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木島則夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木島 則夫
きじま のりお
生年月日 1925年5月10日
出生地 日本の旗 日本 東京都
没年月日 (1990-04-13) 1990年4月13日(64歳没)
出身校 明治学院大学文学部英文科卒業
前職 フリーアナウンサー
所属政党 民社党
称号 従四位
勲二等瑞宝章

選挙区 東京都選挙区
当選回数 2回
在任期間 1971年7月4日 - 1983年7月9日
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木島 則夫(きじま のりお、1925年大正14年〉5月10日 - 1990年平成2年〉4月13日)は、日本の司会者ニュースキャスター[1]アナウンサー[1]政治家民社党所属の参議院議員(2期)[1]

来歴・人物

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東京都出身。旧制横須賀中学(現神奈川県立横須賀高等学校)、明治学院大学文学部英文科を卒業。1948年に、読売新聞社の採用試験を受け不合格となったが、NHKアナウンサー採用試験で合格し入局、クイズ番組『危険信号』『生活の知恵』などの司会を担当した。1964年3月にNHKを退職し、その直後の同4月より、日本教育テレビ(NET。現テレビ朝日)と局契約アナウンサー(嘱託職)を結び、『木島則夫モーニングショー』の司会を1968年3月まで務め(『モーニングショー』自体も初代の総合司会者だった)、「泣きの木島」と呼ばれて人気を集めて[1]ワイドショーブームの火付け役となった。

『モーニングショー』降板後はNETとの出演契約を解消し、日本テレビと新たに専属出演契約を締結。『木島則夫ハプニングショー』、『NNNワイドニュース』などの司会を担当した。

1971年第9回参議院議員通常選挙民社党公認で東京都選挙区から出馬、現職の改選議員がいなかった自由民主党が前警視総監原文兵衛を擁立し(一部は元消防総監江藤彦武を支援)公明党も新人の黒柳明を擁立、日本社会党木村禧八郎日本共産党野坂参三、無所属の市川房枝と強豪揃いの中選挙戦を戦う。結局この参院選で木島は当選、木村と市川が落選した。

1977年第11回参議院議員通常選挙でも再選され青年婦人対策委員長を務めるが、3選を狙った1983年第13回参議院議員通常選挙では新自由クラブを脱党し税金党で出馬した野末陳平と支持層が重なったこともあり、落選。そのまま政界を退き、で闘病の日々を送る。

1990年4月13日、癌のため死去、64歳。死没日をもって勲二等瑞宝章追贈、従四位に叙される[2]。墓所は台東区一乗寺

出演番組

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NHK

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民放移籍後

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NETテレビ(現・テレビ朝日)専属契約時代

日本テレビ専属契約時代

期間 番組名 役職
1968年5月18日 1968年10月12日 木島則夫ハプニングショー 司会
1968年10月 1968年12月 NNNワイドニュース 月~水曜日担当キャスター
1969年1月 1971年3月 全曜日担当キャスター
※1969年10月から、担当曜日を平日(月~金曜日)のみに縮小

上記のNETテレビ(現・テレビ朝日)→日本テレビ専属契約終了後

著書

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  • 『おはよう木島則夫です 「モーニング・ショー」こぼれ話』講談社、1966年3月28日。NDLJP:2509088 
  • 『人を動かす話し方 : おしゃべり無器用論』講談社、1966年3月28日。NDLJP:2509091 

関連書籍

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  • 木島喜世子『私と木島則夫の闘い 癌と老いとの2500日』リム出版新社、1991年。 

脚注

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  1. ^ a b c d 木島則夫」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E5%B3%B6%E5%89%87%E5%A4%ABコトバンクより2022年12月26日閲覧 
  2. ^ 『官報』第361号8-9頁 平成2年5月8日号