まで煮詰めていったらどうなるかということをやっていて、自分でももう触れたくないほどハードな生活でした。それは、昔、熱愛してた彼女をもう思い出したくも会いたくもない、みたいな感じです。ただそこで、ロックのパッションみたいなものはしぼり出しちゃったので、もうこの方向ではあまり先へ行けないなという気になっていたんです。でも勉強だとまだいける気がして、そっちへ向かったんです」と語っていた[18]。
- 元タコの白石民夫は「ガセネタで唯一事務能力のある人間。俺は天才と称される人間よりは、それを支えて、きちんとたたせてやってる人のほうが優れている人間だと思う。それに彼は官僚的でないでしょ。事務能力があって、官僚的でないって、大変なことだと思う」と評している[19]。
- 佐藤隆史(ドラムス/→ピナコテカ)
- 初代ガセネタのメインドラマー(後期)
- 解散時23才[5]。かつて吉祥寺に存在した伝説のジャズ喫茶「吉祥寺マイナー」店長。当時居場所がなかったガセネタに演奏スペースを提供したため、ガセネタ後期のライブは佐藤が企画したマイナーのコンサート「うごめく・気配・きず」で行われた。
- 1955年、香川県生まれ。高校中退後、絵の勉強をするため上京。その後、ジャズピアニストの山下洋輔に私淑しピアノを始める。ジャズ喫茶でのアルバイトを経て1978年3月7日に伝説のライブ喫茶「吉祥寺マイナー」を開店する。
- ガセネタは「うごめく・気配・きず」の1979年3月30日のライブを最後に解散。その後は「愛欲人民十時劇場」「剰余価値分解工場」などのイベントを主催し、この時にマイナーに集まった有象無象の連中が後にTACOに発展した。しかし度重なる赤字計上と騒音問題などでマイナーは1980年9月28日に閉店。ほどなくインディーズレーベル「ピナコテカレコード」を発足させ、1983年にはTACOの1stアルバム『タコ』(山崎春美、大里俊晴、坂本龍一、町田町蔵、遠藤ミチロウ、佐藤薫、ロリータ順子らが参加した自主制作盤史上に残る伝説的名盤)をリリースした。
- 大里によれば佐藤は何でもそつなくこなしてしまう天才肌の持ち主で、一度も触ったことがない楽器でもすぐにマスターしたという[6]。また大きめのエレキピアノをばらばらに分解して小型のポータブル型に改造するなど修繕や修理も得意で、他にも絵画や文筆、現像、配管工事、はんだ付け、複雑怪奇な和文タイプライターの打ち込みまで何でも広くこなした[6]。しかし、その佐藤が唯一できなかったことが皮肉にも喫茶店のマスターだったという[6]。なぜなら彼は昼夜関係なく40数時間起き続け、その後20数時間ぶっ通しで寝るという体内時計に逆らった不規則な生活を送っており、定期的に喫茶店を開店することが事実上不可能だった為である[6]。その後、起こされるのが嫌になった佐藤は電話を押入れの奥にしまってしまい、彼の寝坊でライブを一方的にキャンセルされたパンクスたちは壁のチラシをびりびりに破いてドアに「死ね」と落書きをして帰っていったという[6]。大里いわく「エキセントリックなところのまるで無い、それでいてとても不思議な人間」とのこと[6]。佐藤と吉祥寺マイナー周辺については『ガセネタの荒野』『地下音楽への招待』『EATER'90s インタビュー集』などが非常に詳しい。
脱退したメンバー
[編集]その他
[編集]- 園田佐登志(アナルキス)
楽曲一覧
[編集]ガセネタの持ち曲は「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」のたった4曲しかなかった。山崎春美はこれについて「ガセネタは明らかに音楽をやっているのではなく、バンドだったので、曲を作るというのは、お体裁だけのことだった」と述べている[22]。
- 雨上がりのバラード
(作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純)
さいしょの2曲は「これの、どっちにするかだな」とかいいながら浜野が弾いてみせて、「いや、こっちはダメだ。これしかないな」と、2曲目しかないみたいなことをさいしょから言いはじめて、「じゃあ、1曲目はなんだったんだ」という気になるのだけれど、だいいちその「究極のこれしかない」2曲目というのは、まだロックっぽかった1曲目にくらべて、リフがひとつあるだけなんだから、音楽をやっているわけでもないぼくからすれば、まま子あつかいされた1曲目が不憫でならない。それで勝手に「雨上がりのバラード」という名前をつけてやった。「どこがバラードなんだ」とは言われたけど、2曲しかないレパートリーの「勝負の分かれ目」みたいな「ガセネタのテーマ」曲にくらべて、おちゃらけた付け足しみたいなあつかわれようは、充分、泣きが入るところだ[23]。 - 父ちゃんのポーが聞こえる
(作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純・Tangerine Dream[24])
曲は簡単で、ドラララーラララがつんのめって加速してめちゃめちゃになって終わる、というものだった(と僕は解釈した)。1拍目でその時点でのonをキープし3拍目のスネアを早めに叩けば論理的には加速していく筈だと思った。ドラムはやったことがない、と言うと、こう腕をクロスさせて普通に、と言われてやってみたがその叩き方では無理だった。だから佐藤隆史はジャズのシンバルで逃げたし、乾はタムの連打で焦点をぼかしたのだ。僕は、加速に焦点を与えたこの「父ちゃんのポーが聞こえる」という1曲だけでガセネタはいいと思っている。ドラムとベースが遅れ続けることによってしか曲をひきのばせなかったとしても[25]。 - 宇宙人の春
(作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純)
さらに僕が文句を言いつづけて「わかったよ。ロックっぽいのを作ってやったから感謝しろ」と、やっと浜野が持ってきたのが3曲目で、なんといっても曲みたいだった。それが嬉しくてその日のうちにすぐ歌詞をつけて「宇宙人の春」と命名した[23]。 - 社会復帰
(作詞:山崎春美 / 作曲:大里俊晴)
そしたら、こんどは大里が「俺も作った」と言って持ってきたのが4曲目になって、これで曲作りというのは完全に終わった。2曲目については、すったもんだしたあげく、浜野が「父ちゃんのポーが聞こえる」という題名をつけたが、けっきょくのところ1曲目、2曲目という呼び名でしか、呼ばれることはなかった。大里の作曲による4曲目には、作曲者のイメージを尊重して「社会復帰(リハビリテーション)」という名前をつけた。立って演奏することへのこだわりは、たいしたもので、それがどうしたって演奏中に倒れ込まざるをえないことになった。椎間板ヘルニア、という怪我みたいな病気のことを知ったのは、大里がそれになったからで、大里によれば、バンドの機材を運ぶのに、「お前らが全然やらないから」それで腰を痛めたのだと、くり返し言っていて、ほんとうなら申し訳ないことかもしれなかったが、コルセットをはめたまま立ってベースを弾く姿が「なかなかカッコいい。凛々しい」と、浜野と口々にほめあったら、「血も涙もない奴らだ」と言いかえして、笑っていた[23]。
これで全部だ。4曲ある。4曲もあった、というべきだろう。僕らは大概のものを憎んでいたが、繰り返しというものを特に憎んでいた。同じ事を二度やることは、耐えがたいことだった。だから、僕らは、曲の持つ、反復=再現可能性という属性に、いつも絶望し、苛立っていた。だが、と僕は思う、4曲もあったレパートリーは、その総てが、口実として書かれていたのではなかったか? 口実? そう、エンディングの為の口実として。僕らの演奏にはエンディングしかなかった。エンディング。奇妙な言葉だ。じっと頭の中で反芻していると、それは名詞ではなく進行形に思えてくる。終わり続けること。だが、終わり続けるとはどういうことなのだ? 終わりが続いていくとは? 僕らの演奏は、いつも終わり続けていた。曲が始まったとたんに終わりに雪崩込んでいった。殆ど数分に過ぎない曲の部分をやり過ごすと、ドラムとベースは次第に加速して行き、それからカオスに突入した。浜野は、浜野のギターは、既に一歩先に、いや予め、常に既に、カオスに入り込んでいる。いつもの同じカオス。エンディング。終わること。終わり続けること。そして、僕らは、エンディングに突入してから、終わることが出来なかった。エンディングとは、終わりであり、始まりであり、中間であり、また終わりでもあった。僕は、もう終わりだ、いま終わりだ、と思いながら演奏した。だが、終わることが出来なかった。終わりはやってこなかった。どうやって終わるのだろう。どうやったら終わることが出来るのだろう。僕は、いつもそう思いながら演奏した。エンディング。僕らは、いつまでも終わり続けていた。 — 大里俊晴『ガセネタの荒野』月曜社、2011年、158-159頁
ディスコグラフィ
[編集]アルバム
[編集]- 『ガセネタ』(1979年)
- 『タコ』(1983年)
- 佐藤隆史主宰のピナコテカレコードから自主制作盤として発売されたTACOの1stアルバム。『タコ』は山崎春美、大里俊晴、坂本龍一、町田町蔵、遠藤ミチロウ、佐藤薫、ロリータ順子ら80年代サブカルチャーの重要人物が一堂に会し、自主制作盤としては破格のヒットを記録するが、町田町蔵がゲストヴォーカルを務める「きらら」という曲の歌詞に問題があり、差別表現をめぐって同和問題に発展したため発売中止になったのち自主回収された。ちなみにアルバム最後の曲にはガセネタの「宇宙人の春」(明治大学和泉校舎/1978年5月14日)のライブ音源がボーナス・トラックとして収録されており、1993年にガセネタの1stアルバム『SOONER OR LATER』がリリースされるまでは、これがガセネタの唯一の音源であった。
- 『SOONER OR LATER』(1993年)
- 『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』(2011年)
- 2011年7月20日、ディスクユニオンのレーベル「SUPER FUJI DISCS」よりリリース。1977年夏のごく初期から1979年3月30日解散前夜まで、時期や参加メンバーによって「こたつで吠えろ」「て」「ガセネタ」「アナルキス」など名前を変えながら行なった様々なライヴや練習スタジオのカセット一発録音を山崎春美と佐藤薫の監修のもと、8枚のCD(disk1~8)に収録。「雨上がりのバラード」26テイク、「父ちゃんのポーが聞こえる」27テイク、「宇宙人の春」17テイク、「社会復帰」11テイク、その他11テイク、以上670分92テイク収録。これに加えてハイライズのメンバー(成田宗弘、南條麻人、氏家悠路)などに山崎春美が加わった1985年のライヴ音源(他)をdisk-9に、さらにMOODMANによる2011年ガセネタ・スピード・ミックス盤を附した10枚組。番外編CDとして1977年のガセネタ初期セッション「こたつで吠えろ!」を先着特典付。
- 『グレイティスト・ヒッツ』(2011年)
- 既発音源を再編集したベスト・アルバム
- 『GASENETA LIVE 2018.04.25』(2018年)
シングル
[編集]- 『ガセネタ』(2017年)
- 「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」以上4曲しかないレパートリーからそのベスト・トラックを収録したアナログ7インチEP。
- 『ガセネタ GASENETA』(2018年)
- フィンランドのEktro Recordsから発売されたアナログ12インチEP。『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』から厳選した11曲と、BOXセット制作後に発見されたテープ[29]から1978年11月3日の日芸ライブより「父ちゃんのポーが聞こえる」未発表テイクを収録。黒盤と黄盤の2種類あり。
- 『雨上がりのバラード/社会復帰』(2018年)
- アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25』から2曲を収録したアナログ7インチEP。
- 『父ちゃんのポーが聞こえる/宇宙人の春』(2018年)
- アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25』から2曲を収録したアナログ7インチEP。
未発表音源テープ、映像
[編集]- 1978年11月3日、日芸LIVE
- 1978年11月3日、日芸LIVE
- 1978年11月4日、日芸LIVE インストゥルメンタル
- 1978年11月5日、早稲田LIVE リハーサル
- 1978年11月5日、早稲田LIVE(8ミリフィルムで撮影)
3番目のトラックは、ヴォーカル抜きのライヴ演奏となっております。このカセットには、余りに激しい演奏でベース弦が切れてしまい演奏が止まってしまったライヴも含まれていたと思います。「演奏できない、弦が無いもん」という、大里さんの声が入っていた様な、そんな記憶があります[30]。
書籍
[編集]- 大里俊晴『ガセネタの荒野』(1992年9月、洋泉社)ISBN 4896911083
- 1977-1979年を過剰と速度で駆け抜けた唯一無二のロック・バンド「ガセネタの荒野」。結成から解散までの破天荒な音楽活動やバンド周辺の人間関係を赤裸々に描写した自伝的小説にして著者唯一の書き下ろし単行本。1970年代後半のニュー・ウェイヴ黎明期を舞台に吉祥寺マイナーなどのライブハウスやイベント現場の内情、ロックとマイナー音楽を取り巻く混沌とした状況、当時の地下音楽シーンと当時の先鋭的なバンドをめぐる精神的傾倒を回想する。なお、出版に際しては大里の友人である丸宝行晴(スーパーダッシュ文庫編集長)が企画構成を行っている[16]。
- 諸般の事情で長らく絶版になっていたが、2011年7月20日にディスクユニオンから10枚組BOX『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』がリリースされるのにあわせて1992年刊行の洋泉社版から写真、見出し、参考資料を削除した新装改訂版が山崎春美の題字で月曜社から再刊された。2017年1月には英訳版『Gaseneta Wasteland』(加藤・デビット・ホプキンズ訳)がPublic Bath Press社から刊行されている。
そして、最後に言わせて欲しい。最終的には、この文章が僕によって書かれなければならない必然性すらなかっただろう。僕はそう思う。僕は、いわばローファイのテープレコーダーのようなものだった。誰かが、また別のテープレコーダーを用意してくれてもよかったのだ。今回はそれがたまたま僕だっただけだ。だから、ここに読まれる文字群は、僕という不忠実な記録再生装置を通じて語られた複数の誰かの言葉だ、と言っても差しつかえない。けれど、その複数の誰かを、「時代」などという茫漠とした概念にまで還元してしまうことにだけは、僕は断固として抵抗するだろう。だって、あの時、少なくとも僕らは、徹底的に反時代的でありたいと願っていたのだったから。 — あとがきより
メンバー変遷
[編集]時期 | Vocal | Bass | Guitar | Drums | バンド名 | 備考 | |
1期 | 1977.晩夏 | 山崎春美 | 大里俊晴 | 浜野純 | 1977年夏、明治大学の現代音楽ゼミナールにてバンド結成 | ||
2期 | 1978.01- | 村田龍美 | ガセネタの荒野、かつお、て、こたつで吠えろなど | この時期のライブは主に明治大学で行われた | |||
3期 | 1978.08- | 高野勉 | ガセネタ | ||||
4期 | 1978.09 | 佐藤隆史 | ガセネタの荒野 | ||||
5期 | 1978.09.24 | 乾純 | ガセネタ | 乾純は一回のステージで脱退、後任は佐藤隆史 | |||
6期 | 1978.10- 1979.03.30 |
佐藤隆史 | この時期のライブは主に吉祥寺マイナーで行われた 1979年3月末日、初代ガセネタ解散、同年タコ結成 | ||||
7期 | 1985.01.20 | 山崎春美 町田町蔵 |
大里俊晴 南條麻人 |
成田宗弘 | 氏家悠路 | タコ | タコ+ハイライズがガセネタの楽曲を演奏 |
8期 | 2015.11.17 | 山崎春美 | 松村正人 | 成田宗弘 | 乾純 | ガセネタ | 新宿LOFTにて再結成、36年ぶりに活動を再開 元ガセネタ、ザ・スターリンの乾純が再加入 |
9期 | 2017.03- | 田畑満 | 元ボアダムスの田畑満が加入 | ||||
10期 | 2018.04- 2018.10.23 |
亀川千代 | 田畑満 | 元ゆらゆら帝国の亀川千代をメンバーに迎え再スタート | |||
11期 | 2018.11.17- | 山崎以外全員脱退となる |
時期 | Vocal | Bass | Piano | Drums | 備考 | |
12期 | 2019.04.03- | 山崎春美 | 不破大輔 | 原田依幸 | 石塚俊明 | 東京・渋谷の「LOFT HEAVEN」で復活ライブ。セットリストは「父ちゃんのポーが聞こえる」のみ |
関連年表
[編集]- 1977年9月 - 園田佐登志主宰の明治大学現代音楽ゼミナールで山崎春美、浜野純、大里俊晴の3人によりバンド結成。
- 1978年3月7日 - 吉祥寺マイナー開店。
- 1978年1月、3月、5月に「こたつで吠えろ」のバンド名で演奏、4月に「ガセネタ」、5月に「て」のバンド名で演奏、8月以降は「ガセネタ」(一度だけ「ガセネタの荒野」)として演奏を行なう。
- 1978年12月 - 生前「このバンドの為なら何でもする」と語った間章が逝去。山崎春美、灰野敬二らが葬儀に出席。
- 1979年2月 - 吉祥寺マイナーでシリーズコンサート「うごめく・気配・きず」が4月初めまで毎週末に開催。主に灰野敬二、白石民夫、工藤冬里、角谷美知夫らがイベントに出演し、ガセネタ(山崎春美+浜野純+大里俊晴+佐藤隆史)は解散直前まで連日出演する。
- 1979年3月 - 高杉弾・山崎春美編集の伝説的自販機本『Jam』(エルシー企画)が創刊。大里俊晴は「役立たずの彼方に」を、佐藤隆史は「マイナー通信」を連載。
- 1979年3月30日 - ガセネタ解散。浜野は最後に「ええと、ガセネタは今日限りで解散しました」とだけ語った。最終曲は「父ちゃんのポーが聞こえる」。その後、浜野純は灰野敬二の不失者にベースとして参加する。
- 1979年4月 - 高杉弾がボブ・マーリーと邂逅する。
- 1979年10月14日 - 吉祥寺マイナーで佐藤隆史、白石民夫の共催による「剰余価値分解工場」が始動。同イベントは79年11月4日、80年1月6日、4月6日に吉祥寺マイナーで催されたのち法政大学学生会館ホール棟11号室でも行われた。
- 1980年頃 - 山崎春美を中心に不定形の即興音楽集団「タコ」(TACO)が結成。
- 1980年6月、7月、12月に山崎春美が「タコ」のバンド名で演奏。5月に「イヤミ」、9月に「山崎春美としびれくらげ」、11月に「シビレクラゲ」として演奏を行なう。
- 1980年4月 - ニューウェーブ雑誌『HEAVEN』(アリス出版)創刊。引き続き高杉弾と山崎春美が編集にかかわる
- 1980年2月 - 吉祥寺マイナーで佐藤隆史、白石民夫の共催による「愛欲人民十時劇場」が始動。
- 1980年6月6日 - 『HEAVEN』創刊記念オールナイトイベント「天国注射の夜」Vol.1が新宿アシベ会館で開催。飛び入りで出演(乱入)した江戸アケミがステージ上で自分の額をナイフで切りつけるパフォーマンスを行い、救急車で運ばれる。
- 1980年9月 - 山崎春美のエッセイ「吉祥寺・マイナーの
はみ出し者 たち アンダー・グラウンド・ロック現場報告」が『宝島』10月号に掲載(山崎春美著『天國のをりものが』に再録)。 - 1980年9月28日 - 吉祥寺マイナー「愛欲人民十時劇場 九月毎夜うごめくマイナーの気配、そして傷。」最終日。最後の出演者は山崎春美(遅刻)。
- 同日 - 吉祥寺マイナー閉店。「そして、この企画の実現を待たず、9月28日にマイナーは突然ぶっつぶれませり。合掌。」(『宝島』10月号)
- 1980年10月 - 『HEAVEN』6号の「ディミニッシュ通信」No.2にて佐藤隆史が吉祥寺マイナーの閉店とピナコテカレコードの発足を報告。
- 1980年11月21日 - 新宿アシベ会館で「天国注射の夜」Vol.2が開催。
- 1980年12月 - ピナコテカレコードからオムニバスアルバム『愛欲人民十字劇場』発売。特典付録はアルミ箔に包んだ人間の大便。
- 1981年3月 - 群雄社ショック。明石賢生逮捕。『HEAVEN』廃刊。
- 1981年8月15日 - 雑誌『HEAVEN』&山崎春美主催によるアンダーグラウンド・ロックイベント「天国注射の昼」Vol.3が日比谷野外音楽堂で開催。
- 1981年9月 - ピナコテカレコードから灰野敬二の1stアルバム『わたしだけ?』発売。
- 1982年9月1日 - 東京・中野弥生町のplan-Bで山崎春美が「自殺未遂ギグ」挙行。出刃包丁で身体中を切り刻み、そのまま救急車で運ばれる。ドクターストップ役は当時東京医科大学の学生だった精神科医の香山リカが務めた。後に観客のいとうせいこうから「時間の無駄」と酷評される[31]。
- 1983年1月 - ピナコテカレコードから『タコ』発売。同作は3000枚までプレスされ、当時の自主制作としては異例の売り上げを記録するが、収録曲中の「きらら」「赤い旅団」の歌詞(作詞は山崎春美)に部落差別と障害者差別にあたる表現があるとの指摘を受け、佐藤隆史の判断で販売停止・自主回収となる。のちに佐藤は部落解放同盟や障害者団体とのやり取りをピナコテカレコードのフリーペーパー『アマルガム』や、その拡大版『インディペンデント・ジャーナル』に一方的な謝罪ではなく新たな議論を呼びかける形で公表した[32]。
- 1983年3月 - タコの2ndアルバム『セカンド』(ライブ盤)発売(イースタン・ワークス・ディストリピューションから)。演奏陣は山崎春美(Vo)大里俊晴(Gt)佐藤薫(Dr)野々村文宏(P)の4人。
- 1983年8月21日・9月17日 - 日比谷野外音楽堂で「天国注射の昼」Vol.4&Vol.5が開催。
- 1983年10月 - ピナコテカレコードが活動終結を宣言[33]。山崎春美編集の雑誌内雑誌『HEAVEN』終刊。
- この年、タコ事実上の解散。
- 1984年1月21日 - 東映ビデオからV.A.『天国注射の昼』(Live at 日比谷野外音楽堂 1983.08.21 & 09.17)発売。
- 1984年頃 - 山崎春美が絶筆。
- 1987年7月1日 - 元タコ/だめなあたしのロリータ順子(篠崎順子)が他界。
- 1992年9月 - 大里俊晴によるガセネタの伝記的小説『ガセネタの荒野』が洋泉社から出版。
- 1993年末 - 1978年春に明治大学で録音された音源をもとにガセネタの1stアルバム『SOONER OR LATER』がPSFレコードからリリース。当初は1991年8月発売予定だったが、のちに1993年春発売予定になり、さらにその予定から半年以上遅れてのリリースとなった[34]。
- 1994年3月 - 北村昌士のSSEレーベルから、タコの2枚のアルバムがカップリングでCD『タコ大全』としてリリースされる。しかし、町田町蔵がゲストヴォーカルを務める曲「きらら」は差別用語に自主規制音が入り、また宮沢正一や遠藤ミチロウが参加した「赤い旅団」に至っては同じく自主規制として一切の情報が記載されないなど内容の不備があり、作品自体も山崎の許可を得ずにプレスされた海賊盤であった。
- 1995年 - 山崎春美と北村昌士らによってタコ再結成(のち解散)。
- 1996年12月 - 太田出版発行『Quick Japan』11号にて「山崎春美という伝説」特集。
- 1998年5月 - 元タコの隅田川乱一(美沢真之助)が他界。
- 2008年12月6日 - 元タコの山本土壺(山本勝之)が他界。
- 2009年2月20日 - 吉祥寺マイナー周辺のミュージシャンの秘蔵音源を集めた園田佐登志編集のコンピレーション・アルバム『すべてはもえるなつくさのむこうで Early Works of Satoshi Sonoda 1977→1978 Memories of Yasushi Ozawa』がPSFレコードからリリース。
- 2009年11月17日 - ガセネタのベーシストであった大里俊晴が他界。
- 2011年3月 - 『タコ』『セカンド』がCDで公式に再発。
- 2011年7月20日 - ガセネタ10枚組BOX『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』が山崎春美と佐藤薫の監修のもとディスクユニオンからリリース。また長らく絶版だった大里俊晴著『ガセネタの荒野』が月曜社から復刊。
- 2011年10月5日 - ガセネタの既発音源を再編集したアルバム『グレイティスト・ヒッツ』がディスクユニオンから発売。
- 2011年11月23日 - 大里俊晴BOX『タカラネタンチョトタカイネ』がディスクユニオンから発売。
- 2012年8月8日 - 初期タコのサウンド面で大きな役割を果たした白石民夫をフィーチャーしたタコ4枚組BOX『タコBOX Vol.1 甘ちゃん』がディスクユニオンからリリース。
- 2012年8月11日 - 千葉・幕張メッセで行われたDOMMUNE主催のイベント「FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO」に新生タコが出演。山崎春美、EP-4の佐藤薫、非常階段のJOJO広重の3人編成に鎖帷子レイコ(Vo)藤井海彦(g)多門伸(ds)まんぷく丸=辻元辰也(b)の4人が加わり「仏の顔は今日も三度までだった」「社会復帰」「宇宙人の春」「嘔吐中枢は世界の源」「な・い・し・ょのエンペラーマジック」「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」などタコとガセネタの楽曲を演奏。
- 2015年11月17日 - 東京・新宿LOFTで大里俊晴の7回忌ライブ「SHINDACO~死んだ子の齢だけは数えておかねばならない」開催。この日、タコおよびバンド編成で36年ぶりにガセネタが再結成。ちなみにロリータ順子のパートは当時彼女と交遊があった戸川純が歌った。
- 2015年11月25日 - 山崎春美と佐藤薫を中心とした1982年末以降の後期タコの未発表音源をまとめた4枚組BOX『タコBOX Vol.2「8ナンバー」』が両者の監修のもとディスクユニオンからリリース。タコ『セカンド』に収められたオリジナル音源などのほか、1983年8月21日の日比谷野音ライブ「天国注射の昼」から9曲を収録。
- 2016年9月 - 吉祥寺マイナー周辺を取り上げた単行本『地下音楽への招待』がロフトブックスから発売。
- 2018年4月25日 - 東京・新宿LOFTでワンマンライブ「ガセネタだけ(他なし)2018」開催。
- 2018年10月21日 - アルバム先行発売ライブ。同日、阿木譲逝去。
- 2018年10月23日 - ガセネタ再解散。
- 2018年11月17日 - 新録アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25』発売。
- 2019年4月3日 - 東京・渋谷の「LOFT HEAVEN」で復活ライブ。ギターの代わりにコントラバスとピアノが追加され、演奏形態がフリー・ジャズとなる。セットリストは「父ちゃんのポーが聞こえる」のみ。アンコールでは「宇宙人の春」が演奏された。
- 2019年4月25日 - ザ・スターリンの遠藤ミチロウが他界。
関連文献
[編集]- ジャム出版『Jam』創刊号「TOKYO PUNK SCENE SCRAP」(1979年3月) - 不失者、ガセネタ、FRICTION、LIZARD、SPEED[要曖昧さ回避]など吉祥寺マイナーや東京ロッカーズ系のバンドに加えてINU、アーント・サリー、ULTRA BIDE、SSといった関西ノーウェーヴ系のバンドも含めた当時のインディーズシーンが網羅的に紹介されている。
- 佐藤隆史「マイナー通信」 - 高杉弾の自販機本『Jam』6号(1979年8月)から『HEAVEN』4号(1980年8月1日)まで吉祥寺マイナー店主・佐藤隆史のコラム「マイナー通信」が連載された。同コラムでは謎多きマイナーに関する詳細かつ瑣末な情報が掲載されている。その後、マイナー閉店(1980年9月28日)に伴い「ディミニッシュ通信」と改題して『HEAVEN』5号(1980年11月)から8号(1981年2月)まで連載される。
- 坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン』23号(1979年5月) - 吉祥寺マイナーのコンサート企画「うごめく・気配・きず」に出演していた7バンド(TOKYO、不失者、ガセネタ、WORST NOISE、黒涯蒼、ODD-JOHN、火地風水)が紹介されているが、この記事が出た時点で既にガセネタは解散していた。
- 佐藤隆史編『アマルガム』(1978年11月~1983年11月/全13号) - 吉祥寺マイナー(のちにピナコテカレコード)発行のフリーペーパー。創刊号にガセネタが紹介文を寄稿している。
評価・分析
[編集]- 山崎春美 - ステージへ立つ度毎に罵声とゴミクズと嘲笑がとんでくるのは毎回のおきまりごと。演奏がはじまるともう何もわからなくなる。それはもう歌じゃない、音楽じゃない、ましてやメロディーや言葉やリズムなんかじゃない。悪くなって行くこと、どうしようもなく、いかなるあがきも居直りも狡猾さも少しのかいさえなしにただいたずらに崩れ流れて、無限大に拡大する不安と恐怖の中に、惨めさのなすすべもなしに広場の王子。そんな現在をただ拡大しただけの等身大のロック・バンド[35]。そんなバンドがガセネタだ。
- 隅田川乱一 - ある日『便所虫』(高杉弾のサークル:引用者注)の部屋へ行く途中、すごく心地よい音楽が聞こえてきてね。誘われるようにして、その音楽をたどって行ったら、春美が「神秘学研究会」の部屋にいて「ガセネタ」の音楽をかけていたんですよ。それで春美とも知り合って。あれは「ガセネタ」の初期の録音だと思うけど、音がハジケていて、とても開放感を感じましたね。僕が一番好きなパンクロック・バンドです[36]。/それから「ガセネタ」というバンド。これもみのがす手はない。『遊』の松岡正剛氏は、田中泯とか笠井叡の舞踏を通じてニジンスキーを想像する、みたいなことを書いていたが、ボクの場合、あのバンドはジミ・ヘンドリックスとか、かつてのシャーマニズムの時空を想わせる。「あれ」がやってくると「X」度もたっぷりで、記憶たちのお喋りもやむ[37]。
- 坂口卓也 - 自らを非治産階級のバンドと称するガセネタ。現代文学の消費でしか無いのと同様、音楽は音の消費である。その認識の上で彼等は最後の等身大性に全てを賭けている。まるでマルコム・ムーニーが居た頃のカンとレイ・ステファン在席時のブルー・チアが合体し発情したが如き演奏は、生理対生理の伝達作用が持つ、多様性を凌ぐ一様性に大きく関連している。それには大きな加速度が必要だ。私はその加速度の代償として、10分の演奏でギタリストの両手が血ダルマになる 8分でベース弦の殆どが切れるという光景を目の当たりにして来たものだ。ガセネタの怪し気な、人間の潜在的恐怖・価値への不信感を呼び起こすステージは数々のフリー・ミュージシャンに高く評価されている。余談だが未発表のガセネタのデビュー・テープのライナーは故間章氏が筆を執る筈だった[38]。
- 地引雄一 - 僕が初めて「ガセネタ」を見たときは強烈な印象を受けた。浜野純の空間を切り裂くようなギターサウンドに合わせて春美が現代詩のような歌詞をがなり声で朗読するんだよ。しかも身体を痙攣しながら。もう全然普通のロックのノリじゃないの。ガセネタって一見パンクなんだけど、もの凄くピュアな“ロックそのもの”って感じがする。ポピュラリティなんて一切なくて、表現したいものだけを表現するみたいな。だって楽曲はわずか4曲しかないからね。若さゆえに出せる純粋さと挑戦的かつ尖った姿勢、それが今なお伝説的に語られる所以じゃないかな[39]。
- JOJO広重 - ガセネタは文字通り伝説のバンドだった。1978~1979年のわずかな間、関東でのみライブを演っていたバンド。実際のライブを見た観客の人数は全部あわせてMAXでも百数十人だろうか。とにかくなにもかもがグッシャグシャで、ものすごいスピードで駆け抜けていったロックとパンクとサイケと現代音楽と文学もゴミもアクタも混濁の極みにして、つまりは最高で最低の音楽を演奏していたバンド。初めて見るガセネタは衝撃だった。特に浜野の顔。そう、顔だ。まるで殺人鬼のような、そんな殺気に満ちていたのを覚えている。ギタリストの顔じゃない、これはキチガイの顔だ、そう思った。ステージで山崎がビール瓶を割って転げ回っていたような記憶もあるが、私の目は演奏が始まるとあっという間に両手が血で染まっていくほどに無茶苦茶にギターをかきむしる浜野のギターに圧倒されてた。ベースやドラムが楽曲らしきコードとリズムをキープしているからロックバンド然とはしているが、訳の分からない歌詞を叫びまくる山崎と血まみれギターの浜野の二人はもう常人ではなかった。本当に訳の分からないバンド、疾走感、ロックの極地、そういう印象だった。私が保証できるのは、こいつらはあの時代の最先端であり、最も異端であったし、最高に訳がわからないヤツラだったことだ。これは誉め言葉である[11]。
- 石橋正二郎(F.M.N. SOUND FACTORY) - 初めて見た「ガセネタ」のことははっきり覚えてる。椅子に座ったベーシストが太く重いけどワンパターンのリズムをひたすら弾いている、ドラムは何が楽しいのかニコニコしてこれまたひたすらタイトなリズムを刻んでる。ヴォーカルは訳の分からないことをわめきながら痙攣してのたうち回ってる、比喩なんかじゃない、本当にのたうちまわってたのだ。会場(吉祥寺マイナー)に転がっていたウィスキーのボトルをヴォーカリストがアンプの端でたたき割る、その破片がドラムのところの飛んでいくのをニコニコしながらかわし、全く何事もなかったかのようにドラマーはたたき続ける。しかし一番衝撃だったのはギターだ。なにか「全て」を獲得しようとしていると思った。多分その獲得しようとしている「全て」は弾いている本人にもわからないだろう。「全て」を獲得できるとも本人も多分思っていない、でもその「全て」を獲得するためにのたうち回ってる(これも比喩ではない)、負け戦と分かってるのに、しかも何が戦かも分からないのに、目指しているモノが何なのか分からないはずなのに指先から血を吹き出しながら演奏し続けていたギタリストのその音は、とんでもなく「せっぱ詰まった」ものだった。後にも先にもあんなギターは聴いたことがない[40]。
- アエリエル(フリーライター) - 平均年齢20歳、ロック同人誌の寄稿家のメンバーたちによって結成されたガセネタは、結成・活動時期こそ日本の初期パンクと重なっていますが、本人たちはハード・ロックの即興演奏バンドという意識こそあれ、その活動をパンク・ロック・ムーヴメントと関連されるのは意図的に避けていたようです。/パンク・ロックと呼ばれることを拒否していたガセネタを日本の初期パンクとしてご紹介していいものか迷いもしますし、メンバーが世俗化したロックに対して取っていたスタンスは、パンクというよりもダダイズム的な即興演奏系ハード・ロックの極限化であり、発想はアート・ロックの系譜にあるとも見なせます。しかしガセネタほどそれを徹底してやっていた存在はないので、この特異なバンドの音楽は面白い・つまらないを越えて、一度は聴いておきたいものです[41]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 再考一九七八──いま、間章を読むとはどういうことなのか 対談 山崎春美×渡邊未帆『間章著作集Ⅰ~Ⅱ』(月曜社)をめぐって e-hon
- ^ “ガセネタ Last Live at 吉祥寺マイナー「うごめく・気配・きず」1970.03.30「父ちゃんのポーが聞こえる」 - YouTube”. YouTube. 2023年7月15日閲覧。
- ^ 剛田武の地下音楽入門 第3回:ガセネタ
- ^ a b 山崎春美のツイート 2018年10月23日
- ^ a b c d ジャム出版『Jam』創刊号「TOKYO PUNK SCENE SCRAP-ガセネタ」(1979年3月)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 大里俊晴『ガセネタの荒野』洋泉社/月曜社
- ^ a b 『タコBOX Vol.1 甘ちゃん』(2012)ブックレットより
- ^ 山崎春美率いる伝説のバンド、TACOおよびガセネタが本格再始動 音楽ナタリー 2015年9月29日
- ^ 太田出版『Quick Japan』11号「山崎春美という伝説──“自殺未遂ギグ”の本音」より
- ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第13章「わたしはこの本を認めない」ロフトブックス、2016年9月、365頁参照
- ^ a b c JOJO広重「さらばガセネタ」(NOBODY編集部『NOBODY』36号「30YEARS AFTER GASENETA AND WITNESSES ガセネタの30年後へ」より)
- ^ a b 浜野純インタビュー「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか」
- ^ 地引雄一編『EATER'90s インタビュー集:オルタナティブ・ロック・カルチャーの時代』「THE INDEPENDENT WAY 生き方としてのインディペンデント:佐藤隆史『失敗ってわけじゃないよ。そうやって生きて来たんだもん』」K&Bパブリッシャーズ、2012年9月、126頁参照。
- ^ Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
- ^ 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
- ^ a b 丸宝行晴「俊学晴峰信士(大里俊晴)のこと」『役立たずの彼方に』オフィスOsato、2010年6月1日。
- ^ 「極度に気が弱いというか気が優しいので、学生たちの目を直視することができず、授業ではいつも黒いサングラスを着用していて、よれよれの着古した黒づくめの服にサンダル、黒メガネと長髪というのが彼のスタイルで、入試などの監督をさせると、それを見た受験生が目を白黒させているのが面白かった」室井尚「追悼:大里俊晴君のこと」 - 短信 Virtual Time Garden 2009年11月18日付
- ^ 発信する横浜国大 大里俊晴インタビュー - ウェイバックマシン(2005年4月7日アーカイブ分)
- ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、127頁参照
- ^ OMNIBUS a Go Go Vol.48『すべてはもえるなつくさのむこうで Early Works of Satoshi Sonoda 1977→1978 Memories of Yasushi Ozawa』[出典無効]
- ^ 園田佐登志のツイート 2016年10月4日
- ^ 山崎春美のツイート 2017年3月5日
- ^ a b c 『役立たずの彼方に 大里俊晴に捧ぐ』山崎春美の文章より
- ^ @Osaka_Sakaguchi (2022年3月12日). "もう44年程前の話だが、浜野純さんからガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」は Tangerine Dream のカバーだと教えて頂いた。それは多分 "Electronic Meditation" 収録 'Journey Through a Burning Brain' のことだと思う。8分45秒辺りからの展開がそうではないかと…。画像は、昨年の再発品。". X(旧Twitter)より2022年3月19日閲覧。
- ^ 『NOBODY』36号 工藤冬里の文章より
- ^ 1979.02.01@吉祥寺マイナー 自主制作デモテープ/ガセネタ
- ^ ポストトゥルースの時代に考える「ガセネタ」に纏わる記号体系、「ガセネタ」における意味生成。宇川直宏(DOMMUNE) - ガセネタ公式サイト
- ^ 山崎春美率いるガセネタがアルバム発売、レパートリー4曲を何回も収録 音楽ナタリー 2018年9月28日
- ^ 発見された未発表テイクは倉敷芸術科学大学生命科学部教授の坂口卓也(筆名・科伏)がSONY/HFのカセットテープで当時録音したもの。1978年11月3、4日の日芸ライブと11月5日の早稲田ライブが90分収録されている。
- ^ 坂口卓也 Facebook 2013年10月29日
- ^ 山崎春美「自筆年譜」『天國のをりものが』河出書房新社、2013年8月、366頁参照
- ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、84頁下段注釈参照
- ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、10頁下段注釈参照
- ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、187頁下段注釈参照
- ^ 山崎春美『天國のをりものが 山崎春美著作集1976-2013』河出書房新社(初出:1978年11月発行『アマルガム』第1号より)
- ^ 隅田川乱一、但馬オサム「天国桟敷の人々─隅田川乱一インタビュー」『Quick Japan』14号、154 - 167頁。
- ^ エルシー企画『X-MAGAZINE』第5号「Xランド独立記念版」(1978年12月発行)
- ^ 坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン』23号(1979年5月発行)
- ^ 地引雄一「『ガセネタ』と『TACO』2つの伝説・山崎春美」大洋図書『実話ナックルズウルトラ』VOL.13(2021年3月31日発行)
- ^ F.M.N. SOUND FACTORY『ガセネタの荒野』2011.08.07
- ^ 日本のパンク・ロック!(3)・ガセネタ - 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男(2022年2月28日付)
参考文献
[編集]- 大里俊晴『ガセネタの荒野』洋泉社、1992年(月曜社から2011年に復刊)。
- 『Quick Japan』Vol.11「特集/山崎春美という伝説」太田出版、1996年。
- 『ロック画報 08』ブルース・インターアクションズ、2002年。
- 松山晋也「吉祥寺マイナーについての極私的回想録」
- ばるぼら「特集・吉祥寺マイナーとは何か?」『BET Vol.0』創刊準備号、2006年。
- 大里俊晴追悼文集『役立たずの彼方に─大里俊晴に捧ぐ』Office Osato、2010年。
- NOBODY編集部『NOBODY』36号「30YEARS AFTER GASENETA AND WITNESSES ガセネタの30年後へ」2011年。
- 地引雄一編『EATER'90s インタビュー集:オルタナティブ・ロック・カルチャーの時代』K&Bパブリッシャーズ、2012年。
- 園田佐登志「70年代日本音楽シーンの地下山脈/吉祥寺マイナーとその周辺」2013年。
- 園田佐登志「吉祥寺マイナー セレクション 1978 - 1980」2013年。
- 園田佐登志のツイート 2016年10月4日。
- 剛田武『地下音楽への招待』ロフトブックス、2016年
外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト
- ガセネタBOX - JOJO広重(非常階段)のコメント
- ガセネタ『SOONER OR LATER』アルバム全曲レビュースレ - ウェイバックマシン(2020年10月6日アーカイブ分)
- TACO『タコ/1st』アルバム全曲レビュースレ - ウェイバックマシン(2020年10月6日アーカイブ分)
- “日本のオルタナティブミュージック・シーン黎明期に伝説を残した「TACO」「ガセネタ」が新宿ロフトで本格的に再始動!山崎春美インタビュー”. ロフトプロジェクト『Rooftop』2015年11月号 (2015年11月2日). 2018年10月17日閲覧。