村上一郎 (政治家)
表示
村上 一郎(むらかみ いちろう、1845年10月12日(弘化2年9月12日[1])- 1922年(大正11年)5月21日[2][3][4])は、明治から大正期の農業指導者、政治家。衆議院議員、熊本県会議長、熊本県玉名郡高瀬町長。
経歴
[編集]肥後国玉名郡、のちの熊本県[3]玉名郡花簇村[2][4](菊水町を経て現和水町)で、村上牧太の長男として生まれる[1]。漢学、英式兵学を修めた[3][4]。1869年(明治2年5月)家督を相続した[1]。里正を務めた[2]。
小学校教員、村会議員、町村連合会議員などを務め[2][3][4]、紫溟会(紫溟学会)の設立に参画した[2]。1881年(明治14年)熊本県会議員に選出され4期16年在任[2]。戸田熊彦の死去に伴い1896年(明治29年)2月に実施された第4回衆議院議員総選挙熊本県第2区補欠選挙で当選し[2][5]、第5回総選挙でも再選され[6]、衆議院議員に連続2期在任した[3][4]。
1899年(明治32年)県会議員に再選され、同副議長、同議長を務めた[2][3][4]。その他、高瀬町長、勧業諮問会員、地方森林会議員、熊本県衛生会副会長、同農会長、同畜産会名誉会員、肥後山林協議会評議員、国産奨励会評議員、熊本県神職会顧問、御船鉄道(熊延鉄道)取締役などを務めた[1][2][3][4]。また、肥後輸出米の改良などに尽力した[2]。
国政選挙歴
[編集]- 第4回衆議院議員総選挙補欠選挙(熊本県第2区、1896年2月)当選[5][7]
- 第5回衆議院議員総選挙(熊本県第2区、1898年3月、国民協会)当選[6]
- 第6回衆議院議員総選挙(熊本県第2区、1898年8月、国民協会)次点落選[6]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 角田政治編『肥後人名辞書 全 複刻版』青潮社、1973年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。