杉田盛
杉田 盛 | |
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生誕 |
杉田鶴五郎 元治元年5月27日(1864年6月30日) 武蔵国江戸浜町山伏井戸(東京都中央区) |
死没 |
1934年(昭和9年)3月6日 東京府東京市大森区新井宿(東京都大田区) |
国籍 | 大日本帝国 |
教育 | 帝国大学医科大学 |
職業 | 開業医 |
活動期間 | 1893年(明治26年) - 1934年(昭和9年) |
親戚 | 杉田玄端(父)、杉田武・杉田雄(兄)、杉田六蔵(弟)、杉田廉卿(養父) |
医学関連経歴 | |
所属 | 杉田病院、明治生命保険、丹州病院、三好病院、盛岡病院、東北病院、杉田医院、横浜生命保険 |
著作 | 『通俗海水浴論』 |
杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月30日) - 1934年(昭和9年)3月6日)は、戦前日本の開業医。幼少期を沼津で過ごし、上京して医学を修め、神戸・丹後・隠岐島・盛岡で病院院長を歴任し、横浜、大森に医院を構えた。号は東江・峯州医生[1]・梅所[2]・槑翁[3]。杉田玄白4世孫。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]元治元年(1864年)5月27日江戸浜町山伏井戸に杉田玄端の五男として生まれた[3]。幼名は鶴五郎[4]。明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い、両親・兄杉田武と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移った[5]。明治2年(1869年)沼津で親戚杉田廉卿が病没すると、祖父の命でその跡を継いだ[6]。
父に『三字経』『大統歌』『大学』『孝経』『論語』で漢学、『ウイルソン・リーダー』『ミッチェル地理書』で英学、母に習字を学んだ[6]。明治4年(1871年)沼津兵学校附属小学校に入学し、グッドマンに『ウェブスター・スペリング』で英語を学んだ[6]。
上京
[編集]1873年(明治6年)末両親・弟杉田六蔵と上京して三田二丁目の兄武宅に住み、1874年(明治7年)春麻布永坂町2番地に移った[7]。海軍御雇教師フェントン夫人に英語を学んだ後、商法講習所ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー宅に住み込み、夫人に英語を学び[8]、娘クララ・ホイットニーと親しくした[9]。
1878年(明治11年)医学を修めるため独逸語学校に入学し、東京外国語学校に転じ、1885年(明治18年)廃校により大学予備門に編入した[8]。1888年(明治21年)第一高等中学校を卒業して帝国大学医科大学に進み[1]、1891年(明治24年)佐藤三吉・ユリウス・スクリバの引率で濃尾地震被災者を救護した[8]。1892年(明治25年)11月卒業し、医学士となった[1]。
開業
[編集]1893年(明治26年)2月神戸市に移り、病気の兄杉田雄に代わり坂本村杉田病院院主となった[1]。1894年(明治27年)明治生命保険診査医[8]。
1896年(明治29年)京都府峰山町に開設された丹州病院に院長として招かれ[1]、隠岐島西郷三好病院長、岩手県盛岡病院長を歴任し、1902年(明治35年)同地に東北病院を設立した[8]。
1904年(明治37年)8月子供の教育のため盛岡を離れ、8月[10]横浜市真砂町二丁目16番地に開業し[2]、1906年(明治39年)設立された横浜生命保険の医長となった[10]。1920年(大正9年)3月から1921年(大正10年)12月まで横浜市医師会長を務めたほか[11]、日本赤十字社看護婦養成委員長、師範学校校医も務めた[12]。
1923年(大正12年)関東大震災で横浜の自宅兼病院が全壊し[13]、東京府入新井町新井宿1150番地で杉田医院を再開した[12]。1934年(昭和9年)3月6日[14]自宅で死去した。墓所は芝区栄閑院(猿寺)。[13]。
著書
[編集]- 『通俗海水浴論』 - 1894年(明治27年)刊行。ドイツ人フロンム原著。
- 「六十年回想記」 - 1928年(昭和3年)9月起筆、1930年(昭和5年)6月擱筆[3]。前半部の写本が沼津市明治史料館所蔵[15]。
趣味
[編集]日下部鳴鶴に書道[1]、棚橋絢子に和歌を学び、絵画、浄曲もよくした[2]。
家族
[編集]- 実父:杉田玄端 - 小浜藩医、沼津病院頭取。
- 実母:俊(しゅん) - 小浜藩士守留加左衛門娘[3]。
- 養父:杉田廉卿 - 小浜藩医。
- 養母:縫 - 廉卿没後、富田鉄之助と再婚。
- 妻:春子 - 東京府会議員神田良邦次女。華族女学校卒。1893年(明治26年)1月結婚[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 現今人名辞典 1900, p. すノ4.
- ^ a b c 成瀬 & 土屋 1913, p. すノ10.
- ^ a b c d 樋口 2006, p. 110.
- ^ a b 大野 1943, p. 155.
- ^ 樋口 2006, pp. 110–112, 118.
- ^ a b c 樋口 2006, p. 113.
- ^ 樋口 2006, pp. 115–116.
- ^ a b c d e 大野 1943, p. 157.
- ^ 樋口 2006, p. 108.
- ^ a b 大野 1943, pp. 157–158.
- ^ “横浜市医師会の沿革”. 横浜市医師会. 2018年1月9日閲覧。
- ^ a b 本田 1934, p. 232.
- ^ a b 大野 1943, p. 158.
- ^ a b c 原田 1942, p. 26.
- ^ 樋口 2006, p. 109.
- ^ 人事興信所『人事興信録』 上巻(第13版)、1941年10月、ス34頁。NDLJP:3430443/887
- ^ 本田 1942, p. 30.
参考文献
[編集]- 日本現今人名辞典発行所『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年9月。NDLJP:780082/697
- 成瀬麟、土屋周太郎『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年5月。NDLJP:933863/973
- 本田六介『日本医籍録』 関東版(昭和9年版)、医事時論社、1934年5月。NDLJP:1050583/144
- 原田謙太郎「杉田玄白の家系」『日本医事新報』第1036号、日本医事新報社、1942年7月25日。
- 大野虎雄『沼津兵学校附属小学校』大野虎雄、1943年6月。NDLJP:1461378/93
- 樋口雄彦「杉田盛の六十年回想記」『静岡県近代史研究』第31号、静岡県近代史研究会、2006年11月。