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クララ・ホイットニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
20代 (Clara A. Whitney Papers)

クララ・ホイットニー(Clara A. N. Whitney、1860年8月30日[1] - 1936年12月6日[1])は、明治時代のアメリカ人女性。父はお雇い外国人として来日したウィリアム・コグスウェル・ホイットニー、兄は赤坂病院(現在の日本基督教団赤坂教会)設立者のウィリス・ホイットニー

勝海舟三男で、愛(長崎時代の現地妻)の梶玖磨が生んだ梶梅太郎(1864年 - 1925年)[2]の妻で、海舟はクララのにあたる。

略伝

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ニュージャージー州出身[1]商法講習所の教師として明治8年(1875年)に来日した父と共に14歳から5年間日本で暮らした。その間、親交のあった勝海舟の邸宅内にホイットニー家のバイブル塾が開設され、勝家の人々を始め、チャニング・ウィリアムズ立教大学創設者、日本聖公会初代主教)、クレメント T. ブランシェ(立教女学校校長、米国聖公会聖職者)、ボアソナード(フランス法学者)と娘のルイーズ、石井筆子滝乃川学園第2代学園長、静修女学校校長)と親交を深めた。また、ホイットニー・バイブル塾では後に留学から帰国する津田梅子山川捨松とも懇意となった[3]

明治13年(1880年)にアメリカへ帰国。明治15年(1882年)に22歳で再来日。だがウィリアムは、行き違いから正式なお雇い外国人になれず、生活は困窮。窮状を見兼ねた以前から親しい勝海舟の好意で、ホイットニー家は勝邸内の別棟に住む。

明治19年(1886年)26歳で、22歳の梅太郎の子を身ごもり結婚した。しかし家計は苦しく、生計は明治女学校で教職に就いていたクララが担っており、海舟の死の翌年である明治33年(1900年)、40歳で夫を置いて子供達と共に帰国。ペンシルベニア州へ移り亡くなるまで過ごした[4]

1884年4月に浜離宮で開催された観桜会に招かれたクララは日記に、明治天皇について、『想像していたより、ずっとご立派』であり、『背丈は約5フィート8インチ(=170cm程度)か、多分もう少し低いかもしれ』ず、『明るいオリーブ色でやや重厚な』顔立ちに『小さい山羊ひげと口ひげが』あり、『快活で温和な表情』であった。天皇は各国使臣の挨拶を受けると『優雅に頭を下げ、微笑され』たと率直に記している。

子女

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文献

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  • クララ・ホイトニー 「手軽西洋料理津田仙、皿城キン 訳(江藤書店, 1885年12月)
  • 「ドクトル・ホイトニーの思ひ出 : 伝記・W・N・ホイトニー」(ホイトニー夫人・梶夫人名義の共著, 1930年)、復刻・大空社「伝記叢書」、1995年
  • クララ・ホイットニー「クララの明治日記」(一又民子 訳、講談社(上下)、1976年)
  • 福田須美子「つながりあう知―クララと明治の女性たち」(春風社、2009年8月)
  • 佐野真由子「クララ・ホイットニーが綴った明治の日々」(臨川書店(日記で読む日本史)、2019年3月)

脚注

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  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『ホイットニー』- コトバンク
  2. ^ 明るみに出た勝海舟、長崎の恋『福岡日日新聞』(昭和15年3月20日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p557 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 公益財団法人くにたち文化・スポーツ振興財団 滝乃川学園 講演会 『石井亮一・筆子と滝乃川学園』 米川 覚 2020年12月9日
  4. ^ ホイットニー 1996, pp. 11–25, 上巻
  5. ^ a b c d e f ホイットニー 1996, p. 560, 下巻
  6. ^ Walter Umehisa KajiAncestry
  7. ^ Walter Umehisa Kaji Find A Grave
  8. ^ a b c d e Alma Clara WhitneyAncestry

参考文献

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  • クララ・ホイットニー 著、一又民子 ほか 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 上巻、中公文庫、1996年5月。ISBN 978-4122026001 
  • クララ・ホイットニー 著、一又民子 ほか 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 下巻、中公文庫、1996年6月。ISBN 978-4122026216 

外部リンク

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